その朝食、処刑前の晩餐につき
目が覚めると、そこは天蓋付きの巨大なベッドの上だった。
ふかふかの羽毛布団。 最高級のシルクのシーツ。 部屋には甘い香が焚かれ、窓は分厚いヴェルベットのカーテンで閉ざされている。
「……夢じゃ、ないのね」
私、リリアナ・シェフィールドは、昨夜の出来事を思い出して青ざめた。
婚約破棄。 そして、『処刑皇子』ヴァルダス殿下による拉致監禁。
殿下は私に「二度と笑うな」と命じ、顔を隠すヴェールを被せた。 つまりここは、私の牢獄。 この豪華すぎる部屋は、生かさず殺さず、私という「不気味な女」を社会から隔離するための鳥籠なのだ。
コンコン。
控えめなノックの音が響く。
「リリアナ様。朝食のご用意ができております」
メイドの声だ。 私は飛び起きた。 いけない。囚人とはいえ、王族の呼び出しを待たせるわけにはいかない。
私は慌てて身支度を整えた。 と言っても、着る服は用意されていた一着しかない。 露出が一切ない、修道女のような漆黒のドレス。 そして、顔を完全に覆う、分厚いレースのヴェール。
鏡を見る。 そこに映っていたのは、喪服を着た幽霊のようだった。
「……お似合いだわ、私には」
私は自嘲し、ヴェールを被った。 視界が薄暗くなる。 これなら、私の不気味な無表情も、誰にも見られずに済む。
私は震える足で、部屋を出た。
◆
案内されたのは、王城のプライベートダイニングだった。
長いテーブルの向こう側に、彼が座っていた。 ヴァルダス殿下。 今朝も漆黒の軍服を着崩し、足を組んで書類に目を通している。 その姿は、魔王のように美しく、そして恐ろしかった。
「……来たか」
殿下が顔を上げ、私を見る。 赤い瞳が、ヴェール越しの私を射抜く。
「おはようございます、殿下……」
私はカーテシー(お辞儀)をした。 恐怖で膝がガクガク震えていたが、おかげで小刻みに揺れる独特の礼になった。
「座れ」
殿下が顎で椅子をしゃくる。 彼の真正面の席だ。近い。近すぎる。
私はおずおずと座った。 テーブルの上には、豪華な料理が並んでいる。 焼き立てのパン、新鮮なフルーツ、湯気を立てるスープ。 どれもこれも、庶民には一生縁のないような高級食材ばかりだ。
(こ、これは……まさか、『最後の晩餐』!?)
私は戦慄した。 処刑の前に、囚人に好きなものを食べさせるというあれだ。 つまり、今日が私の命日。
「どうした? 食わんのか?」
殿下の低い声が響く。
「い、いただきます……」
私は震える手でフォークを持とうとした。 だが、そこで気づく。
(……あれ? ヴェールを被ったままじゃ、食べられないわ)
当然だ。口元まで布で覆われているのだから。 食べるためには、ヴェールを捲り上げなければならない。 しかし、殿下の命令は絶対だ。 『顔を見せるな』『笑うな』。 もし私がヴェールを上げて、その下の顔が少しでも引きつっていたら? その瞬間に、首が飛ぶかもしれない。
どうしよう。 食べたいけれど、食べられない。 これは、「目の前にご馳走を置いて、飢えさせる」という新しい拷問なのかしら?
私が固まっていると、殿下が苛立ったように立ち上がった。
「チッ……気が利かんな」
ヒィッ! 舌打ちされた! やっぱり、食べるのが遅いと怒られるんだわ!
殿下はカツカツと足音を立てて、私の隣に来た。 そして、あろうことか私の椅子を強引に引き寄せた。
「貸せ」
殿下は私の手からフォークを奪い取った。 そして、パンケーキを一口大に切り分け、シロップをたっぷりと絡める。
え? 何をする気なの?
殿下はフォークを突き出し、私の口元――ヴェールの布のギリギリ手前まで持ってきた。
「口を開けろ」
「……は、はい?」
「聞こえんのか? あーん、だ」
あーん。 処刑皇子の口から、幼児語が飛び出した。 あまりの衝撃に、思考が停止する。
「ほら、早くしろ。冷めるだろうが」
殿下の顔が怖い。 殺意の波動に満ちている。 これは、「毒見」の強要だわ。きっとこのパンケーキには、遅効性の猛毒が……!
私は覚悟を決めた。 どうせ殺されるなら、殿下の手で殺されたい。 私はヴェールの裾をわずかに持ち上げ、口を開けた。
殿下が、フォークを差し込む。 甘いパンケーキが、口の中に広がる。
「……もぐもぐ」
美味しい。 悔しいけれど、今まで食べたどのパンケーキよりも美味しい。 私は涙目になりながら(無表情で)咀嚼した。
その時だ。 頭上から、殿下の荒い息遣いが聞こえてきた。
「ッ……ぐぅ……!」
見上げると、殿下が胸を押さえて苦悶の表情を浮かべている。 顔が赤い。 額に脂汗が滲んでいる。
(やっぱり! 毒が入っていたのね! その毒気を吸って、殿下まで具合が悪く……!)
「で、殿下!? 大丈夫ですか!?」
「……構うな。続けろ」
殿下は、震える手で次のフルーツを刺した。
「次はこれだ。……ほら、もっと口を大きく開けて。……そう、リスのように……」
殿下の様子がおかしい。 私に餌を与えるたびに、「くっ」「はぁ」「死ぬ」と呻き声を上げている。 まるで、何かの呪いと戦っているようだ。
(私が……私が不気味な顔で食べているから、気分が悪くなられたんだわ……!)
私は申し訳なさでいっぱいになった。 ごめんなさい、殿下。 不気味な女が、目の前でモグモグしていてごめんなさい。
だが、私は知らなかった。 この時、ヴァルダス殿下の脳内では、未曾有の大災害が起きていたことを。
◆
(――ヴァルダス視点――)
俺は、死にかけていた。 毒ではない。 「尊さ」という名の致死毒によってだ。
目の前のリリアナを見てくれ。 ヴェールを被り、小さくなって座っている姿。 まるで、雨に濡れた黒猫のようだ。
俺は、彼女が食事に困っていることに気づき、咄嗟に介助(餌付け)を申し出た。 ヴェールを全部取らせるのは危険だ。 そんなことをすれば、彼女の全顔が露わになり、俺の心臓が爆発してしまう。 だから、口元だけをチラ見せさせる「ヴェール越しあーん」という高等テクニックを選択したのだが……。
これが、間違いだった。
(……可愛い。可愛すぎるだろ、チクショウ!)
ヴェールの隙間から覗く、桜色の唇。 俺が差し出したパンケーキを、ハムッと小さくかじる仕草。 そして、リスのように頬を膨らませて咀嚼する動き。
破壊力が桁違いだ。 普段、鉄仮面で感情を隠している分、この無防備な「食事シーン」のギャップが俺の理性を削り取っていく。
「(いかん……抱きしめたい。今すぐこの華奢な体を抱きすくめて、頭のてっぺんから爪先まで吸い尽くしたい)」
俺の奥底で、ドス黒い独占欲が暴れ回る。 もし、この姿を他の男が見たら? この無防備な唇が、他の男の前で動いていたら?
(殺す。全員殺す。この国の男という男の視神経を焼き切ってやる)
俺の手が震える。 嫉妬と興奮と、それを抑え込む理性との戦いで、全身から冷や汗が噴き出る。
「次はこれだ。……ほら、もっと口を大きく開けて。……そう、リスのように……」
俺はうわ言のように呟きながら、フルーツを運んだ。 リリアナが、コクコクと頷いて従う。 その従順さが、また俺を狂わせる。
「(俺の言うことを聞いている……俺の手から餌を食べている……完全に俺の『所有物』だ……!)」
ゾクゾクするような背徳感。 俺は、限界だった。 これ以上続けては、俺が獣になって彼女を襲ってしまう。
ガタンッ!
俺は椅子を蹴倒して立ち上がった。
「も、もういい! 十分だ!」
「えっ……?」
リリアナがビクッとする。 不安そうに俺を見上げる、ヴェール越しの瞳。
「こ、これ以上食わせると……太るぞ!」
俺は精一杯の虚勢を張った。 嘘だ。もっと食わせたい。 なんなら一生、俺の膝の上で暮らしてほしい。 だが、今は離れなければ。俺の理性が焼き切れる前に。
「いいか、リリアナ。お前は部屋に戻れ。そして……二度と、俺以外の前で物を食うな」
「え?」
「食事姿を見せるのは、俺の前だけだ。わかったな!?」
俺は叫ぶように命じて、ダイニングから逃げ出した。 廊下に出た瞬間、壁に手をついて荒い息を吐く。
「……はぁ、はぁ、危なかった……」
俺は顔を覆った。 鼻血が出そうだった。
「だめだ、耐性がなさすぎる。もっと訓練が必要だ……彼女の『可愛さ』に耐えうる鋼の精神力を身につけねば……!」
俺は、廊下ですれ違った近衛兵に八つ当たり気味に怒鳴った。
「おい! 今日の演習メニューを三倍にしろ! 俺も参加する! 煩悩を……いや、殺気を祓う!」
「は、はいッ!?」
近衛兵が怯える中、俺は決意した。 リリアナを守るためにも(俺の心臓のために)、俺自身がもっと強くならねばならないと。
◆
(――リリアナ視点――)
殿下は、怒って出て行ってしまわれた。
「……太る、か」
私は自分のお腹をさすった。 そんなに太って見えたのかしら。 それとも、私の食べ方が汚くて、見るに堪えなかったのかしら。
「『俺以外の前で物を食うな』……」
殿下の命令を反芻する。 それはつまり、「人前で食事をするな。みっともないから」という意味ね。 食事という基本的な行為すら、制限されてしまった。
「やっぱり、私は『囚人』なんだわ……」
私はとぼとぼと部屋に戻った。 部屋の隅にある鏡台を見る。 そこには、小さな箱が置かれていた。
「あら? これは……」
黒いベルベットの小箱。 開けてみると、中には美しい首輪――いいえ、チョーカーが入っていた。 漆黒の革ベルトに、真紅の宝石が埋め込まれている。 洗練されたデザインだが、どこか拘束具を連想させる。
添えられたカードには、殿下の筆跡で一言。
『常に着けていろ。外すな』
私は震える手でチョーカーを首に巻いた。 ピッタリと吸い付くようにフィットする。 まるで、首を絞められているような、あるいは守られているような、不思議な感覚。
(これは……所有の証。首輪ね)
私は鏡の中の、首輪をつけられた自分を見た。 能面の女に、黒い首輪。 完全に、怪しいペットか奴隷だ。
「……似合うわ」
私は諦め混じりに呟いた。 逃げ場はない。 私はこの城で、処刑皇子の「愛玩動物」として、笑うことも食べることも許されず、一生を終えるのね。
……でも、私は知らなかった。 そのチョーカーの宝石には、国宝級の「守護魔法」と「追跡魔法」が付与されていることを。 そして、殿下が徹夜でデザインを考え、「虫除け(他の男を近づけない結界)」を込めた、事実上の婚約指輪代わりであることを。
「(ふふ、『追跡魔法』付きだ。これでリリアナが城のどこにいても、俺はすぐに駆けつけられる……!)」
執務室で魔法の地図の上に光る点を見つめながら、殿下がニタニタと笑っていることなど、知る由もなかった。




