【証拠はいらない】夢はまだそこにある
相談者は、五十代の男だった。
スーツは古いが、手入れは行き届いている。
背筋も伸びている。
ただ、目だけが――長いこと遠くを見てきた目だった。
「夢の話をしても、いいですか」
開口一番、それだった。
「構いませんよ」
男は、少しだけ安心したように息を吐く。
「昔、ミュージシャンになりたかった」
「プロになれなくても、食えるくらいには」
よくある話だ。
だが、男の声は淡々としていて、酔っていなかった。
「二十五で諦めました」
「結婚して、子どもができて」
「それが正解だと思った」
「今は?」
「会社員です。悪くない」
「むしろ、恵まれてる方でしょうね」
男は、机の上に置いた指を見つめた。
「でも、最近」
「楽器を触ると、手が震えるんです」
震え、か。
「後悔してる?」
「……分かりません」
正直な答えだ。
「やり直したいわけじゃない」
「家族を捨てる気もない」
「ただ――」
言葉を探す間が、長い。
「“諦めたまま”でいいのか、知りたい」
俺は、少し考えた。
「何をしてほしい」
「背中を押してほしい、とは言いません」
「止めてほしい、でもない」
男は、こちらをまっすぐ見た。
「俺が、もう夢を持たなくていい理由があるなら」
「それを、はっきりさせたい」
……なるほど。
「証拠はいらないです」
男は苦笑した。
「才能がなかったとか」
「年齢がどうとか」
「そういう話は、もう十分聞きました」
俺は、椅子にもたれた。
「じゃあ、聞くぞ」
「はい」
「今、音楽をやめたら」
「楽になるか?」
男は、すぐには答えなかった。
「……静かにはなります」
「それで、満足か?」
「……分かりません」
俺は、頷いた。
「答えは出てる」
「え?」
「諦めるかどうか、じゃない」
「もう一回、夢に“命を預ける”かどうかでもない」
男は、息を呑む。
「夢はな」
「叶えるか、捨てるか、二択じゃない」
少し間を置いて。
「持ったまま、生きるって選択もある」
男の目が、揺れた。
「……それは、逃げじゃないですか」
「違う」
即答だった。
「逃げるってのはな」
「夢があった事実を、なかったことにすることだ」
男は、深く息を吸った。
「じゃあ……俺は、どうすれば」
「やめるな」
「え?」
「戻らなくていい」
「賭けなくていい」
「人生をひっくり返さなくていい」
俺は、机を指で軽く叩く。
「ただ、触れろ」
「音を出せ」
「誰にも見せなくていい」
男は、しばらく黙っていた。
「……それでも、叶わなかったら?」
「それでいい」
「え?」
「夢はな」
「叶わなかったからって、偽物にはならない」
男は、ゆっくりと目を伏せた。
「証拠、要りませんでしたね」
「ああ」
「答えも、もう出てました」
「だろ」
男は立ち上がり、深く頭を下げた。
ドアの前で、少しだけ立ち止まる。
「……夢って、残酷ですね」
「優しいぞ」
男は振り返る。
「残ってくれる。心の中に」
それだけ言った。
ドアが閉まる。
⸻
事務所に、静けさが戻る。
相棒が、ひと言だけ言った。
「……離れないんだね」
「そうだな」
それだけだった。
夢は、叶わなくてもいい。
持ったまま、生きていれば。
それだけで――
もう、証拠はいらない。




