月
午前九時。人生で最も密度の濃い時間を現在進行形で体験中の直人は、朝食の時もそれを実感していた。別に月乃の食べっぷりが格段に多かったということではない。むしろ逆で、買ってきた餅を一口食べた瞬間、「これが、この世界でのお餅ですか?」とまゆをひそめて聞いてきた。そして、あまりおいしくないといって餅を一切れ食べただけで食べることをやめてしまった。直人は困ったな、と思いながらも大きな袋に何切れも入っている餅を見つめる。どうやら、月乃の口にこの餅は合わなかったようである。直人は人生で一度だけつきたての餅を食べたことがあるが、確かにあればかり食べていては、この餅は食べられないだろう。さすがコンビニ千五百円の安売り、と心の中で呟きながらも直人は残すのももったいないので自分でどのようにこれから食べていくか考える。それと同時に、ではどのようなお餅を手に入れようかとも考え始めた。とにかく必要なものは食事である。早急に手を打たなければ間に合わない。ということで、
(やっぱり、通販か)
そう考え、直人はパソコンの画面に通販のページを表示させる。ちなみに月乃は、部屋にあるテレビに夢中になっている。初め、箱の中に人がいると大騒ぎしていたが、なんとかテレビの説明をし、(その説明に二十分もかかったのは世界記録といってもよいだろう)今では適当にチャンネルを回しているところである。とにかく、月乃の興味がこちらに向く前に今の問題を解決しなくては、と直人はパソコンを操作する。
コンビニに行くならば通販で食品をかってもしょうがないと考え、普段は食品関係で通販を利用することはない。そのため、はたして通販などで餅を取り扱っているのかという不安があったが、それも杞憂に終わり、きちんと餅がパソコンの画面上に表示される。一安心しながら、月乃が満足しそうな物を選ぶ。すると、ちょうど千円ほどで一番高い物が一袋買うことができた。商品紹介にも、良質のもち米を使ってあると書いてある。これならば、何とか月乃を満足させることができるだろうとそれを指定しようとした時、小動物が泣くような音が部屋に響き渡った。時間にして一時間ほど前に聞いた音。それは聞き間違うこともない、月乃のおなかがなる音だった。
「な、直人さん・・・」
テレビにくぎづけだった月乃が小動物が何かをねだるような瞳でこちらを振り返る。長い間名前を呼ばれてこなかった直人としては名前を呼ばれるたびにどきりとしてしまうのに、さらに読んでくれる相手が月乃という美少女なので、内心の動揺も二倍になる。
そんな直人の動揺に全く気付かず、月乃はうう、と悲しそうな声をあげて言葉を続ける。
「おなかがすきました」
まあ、あんな小さい餅一切れならば仕方ないよな、と冷静に思いながらも、直人はどうすればいいのか困ってしまう。なんせ月乃は餅が食べたいといったのだ。餅は先ほど勝ってきた物しかないし、他には昨日買いだめしてきた直人用の食料しかない。
「え、えと、こ、れでも、食べる?」
そう言っておずおずと直人が差し出したのはレンジで温めるだけで完成するインスタントライス。餅もご飯も原料は同じなので、いくら餅好きでもご飯も食べるのではないかと考えたのだ。すると月乃は、四つん這いのままてこてこと寄ってきて直人が差し出したライスの容器をじっと見つめる。初めて虫を見つけた子どものような目だった。
「これは、このまま食べれる物なのですか?」
一分ほどじっと観察して出てきた言葉がそれ。直人はいや、と口ごもりながら、立ち上がり電子レンジのほうへ歩いていく。指定された時間をレンジに入力し、スタートボタンをおすとレンジが低い音を立てながら温めを始めた。よし、と心の中で呟いてから月乃に少し待つよう伝えようとして振り返ると、すぐ後ろに月乃がレンジを覗き込むように立っていた。直人はびっくりして飛びのく。
「この箱は、いったい何ですか?」
口を衝いて出てきたのは、やはり疑問文。直人は「も、ものを、あった、める・・・もの」とどもりながら説明すると同時に、頭の中で今日何度目かの引っかかりを再び感じる。いくらなんでも、世間のことを知らなさすぎる。テレビやレンジ、パソコンを知らず、さらにところかまわずボタンを押す。そして、何度も口にしている「こちらの世界」という言葉。まるで自分が違う世界から来たとでもいうような様子だ。そんなおとぎ話のような話など、絶対にあり得ないと思うが、しかしある一つの仮定を立てればすべてがきちんと説明できるようになる。
月乃が最初に言った、「月で餅をついていた」というその言葉が真実だということ。
月でもちつき大会が開かれたなどというニュースを、直人は聞いたことがない。確かに直人は世間一般から遠く離れたニート生活を送っているが、インターネットを利用していれば嫌でも多少の世間の情報は入ってくる。その情報の中で、月で餅をつけるようになるほど世界が進歩したということは一切聞かない。よくて、人類何度目かの月面着陸達成だの、宇宙ステーション建造順調などといったことくらいだ。
ならば、月で餅をつくなどということは人類には不可能。たとえ可能だとしても、そんなエンターテイメント番組のようなネタに月を利用できるほど人類の科学は進歩していない。そうなると、直人はもっと単純な事実に目を向けてしまう。月で餅をついているという言葉から連想されるのは、日本人ならばだれでも一度は聞いたことのあるような話。
月では、ウサギが餅をついている。
月を見ると、確かに黒い影が出来ていて、ウサギが餅をついているように見える。
昔はその話を聞いて、月では本当にウサギが餅をついているのだと思っていた。しかし、大きくなるにつれてそれは嘘で、実は月のクレーターが作る影がたまたまそう見えるということが分かった。だから、月にウサギなど存在しないし、そのウサギが餅をついているということもない。
しかし、もし仮に、その絶対にあり得ない、存在しないというウサギがおり、目の前の少女がそうであった場合、すべてのつじつまが合う。世間のことを何も知らないのも、餅が好きだということも、月乃の月で餅をついていたという言葉も。
直人はなおもレンジを興味深そうに見ている月乃の横顔を見つめる。もしこの少女が、本当に月から来たウサギならば、自分はいったい彼女をどうすればよいのだろうか。
もちろん、そんな仮定はばかげていると自覚している。そんな仮定よりも、月乃が何者かにさらわれて、記憶の改ざんをうけ、自分が今まで月で餅をついていたなどという狂ったことを言い出すようにしたと考えたほうが、まだ数倍現実味がある。しかし、そう考えると問題は、なぜ月乃がそんな記憶の改ざんを受け、自分の部屋の前に置き去りにされていたかということであった。
考えすぎて、直人はわけがわからなくなり頭を抱える。何にしても情報が少なすぎる。あまり深く考えすぎないようにしなければ、と思っていたところ、目の前の月乃がいきなりレンジの取ってに手をかけて開けようとした。直人はあわてて月乃を止めに入る。
「どうかしましたか?」
自分がいったい何をしたか自覚のない月乃がきょとんとした目で見つめてくる。やはり、世間のものを知らな過ぎる。直人は、たどたどしく開けては危ないということを説明して、月乃の手をレンジから離すことに成功する。月乃は「この世界には本当に危ないものがおおいです」と少し拗ねたように言う。そんな顔をしないでくれ、と直人が困っていると、ふと月乃がつけっぱなしにしていたテレビに目が向いた。どうやらN○Kにチャンネルがあっていたらしく、ニュース番組が流れていたが、そこで報道されている内容に直人の目が見開かれた。画面にはニュースキャスターと、その横にでかでかと満月の月が映し出されている。ニュースキャスターがなにか話しているかわからないが、映し出されている月を見ればそれは一目瞭然だった。レンジが、チン、と立てた出来上がりの音も、月乃がそれを聞いて興奮しはしゃいでいる声も耳に入らず、直人の視線は画面にくぎ付けになっている。
テレビの月からは、クレーターというクレーターがさっぱりとなくなっていた。
余談ですが、コンビニで買った餅がおいしくないというのは作者の実体験です。
正月には、もち米からついたおもちを毎年食べているので、初めて市販の安いおもちを食べた時はその味に衝撃を受けました。




