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2/13

その朝食、処刑前の晩餐につき

目が覚めると、そこは天蓋付きの巨大なベッドの上だった。


ふかふかの羽毛布団。 最高級のシルクのシーツ。 部屋には甘い香が焚かれ、窓は分厚いヴェルベットのカーテンで閉ざされている。


「……夢じゃ、ないのね」


私、リリアナ・シェフィールドは、昨夜の出来事を思い出して青ざめた。


婚約破棄。 そして、『処刑皇子』ヴァルダス殿下による拉致監禁。


殿下は私に「二度と笑うな」と命じ、顔を隠すヴェールを被せた。 つまりここは、私の牢獄。 この豪華すぎる部屋は、生かさず殺さず、私という「不気味な女」を社会から隔離するための鳥籠なのだ。


コンコン。


控えめなノックの音が響く。


「リリアナ様。朝食のご用意ができております」


メイドの声だ。 私は飛び起きた。 いけない。囚人とはいえ、王族の呼び出しを待たせるわけにはいかない。


私は慌てて身支度を整えた。 と言っても、着る服は用意されていた一着しかない。 露出が一切ない、修道女のような漆黒のドレス。 そして、顔を完全に覆う、分厚いレースのヴェール。


鏡を見る。 そこに映っていたのは、喪服を着た幽霊のようだった。


「……お似合いだわ、私には」


私は自嘲し、ヴェールを被った。 視界が薄暗くなる。 これなら、私の不気味な無表情も、誰にも見られずに済む。


私は震える足で、部屋を出た。



案内されたのは、王城のプライベートダイニングだった。


長いテーブルの向こう側に、彼が座っていた。 ヴァルダス殿下。 今朝も漆黒の軍服を着崩し、足を組んで書類に目を通している。 その姿は、魔王のように美しく、そして恐ろしかった。


「……来たか」


殿下が顔を上げ、私を見る。 赤い瞳が、ヴェール越しの私を射抜く。


「おはようございます、殿下……」


私はカーテシー(お辞儀)をした。 恐怖で膝がガクガク震えていたが、おかげで小刻みに揺れる独特の礼になった。


「座れ」


殿下が顎で椅子をしゃくる。 彼の真正面の席だ。近い。近すぎる。


私はおずおずと座った。 テーブルの上には、豪華な料理が並んでいる。 焼き立てのパン、新鮮なフルーツ、湯気を立てるスープ。 どれもこれも、庶民には一生縁のないような高級食材ばかりだ。


(こ、これは……まさか、『最後の晩餐』!?)


私は戦慄した。 処刑の前に、囚人に好きなものを食べさせるというあれだ。 つまり、今日が私の命日。


「どうした? 食わんのか?」


殿下の低い声が響く。


「い、いただきます……」


私は震える手でフォークを持とうとした。 だが、そこで気づく。


(……あれ? ヴェールを被ったままじゃ、食べられないわ)


当然だ。口元まで布で覆われているのだから。 食べるためには、ヴェールを捲り上げなければならない。 しかし、殿下の命令は絶対だ。 『顔を見せるな』『笑うな』。 もし私がヴェールを上げて、その下の顔が少しでも引きつっていたら? その瞬間に、首が飛ぶかもしれない。


どうしよう。 食べたいけれど、食べられない。 これは、「目の前にご馳走を置いて、飢えさせる」という新しい拷問なのかしら?


私が固まっていると、殿下が苛立ったように立ち上がった。


「チッ……気が利かんな」


ヒィッ! 舌打ちされた! やっぱり、食べるのが遅いと怒られるんだわ!


殿下はカツカツと足音を立てて、私の隣に来た。 そして、あろうことか私の椅子を強引に引き寄せた。


「貸せ」


殿下は私の手からフォークを奪い取った。 そして、パンケーキを一口大に切り分け、シロップをたっぷりと絡める。


え? 何をする気なの?


殿下はフォークを突き出し、私の口元――ヴェールの布のギリギリ手前まで持ってきた。


「口を開けろ」


「……は、はい?」


「聞こえんのか? あーん、だ」


あーん。 処刑皇子の口から、幼児語が飛び出した。 あまりの衝撃に、思考が停止する。


「ほら、早くしろ。冷めるだろうが」


殿下の顔が怖い。 殺意の波動に満ちている。 これは、「毒見」の強要だわ。きっとこのパンケーキには、遅効性の猛毒が……!


私は覚悟を決めた。 どうせ殺されるなら、殿下の手で殺されたい。 私はヴェールの裾をわずかに持ち上げ、口を開けた。


殿下が、フォークを差し込む。 甘いパンケーキが、口の中に広がる。


「……もぐもぐ」


美味しい。 悔しいけれど、今まで食べたどのパンケーキよりも美味しい。 私は涙目になりながら(無表情で)咀嚼した。


その時だ。 頭上から、殿下の荒い息遣いが聞こえてきた。


「ッ……ぐぅ……!」


見上げると、殿下が胸を押さえて苦悶の表情を浮かべている。 顔が赤い。 額に脂汗が滲んでいる。


(やっぱり! 毒が入っていたのね! その毒気を吸って、殿下まで具合が悪く……!)


「で、殿下!? 大丈夫ですか!?」


「……構うな。続けろ」


殿下は、震える手で次のフルーツを刺した。


「次はこれだ。……ほら、もっと口を大きく開けて。……そう、リスのように……」


殿下の様子がおかしい。 私に餌を与えるたびに、「くっ」「はぁ」「死ぬ」と呻き声を上げている。 まるで、何かの呪いと戦っているようだ。


(私が……私が不気味な顔で食べているから、気分が悪くなられたんだわ……!)


私は申し訳なさでいっぱいになった。 ごめんなさい、殿下。 不気味な女が、目の前でモグモグしていてごめんなさい。


だが、私は知らなかった。 この時、ヴァルダス殿下の脳内では、未曾有の大災害が起きていたことを。



(――ヴァルダス視点――)


俺は、死にかけていた。 毒ではない。 「尊さ」という名の致死毒によってだ。


目の前のリリアナを見てくれ。 ヴェールを被り、小さくなって座っている姿。 まるで、雨に濡れた黒猫のようだ。


俺は、彼女が食事に困っていることに気づき、咄嗟に介助(餌付け)を申し出た。 ヴェールを全部取らせるのは危険だ。 そんなことをすれば、彼女の全顔フルフェイスが露わになり、俺の心臓が爆発してしまう。 だから、口元だけをチラ見せさせる「ヴェール越しあーん」という高等テクニックを選択したのだが……。


これが、間違いだった。


(……可愛い。可愛すぎるだろ、チクショウ!)


ヴェールの隙間から覗く、桜色の唇。 俺が差し出したパンケーキを、ハムッと小さくかじる仕草。 そして、リスのように頬を膨らませて咀嚼する動き。


破壊力が桁違いだ。 普段、鉄仮面で感情を隠している分、この無防備な「食事シーン」のギャップが俺の理性を削り取っていく。


「(いかん……抱きしめたい。今すぐこの華奢な体を抱きすくめて、頭のてっぺんから爪先まで吸い尽くしたい)」


俺の奥底で、ドス黒い独占欲が暴れ回る。 もし、この姿を他の男が見たら? この無防備な唇が、他の男の前で動いていたら?


(殺す。全員殺す。この国の男という男の視神経を焼き切ってやる)


俺の手が震える。 嫉妬と興奮と、それを抑え込む理性との戦いで、全身から冷や汗が噴き出る。


「次はこれだ。……ほら、もっと口を大きく開けて。……そう、リスのように……」


俺はうわ言のように呟きながら、フルーツを運んだ。 リリアナが、コクコクと頷いて従う。 その従順さが、また俺を狂わせる。


「(俺の言うことを聞いている……俺の手から餌を食べている……完全に俺の『所有物』だ……!)」


ゾクゾクするような背徳感。 俺は、限界だった。 これ以上続けては、俺が獣になって彼女を襲ってしまう。


ガタンッ!


俺は椅子を蹴倒して立ち上がった。


「も、もういい! 十分だ!」


「えっ……?」


リリアナがビクッとする。 不安そうに俺を見上げる、ヴェール越しの瞳。


「こ、これ以上食わせると……太るぞ!」


俺は精一杯の虚勢を張った。 嘘だ。もっと食わせたい。 なんなら一生、俺の膝の上で暮らしてほしい。 だが、今は離れなければ。俺の理性が焼き切れる前に。


「いいか、リリアナ。お前は部屋に戻れ。そして……二度と、俺以外の前で物を食うな」


「え?」


「食事姿を見せるのは、俺の前だけだ。わかったな!?」


俺は叫ぶように命じて、ダイニングから逃げ出した。 廊下に出た瞬間、壁に手をついて荒い息を吐く。


「……はぁ、はぁ、危なかった……」


俺は顔を覆った。 鼻血が出そうだった。


「だめだ、耐性がなさすぎる。もっと訓練が必要だ……彼女の『可愛さ』に耐えうる鋼の精神力を身につけねば……!」


俺は、廊下ですれ違った近衛兵に八つ当たり気味に怒鳴った。


「おい! 今日の演習メニューを三倍にしろ! 俺も参加する! 煩悩を……いや、殺気を祓う!」


「は、はいッ!?」


近衛兵が怯える中、俺は決意した。 リリアナを守るためにも(俺の心臓のために)、俺自身がもっと強くならねばならないと。



(――リリアナ視点――)


殿下は、怒って出て行ってしまわれた。


「……太る、か」


私は自分のお腹をさすった。 そんなに太って見えたのかしら。 それとも、私の食べ方が汚くて、見るに堪えなかったのかしら。


「『俺以外の前で物を食うな』……」


殿下の命令を反芻する。 それはつまり、「人前で食事をするな。みっともないから」という意味ね。 食事という基本的な行為すら、制限されてしまった。


「やっぱり、私は『囚人』なんだわ……」


私はとぼとぼと部屋に戻った。 部屋の隅にある鏡台を見る。 そこには、小さな箱が置かれていた。


「あら? これは……」


黒いベルベットの小箱。 開けてみると、中には美しい首輪――いいえ、チョーカーが入っていた。 漆黒の革ベルトに、真紅の宝石が埋め込まれている。 洗練されたデザインだが、どこか拘束具を連想させる。


添えられたカードには、殿下の筆跡で一言。


『常に着けていろ。外すな』


私は震える手でチョーカーを首に巻いた。 ピッタリと吸い付くようにフィットする。 まるで、首を絞められているような、あるいは守られているような、不思議な感覚。


(これは……所有のタグ。首輪ね)


私は鏡の中の、首輪をつけられた自分を見た。 能面の女に、黒い首輪。 完全に、怪しいペットか奴隷だ。


「……似合うわ」


私は諦め混じりに呟いた。 逃げ場はない。 私はこの城で、処刑皇子の「愛玩動物ペット」として、笑うことも食べることも許されず、一生を終えるのね。


……でも、私は知らなかった。 そのチョーカーの宝石には、国宝級の「守護魔法」と「追跡魔法」が付与されていることを。 そして、殿下が徹夜でデザインを考え、「虫除け(他の男を近づけない結界)」を込めた、事実上の婚約指輪代わりであることを。


「(ふふ、『追跡魔法』付きだ。これでリリアナが城のどこにいても、俺はすぐに駆けつけられる……!)」


執務室で魔法の地図の上に光る点を見つめながら、殿下がニタニタと笑っていることなど、知る由もなかった。

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