第8話 大河夏希
部活動に力を入れている高校は数多くあるが、この古音呼学園もそのうちの一つだというのは疑いようがないことだろう。
玄関ホール脇の優勝旗ケースには、今まで獲得した優勝カップや楯などがこれでもかと詰め込まれている。
その中でも最も目立っているのは、優勝カップが一番多いバドミントンのものだろうか。
現に体育館を一番広く使っているのはバドミントン部のようだ。
「これが青春てやつか」
放課後ともなれば、体育館の扉はすべて開放されて中がよく見える。
帰宅部の俺が横を通ると、シャトルコックが行き交う光景と、風を切り裂く音がいくつも聞こえてきた。
部員の数も相当いるらしく、視界に入る生徒の八割ほどが手にラケットを持っている。
「ねえ聞いた? 一年がレギュラー間違いないって」
「まだ選考戦もしてないじゃん。どうしてそんなことになってんのよ」
「ああ、それね。全中に出てたからって聞いたよ。確か大河って名前だったと思う。選考戦は大敗でもしない限り形だけになるだろうって」
「大河? 確か三日後に私と試合予定の子がそんな名前だった気がするんだけど」
「たぶん同じだと思うよ。一度実力差を思い知らせてあげれば大人しくなるっしょ」
体育館の影からあまり聞きたくない内容が聞こえてきた。
そういう内容はもう少し小声で話してもらいたいんだが。
聞きたくもないのに、全部丸聞こえで俺が悪いみたいな罪悪感を覚えてしまう。
通り過ぎる時に体育館のほうに目を向けると、気が強そうな女子生徒が三人いて、その一人と目が合ってしまった。
おそらく上級生で、俺の顔を見て一瞬怯んだものの、俺が一年だとわかったのかいきなり詰め寄ってきた。
「ちょっと、あんた今の盗み聞きしてたんじゃないよね?」
「……何のことですか?」
足を止めて見下ろしただけなのに、俺が威圧したかのように二歩ほど後退りしやがった。
「き、聞こえてなかったらいいよ。もし変なことを周りに流したら許さないから」
自覚してるならそんなことを堂々と話すなよ。
まあ虐めるとか犯罪めいた内容じゃなかったし、俺がどうこうできることでもない。
それに「たいが」という名前も特に記憶にないしな。
俺自身、厄介事にわざわざ首を突っ込むほど暇じゃない。
「それじゃ、俺はもう帰るんで」
そう言った俺に向けられた「帰宅部かよ」という冷たい視線。
詰め寄られるよりこっちのほうが俺にはダメージがでかかった。
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早朝ランニングは欠かすことができない俺の日課だ。
身も心も引き締まることは当然のこととして、それ以上に前日の嫌なことを忘れることができるという利点がある。
いつもは自宅を中心とした円を描くように十キロから十五キロくらいを目安にランニングしているが、今日は気分転換に河川敷のほうへ行こうと思いたち、即行動に移した。
河川敷は今まで走ったことはないが、昨日のあの先輩方の視線を忘れるためにも見晴らしがよくて風が気持ちよさそうな場所を走ってみたくなっただけだ。
「今日は天気もいいしな」
朝焼けが東の空を染め上げ、徐々に明るくなってきている。
夕焼けよりも朝焼けのほうが好きなのだが、これをわかってくれる人は意外に少ない。
これは単純に朝焼けの時間に外にいない、朝焼けを意識しない人が多いからだと勝手に思っている。
「やっぱり凄い風景だな」
河川敷の堤防道路からみる空はいつもより数倍は開けていて、朝焼けの印象が普段とはまるっきり違う。。
そして何より人の数もかなり多いことがわかる。
見える範囲が広いせいか、それでもランニングしている者、ウォーキングしている者、体操をしている者などさまざまな老若男女がいるようだ。
とりあえず俺も普段通りのランニングを開始する。
今回は円軌道ではないため、普段よりも遠くへ行くことができる。
そのうえ普段とは違う環境と見晴らしの良さは、いつもよりペースを上げさせてくれるのに一役買ってくれる。
体が軽いわけでもないのに、ちょっと張り切ってしまうのはそのせいだろう。
「おはようございます」
すれ違う人と挨拶を交わすこと、それが今の俺のささやかな望みだったりする。
しかし、ここでも挨拶をしようものなら距離を取られ、逃げるように速度を上げられた。
何事も上手くはいかないものだな。
黙って走り続けていると、遠くでインターバル走をしている人が確認できる。
ダッシュと軽いジョギングを交互にしながら俺が走っているのと同じ方向へ進んでいる。
俺のほうが平均すると速いため徐々に追いついていく。
「女の子か」
ベリーショートの髪型で一瞬男かと思ったが、体格が小柄で線が細い。
近づくとそれ以前に体のラインが絶対に男じゃなかった。
後ろ姿のため年齢まではわからないが、俺と同じくらいなのは間違いないだろう。
間違っても大人の女性じゃない。
陸上競技なら駅伝やトラック競技か、それともサッカーやバスケかもしれない。
「古音呼学園ならバド部が最も有力か」
あまりジロジロ見ているのがバレちゃマズいし、このまま通り過ぎるのがいいだろう。
しかし、通り過ぎようとしたその瞬間、その女の子は悲鳴を上げながら堤防道路から斜面に転がり落ちた。
俺のせいじゃない!
なぜなら堤防の下からリードも首輪もしていない犬が堤防の反対斜面を猛然と駆け上がってきていたからだ。
街中で野犬を見かけなくなったとはいえゼロになったわけじゃない。
木々が茂っているような河川敷のような場所ではたまに野良犬が生息している。
「人を襲うような野良犬なら何をしても問題ないよな」
駆け上がってくる野良犬は中型犬で、俺の攻撃が届く範囲にもうすぐ入る。
堤防道路に駆け上がってきた瞬間、思い切り回し蹴りを食らわせてやった。
「ギャンッ!」
駆け上がってきた斜面をそのまま転げ落ちた野良犬。
すぐに立ち上がって逃げていったし、大した怪我はしていないようでなによりだ。
それよりも、反対の斜面から転がり落ちた子のほうが問題だ。
「大丈夫? 立てるか?」
俺としたことが、安易に声をかけてから気づくとは情けない。
女の子が俺の顔見て固まっていることになぜ気づかなかったのか。
俺が近づいたことで、今度は俺に襲われると勘違いしてるに違いない。
だが、このまま見て見ぬふりするほど腐っちゃいないんだよ。
「あ、うん大丈夫……」
この状況では逃げたくても逃げられないのだろうが、ちゃんと返事をしてくれたことにちょっと嬉しくなる。
女の子は徐ろに立ち上がると右足首を確かめるように何度か地面を蹴った。
「痛ッ」
「足首を挫いたみたいだな。無理をしたら怪我が長引くぞ。俺の腕に掴まれるか?」
拒絶されても別に構わない。
その時は違うアクションを起こすだけだ。
「ありがと」
「家まで帰れるか?」
「…………」
尋ねちゃマズいことを尋ねたかもしれない。
女の子が見知らぬ男に自宅を教えるわけがないんだから。
どうしようか……これじゃ不審者そのものだぞ。
「なあ、おまえ真千田だよな?」
「え?」
「だから同じクラスの真千田だよなって訊いてるの」
だ、誰だ……全く顔に見覚えはないし名前なんて一文字も出てこないぞ。
いい加減全員の顔と名前を覚えたほうがいいかもしれない。
「そうだけど……ごめん、誰だっけ?」
「大河夏希、大きい河川敷の河と書いて大河。おまえの席の斜め後ろなんだけど。まあ一度も話したことないし、目が合ったことすらないから知らないのも仕方ないけど」
ピンとこないが、”たいが”という苗字なら最近聞いた覚えがあるな。
どこで聞いた苗字だ……思い出せ、思い出せ……そうだ、あの上級生が口にしていた名前だ!
「もしかしてバド部だったりする?」
「そうだけど、名前も顔も覚えてないのに変なことは知ってるんだな」
やはり昨日の上級生が言っていた下級生が、目の前にいるこの大河のことだったのか。
だとしたら、もうすぐ試合があるはずだ。
「お前もうすぐ上級生と試合だろ。その足大丈夫なのかよ」
「どうしてそんな変なことばかり知ってるんだよ」
ダメだ……完全に不審者扱いされている。
ここは正直に話しておくべきだろう。
信じてもらえるかは別として……。
「昨日バド部の上級生が大河ともうすぐ試合するって言ってるのを聞いたんだよ。レギュラーになったのが気に入らないらしくてな、実力差を思い知らせてやるとか言ってたから覚えてるんだよ」
「そういうことか。どうして先輩ってそういうつまらないことを気にするんだろ」
大河は右足をかばうように俺の腕に掴まって歩くも、今は安静にしておかないといけないのは一目瞭然。
安静にして試合に間に合うかはわからないが、しないよりはマシだろう。
大河に振り返るなり有無を言わさず横抱きしてみせた。
いわゆるお姫様抱っこだ。
「ちょっ! いきなり何するんだよ! 恥ずかしいからおろせッ!」
「今無理をすれば長引くからな。黙って抱かれてろ」
「いいからおろせって!」
「バド部も朝練はあるんだろ。その朝練の前にこんなことをやるくらいだからそれだけ真剣だと受け取ったんだけど。それともお前の真剣てのはその程度のものなのか?」
「そうじゃないけど……それなりに身長は高いし、筋肉質だから見た目以上に重いし」
身長は確かに百七十センチ前後はあるだろうし、一般的な体重からすれば軽い部類には入らないだろう。
それでも俺にとっちゃ些細な差でしかない。
「このくらいでへばるほどやわな鍛え方はしてないからな。五十キロも七十キロも大して違わないし」
「そんなにないからっ!」
「悪い、ただの言葉の綾だ。どうせこんな時間帯なら顔見知りに遭遇することもないし心配するな」
「そのクラスメイトが目の前にいるのに? それは説得力に欠けるかも」
「そりゃそうだな」
大河と同時に笑いが漏れる。
笑える余裕があるなら足首はそこまで深刻な状態ではないだろう。
それでも数日は安静にしないと治りが遅くなるはずだ。
大河が指差す方へ歩いてくと堤防を下りる階段が見えてきた。
「あたしの家は目の前のあれだから」
堤防沿いに堂々と建っているタワーマンション。
大河はそれを指さしていた。
四十階はありそうでとにかく高くて目立つ存在だ。
これなら送り届けてからでも学園に遅刻しないで済みそうだ。
「思ったより近くて助かるな」
「それと、ありがと……てっきりもっと怖い奴かと思ってたよ」
「気にするな。毎日鏡を見てる俺でさえまだ慣れないくらいだからな」
「ぷっ——なんだよそれ」
タワーマンションのエントランスに着き、大河をおろしたところで腕時計の針がちょうど折り返す時間を示した。
「ここからは一人で大丈夫だから」
壁伝いに手をついていけば倒れることはないだろう。
流石に中に入るつもりはない。
「テーピングで固めるまでは足はつかないほうがいい。テーピングは巻けるよな?」
「大丈夫——それじゃね」
俺は振り返ることなく、片手を上げるだけの返事でタワーマンションから駆け出した。
両手が覚えている女子の感触——非常事態だったとはいえ、クラスメイトを抱き上げちまったよ。
恥ずかしい行為を事もなげにやったことを少し後悔していた。