第9話 大河夏希
大河夏希が言った通り、俺の斜め後ろにあいつの席はあった。
しかし、あの日と翌日は学園に姿を見せなかった。
おそらく思っていたより足首の状態がよくなかったのだろう。
無理をしなかったのは何よりだ。
「おはよう!」
上級生が話していた当日の朝、大河の声が教室に響いた。
こんなにも元気な声で挨拶していたのか——今まで全然気づかなかった。
というより、俺自身気にも留めていなかっただけなのだろう。
そしてこの声は俺に向けられたものじゃない。
「ま、そりゃそうだな」
二日も休んでいた大河を心配するように女子生徒が彼女を囲み、俺の席からじゃ大河が見えなくなった。
ちょっと口は悪いが慕われているのはよくわかる。
足首の具合が気になるが、突然尋ねたら周りの連中もびっくりするだろうし様子見でいいか。
自分の席に着こうとしている大河の歩き方は普通に見えるが、それでもほんの少しだけかばっているように感じる。
おそらくまだテーピングはしている状態だろう。
大体これ以上俺が心配する話でもないんだが。
「まさかとは思うが、試合しないよなぁ……」
それだけがどうしても気になる。
あの捻挫で試合に出て勝てるとは思えない。
だが、棄権したとしてあの上級生は納得するだろうか?
俺ならしないに全力ベットするね。
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放課後になると教室内が慌ただしくなるのはどこの学校でもよく見る光景だと思う。
それはこのクラスも例外ではなく、帰り支度をしている間に半分くらいの者が教室から姿を消してしまうのだから、凄いとしか言いようがない。
「あれ? 大河どこいったの? もしかして部活?」
「二日も休んでて体調万全じゃないのに頑張るね」
「そういえば、今日は選考戦だって言ってたよ」
多くの学校では部活動が半強制のようになっているのに比べ、この古音呼学園はかなり自由な印象だ。
その割にそれぞれの部活が結果を残しているというのは、それだけ指導者が優秀だったり才能豊富な生徒を勧誘することに成功しているということだろう。
そういう事情もあって、選考戦でそれなりの勝負をしないといけないのは理解できる。
しかしそれが無理をしていい理由にはならない。
「ああいう怪我は最初が肝心だからな。無茶をすると予後が悪くなったりするしな」
嫌な予感を抱きながら体育館へ向かうと、大勢のギャラリーが体育館の二階に集まり、一階では学年別に分かれた部員が激しいラリーを見守っていた。
中央では例の上級生と大河が既に試合をやっている最中で、スコアボードには見るも無惨な数字が並んでいる。
「なんだ、全中に出てたらしいけど大したことないじゃん」
対戦相手の上級生が吐き捨てるように言い放つ。
肝心の大河は足をかばっているのだろう、大量の汗をかきながらもまだ諦めている様子はない。
こうなるのは大河本人もわかっていたはずなのに、どうして試合を受けたのか。
捻挫というハンデを負ってもそれなりの試合ができると思っていたのだとしたら、それは驕りでしかない。
あの性格からして、そんな驕りでやったわけじゃないだろうが。
「大河、わざわざ捻挫してる時にやる必要はないだろ。後日治ったときにやれば負けることはないんだから」
怪我を隠しているとはいえ、あの先輩も異変に気づかないはずはなく、だからこそこの聴衆の前で一方的に打ち負かしてあのセリフは聞き捨てならない。
手を止めさせるには、こちらの挑発に乗ってもらうほかないだろう。
「ちょっとあんた、部外者のくせにどういうつもり? 仮に怪我をしていたとしても、それは大河本人の管理責任でしょ。あと万全なら私に負けることはないってナメてんの?」
先輩の矛先が俺に向けられ、聴衆の視線もこちらへ向けられた。
作戦通りとはいえ、ちょっと人数が多すぎるな……。
それでも途中でやめるわけにはいかない。
この先輩と大河のスコアは十一対四で今の大河でもポイントは稼げている。
だったらどの程度の動きかはおおよそ予想がつく。
「事実を言って何が悪いんですか? バドミントンをやったことがない俺でも先輩になら勝てそうだったんで」
半分本気、半分は希望的観測でしかない。
大河を抱き上げた時の筋肉の質は張りとしなやかさがあってかなり上質なものだった。
それに比べ、目の前の先輩の足の筋肉は走り込んでおらず、量、質ともに大河よりも悪いのは触らなくてもわかる。
「もういいわ。大河、続きは来週にしてあげる。その代わり、今からこのお馬鹿さんの相手をすることにしたから。審判、ワンゲームだけならいいよね?」
審判をやっているのは三年のようで、暫く数人で話し合いながら観衆の反応を確かめたのか、その申し出を受け入れた。
「こっちは準備ができたわよ。まさかあそこまで大口叩いておいて逃げるわけないよね? 女の私が相手をするんだから、その時点で既にあんたのほうが有利なのよ」
「まあド素人の俺にちょうどいいアドバンテージなんじゃないですか? 先輩にとっちゃ男女の差なんてその程度でしょうし」
「だったらさっさと準備してくれる? ド素人が相手ならどれくらいの差がつくかみんなに見てもらえるいい機会だから。素人でも真面目にやればどれくらい上達するか、あんたはそのためのサンドバッグになってもらうわよ」
準備といっても誰がラケットを貸してくれるのか。
他の部員に顔を向けても顔を逸らされたんだが。
「お前はバドミントンを甘く見すぎてる。あの先輩は決して下手じゃないんだぞ」
大河は怒っているようだ。
まあ勝手に試合を中止にさせたうえに、バドミントンをナメた発言をしたんだから当然か。
「高校生なら初速で時速三百キロメートルくらいだろ。女子ならもう少し遅いか。決して対応できないレベルじゃないはずだ」
「バカじゃないの。バドミントンは体力と駆け引きのゲームなの。単純に打ち返せるから勝てるもんじゃないの!」
「まあそれは見てたらわかるだろ。それよりもラケットを貸してくれ。誰も貸してくれそうにないんだよ」
「……本気でやる気なの? 試合にならないよ」
大河はそう言いながらも手にしていたラケットを差し出してくる。
初めて手にしてみたが羽根のように軽くて、ラケットのガットが張ってある部分、ストリングエリアというらしいがこれが想像以上に小さい。
こんなものであの小さなシャトルコックを打ち返すのか……かなりの集中力が必要になりそうだ。
「今更怖気づいてる? だから言ったのに」
「作戦を考えてるだけだ」
大河は本気で心配しているらしい。
なかなか可愛いところがあるじゃないか。
俺が負けても大河自身には特にペナルティがあるわけでもないし、俺のことなど放っておいてくれていいんだが。
確かにこのまま素直にやりあえば負ける確率のほうが高いことは否めない。
最初はバドミントンというものを肌で覚えることに徹するか。
「先輩、準備ができたので始めてもらっていいですよ」
「サーブは私からでいいよね」
「構いません」
何度か素振りをしてみせている間に、審判から「ラブオール・プレー」という合図がされた。