第六章:黄金が蝕む白 01
太陽が昇り切るころ、レセナは浅い眠りから目を覚ました。
神天院が用意した宿舎の一室。質素だが清潔な部屋に置かれた二つのベッドのうち、片方でヴォルトが静かな寝息を立てている。作戦会議が終わった途端、その場で倒れそうになったから、仮眠を取ることになったのだ。
レセナは身体を起こし、時計を見た。
正午前。
フィアラルの作戦説明を思い出す。敵は五箇所同時攻撃を仕掛けてくる――査問法院、学術院、王国議会議事堂、アウラ大聖堂、そして福音伝達者。神天院はその情報を事前に掴み、各地点に完璧な防御配置を敷いていた。
ローザンヌ修道騎士会全七名を配置し、民間人の避難経路も確保済み。通信網も二重三重に強化され、敵の動きは逐一把握される手筈になっている。
「起きたのか」
隣のベッドからヴォルトの声がした。振り返ると、彼も目を覚ましていた。
「さっきね」
レセナが窓の外を見やる。カルヴァリアの街に眩い陽光が差している。
「準備は万端。あとは敵が仕掛けてくるのを待つだけ」
ヴォルトが身体を起こし、腰の剣に触れる。対極剣の封印制御は完璧に機能している。最終確認でも、第三封印の部分解除は問題なく作動していた。
ノック音。
「入ります」
パスカルの声だった。情報部の青年が部屋に入ってくると、手には最新の情報が記された資料を持っている。
「最終確認のため参りました」
パスカルの童顔には、昨日から変わらない誠実さがあった。
「敵の動きに変化はどう?」
レセナが尋ねる。
「予定通りです。午後一時頃に各地点で活動開始と推測されます」
パスカルが資料を広げる。恐るべきは情報部の監視網。さすが神の目と称されるだけはある。もう敵を捕捉したのだろう。
「ローザンヌ修道騎士会の配置も完了しています。シャルル様は作戦本部、ロザリロンド様がアウラ大聖堂、イヴ様が査問法院、ステファン様が王国議会議事堂、カルラ様、フェリクス様は猊下の護衛です」
意図的に学術院を開けている。最悪の場合を仮定した穴だ。名前が挙がっていないローザンヌの一名は遊撃か。
「わたしたちは?」
「レセナ様とヴォルト様には、機動部隊として状況に応じた対応をお願いします。ゾルデ・クーパーの確保が最優先任務です」
ヴォルトが頷く。
「分かった」
パスカルが時計を見る。
「それでは、すぐに作戦本部で最終会議を行います。失礼いたします」
パスカルが部屋を出ていく。その後ろ姿を見送りながら、レセナはなぜか微かな違和感を覚えた。何かが引っかかる。
「レナ?」
「ううん、何でもない」
レセナは首を振った。いまは些細な違和感に囚われている場合ではない。
すぐに身なりを正して臨時の神天院作戦指揮室へ向かうと、すべての関係者が集まっていた。
フィアラル法院長が壁一面の作戦地図を指しながら、最終確認を行っている。カルヴァリアの主要施設が赤いピンで示され、防衛ラインが青い線で描かれていた。
「各地点の準備状況を報告してください」
「アウラ大聖堂、配置完了」
ロザリロンドが報告する。
「査問法院本部、問題な~し」
イヴの声が続く。
「王国議会議事堂、問題ないのお」
ステファンの老いた声。
フィアラルが感情の凪いだ声で確認する。
「結構。通信網の状況は?」
「三系統すべて正常に機能しています」
パスカルが資料を確認しながら答える。
「主回線、副回線、緊急回線のいずれも問題ありません。また、各地点との連携も完璧です」
「民間人の避難は?」
「既に誘導を開始しています。危険予想区域からの退避はまもなく完了予定です」
すべてが完璧だった。フィアラルの策謀により、敵の計画は完全に把握され、それに対する迎撃体制が構築されている。
「では、作戦開始です」
フィアラルが宣言した瞬間、通信装置から報告が入った。
「各地点より報告。不審人物の接近を確認。間もなく攻撃開始と思われます」
ついに始まった。
攻撃開始の報告と同時に、パスカルが素早く通信装置の操作盤に向かった。
「各地点との連絡を密に取ります」
パスカルが主回線の制御パネルに手を伸ばす。その指先が、僅かに震えているのをレセナは見逃さなかった。
緊張しているのだろう、とそのときは思った。
「主回線、正常」
パスカルの声が作戦指揮室に響く。だが、その瞬間――
突然、すべての通信機器から音が消えた。
「なにがありました?」
平坦なフィアラルの問い。
「申し訳ありません、一時的な不具合のようです」
パスカルが慌てたように別の操作盤に触れる。その動きは機敏で、故障箇所を予め知っているかのようだった。
「副回線に切り替えます」
だが、副回線からも応答はない。
「緊急回線を」
「確認します」
パスカルの指が素早く緊急回線の制御装置を操作する。しかし――
完全な沈黙。
作戦指揮室に重い静寂が落ちた。壁の地図に示された各防御地点との連絡が、完全に絶たれている。
フィアラルの表情に険が灯る。
「通信網への破壊工作ですか?」
レセナが問いかけた瞬間、違和感の正体が氷となって背筋を駆け抜けた。
パスカルの表情が、一瞬だけ変わったのだ。
慌てふためいているはずの情報部員の顔に、興奮が滲んだ。
それは一秒にも満たない刹那の表情だった。だが、福音伝達者の感覚がその微細な変化を確実に捉えていた。
「パスカル」
レセナの声が、静かに響く。
「あなた、最初からこうなること知ってたでしょ?」
パスカルの動きが止まった。童顔に浮かんでいた焦燥の色が、潮が引くように消えていく。違和感が一気に収束していく。
「レセナ様、何を仰って――」
「それとも、意図的にいま操作した?」
福音伝達者の絶対感覚が、偽りの仮面を見抜く。
「通信網の破壊工作じゃないね。あなたがやった」
パスカルの表情から、すべての仮面が剥がれ落ちた。代わりに現れたのは、冷徹で計算高い工作員の顔だ。
パスカルが小さく息を吐く。その仕草には、もはや先ほどまでの幼さは欠片もない。
「さすがは福音伝達者ですね」
声も変わっていた。子どもっぽい純朴さが消え、大人の男の冷静で知的な響きになっている。
「発覚は予想より早かった」
ですが、とパスカルが振り返る。くふっ、と狂信的な笑い。
「もう遅いですよ」
誰もが真偽に戸惑う最中、老獪なフィアラルは即座に指示を出す。
「総員、捕縛しなさい!」
背筋を叩く命令に、室内に待機していた護衛が動く。二人がパスカルに飛び掛かり組み伏せる。拘束具を持った護衛が彼を縛り上げた。
だが、パスカルは抵抗しない。それどころか、口元に薄い笑みを浮かべていた。数年間の欺瞞を見抜かれた状況も、捕縛される危機も、まるで意に介していない。
フィアラルは動かない。パスカルの姿すら見ていない。それでも、冷徹な政治家からは、空恐ろしいほどの怒りが漂う。
「想定を最悪に設定します」
凍てついた声だった。
「通信網は遮断、民間人は危険区域へ誘導済み、各地で攻撃開始」
裏切りすら想定に織り込んで、老練な政治家が机上の地図を見つめる。
「レセナ、ヴォルト、現場へ急行しなさい」
「はい」
レセナが頷く。だが、その瞬間、パスカルの拘束された右手が、僅かに動いた。
護衛が締めた拘束具の隙間から、小さな試験管が滑り落ちる。透明なガラスの中で、黄金色の光が脈動している。蓋は――開いている。
「酷死天使……」
レセナの感覚が死を告げた。
黄金の光が解き放たれた。
酷死天使が室内に漂い始める。美しく、荘厳で、そして絶対的な死を運ぶ悪魔が。
「最後の任務」
パスカルが静かに嗤う。
「神天院作戦本部の無力化、完了です」
黄金の粒子が空気中に拡散していく。それは死の宣告だった。触れれば命を失う、美しい死神の舞踏。
フィアラルでさえ、この瞬間ばかりは眉をわずかに動かした。それでも、声は依然として冷静さを保つ。
「全員、この場から退避!」
同時、レセナがパスカルと酷死天使を覆うように結界を展開。天使の拡散を防ぎ、全員が逃げる時間を稼ぐ。
だが、酷死天使の侵蝕は想像以上に早い。青白い光の壁が金色に浸蝕され、みるみる崩壊していく。
――間に合わない……!
その時、ヴォルトが動いた。
黒剣を抜いたヴォルトが、レセナの結界ごと叩き斬った。金の天使が消える。存在を拒絶されたのだ。
対極剣の呆れた威力を前に、パスカルが笑った。
「ははは……それは反則だ。でも……これで私たちの……勝ち……」
パスカルの声が途切れる。すでに酷死天使に体中を蹂躙されつくされたのだ。工作員として最後の仕事を終えた男が、息を引き取る。
レセナは、身体中から血を流したパスカルを見下ろす。感情に振り回されそうな頭を冷静に戻す。
致命的な事態だった。酷死天使を対極剣で殺せた。それでも、ヴォルトとふたりで四か所へ向かうには、どうしたって時間が足りない。なにより、ローザンヌたちとの連絡手段が封じられた。各地で本部から孤立したまま、敵の位置も味方の状況も分からず戦うことになる。
その時、レセナは圧倒的な施術の気配を感じた。沈黙していたシャルルが、ついに動き出す。




