変化と光成
時計の時間を刻む音だけが、部屋に響いていた。語り終えた直人は、なぜこんなことを月乃に話したのかわからなかったが、なんだか、話し終えた今となってはどうでもよかった。
いつも、こんな気持ちになった。無意識のうちにこの記憶を呼び覚ますと、思いだしている間はもだえ苦しみ、その苦しみが去った後は、何もかもがどうでもいいような、そんな気分になった。気分はその日の内には晴れることがなく、一晩眠り、次の日パソコンでギャルゲーやアニメを見た後、ようやく心が潤うような気がして、なんとか立ち直ることができるのだ。
だから、直人は話し終えても、目の前に月乃がいることもかまわず、ただずっと下を向いてうつむいていた。話す前は、こんな姿は見せたくないとも考えもしたが、なんだか今はそんなことすらどうでもよく、ただ、そっとしておいてほしいとしか思えなかった。
そんな冷え切った心に、温かな何かが触れた。直人は顔をゆっくりとあげる。すると、月乃の顔が見える前に、その胸の中に、抱き寄せられていた。
はじめての、母親以外の女性の抱擁。しかし、そんな幸せな気持ちなど湧きおこりはせず、代わりに、温かいものが胸の中で生まれた。そのすべてを包み込んでくれるような、繊細で、純粋な、温かい両腕に抱かれて、直人の目から、また熱いものがこぼれ出した。
「大丈夫ですよ」
直人の髪をなでながら、月乃はそっと直人に語りかける。内緒話をするように、耳に流し込まれて来たその言葉は、直人の胸の中にさらに温かいものを増やす。
「私は、直人さんを嫌ったりしません。悪口も、陰でなんか絶対にいいません。だから、安心してください」
今まで見てきたような、子どものような明るさとは別の、月乃の姿。それは、直人が初めて彼女を見たときに感じた、清楚な女性そのものだった。
「だから、私には普通に話していただいても大丈夫なんですよ」
返事をしようとしても、胸からこみあげてくる物でそれはできなかった。代わりに、直人は月乃の服を力を込めてつかむ。その意味をくみ取った月乃が、再び直人の髪の毛をなでた。
午後八時三十分。周りは暗くなり、人通りも少なくなりだす時間帯。会社帰りや部活帰り、はたまた遊び帰りなどの理由がない限り、こんな時間に外にいる人はあまりいない時間帯、直人と月乃は並んでコンビニへの道を歩いていた。格好は今朝と同じ。二人とも男ものの服を着て、月乃は相変わらずいろいろなものに興味が絶えず、あっちへふらふら、こっちへふらふらとしながら進んでいく。ただ唯一違うのが、直人の気持ち。話し方まで急に変わることはないが、それでも月乃の質問になんとか口数多く答えようとしていることはうかがえた。白い息が、二人の会話に伴って流れていく。
「こちらの世界では、あまりお星様が見えませんね」
そんなことを月乃が言ったのは、朝に続いて本日二回目の交通事故を引き起こしそうになった時。ヘッドライトに興味を持った月乃は、走ってくる車にとびかかろうとしたのだ。幸い車はあまりスピードを出しておらず、月乃が飛び出して来たのを見てブレーキをかけ、大事には至らなかった。直人はドライバーに丁重に謝り、その後なぜ飛び出したのかを月乃に聞いたところ、暗くてライトばかりに目が言っていたので、車だとは気がつかなかったそうだ。相変わらず常識はずれなことをするなとため息をついていたところ、月乃が空を見上げていったのだ。
「月では、夜になると空には一面にお星様が見えました。もう、一生かかって数えても数えきれないくらいたくさん」
月乃が両手を広げて量の多さを表現しようとする。そんな月乃を、直人は微笑ましく思いながらも、自分も空を見上げた。空には、確かに数えるほどの星しかなかった。
「全部、な、まえが、あるんだよ」
「名前? お星様にですか?」
月乃が驚いて声を上げる。自分がいた星にも月っていう名前があることは知ってるくせに、なんで他の星に名前があることは知らないんだ? と疑問を頭に浮かべながらも、直人は空に向かって指をさす。そこには、消え入りそうな輝きを発しながらも、しっかりと目視できる星がいた。
「あれが、シリウス。そのうえが、プロキオン。ちょっとだ、け、見にくい、けど、あれがレグルス」
直人の指に合わせて月乃が視線を動かす。一つ一つの星を、その瞳はどんな思いを持って見つめているのであろうか。
「お星様に名前がついてるなんて、初耳です。でも、あんなにあるお星様に名前を付けていたら、全部覚えるのが大変そうです」
月乃が最もな意見を出す。そうかもな、と直人は思いながら、「ほかの人、が、全部知ってるわけじゃ、ない、よ」と説明する。どういうことかわかっていないような月乃が首をかしげる。直人は笑ってから、説明を続けた。気づけば、月乃の前で自然に笑えるなどつい五時間ほど前は考えられもしなかった。
「ほとんど、の、人は、名前なんか、しらない。僕、も全部、は知らない。学者さんたち、が、区別、するために、つけた、だけ」
そうなんですか、と月乃はびっくりする。うん、と直人は笑顔で答えた。相手に何か言われたら、こちらも返事をする。直人がまず心がけようと決めたことだ。
「でも、もしほとんどの方がしらないこと知っていらっしゃるのなら、直人さんは物知りです」
そんな言葉を聞いて、直人は顔が赤くなるのを感じた。人に褒められるなど、いったい何年振りだろうか。久しぶりのその感触を、心が上手く受け止められず、直人の心臓は狂ったようにとび跳ねた。
「どうかしましたか?」
恥ずかしさのあまり顔を伏せてしまった直人を心配して、月乃が問いかけてくる。いや、大丈夫、と何とか答えて、直人は再び顔をあげた。冬の夜風が今はありがたい。火照った顔を覚ますにはもってこいだった。
「すき、なんだ。宇宙に、かんす、る、こと。だから、ちょっと、くわしい、だけ」
なるべく平静を装ってしゃべったつもりだったが、言葉はいつも通りつっかえるし、変なところで裏返ったりと、その口調からはありありと動揺の色がうかがえた。しかし、月乃はそんなところには一切触れず、直人の言葉に素直に感心する。
「そうなのですか。じゃあ、私がいた月のことも詳しいのですか?」
「ま、まあ、多少は知ってる、かな・・・」
直人にとって、宇宙は小さいころから興味を抱き、憧れている空間だった。あの果てにはいったい何があるのだろうか。どこかに宇宙人はいないのか。どこまで宇宙は広がっているのか。
そんなことを考え、一時期は宇宙飛行士を目指したこともあったほどだ。しかし、その夢もいつの間にか捨ててしまった。頭はなかなか良いほうだったし、学校でも成績は優秀なほうだった。直人が通っていた高校は地区でも一、二を争う進学校だったし、そのなかでも上位にいた直人にとって、決して不可能な夢ではなかった。
それでも、どこかで無理だと思い込んでしまったのだ。その決定的なきっかけとなったのはあの事件ではあるが、その前から、自分では不可能だろうとどこかあきらめかけていた部分はあった。幼い少年が野球選手を目指し、やがてそれが不可能だと知るように。
未練はないか、と聞かれれば否定はできないが、それでも積極的に再び宇宙飛行士を目指そうとは思わない。今の生活を抜け出すなど、不可能なのではないかと考えてしまうからだ。一度味をしめた逃げるという選択肢から抜け出すことは、なかなか難しいことだった。
そんなことを考えながらも月乃と話しながら歩いていると、今朝もきたコンビニに到着した。今回は片道十分で済む。今朝よりも五分、タイムが縮まった。
店内には、会社帰りとおぼしき中年の男女が四人ほど、それと昨日遊べなかったのであろう若いカップル一組がいた。そんな客にちらりと視線を向けながらも、直人はレジへ向かおうとする。すると、月乃が直人の肩を叩いて、「直人さん」と明るい声をかけてきた。なんだか嬉しそうな声だな、と思いながら直人が振り返ると、月乃はうれしそうにアイスが入った冷凍ケースを指差していた。
「あれが、またほしいです」
まるでお菓子をねだる子ども、いや、目の輝きからするとご飯を前にしたかわいい子犬のようだった。そんな表情でねだられては買わずにはいられない。直人は苦笑しながらも、どうせだからとアイスを三箱まとめてもちだし、、レジへ向かった。
二つある店内のうち、レジの一つは先ほどのカップルが何やらおやつを買うために使っていたため、自然直人はその後ろに並ぼうとした。するとそこへ、品出しをしていたらしき店員が「お客様、こちらのレジへどうぞ」さわやかに言って隣のレジを開けた。いったんレジへ向かいかけた直人は方向転換してもう一つのレジのほうへ向かう。思いアイスの箱をどさりとレジへ置き、通販の商品を渡してもらえるよう店員に顔を向けた瞬間、店員から思わぬ声がかかった。
「あれ、お前もしかして直人か?」
びっくりして直人は目の前の店員を見つめる。すると相手は、うれしそうに顔をほころばせて、
「やっぱり直人だ。ひさしぶりだなぁ!」
と、挨拶をしてきた。直人はその顔を見て目を見開く。そこには高校三年生のクラスメート、菊池光成がいた。
昔と変わらない活発そうな目と、少し長めの髪の毛をワックスで固めている。クラスでは直人は対極的に友人が多く、その表裏のない性格と、明るい性格から男女分け隔てなく仲の良い者が多かった。直人にもよく話しかけてくれる人物で、クラスでは直人がまともに話すことができる数少ないクラスメートでもあった。
「いやー、偶然だな。俺高校卒業してこんな遠くの大学来たからもう誰にも合わないと思ってたのに、まさか直人もいるなんて。この近くに住んでるのか?」
久しぶりに会った友人に対し、素直にうれしそうな表情で光成は聞いてくる。一方の直人は、なんだか気恥かしくて「う、うん」と答えただけだった。
「そっかー。俺もこの近くに一人暮らししてるんだけど、なんか慣れない土地だからまだかどことなく落ち着かなくてよ。理沙もおんなじようなこと言ってたし、お前もそんな感じか?」
理沙というのは光成の彼女で、二人は確か同じ大学に入学しているはずだった。直人は、また「うん」と答えただけだったが、光成はそんな直人の返事を聞いた後、直人の後ろに立っている月乃に気がついて「お!」と少し驚いたように直人を見た。その後月乃を見て、再び直人に視線を戻し、「おい、直人」と声をかけてきた。
「後ろにいる子って、もしかして彼女か?」
「な・・・!」
あまりのびっくり発言に直人は言葉が出なくなってしまう。月乃と自分がカップル? そんなふうに一般的には見えているのか? しかし、同年代の若い男女が一緒にいればそう見えてしまうだろうということは想像がつく。
「なんだ、違うのか? なら親戚の子とか?」
光成は冷やかすことなく、すぐさま彼女という話題から抜け出す。しかし、例え抜け出したとしても直人には意味がないことだった。どちらにしろ間違ってはいるが、しかし、正直に家の前で拾った、などという説明ができるはずもない。
「おっと、その前にレジだけ済ましとくか。あんまり長話するとアイスが解けちまう」
そう言って光成は手際よくアイスをレジに通し、袋に入れていく。その間にも、光成は話すことをやめない。
「にしても、なんか複雑な事情でもあるのか? いやなら話さなくてもいいけど、その子が来てる服って男ものじゃね?」
う、と直人は言葉に詰まる。話さなくてもいいなら聞かないでくれと心の中で懇願するが、その声が光成に届くことはない。そうこうしている間に、光成は袋にアイスを入れ終えて直人に差し出した。
「はいよ、千三百円だ」
「あ・・・、通販」
お金を請求される段階になって、直人はあわてて単語だけを口にする。「へ?」と光成がとぼけた顔をしたので、直人はあわてて言葉をつないだ。
「その、通販で、頼んだ、もの、を」
「ああ、あの商品か。オーケー。すぐ持ってくる」
そう言って光成はレジの奥へと走って行った。その背中を見送りながら、直人は胸の中になんだかもやもやしたものが生まれていることに気がつく。べつに光成が嫌いなわけでも、苦手なわけでもない。しかし、一度ニートになった自分にとってもう二度と会わないだろうと思ってい旧友と出会うというのは何とも気まずいものである。
「あの、先ほどの方はどなたなのですか?」
直人が複雑な心の扱い方に悩んでいたところに、月乃が後ろから声をかけてきた。「と、もだち」とだけ直人は答える。今はそう答えることが精いっぱいだった。
「友達、ですか。とてもさわやかで明るい方ですね」
月乃が光成をみた印象をそのまま口にする。確かに、彼を見ればそういう印象を受けるだろう。まして月乃はこちらの世界に来てからまともにふれあった相手といえば自分くらいである。そんな自分と対比すれば一層そういう印象を受けるだろう。
それにしても、ここに光成がいるということはおそらくこのコンビニでバイトをしているということだ。そう考えると、このコンビニに来るたびに光成と顔を合わせる可能性が出てくるわけである。むしろ今まであったことがないのが奇跡的なくらいだった。別に光成と出会うことが特別嫌なわけではないが、会うたびに気まずい思いをするくらいならばこのコンビニにはもう来ないほうがいいかもしれない。なにより、これからは月乃と来ることが多くなる可能性があるのだ。今回は何とかごまかすこともできるかもしれないが、もし何度も会うことになった場合、月乃のことをどう説明すればいいのかわからない。ならばやはり、少し遠くなるが、家の近くにあるもう一つのコンビニに行くようにするという方法もある。
そんなことを考えていると、光成が奥から餅の入った箱と、服の入った袋を持ってきた。それをアイスと並べて置いた光成は、ふう、と一息ついて、それらの商品の代金を計算しだした。
「えっと、商品の確認をしてほしいんだけど、えーっと、国産のもち米を使った『コシヒカリ餅』と、女性ものの服一式が二点セット。それと女性用のパジャマ。こんだけでいいか?」
プリントを配り終えた教師が生徒にプリントを確認するような口調で光成が聞く。直人はまたも、「うん」と答えただけだった。オッケー、となにも気にしていないような口調で、光成は代金を直人に示す。直人は財布から示された金額を差し出した。
「おお、お前結構金持ちだな。諭吉先生がこんなに・・・」
光成は代金を確認してからレジに収め、それと入れ替えるようにお釣りを直人に手渡す。
「ま、後ろのこのことについてはなんか聞かないほうがいい気がしてきたから聞かんでおくわ」
笑顔で光成がアイスの入った袋と通販の商品を差し出してくる。直人は内心で胸をなでおろしたが、光成が「でも」と言葉を続けた瞬間、心臓がとび跳ねた。
「なんかやばいこと抱え込んでるなら、相談しろよ。俺のメルアド知ってるだろ?」
そんな言葉を聞いて、直人は自分が何を言われたのか一瞬理解できなかった。一泊遅れて、自分が心配されているのだと気がつく。それがたまらなくうれしくて、思わずその場で足が固まってしまった。
「おい、どうしたんだ? いきなり固まっちまって?」
光成に顔をのぞきこまれて、直人ははっと我に返った。すぐさま、「いや、何でもない」と答える。
「そうか。ならいいんだけど」
内心の動揺を悟られないように、直人は急いで出口へと向かおうとした。しかしその時、月乃が「あの」と声を上げたためにその場で足が停止する。振り返ると、月乃は光成のほうを見ていた。
「はじめまして。私、月乃と言います。これから、あった時はよろしくお願いします」
「おお、月乃さんね。俺は菊池光成っていうんだ。よろしく」
月乃のいきなりの自己紹介にもまったくうろたえることなく、光成がいつも通りの笑顔で自己紹介を返す。
「おれ、ここでバイトしてるからさ、また直人と二人で来てくれ。直人もさ、ちょくちょく顔出してくれよな」
後半、いきなり話を振られて直人はどきりとしたが、光成の「にししし」という笑顔に、つられて顔がほころぶ。忘れかけていた自然な笑顔は、今日で何度めだろうか。
「うん、また来る」
直人はそう答えながら、やはりコンビニはこれからもこちらを利用しようと考えた。