第5話 華野鳥櫻子
朝のランニングを十キロ弱こなし、それから登校するのが俺の日課となっている。
これはもう物心ついた頃からの習慣で、今更どうこうなるものじゃない。
流石に雨が降っていれば走ることはないが。
「雨は上がったようだな」
この二日間、雨が降ったりやんだりを繰り返し、やっと夕方に雲の隙間から陽が射してきた。
自宅からかなり遠い私立古音呼学園へ転校したため、トレーニングがてら走って帰るには少し距離がありすぎる。
早く帰って少し体を動かしたいところだ。
「じゃあね、また明日。バイト行ってくる」
「あたしは今から部活だ。早くレギュラー取れるようにならないと」
教室には女子生徒の元気な声が響いている。
男子生徒は比較的大人しい者が多いのか、教室内で目立つ行動を取る者はいない。
学園全体でも七割ほどが女子生徒が占めているため、一部を除いて校風として定着しているのかもしれない。
「櫻子さん、今からカラオケ行かない?」
「ごめんなさい。お稽古が詰まっちゃってて。時間ができたらまた誘ってください」
「大変だね。頑張ってね!」
お稽古とはいいところのお嬢さんか何かだろうか。
お嬢様と言えば、長髪で世間知らずかツンツンしてるという勝手なイメージを持っているが、彼女はそうではない。
ボブカットで明るくて礼儀正しい妹キャラ的な雰囲気だ。
苗字は何だったか……思い出せないというより覚えていないのかも。
もう少し積極的に他人と関わっていくほうがいいとわかってはいても、俺にはその手段が思いつかない。
「今更考えても答えが出るわけはないな」
こういう時こそ運動に限る。
思い切り体を動かせば頭も体もすっきりすること間違いなしだ。
放課後に廊下を歩けば一年生はまだ部活に誘われたりするようだが、俺は未だ誘われたことがない。
ゆえに誰よりも早く下校できる自信がある。
「ここは嘆くところか」
気がつけば駅のホームまで来ていた。
当然ながら周りには古音呼学園の生徒の姿はない。
改めて考えると少し寂しい気もする。
今晩は普段以上に運動をするしかないな。
この時間にやってくる電車は十分に一本程度で、生徒が押し寄せるまでは座り放題だ。
「少し眠って夜に備えるか」
起きていてもいつもと同じ景色が流れていくのを、ただ眺めるだけという無駄な時間を過ごす羽目にある。
それなら少しでも体力を温存しておくに限る。
目を瞑って電車の一定間隔の揺れを全身で感じていると、何とも言えない心地よさが襲ってくる。
眠ってしまってもまあ大丈夫だろう。
日本に生まれてよかった。
「………………」
どれくらい寝入っていたのだろう。
周りからは雑多な気配と香水の香りやオヤジ特有の整髪料の香りが漂う。
「完全に寝ていたのか」
目を開けるなり大人の姿がかなり目に入る。
窓の外は夕焼けから透き通るような紺碧へと移り変わろうとしていて、太陽の姿などどこにもない。
それもそのはずで、鞄から取り出した時計の針はあれから1時間以上経っていた。
「最寄り駅もだいぶ前に通り過ぎてるな」
降りたこともない殺風景な駅で下りるなり、スマホで自宅までの帰宅ルートを検索してみた。
自宅までは二十キロオーバーで、電車でなら大回りになるため走って帰ってもさほど到着時間は変わらない。
だったら走って帰ったほうが一石二鳥になるか。
今から電車で帰ってから運動となれば、時間が足りなくなるのは確実だしな。
スマホに表示されている帰宅ルートのほとんどは幹線道路で、知らない道ながら迷うこともなさそうで安心というのもある。
「しっかり準備運動をしてからだな」
背筋を伸ばし、屈伸も念入りにして関節を柔らかくしておく。
二十キロ程度なら毎朝のジョギングから計算すれば一時間ちょっとだろうし、夕飯の用意にはまだ間に合う。
満を持して走り始めるも速度が全然上がらない。
その理由はすぐに判明した。
「ミスった……革靴だし鞄持ってるんだった」
これは一時間半以上覚悟しなけりゃならない。
鞄はそこまで重くはないが、それでも三キロは超えているだろう。
革靴も転校してから制服と合わせて購入したもので、はっきり言って履き慣れてさえいない。
「はぁはぁ……はぁはぁはぁ」
順調に走れているとは思うが、息が上がるのは確実に早い。
この程度の距離は普段ならなんてことはないずなのにやたら遠く、遅く感じる。
これでも何度か通れば早く感じるというのだから不思議なもんだ。
そういうのを”リターン・トリップ・エフェクト”と言うらしいが、この知らない道が遠くて遅く感じることを指す言葉はないらしい。
だったら俺がつけてやろう”ファースト・ディスタンス・エフェクト”だ。
「馬鹿なことを考えて時間を費やしても、気晴らしにすらならないな」
最悪のタイミングで目の前の信号が赤になってしまう。
片側4車線もある大きい交差点で斜向かいへ行きたいため、二度信号に引っかかることになる。
頭上には四方にわたって歩道橋が繋がっているため、そこを斜めに進むほうが早いだろう。
街灯に照らされた歩道橋の階段を、運動のため一段飛ばしで登ってゆく。
「これも運動だ。逆に信号が赤になったことに感謝しておかなくちゃな」
登り切ったところで、反対側の階段付近でへたり込んでいる老婆が目に入った。
腰が曲がっていて相当な年齢なのは間違いないはずだが、それに似合わない大きなリュックを背負っていて、俺から見てもちょっと無茶しすぎなんじゃないかと思うレベルだ。
ここで見過ごすほど俺は腐っちゃいない。
「婆ちゃん、大丈夫? 重いなら手伝うけど」
経験上、老人からは意外と怖がられない。
視力が落ちて俺の顔がよく見えないのだろう、と勝手に解釈している。
それでも警戒はされる覚悟は決して忘れない。
荷物を盗って逃げると勘違いされて、警察を呼ばれちゃかなわないからな。
「ん? ありがとね。でもこれくらいなんてことないさ」
俺が声をかけると急に立ち上がる素振りを見せる。
まだまだ若いんだと主張したいのだろうが、立った瞬間リュックの重さに耐えかねて後ろに倒れそうに倒れ込む。
反射的に手を差し出して婆ちゃんの背中を支えたからいいものの、俺が反応できなかったら階段から転げ落ちていたところだ。
こんなところに都合よくサスペンス劇場よろしく目撃者がいるわけがないし、婆ちゃんに何かあれば俺が犯人にされてしまっていただろう。
「ホントに大丈夫? 大怪我するところだったよ」
「すまないね…この程度でへばるなんて、年は取りたくないもんだ」
「ここまで運んできただけでも立派だと思うよ」
これはお世辞でもなんでもなく本心からの言葉だ。
何が入っているのか知らないが、おそらくこのリュックの重量は軽く二十キロは超えていると思う。
婆ちゃんを支える腕にかかる負荷が見た目以上にずっしりくる。
「どこまで運ぶつもりなのか知らないけど、流石にこの重量を運ぶのなら見過ごすわけにはいかないな」
せめてタクシーを拾うまでか駅くらいまでは付いていく必要はあるだろう。
暗くなった道は特に何があるかわからない。
何かあってから後悔するのは勘弁だからな。
「そうかい? そこまで言うなら手伝ってもらおうかね。最近の若いのにも気骨があるのがいるじゃないか」
婆ちゃんは腰のポケットからくしゃくしゃになったメモを手渡してきた。
そこには住所らしきものが綴られているだけで、あとは何にも書かれていない。
「スマホで調べるからちょっと待ってて」
そこまで遠くない住所なのはわかるが、細かい位置はわからない。
アプリ上に表示された場所はここから三キロほど離れた場所だ。
この荷物を持って婆ちゃんが歩ける距離じゃないだろう。
かといってアプリ上はピンポイントを指しているわけでもなく、広大な公園のような敷地を指していてタクシーでもちょっと迷うかもしれない。
「ここから三キロほどだし、俺が荷物を持つから歩いてく?」
「最初からそのつもりだよ。こんな距離にタクシーなんて使ったらお金がもったいないだろ?」
婆ちゃんはそういうと、年齢のわりにしっかりした歯を見せて笑い始めた。
体は結構きてるようだけど頭のほうはメチャメチャしっかりしているようだ。
失礼だから決して表には出さないが。
「じゃあ行きますか」
帰るのが遅くなるが、この荷物を持って歩くのも運動になるからよしとしよう。
荷物がなくなった婆ちゃんの足取りは軽く、結構早く歩いてゆく。
しかし道を知っている様子はなく、時々間違った方向へいこうとするのが厄介だ。
「俺が地図を見ながら進むよ。婆ちゃんこの街に住んでるわけじゃないみたいだな」
「かなり昔に住んでたんだけどね。様変わりしすぎて……今じゃこのありさまだよ」
そういうことか。
ということは田舎に隠居してたけど、孫の顔でも見にやってきたってところだろうか。
だからメモには住所だけで名前も何もないのだろう。
「婆ちゃんにはお孫さんはいるの?」
「なんだい、孫を狙ってるのかい? まああんたならあたしが推してやってもいいよ」
「いやいや、ただの世間話なんだけど」
「最近じゃあまり見ないタイプだしね、さくちゃんに紹介してやろうじゃないか」
孫が男じゃないというのは確定か。
というか年齢も何もわからないのに狙うわけないだろうに、案外ボケてきてるのかもな。
孫の話を始めてからやたら声が大きくなってるし。
「それでこの住所だけど、なんか目印ないのかな?」
等間隔に立っている街灯はどこまでもまっすぐ続いている。
これはさっきからアプリに表示されてるデカい公園らしき土地の外周だな。
公園の名称は出ないし巨大な塀で囲まれているため、もしかしたら私有地なのかもしれないが。
「もう着いてるから心配いらないよ」
ちょっと意味がわからない。
しかし、この言葉の意味が正しかったと知るのに時間はそう要しなかった。