2.馬車
薄暗い視界が覚めていく。眠気は無い。大して元気でもない。ただそこにあったのは霧の中に揺れる馬車と、それに乗っている俺と他の四人だった。隣に座っているシルバーな帽子だか、いや兜か、それを被っている兵士と、同じくそれらしい運転手を含めれば六人か。
「おい、やっと目が覚めたのか。こんな状況なのによくもまぁ、うぬうぬと眠ってられたな。どうだ、いい夢が見れたのか?」
そう言ってきたのは向かいにいたらしい、坊主に青髭、高い鼻、みすぼらしい布切れを着た、痩せ細のおっさんだった。身長は俺より七八センチ大きいくらい、歳は十歳くらい違いそうなおっさんだ。顔色はさほど良くない、というか泥がついていて汚いし、どこか人相が悪い。
特に目だ。目つきに暴力と狂気を突きつけてくる――蛇のような獰猛で鋭い目つきだ。
皮肉交じりに俺を笑っていた。あと手錠をしていた。まさかこの人、極悪人なんじゃないか!
「てか、息臭さっ!!」
「なんだお前!」
男は嘘みたいにパッと怒り心頭、顔が赤くなった。それどころか俺に殴りかかってきた、加減なく手錠の固い部分を俺に振り下ろしてきた。
俺は怯んで、とにかく丸くなった。こんな感情的な人間が存在する世界が怖い。そうブルブルと震えながら丸くなっていた。ところが両拳はやってこなかった。よく見てみれば兵士が男の首根っこを掴んで押さえていた。
「やめんか!」
「なんだこの野郎……こいつが悪いだろ!」
「うるさい! いいから座れ、罪人が!」
「なんだとてめえ!」
「座らなければ、自分がお前を座らせるだけだ」
兵士は空いた片手を腰にかかった剣を握った。逆らうのならば今すぐに剣を抜いて、斬りつけるぞという気迫だ。
これには男も冷静になったようだ。首にあった兵士の手を振り払って速やかに座った。
「こいつに年上への気遣いってのを教えてやろうとしただけだろうが。クソ」
なんて危険な男なんだ。つま先がぶつかるくらい狭い馬車で、俺は向かいの機嫌の悪い男を警戒していた。またあまり見て刺激しないようにもした。
その視界の隅に自分の膝と足元が映った。長ったらしい制服の下と、ぶかぶかの革靴だ。それと――膝に置いてある自分の両拳、手錠に繋がれている自分を。
「お前もだ。少年。あまり騒ぐとあとで罪が重くなるぞ。静かに座っていろ。また眠るくらいならかまわん」
兵士の兜の下にある暗闇の目は無慈悲な看守のそれだった。お前は罪人だぞと突きつけられた。
――罪人。記憶が錯綜する。状況を理解できず、どうしてこうなったのかを思い出してみれば、少女を庇って死んだことを思い出した。しかしならなぜ生きているのか、というか俺は死んだのか?
その事実か嘘か、矛盾かそれとも人間作用か、ともかく俺は気分が悪くなった。そうなって嗚咽した。
「うわっ、やめろ! 吐くな! 吐くな!」
男がバタバタする。そのせいで馬車が変に揺れるも、それがまた俺を酔わせた。車酔い以上にその振動が男の存在、つまり俺の死とこの現状を証明して止まないからだ。
俺は記憶だけでなく、感情的にも、いや感覚でも混乱していた。少女の代わりに死んだ。俺が死んで少女は生きた。ならそれは善行のはずだ。なのにどうして俺は悪行の鳴りやまない馬車にいるんだ――理不尽! 不合理! 平常心を保ってられなかった。
そうしている間に運転手の兵士が「どうした? 止めるか?」と荷台の兵士に伺った。「いいや、時間の無駄だろう。吐くなら吐かせるし、暴れるなら大人しくさせるだけだ」と荷台の兵士は緊張感を露わにした。その意図はどうやら俺が思っているよりも残虐なようだ。その甲冑の硬い肘で俺を首の上から押さえつけてきた。
「ええい! 静かにしろ、罪人が!」
そう強情にされても俺の心は追いつかない。冷静ではなかった。
次第に兵士も気づいたのだろうか。こいつはもう無駄だと。ならば――斬ってしまおう。兵士は決めるとすぐに剣を俺に見せつけた。
明確な殺意。いや、その中身は使命感だろうか。正当なる殺傷。だからこそ揺るがない殺意が俺に向けられた、輝いた。ただそれは俺を今苦しめている理不尽と遜色ない、単なる都合だ。それが重なれば俺はさらに不安になるだけだった。それもそうすれば殺されるとわかっても。
そのとき、
「やめな! みっともないよ。そう剣ばかり見せつけちゃ!」
兵士の暴力を止めたのは同じく馬車に乗っていた女の声。強い女の声だった。
その容姿は霧の中でも霞まず美しい。肌は白く、髪は真っ黒でところどころ折れていて、肩にかかるくらいに長い。海外のモデルみたいにスラリとした体格で、胸元が強調された薄いドレスは色らしく大人っぽい。そして細い手とは似合わない頑丈な手錠をしていた。身長は俺と同じくらいで、年齢は五歳以上は年上だろうか。その強い顔つき、気高さの中にそれくらいの雰囲気がある。
彼女の美しさは凛々しさの中にあった。女性なのに男勝りでいることへの憧れ。心臓に毛が生えているであろう気高さ。しかしその唇は、そこから出てくる誇りとは対照的にか弱そうだった。まるで少女の、透き通る桃色が潤う唇だった。
女の声に兵士はむしろ逆上しそうになって女に殴りかかろうとしたものの、何一つ物怖じしない女の態度に怖気ついたのか、頼りないものをしまって俺の隣に座った。ぶつぶつと何か言っているものの、それもまた頼りない。
そう観察する俺は落ち着きを取り戻していた。さっきの女の声、それと美貌に諸々あった不安が消し飛ばされていた。恋ではない。恋にしては生命的すぎた。
しかし、ないはずなのだが、しばらく女を眺めてしまっているうちに、女が俺に気づいて優しく笑ってくると、よくわからなくなってきた。さっきまであった動悸が今度は色づいて心地よくなって戻ってきた。
「なぁに、そんなに熱烈に見てきて。あんなに気分が悪そうだったのに、今は恋? 忙しい坊やだね」
「そ、そんなんじゃないです!」
「顔に出てるわよ、坊や。心を抱くのは勝手だけれど、兵士なんかにしょんべん漏らすような子は構いきれないわ」
女に言われてびっくりして、股間を確認した………………………漏らしてなかった。良かった。
ふぅっと、安心したところを女はまた優雅に笑った。どこか恥ずかしい気分になった。
女は至って余裕そうだった。俺が安心したのは女の美しさ以上に、その強さだろう。この人がいれば大丈夫かもしれないという安心感があった。とはいえ、その隣で欠伸をするあの男がいるので、油断はできないが。
俺はふたたび馬車を見回した。
前にはさっきの気性の荒い男、うんざりしている。その左隣りには馬車の進む霧の向こうをつまらなそうに眺める美しい女。右端には冷めた顔をしているキノコヘアの少年。俺と同じくらいの背丈、体格、年齢で、服装は質素な平民の恰好。平民の恰好というのは薄いシャツみたいな上着の口が尻くらいまで下がった、それを腰のベルトで止めたファッション。ズボンは変に弛んでいて、靴は毛皮のブーツといったところだ。あと目が青く澄んでいた。心が浄化されそうな綺麗な目だ。
他二人、あとは「あのばいため」と女にやられたのをまだ根に持っていそうな右隣の兵士。それと左のオドオドしているМ字ハゲのおっさんだ。おっさんの服装はザ・捕虜って感じだ。男と同じ、ボロボロの格好だ。かなり痩せている。異様におでこが広い気がする。
俺を含め、手錠を付けているのが五人。それを監視する兵士が二人。どうにもここは捕虜を輸送する馬車の上で、俺もその捕虜の一人のようだ。どうしてこうなったんだ――は、考えるのをやめよう。
「小僧、この馬車がどこに向かうが知っているか?」
オドオドしているおっさんと目が合った。おっさんのそれは酷く怯え、頬はもちろん目も埋没するほど、痩せこけている。
「どこに?」
「さぁ、どこだろうな? どこだろうなァアアアアアアア!!」
おっさんは発狂した。沈んでいた目玉をかっぴらいて、口を裂けんばかりに開けて笑い叫び出した。足を激しくバタバタさせて、手錠の繋がれた手を乱暴に動かすからその手首から血が垂れてきていた。
兵士がまた出てきた。
「黙れ! 黙らんと喉を掻っ切るぞ!」
「お、おい! やめてくれ! やめてくれぇええ!!」
「だから黙れと言っている!」
「待ってくれ! 違うんだ! 違うんだああああ!」
「ええい! わからないのなら!!」
「俺はなにもしていない! 馬なんか盗んでない!!」
「それを決めるのはここじゃない!」
「止めてくれ! 下ろしてくれ!」
兵士の気迫に説得力が無くなってきているのは、さきほどの女に怯んだという事実と、それよりも兵士よりも声の大きい、ある意味で気迫のあるおっさんのせいに違いない。兵士も焦って、剣のお尻の部分で、おっさんを叩くだけだった。そうしてもむしろおっさんは元気になってしまっているが。
慌ただしい馬車のせいか霧の薄い白も揺らいできたのだろうか。だんだんと周りの景色がわかってくる。ごつごつした岩肌が右、左は落ちたら緑の森に沈む。ここは崖だった。馬車は霧の濃い山道の崖を突っ走っていた。
「ん? なんだろう、あれは?」
キノコヘアの少年が馬車の前方を指差した。霧のあるばかりで何もわからない。少年は「気のせいだったかな」と差すのをやめた――が、そのときだった。天地を割るような金色の一線が空より舞い降りた。それとともに起こった凄まじい震動のせいで、馬車は激しく転倒した。俺は宙へ浮かび、道路に体を強打した。
痛い。今度はちゃんと痛い。体がぐちゃぐちゃになったと、激痛を伴ってはっきりと伝わってくる。悲鳴が下から木霊してくる。何人かは崖の下に落ちたらしい。
霧に溶解していく意識と視界には死んで太い首と横腹をびくびくしている馬、伏せた車輪、それからある影が映った。灰だか黒色だかわからないフードを被った人型。体格はどちらかというと細身というくらい、胸部は出ていないから男だろう、身長は俺より二三センチ高い。そしてその手には返しがついた細い剣、矢のような剣を持っていた。奇妙な剣だった。
俺はその男に助けを求めて手を伸ばそうとしたのだが、すでに体はその力もない。俺はただ佇むフードの影を意識が途切れるまで見ていた。何の意図も無い。痛覚もだんだんと薄れ、気絶していくのがわかっていた。そうなると思考はまとまらないものだ。俺はこのとき、何も思ってなどいなかった。しいてあるのであれば些細な無情感だけだ。倒れた馬と俺に何ら違いはなかった。
――そういう悪夢をたびたび思い出す。
「またこの夢か」
もう一つ感情があった。夢の中でそれが夢だと気づいたときに起こった、うんざりとした気持ちだ。それを抱いた途端、この夢はよくさめる。
性格の悪いババアの肌の色みたいにボロボロな木の板が並ぶ天井がお出迎えだ。薄汚れた窓からはそれこそ霧みたいな白い朝日が射して、かび臭い床を見せてくる。
「……働くか」
今にも崩れそうな家の床を踏んで俺は外に出た。




