危ない散歩
今回ちょっと長めです。
おなかがなるのは空腹のせい。だから僕も君もおなかがすいている。相変わらず何を言っているのかわかりにくい言葉でそう説明してやると月乃は、「ああ、いわれてみればおなかがすいてます」と笑顔で言った。こんな感じでよくここまで生きてこれたな、この子。と思いながら、直人はそのあと何が食べたいかをくろうして聞き出し、「おもちがほしいです!」の言葉を聞いてからかなり後悔した。そこからが直人の悩みどころである。
トイレに入っている間にわかったことからも、この子を一人にしておくのはかなり危険である。朝食を買いに行ったはいいが、帰ってきたらアパートごと自宅が消えていたということも現実にありそうな気がしてくる。かといって、一緒に連れていくにはかなりためらわれる。月乃は今直人の普段着を借りてきているが、外に出ていくときも当然その格好ということになる。周りから好奇の視線を浴びることは間違いない。それ以前に、月乃の容姿ならばガラの悪い男どもがナンパしてくる可能性も十分ありうる。街中でそんな連中に遭遇した日には、路地裏のゴミ捨て場に捨てられる身になること請け合いだ。では誰かに救援を頼むという方法が思い浮かんだが、ニート街道まっしぐらの直人には、こんな状況を説明できるほどの友人がいるはずもなく、まして家族は飛行機でなければ移動できないような距離の町に住んでいる。助けを求めることは不可能だろう。
悩んだ挙句、結局連れて行くことに決定した。周りの視線は痛いが、どうせ知り合いもいない。隣人とさえ付き合いが皆無というくらいなのだから、見ず知らずの相手にどんな感想を抱かれようが、直接自分の耳には入ってこない。知り得なければ、それはないことと同じになるのだというよくわからない理論を構築。さらに自分の行為を正当化できるような薄っぺらい考えをを十個ほど頭の中で呟いてから、月乃に外出するという旨のを四苦八苦して伝える。
「ほんとですか! じゃあ、外の世界を見ることができるのですね」
直人は瞳が輝くということを初めて現実で目の当たりにした。それほどの輝きを持って、月乃はうれしそうにそういったのである。
月乃には自分のジャンパーと、下にはジーパン。着替えの時に、直人の目の前で堂々と着替えようとしたので直人はあわててトイレに逃げ込む必要があった。つくづく常識破りな少女である。
直人は分厚いトレーナーに、やはり下にはジーパン。ちなみに月乃に着せた分と、自分が着ているもので冬物の服はほとんど使っている状態になっている。たんすに残っている冬物は予備のトレーナーとなぜかズボンしかないジャージ。よくもジーパンが二着もあったものだと感心するほどの状態である。
なにはともあれ、出かける準備が整った二人は外にでる。玄関から一歩目を踏み出す時点で、直人は隣人が出てこないか、もしくは他のアパートの住人に見られないか、びくびくしながら挙動不審に陥っている。一方の月乃はと言えば、玄関から出た瞬間廊下を走り出す。とっさに直人は「ま、待って!」と叫ぶことに成功し、暴走しかけていた月乃を止めることができた。振り返った月乃の顔は、お出かけできてうれしくてたまらない幼児のようだった。幼児ならば解決策は簡単で、手をつなげばよい。しかし、相手は百人人がいたら百人プラス道端の犬や猫までが振り返りそうな容姿を持つ少女。もちろん手をつなぐなど不可能である。
「どうかしましたか? 早く行きましょう」
しかも満面の笑みでそんなことを言われた時にはどう反応していいかわからない。「う、あ・・・」などと言葉にならない返事を返して、直人は急いで自室のカギを閉めた。
アパートの住人に見つからず、なんとか直人はアパートから出ることに成功した。しかし、だからと言って一息つくことはできない。隣にいる月乃はいまだはしゃいでいるし、道路の向かい側を犬の散歩をしている近隣の住人から早くも好奇の視線を向けられる。その視線の九割は隣の月乃に注がれていたが、当の月乃は気にした様子もなく、逆にその犬に気づくや否や、目を輝かせて走り出そうとした瞬間、
「あ、・・・!」
直人が叫び声をあげて、無意識のうちに月乃の左手をつかむ。その手に引き戻されて月乃は急停止。その眼の前十数センチを普通乗用車がイ○シャルDの登場人物たちも真っ青な勢いで通り過ぎていった。月乃のきれいな髪の毛が風にあおられて横に流れる。時が一瞬止まったかに見えたが、一拍おいて月乃が、わあー、と再び目を輝かせて今にも自分をひき殺しそうになった車の後姿を見つめた。
「何でしょう、あれは! すごい勢いで、びゅーん、て。あんなに大きいのに、どうしてあんなに速く走れるんでしょう!」
不思議です、と直人に向きなおって笑顔で語りかけてくるが、直人はその笑顔に見とれる余裕もない。今まさに、目の前で人が引き殺されかけたのだ。笑顔になれというほうが不可能である。そんなショックから抜け出すことができないでいると、月乃が「あの、」と声をかけてきて、ようやく直人は我にかえることができた。次いで、無意識のうちに手を握っていることに気が付き、あわてて手を離す。
「どうかなさいましたか? もしかして私、またいけないことをしてしまったのでしょうか?」
見つめてくるのはどこまでも透明な瞳。その眼に吸い込まれそうになるのを、何とか抑えて、相手の疑問に答えようとする。
「え、あ、と。その、さっきの、走ってる・・・ものも、あ、・・危ないから」
「今のびゅーんと走って行った物ですか?」
なぜです? と理解できないように首をひねる月乃。今まさに殺されそうになったということが全く自覚できていない。
「えっと、その、・・・ぶつかったら、い、痛い、し・・・、し、死んじゃう、かもし、れない・・・から」
ええ? と驚いてから、月乃は車が走り去って行ったほうを見る。当然、もう車の姿は見えない。
「そんなに危ない物なんですか! ここには危ない物がたくさんあるのですね」
感心した様子で息を吐く月乃は、何とかわかってくれたようである。すると今度は、新たに興味をそそられるものを見つけたらしく、再び笑顔がその顔に満開となっている。
「わあ、なんだか、白いものが吐き出されてます。私の口から、なにか出てますよ!」
どうやら、寒い冬の空気のせいで吐く白い息が不思議でたまらないらしい。はあー、はあー、としきりに息を吐き出し、その白いものを見つめる。次いで、直人の口からも同じように白い息が出ているのを見つけてさらにうれしそうな顔をした。
「わあ、あなたの口からも出てます! どうしてでしょう? もしかして、これもおなかが減っているからですか?」
「え、と・・・」
直人は何と答えていいかわからず口ごもる。単純に寒いと息が白くなるのだと説明すればいいのだが、その当たり前のこをどう説明したらいいのかがわからない。
「さ、寒いから・・・」
「え、寒いと白いものを吐き出せるようになるのですか? 私、今までそんな経験がなかったのですが」
いや、と直人は何とか説明しようと口ごもる。それを説明するには、人間が息をしていることから説明しなければならない。そんな長文を、今の直人が目の前の少女にしっかりと説明することは不可能といえた。
「ま、またあとで、せ、説明す、るから」
とりあえずそんな言葉でその場を濁し、直人はコンビニのほうへ歩き出す。しかし、月乃の疑問はそんなことで収まるはずもなかった。
「え、なぜです? 今は説明できないんですか?」
「あ、え・・・と」
頼むから、その質問攻めをやめてくれと頭で念じる直人。しかし、その気持ちは相手に伝わるはずもない。なんで自分はテレパシーとか使えないんだ。そうしたらいちいち口にしなくても相手に説明できるしこんな困ることもないのに。ニートの得意技、現実逃避が直人の頭の中で炸裂する。しかし、いくらそんな思考が発生したとしても問題解決には至らないのもまた事実。
そうして口ごもっていると、ああ、と月乃が手を合わせて思いついたように笑顔になった。
「もしかして、家で調べ物をしないとわからないことなのですね?」
いや、と言いたいところだが、それを言ってしまうといつまでたってもこのことを言及されてこの場から動けなくなってしまう。直人にとって、選択肢は一つしかなかった。
「え、と。そ、そういうこ、と」
「そうですか! つまりこれは調べなければならないほど難しくて珍しい現象なのですね! そんな現象が見られるなんて、私、ラッキーです」
自ら墓穴を掘ってしまった結果に終わり、直人の心は日本海溝よりもさらに深く沈んでいく。美少女が隣にいるという、今まで願って来たことが現実になったというのに、まったくいいことなどない。一体、なぜゲームとは同じように上手くいかないのだろうと直人はため息をついた。
片道二、三分の道のりを、現実時間で十五分、体感時間で半日ほどかけて掛けてコンビニに到着した直人だったが、それだけで苦労が終わったわけではない。月乃の好奇心はコンビニに入っても健在で、むしろ今まで以上に発揮されたといってもいい。さらに朝のコンビニには出勤前の社会人がたくさんおり、嫌でも月乃は人目を引いた。何しろあの容姿に、男ものの服装である。しかも月乃が直人にしきりに話しかけてくるのだから、その視線は自然直人にも集まってくる。穴があったら入りたい、ないなら掘ってでも入りたい、と脳内で考えながら、直人はなるべく月乃に静かにするように話しかける。とにかく、騒いでこれ以上視線を集めないようにしなくては。
「あ、まさかこういう場所では静かにするのが礼儀なのでしょうか? いわれてみれば確かに周りの方々もほとんどお話をされておりませんし」
なるべく静かに、という趣旨のことを言うと、月乃はそう解釈したらしくすぐさま小声になってくれた。ほっと安心するのもつかの間、次の月乃の発言に直人は飛び上がる。
「では、そのことを皆さんに謝ってきませんと。このままではいけないのです」
そう言って駆け出しそうになる月乃を必死に止めて、直人は一刻も早くコンビニを立ち去るべく急いで買い物をすませて、レジに並び、その間周りの商品の一つ一つに関して質問してくる月乃をなんとかなだめるためにアイスクリームをひとつ買い、なんとか店を出た。
帰り道でも、もちろん月乃の好奇心は絶好調だった。道行く人に誰かれ構わず話しかけようとしたり、帰り道とは別の道にも行ってみたいと言ったり、勝手にインターホンを押して直人ともどもピンポンダッシュしたりと、下手をすれば幼稚園児よりもたちが悪い状態。そのたびに説明下手な直人は苦労することになり、さらには伝えたいことがきちんと伝えきれず、間違った解釈をされ、伝わったのはやってはだめというその一点のみということもあった。しかし、そんなことにかまっていられるはずもなく、直人はとにかく一刻も早く家に帰りたいと思うばかりであった。
そうして家に帰って来たのは、家を出てから五十分後。とにかく人目がないところまで来れたという思いで直人は安堵のため息をつく。人生で一番長い五十分間だったとふらふらになりながら思わず自宅の床に腰をおろしたのもつかの間、月乃がはあー、と息を吐き出しているのを見て、その問題があったかと頭を抱えた。そんな直人の思いなど知るはずもなく、月乃はうれしそうに目を輝かせていた。
「わあ、やっぱりここでは白いものが出ません。ちょっともう一度外に出て白いものが出るか確かめてきます」
直人がぎょっとした瞬間には月乃はもう玄関へと走って行っている。まずいと直人は立ちあがってそのあとを追いかけようとしたが、月乃は玄関の扉の前で立ち止まってそこから一向に外に出ようとしなかった。一体先ほどまでの勢いはどこへ行ったのだろうかと首をかしげながらも、なにはともあれ助かったと直人が月乃に追いついたとき、月乃はガチャガチャと扉のノブを頑張って回そうとしていた。鍵がしまっていたため、扉が開かなかったのだ。なぜ開かないのかわからないといった様子の月乃は首をかしげながら鍵の存在を知らないためドアノブをいつまでもガチャガチャ言わせている。とにかく助かったとおもい、このまま鍵のことは黙っておくかと考えていたところ、月乃が何とも切羽詰まった表情でこちらを振り返った。
「大変です! ここから出れなくなってしまいました!」
その言葉を聞いた瞬間、直人の中で何かが動いた。そんなことには気づかず、月乃は言葉をつづけてくる。
「どうしましょう。何とか出れる方法はないのですか? このままだと、あなたもここから出られないということになってしまいます」
玄関でうろたえながら、それでもどうしていいかわからずおどおどとする月乃。扉の郵便受けをひらいたり、どんどん扉をたたいたりしていた。その様子を、直人はただ茫然と見ていた。月乃は本当に一大事が起きたというようにとてもあわてている。その顔に表れている焦りは、どんどん色濃くなっていた。
もし、ここで鍵の存在を教えてしまえば、月乃が勝手に外に出て行ってしまうという危険が出てくる。そう考えるならば、ここは鍵の存在を秘密にしておく必要があるだろう。しかし、直人の心はそれを快く肯定することができないでいた。なぜだかはわからない。ただ、目の前の月乃が必要以上に焦っており、それは月乃自信だけでなく、直人のことも考えているからだということは理解できた。
月乃はどんどん焦っていく。どうすればよいのでしょう、どうすればよいのでしょう、とうろたえながら扉をガチャガチャ言わせたり、壁に仕掛けでもあると思ってるのか、玄関の壁を叩いてみたりと、見ているこちらが心苦しくなっていくほどだった。
気づくと、直人の体は勝手に動いていた。うろたえる月乃の横を通り過ぎ、玄関のカギを開けてやる。そして、黙ったままノブを回してドアを開けてやった。
何と声をかけるべきかわからず、直人は無言のまま月乃に促すような顔を向ける。月乃は三秒ほどポワン、と口をあけてから、わああ、と笑顔になってこちらに駆け寄ってきた。直人があわてるのもお構いなしに、月乃は体を触れ合う寸前のところまで近づけてきて直人を見上げる。
「すごい! そんなところに仕掛けがあったのですか。わたし、このまま出られなくなってしまうのではないかととても焦ってしまいました。私だけでなくあなたまで出られなくなってしまったらどうしようかと・・・」
何と反応していいやらわからない直人にはかまわず、月乃は話し続けた。どうやら、もう白い息のことを忘れてしまっているようだった。
「それにしても、こちらの世界にはいろいろ知っていなければならないことがたくさんあるのですね。私、びっくりしちゃいました」
その言葉に、ん、と直人は首をかしげる。しかし、相変わらず月乃は口を閉じようとはしない。
「たくさんの人がいて、たくさんの物があって。本当に、すごいです。いっぱい、いっぱい、まだまだ見たこともないようなものがたくさんあるのでしょうね。私、これからの生活が楽しみです」
その眼は、もう直人をとらえていなかった。たった今動き出した朝の町を見て、その音を聞いて、全身で、今この場所をとらえようとしているようだった。
直人は一瞬、その横顔に見とれる。純粋に、美しい、と思った。その汚れたものを何も知らないような顔を、そのどこまでも透明な瞳を。
そんなふうに見とれていたら、月乃がいきなり、「あ」、と声をあげて直人のほうに向きなおった。何事かと直人が身構えるのと同時に、「聞き忘れていることがありました」と月乃がこちらを見つめてくる。
「あなたの、お名前を教えていただいてもよろしいでしょうか?」
一瞬、何を言われたかわからなかった。わかった後は、なぜだか心の中が温かくなった気がした。
みずから殻に閉じこもり、今後誰かに対して教えることはもうないと思っていたもの。
そして、それも仕方ないとなかばあきらめ、封印していた、冷たく悲しい心の氷。
その冷たいものがゆっくりととかされていく気がした。心の中に、長い間感じておらず、忘れていた、人に名前を聞かれ、答えるというぬくもりが生まれる。
だから、直人はこの質問に対してだけ笑顔が自然に作ることができた。口が開き、言葉が自然に流れだす。
「深谷、直人です」
直人の新しい生活が、始まった瞬間だった。




