第五章:暗雲を裂く 02
同刻。
ストラストの森。小屋の中で、ゾルデ・クーパーは窓辺に立っていた。格子状の窓枠越しに見える新緑が、月光を受けて輝いている。鳥たちのさえずりが森に響き、風が梢を揺らす音が聞こえてくる。しかし、その美しい自然の調べも、彼の荒んだ心には何の安らぎも与えなかった。
ゾルデの瞳には、十年前から燃え続ける復讐の炎があった。あの日、愛する娘を失った日から、彼の世界は色を失った。新緑も、月光ただよう群青も、すべてが灰色に見える。美しいものを美しいと感じる心は、娘と共に墓の下に朽ちてしまった。
扉が軋む音を立てて開いた。振り返ることなく、ゾルデは来訪者が誰かを悟る。足音があまりに軽やかだったからだ。まるで舞踏会の貴公子のように、優雅で計算された歩調だった。
「順調に進んでいるね」
背後から聞こえてきたのは澄んだ声。だが、その美しさには無機質な冷たさが混じっている。まるで精巧に作られた音楽箱から流れる旋律のように、魂の温もりが感じられない。
ゾルデがゆっくりと振り返る。
「炎の修道女は、見事に罠にかかった」
少年が薄い笑みを浮かべる。その笑みは表面的には愛らしく見えるが、本質は真逆だ。虫けらを観察する残酷な好奇心が見え隠れしている。
「ローザンヌ修道騎士会の会長ともあろう者が、こうも簡単に踊らされるとはね」
少年の声に、微かな嘲笑が混じった。
「エミール」
ゾルデが重い口を開く。その名前を呼ぶ声には、複雑な感情が込められていた。感謝と、警戒と、そして拭いきれない不安が混在している。
「あの女が蜘蛛の糸に絡めとられようと、俺には関係ない」
ゾルデの声が低く響く。
「問題は」
言葉を区切り、彼の表情が苦いものになった。深く刻まれた皺が、十年間の苦悩を物語っている。
「本当にお前たち神の証人が信用できるのかということだ」
エミールが首を傾げる。その仕草は少女のようにも見え、どこか芝居がかった不自然さがあった。
「信用?」
エミールの声が一瞬だけ硬くなる。だが、すぐにいつもの人形の微笑みを取り戻した。
「ボクたちはキミの復讐を手助けしているだけ。利害が一致している限り、信用なんて必要ないでしょ?」
「それもそうだな」
ゾルデが窓に視線を戻す。緑の向こうに、ストラストの街並みが霞んで見えた。あの街で、再び酷死天使が解き放たれた。十年前と同じように、人々が恐怖に震えている。
「だが、本当にうまくいくのか?」
ゾルデの声に、どうしても消しきれない不安の色があった。十年越しの復讐が、ついに現実のものとなろうとしている。だからこそ、失敗への恐れが心の奥底で蠢いていた。
「査問法院も学術院も、そう簡単に潰せる相手ではない」
ゾルデの拳が震える。あの忌々しい組織の顔が脳裏に浮かんだ。街を巻き込み、娘を殺し、真実を隠蔽し、自分を犯罪者に仕立て上げた連中。十年間、彼らの権力の前に文字通り泥水をすすらされた。
「あの連中は国の中枢にいる。やつらの権力は絶大だ」
エミールの瞳が一瞬だけ鋭く光った。それは獲物を見つけた捕食者の目だった。
「なにをいまさら。心配性だねえ」
エミールの声が絹のように滑らかになる。
「彼らは愚かだよ。十年前も、そして今も」
エミールの声に、計算された確信が込められていた。
「キミの娘を殺し、責任を隠蔽し、真実を闇に葬った。そんな組織に存在価値などない。権力? そんなもの、酷死天使で食らってやればいい」
エミールの声にはあざけりがあった。彼にとって、施術士という存在そのものが神への冒涜だった。ましてや、人間でありながら神に近しき存在として福音伝達者を崇拝するアレラル王国は、この世から消し去るべき邪悪な存在でしかない。
そういう組織で教育された少年だと、ゾルデは知っている。
ゾルデの拳が震えた。娘の記憶が、まるで古い傷口を鋭利な刃で抉るように心を刺し貫く。愛らしい笑顔、小さな手の温もり、最後に交わした言葉――すべてが鮮明に蘇り、彼の魂を引き裂いていく。
「そうだ」
ゾルデの声に、底知れない憎悪が込められた。十年間燃え続けた復讐の炎が、再び激しく燃え上がる。
「そうだとも。奴らには相応の報いを受けてもらう」
エミールが満足そうに微笑む。
「もちろん」
エミールの声が蜜となって甘く響く。
「ボクたちの終着は近い。キミの言葉を借りるならそう、運命の地とでもいうべきかな?」
小屋の中に重い沈黙が落ちた。窓の外では変わらず鳥たちがさえずり、そよ風が梢をざわつかせている。しかし、この小さな空間だけは、復讐の毒に侵され、陰鬱な空気に満ちていた。
エミールが腰に下げた小さな革袋に手を触れる。その中には、ストラスト研究所から奪取した酷死天使の試験管が七本入っていた。黄金に輝く死の天使たちが、静かに出番を待っている。
「間もなく、この世界に真の裁きが下されるだろうね」
エミールの瞳が、狂信者特有の輝きを放った。




