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つきうさぎ  作者: 風之
11/12

月乃の勉強

 一夜明け、次の日の朝、直人はいつもより一時間早めの七時に起床し、寝ぼけ眼で台所に向かう。月乃に布団を譲ったため、床で寝た体はそこらじゅうが痛むし、隣で月乃が寝ている市であまり寝ることはできなかった。二日間まともに寝ていないからだが睡眠欲を大声で主張しているが、それを気力と気合でねじ伏せる。布団に目を向けると、まだ月乃が寝ていて、その寝顔に変な気が起きそうだったためすぐさま顔をそらし、台所の鍋で湯を沸かし始めた。

 今日の自分の朝食はいつも通りインスタントライスとみそ汁。月乃には焼き餅でいいかな、と考えて棚から昨日買って来たばかりの餅を一切れ取り出す。昨夜コンビニから帰った後、二人で遅めの夕食を取った時、お雑煮にして餅をあげたところ、お気に召したらしく、ものすごい勢いで食べていた。

「やっぱり、この世でお餅にかなう食べ物はありません」

 というのは月乃の言葉。満面の笑みでそんなことを言われたら、餅を出さずにはいられないではないか、と考えるその半面、この調子で餅を使っていたら食費が結構かさばるな、とも考える。まあ、ニートの直人にとって金など親に頼めば何とでもなるといえばなるのだが。

 お湯がわいてきたので、火を止め、おわんに入れておいたインスタントみそ汁のもとにお湯を注ぐ。電子レンジに入れておいたライスもあと三十秒ほどで出来上がるので、ちょうどいいだろうと考えながら、今度は皿をひとつ取り出し、お餅をそこにのせて、出来上がったライスと入れ替えるように電子レンジに入れる。ついでだから月乃にもみそ汁を作っておこうと再び湯を沸かし始めたところで、後ろからもぞもぞと動く音がして振り返った。

「お、おはよう」

 直人がそう声をかけると、月乃は眠そうな目をこすりながら、しばらくぼーっ、と直人の顔を商店の合わない目で見つめていた。どうやらまだ完全に起ききっていないようで、なんの返事も帰ってこない。直人はなんだか気まずい気がして、続ける言葉を必死で探した。

「え・・・と、今、ご飯、つくってる、から」

「・・・はい」

 やはりまだ眠いのだろう。返事が遅いし口数も少ない。昨日はもう少し寝覚めが良かった気がするが、それは昨日のほうが多く寝ていたからだろうと考える。

「ちょ、ちょっと、まっててね」

 直人がそういった時、レンジが出来上がりの音を立て、同時に鍋も中の水が沸騰していることを知らせるためにシューシューと音を立て始めた。直人はあわててコンロの火を止め、月乃ようのおわんにお湯を注ぐ。その後レンジから餅を取り出し、その上に砂糖と醤油をかけて簡単な焼き餅を作る。よし、とその出来に満足しておわんをこたつの上に持っていこうとしたところ、月乃がようやく目を覚ましたらしく、鼻をひくひくさせていた。

「お餅の、いいにおいがします」

「きょ、今日は、焼き餅にして、みたんだ」

 そう説明しながら直人はこたつの上に朝食を並べる。簡素なものだが、それでも直人にとっては一番しっかりとした食事である。月乃は待ちきれないといった感じで、うずうずと目の前の餅を落ち着きなく見つめている。

「じゃあ、食べ、ようか」

 直人が月乃の向かい側に座っていうと、月乃は胸の前で手を合わせる。その間も、視線は餅に行ったままである。

「はい、いただきます!」

 元気に宣言した後、箸をグー持ちにして餅にぶすっとさす。直人はそれをすぐさま止めに入った。

「あ、ちょっと、箸の、持ち方が・・・」

「あ・・・」

 月乃が口に餅を加えたまま右手の箸の持ち方に気づく。

 昨日、夜の食事の時に月乃に食事の取り方について基本的なことを教えた。それまでの月乃の食事の仕方は、まるで小さい幼児が手づかみでご飯を食べるような食べ方だったのだ。ただ、朝と昼はまだ直人の中で月乃に対する接し方がしっかりしていなかったせいで、食事のマナーを教えることができなかったのだ。よって、月乃が食事のマナーを教えてもらったのは昨日の夜のことである。

 マナーといっても、基本的なことしか教えてはいなかった。食事を始めるときはいただきます、食べ終えた後はごちそうさまでしたをいうこと。箸の持ち方、使い方。口を開いて物をかまない。者を口に入れたまましゃべらない。などなど。

 あいさつや食事の時の口については意識すれば簡単にできることだが、箸の持ち方がひと苦労だった。こればかりは慣れが必要なのでしばらくはできなくてもしょうがないだろうが、だからと言って練習しなければいつまでたっても改善しない。食事は取りにくくなるが、誰もが通る道、我慢して練習するよう直人は言い聞かせていた。

「うう、持ちにくいです」

 直人が教えた通りに指を動かして、月乃は何とか箸を握ろうとするが、なかなかうまくいかない。それでも、目の前に餅があるので、やめることもできない。純粋ゆえに、月乃はさぼるといったことや、ごまかすといったことがない。言われたことはきちんとこなすという姿勢が、いくら目の前に好物を出されても我慢して練習するという状態を作り出していた。これほど教育が楽な相手もそうはいない。

 必死な顔をしながら箸の動かし方を練習する月乃を見ながら、直人は頭の中で今日の予定を組み立てていた。とりあえず、通販で布団を昨日購入し、家まで届けに来てもらうよう頼んでおいたから、おそらく昼近くに新しい布団が来るはずである。これで、夜直人も床の上ではなく布団の中で寝ることができる。

 問題は、それ以後。基本直人は一人の時は一日中パソコンの前に座りっぱなしなので、他に何をすればいいかわからないし、何かをやりたいとも思わない。しかし、今は月乃が一緒にいる。昨日のようにギャルゲーを音読させられるなど思い出しただけで鳥肌が立つ。しかも、直人の勘ではもうすぐゲームはいわゆるひとつの「極地」に到達しようとしていた。そんな場面の画面に出てくる字幕など声に出して読むものではない。いや、でもそういう場面では確か音声が流れるからそれをきかせれば・・・。などと危険な思考に陥りそうになった自分を急いで現実に戻す。とにかく、月乃が字を読めないというのが問題なのだから、今日は少し文字でも教えてみようか、と心の予定帳にメモを残し、食事に取り掛かった。目の前では、月乃がなおも餅と箸とに悪戦苦闘を続けていた。


 「これが、つ、これが、き、これが、の」

 直人がパソコンから印刷したコピー用紙に書かれている字を示しながら教える。月乃は一つずつ真剣に見つめながら隣で首を縦に振ってうなずいていた。

「じゃあ、一度こっちに書いてみて」

直人が鉛筆を月乃に手渡してもう一枚のコピー用紙を示す。はい、と月乃は鉛筆をぎゅっと握りしめながら拙いながらも順番に、「つきの」と紙に書いた。

「そう、これ、で、つきの、って読むんだ」

 はあ~、と感心したような表情で月乃は自分の書いた文字を見つめる。まだ字を覚えたての幼稚園児が一生懸命書いたような文字だが、それでも大きな進歩だった。

「これが、文字ですか。すごいです。やっとこれで、私も直人さんに音読してもらわなくても“ぱそこん”の字が読めるようになりましたね」

 にっこりと笑う月乃だが、いや、と直人はあわてて止める。どうやら月乃は文字がこれだけしかないと勘違いしているようだった。

「その、文字はまだ、たくさ、ん、あるから、まだ、文字を、読めるよう、に、なったわけじゃ・・・」

「そうなんですか? では、あといくつほど文字を覚えれば私は直人さんに音読してもらわなくともよくなるのですか?」

 難しい質問をしてくるな、と直人は困ってしまう。とりあえず、パソコンの画面をクリックして、五十音表を表示させた。

「えっと、最低、これだけ・・・」

 正確にはさらにその何倍もの文字を覚えなければならないが、そこはいったん伏せておく。あまり多すぎる文字を示してやる気をなくさせてはいけないと思ったからだ。案の定、月乃はパソコンの画面を見つめてうわ~、と驚きの声をあげている。

「こんなに、文字があるのですか。もしかして、直人さんはこれ全部覚えてるんですか?」

 尊敬が含まれた視線を向けられて直人は緊張してしまう。それでも、答えないのはよくないので何とか、うん、とだけうなずくことができた。これくらい、小学校一年生でもわかることだが、そんなことを説明するだけの余裕はない。月乃はすごいですね、と呟いて再びパソコンの画面を見つめて、文字を一つ一つ数え始めた。どうやらいくつも字があるのか数えている様子である。直人はそんな様子がなんだか微笑ましくて、思わず横で笑ってしまう。そんな直人の様子に、月乃がどうしたのかという視線を投げかけきたので、直人は急いで首を振ってから、

「全部で、五十、あるんだ。正確に、は、もう少、し少ないん、だけど、だいたい、それくら、い」

 と言ってごまかす。そんなにあるのですか、と月乃は再び驚きの声を出してから画面に視線を戻す。それはなんだか、そこに書いてある表を今すぐ頭の中に入れてしまおうというような感じさえした。

「あの、直人さんの字は、どうやって書くのですか?」

そんな月乃がいきなり聞いてきたので、直人は驚いてしまうが、すぐに気を取り直して、コピー用紙を手元に引き寄せて「なおと」と書いた。

「はじめ、の字が、な。次が、お。最後が、と」

月乃は直人が示した字をひとつずつ自分でもゆびさしながら、な、お、と、と発音しながらその文字を記憶にとどめようとする。次に何をしたいのかなんとなくわかったので、直人は月乃に鉛筆渡してやった。

「書く?」

「はい、ありがとうございます」

そう言って鉛筆を受け取った月乃は、やはり今度もたどたどしい文字で、「なおと」と先ほど書いた自分の名前の隣に書いた。

「こっちが、「つきの」で、こっちが「なおと」。私と、直人さん、隣同志です」

 そんな月乃の何気ない言葉に、直人はなぜだかどきりと胸が跳ねるのを感じた。無意識のうちに目が神に書かれた二人の名前に向けられる。そこには、ぎこちない様子で自分たちの名前が隣同士に書かれていた。

「なんだか、今の私たちみたいですね」

 直人も、そう思った。今、自分の隣には月乃が座っている。毎日知らないことばかりなのにもかかわらず、ぎこちないながらも、それでも懸命に生きている。まさに、月乃が書いた文字のように。

 そして、それは直人自身にも言えることだった。月乃の隣にいるときはなんだかあたふたして、ぎこちなくて、それでも、懸命に生きている。

 ああ、そうか、と直人は自分が書いた文字を見つめて気づく。偶然、離れた位置に書いた自分と月乃の名前。そこには滑らかに書かれた名前があるが、力がこもっておらず、どこか弱よわしい、少しこすると消えてしまいそうな文字が書かれていた。まさにそれは、自分が月乃と出会う前の自分のようだった。そして、月乃もおそらくそうだったのだろう。滑らかだが、どこか消え入りそうな、不安定な存在。満足感とも、充足感ともかけ離れた存在。

 そこまで考えて月乃が自分たちのようだといったのかは分からない。しかし、その文字たちは確かに今の自分たちをよくあらわしていると思った。

「あの、直人さん」

 自分の思考に深くはまっていた直人は、そんな月乃の呼びかけで現実に返ってきた。見ると、月乃がこちらをじっと見つめていた。その表情の裏には、いったいどんな感情があるのだろうか。今の自分と同じであったらいい。そう願う自分が、どこかにいた。

「どうかしましたか?」

「ううん、なんでも、ないよ」

 ぎこちないながらも、直人はしっかりと答える。顔には笑顔を浮かべて。


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