無責処(セメルトコロナシ)
読みにくいかもしれません。リクエスト次第で改行や文章を調節します。
京都の紅葉も終わり、朝から身震いするのは当然の季節となった。そんな日常の中。阿部は早くから、彼女の怒鳴り声で起こされた。昨日の疲れが残った体は寝覚めが悪く、機嫌もよくないのだが、彼女はお構いなしに耳元で声を荒げる。滅多なことでは怒らない彼女が、寝起きにいきなり説教しだすとはよほどの事情か。阿部は眠気を我慢して耳を立てたが、原因はどうやら自分の寝相らしい。話を聞くに、阿部が掛け布団を独り占めしてるという内容だった。布団どころか毛布まで奪われ、自分がとても寒い思いをしたと、おかげで寝冷えしてしまったと不満をぶつけてきた。それなら取り返したらよかったのに、と阿部は思う。だが、口に出す前に、力が強くて取り返せなかったと、答えが返ってきた。なんとか許してもらおうと謝るが、彼女は仏頂面のままで部屋の外へ着替えに行った。出ていく最後まで謝る阿部だが、意識のない自分がやったことを謝るのはなんだか妙で、それでいて自分のやったことだから、謝らなくてはと思う。その奇妙な感覚を、いつのまにやら冷めた頭の中で笑っていた。
世間ではよくある話だが、実際にこうも陳腐に体感するとは。阿部はその初めての体験に、妙な感動すら覚えていた。それがまたおかしかった。けれども、さすがに怒られた矢先に笑い声をあげては、彼女がまた気を悪くするであろう。先に出ていった彼女の体は寒さで震えていた。やはり、ここで吹き出しては彼女も自分もばつが悪い。気持ちを切り替えて、出勤の準備でもしよう。そう考えた阿部だったが、その切り替えが上手くいかず、彼女の前ではおろか、通勤途中でさえ、思い出し笑いで顔がにやけそうになるのだった。
吐く息は白く、静寂に消えていく。三条駅から、少し北に離れた会社への途中、いつものように同僚の田岡と顔を合わせ、ともに社内へと足を運ぶ。阿部は早速、今朝の話をする。田岡は同意して笑うが、途端、顔が歪んだ。もしやと、拳を自分の唇に押しつけると、手の甲に赤い点がつく。笑った拍子に、乾燥してひび割れていた唇がさらに割れ、そこから血が出ていた。それは当事者でなく、横にいる阿部でも分かるほど、はっきりと血が出ていた。阿部は彼を破顔させた事が申し訳なくなって謝る。
「朝から彼女にも俺にも謝って」
田岡がそう言ってからかうと、やはり笑った時の傷の開いた唇が痛々しく、阿部は苦笑でしか返せなかった。
五階建ての会社の中は暖房で暖かく、阿部の冷え切った鼻や耳を攻めた。痛覚の鈍い耳はいいとして、鼻がむず痒い。阿部はたまらずこすると、寒さで赤くなった鼻はさらに変色していった。真っ赤なそれを田岡が指さす。指摘され、照れた阿部の顔を見ると、田岡は笑いながら部屋に入っていった。阿部はばつの悪い顔で、それに続いた。
それじゃあ、と一声かけてお互いの仕事机に向かおうとすると、
「すみませんでした」
という叫び声を連呼する若い声。聞き覚えはあるが名前が思い出せない。阿部が声の方へ目をやると、それは係長のデスクだった。その机の手前で、青いスーツ姿が平謝りしていた。それを確認すると、
「有村君か」
安部は小声で呟き、自分の机に向かった。有村は阿部と田岡の後輩で、屈託が無く人なつっこい男だった。仕事の面でも、任された事は必ずこなす。その万能ぶりは阿部の課でエースと呼ばれるほどだ。阿部自身とは直接関わることが無く、挨拶程度の間柄だが、阿部は彼が謝っている理由を知っていた。阿部だけではなく、今日、有村が上司から注意を受けるであろう事は、周知の事実だった。阿部は週の明ける二日前を思い出す。
阿部の勤める会社で、大きなプロジェクトがあった。殆どの部がその企画に携わり、阿部自身は直接、客との関わりはないが、バックアップに大変な苦労をし、その疲れは三日経ってもとれなかった。元々頑丈な自分が、ここまで疲れを引っ張るのは珍しかった。
「自身の老いか」
などと笑っていた阿部だったが、あまりの気怠さにせめて体だけでもと、企画終了の打ち上げの日に、合間を縫ってマッサージを受けに行った。その打ち上げである。
マッサージを受けたせいか、気持ちよく酔いの回った阿部は田岡と連んで、後輩で話の分かる女性を捕まえ、からかい半分の猥談で盛り上がっていた。酒の席といえど、さすがにこのような会話で大笑いする訳にもいかず、周囲を気遣う田岡の小声に耳を傾ける。すると、店の奥から怒鳴り声が聞こえてくる。阿部が怪訝そうに目をやると、声の主は有村だった。顔どころか全身真っ赤の状態で、共に飲んでいる仲間内に、なにやら不満をぶつけているようだった。内容は会社の愚痴だろうか、ろれつの回っていないその口調は、阿部のいる場所からは聞き取りにくかった。耳の良い田岡がなんとか単語だけを拾い、今つきあってる彼女の事を言っていると、阿部に耳打ちした。
あの有村が酒の勢いがあるとはいえ、あんな風になるのは初めて見た。阿部がその珍しさに関心していると、
「あんだけ赤かったら、酒焼けのせいか興奮しとんのか、ようわからんわ」
田岡が猥談していた女性と笑っていた。しばらく様子を観察していた三人だが、有村の聞き手が何かをしゃべると、有村が相手の襟首を掴みだしたので、慌てて男二人で止めにいった。両者はなだめるとすぐに落ち着いた。襲われた側が言うには、
「意見を求めてきたんで、有村の考えに反論をしたんです。そしてら急に怒り出して……」
田岡はため息一つ吐き、
「なんや逆ギレかい。無茶苦茶やな自分」
羽交い締めされたままの有村を揺らした。有村の体に力は入って無く、田岡の言葉にもまた暴れ出すこともなく、ただ小さく頷いた。
「今日はもう、帰らした方がいいんちゃう? 見てみい」
田岡は有村の体を揺すり、脱力しきっているというアピールを阿部にして見せた。阿部はそれに同感し、外にタクシーを呼んで有村を車に詰めて帰らせた。本人が大丈夫と言ったからだ。
酔った後輩が暴れ回って、その二日後。つまり休日後の今、有村は係長に怒られた後、周囲に謝り回っていた。確かに、かなりのひんしゅくを買っていたのだが、あまり関係の無い者にまで謝るその姿が、阿部には滑稽だった。周りも阿部と同じ気持ちなのか、みながみな苦笑いを浮かべて有村を見るという後景があった。
そうこうしている内に、阿部の順番がやってきた。有村自身も仕事をしながらなので、阿部の処にやってきたのは、彼が昼食のメニューを考えながらデスクの整理をしている最中だった。
「田岡さんから聞きました。本来なら、阿部さんと田岡さんに真っ先に謝りにいくべきでした」
有村の謝罪をよそに、阿部はデスクの整理を続けた。有村が困っていると、彼の後ろから田岡が顔を出した。
「そんな目くじら立てるようなことでもないやんけ、他の連中見たく『別に気にしてない』とか、苦い顔で笑ったらええやん」
阿部は田岡の話を聞き終えると整った机上を確認し、有村と田岡に顔を向けた。
「煮魚定食だな」
阿部の一言に一人は呆然とし、もう一方はにやけた。
「なんや、何を黙ってるかと思えば、おごってもらう昼飯考えとったんかい」
「もともと、昼を考えてた最中にそっちが来たんだ。おまえも来たんなら、好都合だろ?」
田岡におどけて反論する。そんな阿部を鼻で笑い、
「ほんま、都合がええわ」
合理的だと言え、阿部が怒ったフリをすると、田岡がそのふざけたフリを笑い、唇の傷をまた開かせた。怒ったフリをしたのは、元々笑わせる というか唇が伸びる表情をさせるのが目的だった。今朝からかわれた仕返しに、田岡を軽く痛い目に合わようというイタズラだった。痛がる田岡の顔は、唇がすぼんでいるのに頬が上がってている。不自然なその顔つきは、ひょっとこの面に似ていた。安部はその顔を笑い、今度は田岡が怒ったフリをする。安部は謝るが、まだ顔が笑っている。その両者のやり取りを見て、有村も笑った。ひとしきり笑うと、
「で、どうするんだね有村君。我々は君の謝罪を気持ちでなく、形にしてもらいたいのだが?」
未だに痛がっている田岡を放って、安部は話を戻した。回りくどい言い方をする彼を、有村は微笑んで、
「分かりましたよ。今日の昼はおごりますよ」
話の分かる後輩だと二人がほめると、話が分かりやすい現金な先輩でよかったと、有村は二人を笑わせた。
会社から歩いて二分。阿部と田岡の通う食堂は、今日も座る場所がなかった。十数分待って、ようやく席に着くと、前もって頼んだ注文がすぐ出てきた。あまりこの店に馴染みのない有村は、
「座ってすぐに注文が来るって、なんか変な感じですね」
気味悪がってみせるが、二人にはこれが普通だったので、
「合理的やん」
田岡の素の一言で終わる。
各々が料理を口に運んでいると、沈黙が苦手な田岡が、有村を呼んだ。
「この前、なんで暴れとったんや。お前が酔ってああなるんは、初めて見たぞ」
阿部は目を見張った。いくら何でも、こんな食事時に聞くような内容ではないだろう。会話のネタが無くなると、触れるべきではない話題にまで手を出す。田岡との付き合いは長いが、彼のこういう所が、阿部は今でも気に入らなかった。しかし、いつもならここで田岡をたしなめ、気を悪くしたであろう相手に謝るのだが、阿部は今回それをしなかった。阿部自身、田岡の質問の答えに興味があり、己の常識とぶつかり合っていた。阿部が躊躇している内に、有村が言葉を投げた。
「今度飲みながらでもってワケにはいきませんかね?」
笑って見せるその顔には、こんな時間にこんな場所では勘弁してほしいという、苦い印象を感じさせた。田岡はそれを分かっているのかいないのか、
「ホンマか? じゃあ今夜や」
「い!? 急ですねえ……」
いきなりの発言に阿部も驚いた。有村は困惑の浮かんだ笑顔という難しい顔のまま、携帯電話を取り出し、操作し始めた。電話をかける様子もなく、どうやら電話機の中にあるスケジュール帳を調べているようだ。少しして二人に目線を遭わせると、小さく頷く。今日は空いているというサインだった。
「ほんなら決まりや」
田岡はそう言うと、再び食事に入った。
阿部は困った。この会話の流れと田岡の気性を考えると、自分も付き合わされるのは間違いないだろう。だとすると、愛情をとるか友情をとるかの二択となった。前もって決めていた彼女との今夜の約束を断る事はできない。逆に、急に決まったことで実際に誘われた訳ではないので、田岡を断った方がいい。それどころか何も言わずに去っても、有村と田岡だけで行くのかと思ったとすれば、後の言い訳としても通る。しかし田岡は根に持つとしつこい。しかも、こと後輩の相談がらみだ。有村を盾にして、しばらくは責めてくるかもしれない。変わって彼女は、どんな否でも一度怒れば、それで済ませてくれる。やはりどちらを選ぶべきか。
「有村、やっぱり今話さんか?」
田岡が急いた。もともと、食事中の沈黙が嫌で振った話題だったので、また会話が無くなるのが我慢できなかったのだ。阿部の考えてる間はそんなに長くはなかったが、田岡のしびれが切れるには十分だった。有村はそんな田岡にあきらめの混じった顔を見せると、了解の意を示す言葉をため息混じりの笑い声で伝えた。
彼の話は阿部と田岡の知っていた通り、付き合っていた女性に対してのことだった。
「自分から言うのも何ですが、仕事と私生活の二つをちゃんと両立できていました」
当然波乱もありましたがと、一言足して水に口付けた。有村の飲む最中、
「でも別れたんやったら、両立できてないと同じちゃうん?」
阿部は田岡の一言に、人の嫌がることを簡単に言ってのけるなと、感心を覚えた。だが、こいつの場合は自分が思ったことをただ外に出すだけで、相手の心境を理解した上ではないと、元々阿部が彼に思っていた評価によってうち消された。
「そうなんですかね?」
阿部は有村が不満げに反論するかと思ったが、彼は意外にも田岡の意見を正直に受け止め、さらに言葉を求めた。
「彼女は別れ話の時に、上手くいきすぎて嫌だと言ったんですよ。両立が上手くいっているはずなのに、彼女は離れた。田岡さんの言うとおりなのかもしれません。でも、納得いかないじゃないですか? 上手くいきすぎてなんて言われたら、消化できないでしょう?」
阿部は口を噤んだ。確かに憤りを覚える、どこへやったらいいか分からない怒りだ。自分を責めるべきか、そんなことを思う彼女が間違っていると、責めるべきなのか。さらにその二つはどちらも正解につながらない気もする。
「アホか、気づかんのかいな?」
阿部と有村の沈黙を目の当たりにした田岡が怒りを放った。口調は激しくないが、荒く、けれども静かなものだった。阿部には重く響き、有村も同様のようだった。二人の視線が田岡に集まると、田岡は続けた。
「そいつはな、有村の彼女はな、自分の場所がわからんくなったんや。なんでもこなしてみせる有村にも弱い部分がある。そう思うことで自分の居場所っちゅうのを信じてな。でも、お前さんはなかなか隙を見せよらへん。でも、お前の愛情は感じる。そいつ自身、板挟みになっとったんや」
なんでこいつは目の前の人間の心は分からないのに、会ったこともない人の気持ちは分かるのだろう。少し屈折した感想だが、阿部は田岡の評価を改めた。阿部にとっては目から鱗のような納得だった。それは有村も同じだった。憑き物が落ちたような顔になっている。しかしながら、落ちすぎたのか、晴れすぎて真っ青になっていた。
田岡はさらに続けた。
「仮にこれが当たっとたとしてや、その状態で有村が結婚話でもしてみい? もしくはそれに近い事を言われてみいや。その押さえつけられた自分はどうなる? 爆発したんやろ。だから、そんなこと言われたんや」
エース君の生んだ悲劇。田岡は最後にそう付け加えて有村を一瞥した。有村の首は根本から曲がり、もう少しでもげるのではないか。阿部が本気でそう思うほどに落ち込んでいた。
「よく、分かるな」
阿部はこの殺伐としてきた場を和めたく、不器用にもひきつった笑みで本心を茶化す。
「納得できる理由を作ってみただけや。こんなんで落ち込むとしたら、本人に思い当たる所があるって事やろ」
火に油を注いでしまった気分。水と思ってかけた阿部だったが、のっぴきならない状態に、もう何と言ったらいいか分からなかった。
会社から決められた昼食の時間ももう終わる。どうしようもないまま、一人は仏頂面、残る二人は頭を下げっぱなしで、店を後にした。
先ゆく田岡の後ろで、彼のお供のように並んだ二人の内、片方が口を開いた。
「オレ、思うんですよ」
何故、あの時手を振ってしまったのか、そう続けた声は震えていた。本当はどうしたかったのだろう。振った手がこっちに来るように振っていても、彼女はきっと戻ってはこないだろう。それは本人も分かっているはず。それでも示したい何かが、さよならになってしまった。
阿部は居たたまれない気持ちになって、その後連絡は、と口に出そうとした。が、口は開いたままで、声は出なかった。一度詰まってしまうとなかなか言い出しきれず、二人の間に沈黙が流れたままだった。
「無理矢理にでも、引き留めればよかったのかな」
彼の独り言は、阿部の胸に切なかった。
仕事も終わり、阿部は自宅のソファに座り込んでいた。しばらくすると阿部の彼女が入ってきて、一言二言交わすと食事の準備を始めた。
調理の音を聞きながら、阿部はつい口走った。
「オレって上手くやってる?」
手にした飲みかけのビール缶。その中身を回す彼に、彼女は調理の手を止める。
「何をよ?」
「いや、二人のカンケーっていうのを」
どもって聞き直す阿部の問いに彼女は考え、
「そんなモン、自分で考えなさいよ」
冷たくあしらい、再び調理にはいる。阿部は彼女らしい答えに嬉しくなり、
「そうだな」
笑顔で返した。それから一分も経たない内に、何かあったのかと、心配そうに尋ねる彼女が、阿部には妙におかしかった。