第7話 華野鳥櫻子
昨日は結局あの眼鏡のメイドの女性に車で送り届けられた。
帰りは走って帰るとか歩いて帰るとかそんなことは関係なく、とりあえず動けなくなるまで食べきったのだ。
頑張った自分を褒めてやりたい。
そのせいで今朝は朝から食欲が湧かなく、久しぶりに朝食抜きにした。
当然のことだが、それでも親父と姉貴の分は作ったが。
うん、誰か褒めてくれ。
「——あ、あっち行こ」
通学中の光景は普段と変わらない。
女子高生や女子中学生がいつものように俺を避け、逃げるようにして散らばってゆく。
機嫌はいいんだが、おそらく今にも襲いかかられそうな雰囲気なのだろう。
ただの推測でしかないのだが。
「(おはよう!)」
心の中で挨拶の練習だけはかかさない。
いつなんどき必要になるかわからないからな。
今まで必要になったことがあったかは記憶にないが。
もしかすると俺には一生必要ないものなのかもしれず、少しだけ虚しさが込み上げてくる。
「よう山本、借りてた漫画だけどさ——」
「おう、そういや貸してたな——」
男子生徒はあからさまに避けることはなくとも、決して視線を合わせようとしない。
何としてでも関わらないという意志だけはしっかり伝わってくる。
第三者が見れば俺がそれだけ相手を観察しているということで、俺がヤバイ奴なのかもしれない。
そんな俺の横を一台の黒い車が通り過ぎてゆく。
普通の乗用車よりも縦に長く、エンブレムが棺桶のような四角に十字という明らかに外車だとわかるものだ。
その車が学園の前に停車するなり助手席から黒服の男が降りてくる。
「お偉いさんの車か。理事長か?」
黒服の男が後部座席のドアを丁寧に開ける。
どんな男が降りてくるのかと観察していると、ドアの隙間から覗いた足は男のものじゃなかった。
「華野鳥さん、おはよう!」
「おはよう。車羨ましいな」
「おはよ、かやちゃん」
車から出てきたのは華野鳥櫻子。
スラリとした手足、指先までしっかり神経が行き届いている奇麗な所作、こうやって見ると別世界の住人て感じだ。
昨日の食事は夢だったんじゃないかとさえ思えてきた。
まあ夢であろうと現実であろうと、これからはまたいつもと変わらない同じ日常だけが始まることに違いはない。
「——くん、おはよう!」
そう、いつもと変わらない日常だ。
「真千田くん、もしかしておはようって言ってるの聞こえてない?」
「え? ああ、おはよう」
華野鳥があきらかに俺の顔を見ながら挨拶をしてきた。
それも周りのことなどお構いなしに。
そのせいで登校中の生徒の足が完全に止まって俺に向けられてしまっている。
思わず素っ気ない挨拶を返したが、それに対し華野鳥は特に気にする様子は見せず、わずかに微笑むとくるりと背を向けて学園内へ歩いてゆく。
「ねえねえ、華野鳥さんさ……今あの人に挨拶してた?」
「きっと間違いでしょ。あんな怖そうな人と接点なんてあるわけないし」
「でも名前言ってなかった?」
「気のせいでしょ」
誰も今目の前で起きたことを受け入れないのが少し悲しいが、華野鳥にとってはきっとこちらのほうがいいに違いないと思いたい。
「なになに? 華野鳥さんが真千田君に挨拶したの?」
「そうなんだよ……って星咲!」
「なんなのその反応は。私が声をかけたらそんなにびっくりすること?」
「そういうわけじゃないけど、立て続けに挨拶なんてされるとな。それに周りの視線も気になるし」
「ふーん。華野鳥さんて同中だったんだけど、男子生徒に自分から挨拶するなんて珍しいんだよね。私はそっちのほうが気になるんだけど」
星咲が話しかけてきたことで、周りの目が再び俺へと向けられている。
気のせいかもしれないが、男子生徒からの視線が増えたように思う。
「昨日歩道橋で困ってた婆ちゃんがいてな、助けてみたら華野鳥の婆ちゃんだったんだよ」
「そんな奇跡のような偶然がねぇ」
これは全く信用してない目だな。
確かに偶然にしてはよくできているとは思うが、偶然でしかないんだからこれ以上の説明のしようがない。
というかどうしてそこまで怪しむんだ?
「嘘だと思うなら本人に訊いてみればいいだろう」
「別にそこまでするつもりはないけどさ。ちょっと華野鳥さんの行動が気になっただけだし」
あんなお嬢様なら変な虫がつかないように周りが工作しそうだな、とあの眼鏡のメイドの顔が頭に浮かぶ。
そういう意味ではさっきの挨拶はかなり異質な光景だったのだろう。
「ちょっと待て、だったら今俺に話しかけてる星咲はどうなんだ? 男が苦手だって言ってただろ。この光景は他の生徒からはかなり珍しいもののはずだ」
「そう言われればそうかもしれないね。でも真千田君が側にいたら他の男子は寄ってこないでしょ?」
またいたずらっぽい表情で見上げてくる。
こいつは俺を無料のボディーガードにするつもりか。
確かに、大抵の奴は寄ってこないだろうが。
「ボディーガード代わりならしっかり報酬はもらうぞ」
「それってつまり、また私とお茶したいってことだよね?」
「そういうわけじゃないんだが」
「だったらどういう報酬を希望するの?」
すげえおちょくられてる気がする。
それを証明するかのように、星咲が俺の返事を今か今かと待ちわびる小悪魔にしか見えない。
「俺が困ってる時に手伝ってもらったり色々あるが、それはその時にならないとわからないが」
「なになに? 真千田君は困った時に私に頼りたいと。メモしとこっと」
「手伝ってもらったり「色々ある」って言ったよな? 別に他のことでもいいんだから頼りたいわけじゃないからな」
「そういうことにしておこうかな。真千田君ならきっと私を頼ってくれると信じてるからね。それじゃ、先に行くからバイバイ!」
走って校内に入っていく星咲の背中を見ていると、何だか勝ち逃げされたような気分になってくる。
どうもあいつといるとペースを掴まれてしまう。
まあ悪い気はしないからいいんだけど。