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その鉄仮面、誤解につき

鏡よ、鏡。世界で一番、不器用な女は誰?


私は鏡の中の自分に向かって、問いかける。 そこに映っていたのは、血の気がなく、蒼白で、眉一つ動かない「能面」のような女だった。


リリアナ・シェフィールド。伯爵家の長女。20歳。 それが私だ。


私は、自分の頬をペチペチと叩いた。


「だ、大丈夫よリリアナ……今日こそは。今日こそは、ギルバート様に『最高の笑顔』をお見せするのよ……!」


私は気合を入れた。 口角を上げる。 頬の筋肉を限界まで収縮させる。 目元を緩め、慈愛に満ちた光を宿す――つもりで、眼輪筋に力を込める。


ギギギギギ……。


どこからか、錆びついた蝶番のような音が聞こえた気がした。 鏡の中の私が、顔を歪める。


ひきつった口元。 見開かれた眼球。 固定された視線。


それは笑顔ではなかった。 獲物を前にした、深海魚の威嚇だった。


「……はぁ」


私はため息をついて、表情を戻した(無表情になった)。


どうしてこうなのだろう。 私はただ、愛する婚約者、ギルバート様に微笑みかけたいだけなのに。


私の表情筋は、極度の緊張と「失敗したくない」という強すぎる思い込みによって、コンクリートのように硬直してしまうのだ。


世間では、私のことをこう呼ぶ。


『鉄仮面の令嬢』 『感情を持たぬ氷の女』 『笑わない死神』


ひどいあだ名だ。 私の心の中は、いつだって普通の女の子と同じように、ときめいたり、悲しんだりしているというのに。


「……でも、落ち込んでいる暇はないわ。今日はお茶会なのだから」


私は気を取り直して、身支度を整えた。 笑顔が作れないのなら、せめて完璧な振る舞いで彼を支えよう。 それが、不器用な私にできる、精一杯の愛情表現なのだから。



私の婚約者、ギルバート・ランバート子爵令息。 彼は、金髪碧眼の美しい男性だ。少しばかり見栄っ張りなところがあるけれど、そんなところも人間らしくて愛おしいと思っていた。


午後のお茶会。 ランバート家の庭園で、私は彼に手作りのクッキーを差し出した。


「ギルバート様。よろしければ、クッキーを焼いてきましたので……」


私はバスケットを開けた。 中には、形の整ったプレーンクッキーが入っている。 味には自信がある。何度も練習したから。


「ど、どうも……」


ギルバート様は、私の顔を見て、ぎこちなくクッキーをつまんだ。


「いただきます……」


サクッ。 彼はクッキーを一口食べた。


「いかが……ですか?」


私は期待と不安で胸がいっぱいになった。 美味しいと言ってくれるかしら。 私の手作りを喜んでくれるかしら。


ドキドキする心臓を抑え込み、私は彼の反応を待った。 その結果――


「…………(凝視)」


私は瞬き一つせず、瞳孔を開き、彼の一挙手一投足を見逃さないよう、真顔で見つめ続けることになってしまった。


ギルバート様が、クッキーを飲み込み、引きつった笑みを浮かべる。


「あ、ああ……美味しい、よ。うん」


「(よかった! 喜んでいただけたわ!)」


私の心はパァッと明るくなった。 嬉しい。本当に嬉しい。 だから、精一杯の「喜びの表情」で応えようとした。


「……(ニチャア)」


私の口角が、わずかに、不自然に歪んだ。


「ヒィッ!?」


ギルバート様が、短く悲鳴を上げてカップを落とした。 ガシャーン!


「ギルバート様!?」


「い、いや、なんでもない! 手が滑っただけだ!」


彼は真っ青な顔で、私から視線を逸らした。 どうしたのだろう。 体調が悪いのかしら。


「大丈夫ですか? お顔色が優れませんわ」


私は心配して、彼の顔を覗き込んだ。 至近距離で。 無表情で。


「く、来るな! い、いや、なんでもない……ちょっと風に当たりたいだけだ!」


ギルバート様は逃げるように席を立ってしまった。


私は一人、残された。 散らばったティーカップの破片と、手作りのクッキー。


「……また、失敗しちゃったのかな」


私は鏡を取り出し、自分の顔を見た。 そこには、悲しみに暮れる少女ではなく、感情の抜け落ちた人形が映っていた。


泣きたいのに、涙すら出ない。 私の顔は、どうしてこんなに冷たいのだろう。



数日後。 私はギルバート様の屋敷を訪ねていた。 先日のお詫びに、新しい茶葉を届けようと思ったのだ。


応接間に通されるのを待っていると、半開きのドアの向こうから、話し声が聞こえてきた。 ギルバート様の声だ。 誰か、友人を招いているらしい。


「――でさぁ、マジで勘弁してほしいぜ」


「大変だな、お前も。伯爵家の娘だからって、あんなのと婚約させられて」


「ああ、全くだ。見ただろ? あの『鉄仮面』を」


え? 私の足が止まる。


「とにかく笑わないんだよ、あいつ! 何をしてやっても、何を言っても、ずーっと無表情! 人形みたいで気味が悪いったらありゃしねぇ!」


心臓が、早鐘を打つのを止めた。 冷たいものが、背筋を駆け上がる。


「こないだもさ、手作りクッキーを持ってきたんだが……あいつ、俺が食ってる間、一度も瞬きせずに凝視してくるんだぜ? 『まずいと言ったら殺す』とでも言いたげな目で!」


「うわぁ、ホラーだな」


「だろ? 味なんてわからねぇよ。毒が入ってるんじゃないかと疑っちまう」


違う。 違うの。 私はただ、貴方の反応が気になっただけで……。


「やっぱり女は愛想だよな。ニコニコ笑って、男を癒やしてくれる可愛い子じゃなきゃ」


「じゃあ、婚約破棄するのか?」


「当然だ! あんな『不気味な女』、こっちから願い下げだね! 近いうちに夜会がある。そこで大勢の前で言い渡してやるさ。せいぜい恥をかかせて、二度と社交界に顔を出せないようにしてやる」


笑い声が、遠ざかっていく。


私は、持っていた茶葉の缶を胸に抱きしめた。 指先が震える。


不気味。 ホラー。 毒。


それが、私の精一杯の愛に対する答えだった。


「……っ、うぅ……」


私はその場に立ち尽くした。 喉の奥から、嗚咽が漏れる。


でも、やっぱり顔は動かなかった。 悲しいのに。 悔しいのに。 私の顔は、能面のように張り付いたまま、一滴の涙も流してくれなかった。



そして、運命の夜会の日。


王城のダンスホールは、華やかなドレスと宝石の輝きに満ちていた。 私は、壁の花として佇んでいた。 誰とも話したくない。 誰にも、この「不気味な顔」を見られたくない。


そう思っていたのに。


「リリアナ・シェフィールド!」


大声で名前を呼ばれた。 ホールの中央に、ギルバート様が立っていた。 その横には、ピンク色のドレスを着た、可愛らしい女性が寄り添っている。 男爵令嬢のミリアさんだ。 彼女はいつもニコニコしていて、愛想が良いことで評判だ。 私とは、正反対の女性。


「ギルバート様……?」


私はおずおずと前に進み出た。 周囲の視線が突き刺さる。


「貴様との婚約は、今この時をもって破棄する!」


ギルバート様が高らかに宣言した。 会場がざわめく。


「理由はわかっているな? 貴様のその陰気な性格と、不気味な無表情が、我がランバート家の品位を損ねるからだ!」


「そ、そんな……」


「見ろ、このミリアを! 彼女の笑顔は太陽のように明るい! 貴様のような『月の裏側』みたいな女とは大違いだ!」


ミリアさんが、勝ち誇ったように私を見て、クスリと笑った。


「あらあら、可哀想なリリアナ様。でも仕方ありませんわ。殿方は皆様、癒やしを求めていらっしゃるのですもの。貴女のような氷の像では、ギルバート様の心は温められませんわ」


あざ笑う声。 ヒソヒソと噂する声。


『やっぱり捨てられたか』 『あの顔じゃあねぇ』 『笑わない女なんて、女としての価値がないよな』


言葉のナイフが、私の心を切り裂いていく。 私は……私は、ただ……。


「……申し訳、ありません」


私は頭を下げた。 反論なんてできなかった。 だって、事実だもの。 私は笑えない。 彼の望むような、可愛い女にはなれなかった。


「ふん、しおらしいフリをしおって。どうせ内心では俺を呪っているんだろう?」


ギルバート様が冷たく言い放つ。


「消えろ、リリアナ。二度と俺の前にその不気味な顔を見せるな!」


「……はい」


私は踵を返した。 逃げ出したい。 消えてしまいたい。


私が会場の出口に向かって歩き出した、その時だった。


コツ、コツ、コツ……。


重々しい軍靴の音が、ホールの入口から響いてきた。


空気が、凍りつく。 私に向けられていた嘲笑の空気とは違う。 もっと物理的で、絶対的な「恐怖」の気配。


扉が開く。 現れたのは、漆黒の軍服を纏った、長身の男だった。


夜の闇を溶かしたような黒髪。 血のように赤い瞳。 そして、氷の刃のような冷徹な美貌。


帝国第二皇子、ヴァルダス殿下。


戦場では自ら剣を振るい、敵国の将軍を一人残らず斬首したことから、『処刑皇子』と呼ばれ恐れられている方だ。


「……騒がしいな」


ヴァルダス殿下の一言で、数百人の貴族たちが息を呑み、静まり返った。


「ゴミの分別か?」


殿下の視線が、ギルバート様に向けられる。 ギルバート様は顔面蒼白になり、震え上がった。


「で、ででで、殿下! め、滅相もございません! こ、これは、その……不用品の処分をしておりまして……」


「不用品?」


「は、はい! そこの、リリアナという女です! 愛想がなく、不気味で、何の役にも立たない女でして……」


殿下の赤い瞳が、私を捉えた。


ヒィッ! 私は心の中で悲鳴を上げた。


殺される。 不敬罪で、この場で処刑されるんだわ。 『不気味な顔をして、皇族の視界を汚した罪』とかで!


私はガタガタと震えながら、必死に顔を伏せた。 表情筋は完全に硬直し、おそらく今の私は「死を覚悟した武士」のような形相になっているはずだ。


殿下が、私の前に歩いてくる。 コツ、コツ、コツ。 死神の足音だ。


私の目の前で、足音が止まった。


「……おもてを上げろ」


低く、絶対的な命令。 私はギギギと首を上げた。


殿下の顔が、すぐ目の前にあった。 美しい。 けれど、怖い。 その瞳には、一切の感情が宿っていないように見えた。


殿下は、私の顔をじっと見つめた。 品定めをするように。 処刑台に乗せる価値があるかどうかを、見極めるように。


(ああ……終わった。さようなら、私のお先真っ暗な人生……)


私は目を閉じて、断罪の言葉を待った。


だが。


「……ほう」


殿下の口から漏れたのは、感嘆のような吐息だった。


「可愛げがない、と言ったか?」


殿下がギルバート様の方を向く。


「は、はい! その通りでございます! 人形のように冷たく、男を立てることも知らぬ愚女で……」


「貴様の目は節穴か? それとも腐っているのか?」


「え?」


殿下の声の温度が、氷点下まで下がった。


「見ろ、この凛とした佇まいを。愚かな男共に媚びず、孤高を貫くその瞳を。これこそが『至高の美』ではないか」


「へ……?」


ギルバート様が間の抜けた声を上げる。 私も、ポカンとしてしまった。 い、今、なんて?


「それに……」


殿下が再び私に向き直る。 その顔が、近づく。 殿下の指が、私の顎に触れた。


「俺は知っているぞ。その鉄仮面の下に……どのような『真実』が隠されているかをな」


え? どういうこと? 殿下は、私の何を知っているというの?


殿下の唇が、嗜虐的な形に歪んだ。 ニヤリと、獲物を見つけた猛獣のような笑み。


「いいだろう。その『不用品』、俺が貰い受けよう」


「――は?」


会場中の全員が、声を揃えて固まった。


「来い、リリアナ。俺の城へ」


殿下は私の手首を掴んだ。 強く、決して逃さないという意志を込めて。


「たっぷり『教育』してやる」


教育。 その言葉の響きに、私は戦慄した。


処刑皇子の教育。 それはつまり、拷問? 尋問? それとも、もっと恐ろしい……人体実験!?


「あ、あの、殿下……わ、私は……」


「拒否権はない」


殿下は私の言葉を遮った。


「お前は今から、俺の『所有物』だ。誰の目にも触れさせん」


殿下は黒いマントを翻し、私を包み込んだ。 まるで、世界から私を隠すように。


「連れて行け」


殿下の命令で、近衛兵たちが私の周りを囲む。 私はギルバート様やミリアさんが呆然と見送る中、殿下に引きずられるようにして連れ去られた。


連れて行かれた先は、王城の奥深くにある、皇子宮。 その中でも最も警備が厳重な、殿下の私室だった。


「入れ」


殿下に押し込まれる。 部屋は広かったが、窓には分厚いカーテンが引かれ、昼間だというのに薄暗かった。


ガチャリ。 背後で、鍵がかけられる音がした。


監禁だ。 やっぱり、私はここで殺されるんだわ。


私は部屋の隅で震えていた。 殿下が、ゆっくりと近づいてくる。 壁に追い詰められる。


ドンッ!


殿下の手が、私の顔の横の壁を叩いた。 壁ドン。 しかも、壁にヒビが入っている。物理的に。


「ひぃっ……!」


私は小さく悲鳴を上げた。 殿下の顔が、目の前にある。 その瞳は、爛々と燃えていた。殺意か、それとも狂気か。


「いいか、よく聞けリリアナ」


殿下の低い声が、鼓膜を震わせる。


「今後、俺の前以外で……いや、俺の前であっても!」


殿下の指が、私の唇に触れる。 そして、信じられない命令を下した。


「二度と、笑うな」


「――ッ!?」


笑うな。 それはつまり、私の笑顔が不快だから? ギルバート様と同じように、私の笑顔が不気味で、見たくもないから?


「……わかったな?」


殿下の瞳が、私を射抜く。 逆らえば殺す。そう言っているようだった。


私は、絶望した。 やっぱり、私は「笑わない人形」でいるしかないんだ。 笑顔を見せることすら、許されないんだ。


「……はい、殿下。謹んで、命令に従います」


私は声を絞り出した。 表情は、今まで以上に硬く、冷たく凍りついた。


「よろしい」


殿下は満足げに頷いた。 そして、どこからか取り出した分厚いヴェールを、私に被せた。 視界が遮られる。


「そのまま、じっとしていろ。……誰にも見せるなよ」


殿下はそう言い残して、部屋を出て行った。


残された私は、ヴェールの中で膝を抱えた。 これからどうなるんだろう。 一生、このヴェールの中で、笑うことも許されずに生きていくのかしら。


怖い。 寂しい。


……でも、私は知らなかった。


部屋を出た瞬間、廊下でヴァルダス殿下が膝から崩れ落ち、顔を覆って悶絶していたことを。


「(……危なかった。あの無防備な顔を直視していたら、理性が消し飛んで押し倒してしまうところだった……!)」


殿下は、真っ赤な顔で荒い息を吐いていた。


「(あいつの笑顔は……危険すぎる。あれを他の男に見せたら、俺は嫉妬でそいつの眼球を抉り出し、国ごと焼き払ってしまうだろう)」


殿下の脳裏に浮かぶのは、数日前、裏庭で野良猫に微笑みかけていた私の姿。 あの一瞬の笑顔を見た瞬間、殿下の脳は焼かれ、心臓は鷲掴みにされ、世界がどうでもよくなるほどの衝撃を受けたのだ。


「(だから、封印するしかない。彼女の笑顔は、俺だけのものだ。いや、俺ですら直視できない『劇薬』だ……!)」


殿下は立ち上がり、狂気と愛が入り混じった瞳で誓った。


「(守ってみせる。あの尊い笑顔を、世界の害虫(男ども)から……!)」


これは、極度の緊張で笑えない「鉄仮面令嬢」と、彼女の笑顔を崇拝しすぎるあまり「笑顔禁止令」を敷いた「限界オタク皇子」による、殺意と好意が紙一重な、すれ違い溺愛生活の始まりだった。

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