勇者と魔法使いの隠居耳かき
初ファンタジーと謎シチュエーション。
世界の平和を勝ち取った後、元勇者と元賢者が隠居しながら耳かきする話です。
◇登場人物◇
サリヴァン:元勇者。まだまだ若いのに、現在は晴耕雨読の隠居生活。
モミジ:元賢者。東方出身。現在は魔術論文作成に忙しい。
陽の傾き始めた午後のことであった。
太陽は朱色を帯びてきていた。小さな花が群生する、のどかな丘地が照らされている。野原では温厚な草食性スライムが、花畑の中でうたた寝をしているくらいで、そのほかにモンスターの姿はない。
平和な風景であった。
遠くには王都も見渡せるほど標高の高い丘陵。眺め渡していけば、人影がないことも分かる。理由は単純だった。かつてはここ一帯に高地棲の魔物が跋扈していたからである。人が踏み入れる環境でなかったことは、麓の里の人々の記憶に新しい。
しかし、尾根を根気よく眼でなぞっていけば、ぽつんと建った一軒の家を見つけられる。
外壁は、煉瓦造りを清潔に塗装した白色。三角屋根に煙突をつけた、牧歌的な二階建て。
家の傍には家庭菜園を行っているらしい、それなりに広い畑もあった。よく耕されている畝には青々と緑が茂っていて、赤々とした果実がその中に隠れている。
外壁にはよく陽を取り込む角度の、ガラス張りの窓が二つ。
窓から家の中を除けば、ベッドくらい大きなウール生地のソファが見える。
ソファには一人の女が寝転がっていた。
女が寝返りを打った時、近づくように足をのぞかせたのは、もう一人の女。もう一歩足を進め、ソファを真下に見下ろしながらで腕を組んでいた。顔は見えないが、呆れていることは確かであった。
この家に住まう二人が、かつて世界を救った英雄であることは遠い王都では誰もが知ることであった。
けれど、二人がこんなところで睦まじく隠居していることは、王都でも限られた者しか知らなかった。
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窓越しから差し込むのは、毛布のように柔らかい陽光。
元勇者、サリヴァンはソファの上で午睡にふけることを余儀なくされていた。
だらしなく着こむのは、無地のシャツ一枚と腰紐の緩んだハーフパンツ。乱れたシャツからは割れた腹筋が覗いていて、ハーフパンツは危ういくらいにずり上がっていた。きわどいくらいに太腿も晒されている、あられもない寝相。力の抜け切った中性的な童顔は、遠巻きに見れば美しいのに、間近で見れば一筋透明なよだれが伝っていた。
そんな有様を、もの言いたげに見下ろしている女が一人。彼女こそ、サリヴァンの唯一無二の相棒にして、元大賢者、モミジであった。
モミジが纏うのは、白のブラウスに、リネンのロングスカート。彼女にとっての部屋着で間違いないとはいえ、身なりで言えば、サリヴァンと格の違いがあった。
聡明を形にしたようなチェーン付きの眼鏡の奥で、暢気を形にしたようなサリヴァンをずっと眺めている。
腕を組んだまま、指がとんとんと二の腕を叩き始める。
モミジの表情に浮かぶ、もどかしそうな逡巡の様子。少なくとも、サリヴァンを名前でしか知らないような子供にこの寝相を見せようものなら、『だらしないお姉ちゃん』以上の評価を受けることは無いだろうと、確信を持てる体たらく。
起こすべきか、起こさないべきか……。
相棒として、サリヴァンは葛藤する。起こしてお小言の一つでも言ってあげることはできた。
けれど、葛藤の一番の要因となっていたのは、あまりにも無防備なその寝顔に、愛しさを覚えないと言ったら嘘になるからだった。
どうにも決めあぐね、はぁっと大きなため息をつけば、サリヴァンはぽけっと瞼を開いた。
眠りから覚めたサリヴァンは鬱陶しそうに涎を腕で拭いとる。モミジは少しだけ、バツの悪そうな顔をした。
「あ、モミジ。おはよう」
ふにゃっとサリヴァンの相好が崩れる。眩しそうに、モミジはふいと目を逸らした。
「……おはようじゃないわよ。まったく、毎日毎日寝てばっかりで……」
「だってー」
ふああとあくびをしながらに体を起こして、無防備に腕を真上へ伸ばす。恥ずかしげもなく、露わになる脇腹や二の腕の、健康な小麦色。
ふわっとあくびを吐き出して、すとんと肩から力が抜けた跡でも、表情は寝ぼけ眼のままだった。
「畑の手入れも終わったし、こんなに良い天気なんだから……後はお昼寝するしかなくない?」
小首をかしげるサリヴァンに、ふるふると首を振るモミジ。
その目元には、うっすらと隈ができていた。
「隠居のご老人なら、そんな生活も素晴らしいでしょうけどね……あなたも私も、まだまだそんな年じゃないでしょ。元勇者っていう威厳をね、もっとこう……。例えば、剣術指南とかさ」
一本指を立てるモミジに、今度はサリヴァンが首を振る。
「平和な世界では、勇者はニートなんだよ? それに……私たちにしかできないことはもうやったもん。王都の皆も強いんだし……あとは皆にお任せ」
そう言って、もう一度ごろんとソファに寝そべった。ブレないだらけ具合に、モミジもふぅと呆れる。
「もう……。聖剣も王様に預けて以来、一度も手に握ってないし……」
「私があの子を握らない方が、よっぽどいいことだよ。ねえ?」
「それは、そうかもしれないけど……」
んふふ、と微笑むサリヴァンに、モミジも少し分の悪さを感じてかまた目を逸らして、閉口する。
確かに、サリヴァンとモミジと、あと二人の英雄一行のメンバーと、それからたくさんの人々の力で、勝ち取られた平和。
その立役者が平和をどう過ごそうが、立役者の自由である……と言うのも一理ある。
しかし、平和になったからといって皆がニートになるわけではないのだ。
その証拠が、モミジの目元に刻まれたうっすらとした黒い線。
サリヴァンも、目覚めた時から気づいていた。じゃれ合いの口論もそこそこに、そもそもモミジが一階へ降りてきた本題へ触れる。
「だからとにかく、お疲れ様。原稿の休憩でしょ? こんないいお天気なんだから、一緒にお昼寝した方がいいよ。ほら」
サリヴァンは、彼女が横になっても満杯にならない幅広ソファの、空いたところをポンポンと叩く。深く腰掛ければ足を伸ばせるくらいのスペース。今この最中も眠気と戦っていたモミジには、下手な魔法よりも魅了の力があった。
けれど、ここで理性が反発を起こすからモミジはモミジなのであった。
「……ん。ちょっと珈琲でもと降りてきただけだから……昼寝なんてできないわよ。あなたじゃあるまいし……。でも、少し座るだけなら……」
「少しなんて言わずにさぁ。一緒に横になろ? ほーら、ぽかぽかだよ?」
大きく手を広げて午睡に誘うサリヴァンに、モミジは「もう」とだけ呟いて、柔く誘いの手を制した。そして、空いていたところに腰かける。
背もたれに深く体の重みを預けながら、吐く息もまた深かった。
「締め切りが近いから、昼寝してる暇もないの。旅の途中で覚えた魔法の、術式解析やら、魔術論文。魔術協会のお偉方からの、催促もすごいことだし……。まぁ、自分でやるって言っちゃったんだから、仕方ないんだけどね」
サリヴァンはさりげなくモミジへとにじり寄っていた。体をごろんと起こして、うつぶせになる。
「そんなの、期限を伸ばしてもらえばいいじゃん。無理に書くより余裕をもって書いた方が、よっぽどいいものができるんじゃないの?」
「んー……それはそうかもしれないけど。協会のお偉いさんたちに見返してやるチャンスだと思って、できるって意気込んじゃったから。守らないわけにはいかないの」
モミジはいっときソファの魔力に酔いしれていて、目がとろんとしていた。細い手はひじかけに手を預けるくらい自然に、サリヴァンの頭の上に置かれる。さらさらと頭を撫で始めるモミジの手。サリヴァンもまた何も言わず、心地よさそうに目を細める。
「締め切りはいつなの?」
「三日後よ」
「じゃあ、休んだ方がいいじゃん」
「んー……」
モミジはもどかしそうに声を発した。
「一度でも気を抜いちゃうとね、そのままぷっつり気が切れちゃう気がするというか……なんというか……」
それは隈のある目で紡がれた言葉だった。サリヴァンも相棒として、そのまま受け取ることはできなかった。
“わーかほりっく”。
いつだか、共に旅した仲間のエルフが使っていた言葉を、サリヴァンは思い出した。確か、仕事に中毒という意味を持っていたはずだ。
仕事が好きなことはモミジの大切な一面である。そして真面目なモミジのことを、サリヴァンは愛している。
だが──仕事にモミジの心が侵されているとならば、まったく話は別となる。
「よっ……こい……せっ……!」
「わ、ちょっと、何するの」
サリヴァンは、太ももににじり上った。頭を無理やりモミジの膝枕の上に預ける。
それから、くふぅ、と最高の寝床を見つけた猫みたいに、満足げに息を吐く。
膝枕はしなやかで、柔らかであった。共に旅した頃の筋肉と、共に暮らしてからついた健康な贅肉が、愛しいバランスで共演しているのだ。
「ちょっと。これじゃあ立ち上がれないんですけど」
モミジが身を捩れば、サリヴァンは軽く肩に力を入れることで押さえ付ける。
「そうだよ。一緒にお昼寝してくれたら、のいてあげる」
「なっ」
モミジは閉口した。
軽く足を上げようとしても、しがみつくようにしてサリヴァンが止めてくる。頭を持ち上げようとしても同じことだった。サリヴァンが軽く首に力を入れるだけで、モミジは敵わない。元勇者と元大賢者のステータス差というやつである。
「……無理に立ちあがっちゃおうかしら」
「いいよ。私が頭を打っちゃっていいなら」
「む……」
もう一度モミジは閉口した。そう言われると、おそらく力で抗われる以上に弱い。
むずがゆそうに、眉間と口が波を打った。
それから、「ふぅ」とため息を一つつく。背もたれにふかっと体重を預け直した。どかそうと頭を包んでいた手が、諦めて髪を撫で始める。
「んふふふ」
サリヴァンは嬉しそうな声を出した。
膝枕に頬擦りする。自分が愛されていることを重々理解する飼い猫のように、サリヴァンは膝の上の占領に成功した。
──ちゅん、ちゅん、ぴぃ。
おそらく番らしい小鳥が、三角屋根の上で鳴いていた。
「ふふ。お昼寝、してくれる気になった?」
「……いいえ」
「ええっ」
思わぬ言葉にサリヴァンは驚いた。もう降参してくれたものだと思っていたのに。
そんなサリヴァンに、得意げにモミジは語りかけた。サリヴァンの柔らかいショートカットを撫で続ける。
「このまま、あなたを寝かしちゃうことにしたわ。可愛がり続けてれば……あなたならすぐ寝ちゃうでしょ」
「ええ……」
サリヴァンは口端を引き攣らせて苦笑する。どこまでいってもモミジは素直じゃない。
「じゃあ、寝ない」
「寝ちゃうわよ。あなた、いつも先に寝ちゃうじゃない」
「ええ……そう、かなあ」
心当たりがあるようなないような言葉に、サリヴァンは語尾を濁す。
一方モミジは楽しそうだった。
「こうやって撫でられるの好きでしょ?」
そう言ってモミジは、指を手櫛の形にして、髪を鋤くように撫でる。
すると、短く切り揃えた爪がかりかりと肌を擦って、心地よいのだ。サリヴァンは「ふわ、」と声を漏らした。
──かりかり……さりさり……。
撫でられ続けて、サリヴァンは分の悪さを感じてくる。
「ねぇ、これどうやったら私の勝ち?」
「勝ちも何も、どいてくれないあなたに困ってるだけよ」
「そんなこと言わないでさ。勝ちを作った方が楽しいじゃん?」
頭を転がし上を向くサリヴァン。なおも手は頭を撫で続ける。
「楽しいってねぇ……」
言葉は不服そうでも、口調は違った。髪を撫でていた手が頬まで降りてきて、親指でサリヴァンの目尻をくすぐる。
「なら、私がまいったって言ったら大人しくお昼寝してあげる」
「いいねえ。それなら私も頑張りがいがあるや」
「頑張るってねぇ。あなたを寝かせるように頑張るのは私じゃない」
「だから、はやいとこまいったって言ってくれれば……」
「言わないわよ。だって、あなたもう目がとろんとして来てるもの」
モミジは親指で目尻のまつげをくすぐる。そうされるとサリヴァンは目を瞑るしかない。
こそばゆそうにしながらも、軽く開いた口はここちよさを照明していた。モミジはにやりと笑って、両手で頬を包むように持ち、顔のマッサージをはじめる。
目尻をすりすりとなぞりながら揉む。
おでこを横に一の字を書くように指で押す。
頬骨を痛気持ちいいくらいに指圧する。
ほっぺたを三つ指で円を描くようにさする。
「うぅ……」
サリヴァンは気持ちよさに漏れる声を抑えていた。
やがて、頬は血色のいいサクラ色に染まってくる。サクラとは、モミジの故郷に咲く、珍しい花の名前だ。
「気持ちいい?」
「気持ちいい……」
「寝ちゃう?」
「寝ない……」
「もう」
眠たげな声のくせに強情に返ってくるものだから、またモミジはくすくすと笑った。
サリヴァンは、ときに目を開いたり、軽く顔をよじったり(しかし、モミジのマッサージそれ自体からにげようとすることはない)して、寝ないように気を付けているらしかった。
これは手ごわいとモミジは考えた。
そこで、とっておきの秘策を思いついた。
モミジは、ソファの横に据えつけたサイドテーブルへ手を伸ばす。そこには四角い木製のペン立てがあった。万年筆や筆ペン、ケース入りのペーパーナイフなどが並ぶ中で、ひとつ、異才を放つものがあった。
匙のついた竹製の棒。頭には、ふわふわの毛玉。
「ね、サリ。耳かきしてあげましょうか」
サリという呼び方を、モミジは多く使わない。その分、蜂蜜ポーションのように甘い言葉であることは二人とも知っている。
「えっ、ほんと?」
そわついた様子でサリヴァンも閉じていた目を開く。表情は嬉しそうな反面、もどかしそうな風もあった。
それもそのはずだ。
今の寝ないことを目標とする勝負の中で、モミジの耳かきが脅威であることを、サリヴァンもよく理解していた。
だからモミジは挑戦的にサリヴァンへ微笑みかけていた。
「でも、疲れたモミジに耳かきしてもらうなんて悪いなぁ……」
サリヴァンは赤らんだ頬で目を逸らした。モミジは逃すことなく、かがみ込んで顔を覗き込む。「うわっ」
「いいのよ。ほら……頭が疲れてるときは、何か他のことに没頭した方がリラックスできるらしいわよ?」
「そうなの?」
「そうよ。王都でも、最近そう言う研究がされてるわ」
「ふぅん」
数秒の沈黙の中に、サリヴァンの葛藤があった。
「まぁ、モミジがリラックスするためなら、仕方ないか」
「うん。ありがとう」
えらいえらいと子ども扱いする風に、頭をなでるモミジ。サリヴァンはもの言いたげにモミジを見つめるけれど、すぐ目は細まっていく。
モミジは母のように優しく語り掛ける。
「じゃあ、耳、上に向けて」
「んー。よっ……とっ……せい」
サリヴァンは体に前振りをつけて、モミジの方へ頭を転がした。すると、お腹に顔を埋めるくらいに近づいてしまった。
モミジが窘める。
「ちょっと、見にくい。もうちょっと離れて」
けれどサリヴァンは言うことを聞かずに、ゆっくり鼻から息を吸う。鼻息がモミジのへそのあたりをくすぐる。たまらず、むりやり頭を押し戻した。丁度いい位置に戻されてから、「ちぇー」とサリヴァンは不服な声をあげる。
「さっきの方が、モミジの匂いに包まれて落ち着くのに……」
「もう……変態みたいなこと言わない」
呆れるような声を出しつつ、モミジの顔も赤らんでいた。サリヴァンに悟られないよう、さっさと耳を持つことにした。
「じゃ、耳かきはじめるわよ。まずは耳の穴の中を見るからね。耳、引っ張るわよ」
「ん」
耳介を指で挟んで、優しく外へ引っ張る。すると、耳穴の中が顕になる。
「うへぇ」と呆れたような声をモミジは出した。……しかし、その口元は嬉しそうだった。
「本当よくたまるわね……あなたの耳。」
「えー、どんな感じ?」
モミジは屈みこんで、さらにまじまじと耳の中を観察する。「んー……」と漏れる集中した息遣いが、サリヴァンにはくすぐったく聞こえていた。
「カサカサしたのがたくさん、耳の壁にこびりついてるわ。前にやってあげたの、ひと月くらい前だったかしら……それにしても溜まりすぎよ」
「だって、私耳かき自分でしないし。その方が、モミジにしてもらうとき気持ちいいからさぁ」
まったく何気ない呟きに、モミジが「む……」と口を結んでむずがゆがっていたことは、サリヴァンには秘密であった。モミジは平静を装って返す。
「あなた、土いじりをよくするし、朝の鍛練でも走り回ってるし……そのときに砂埃でも入るんでしょうね。それが汗と混じって固まって……てとこかしら」
「やったー。取りがいあるね」
なんて、暢気なことを言う元勇者に、元賢者はまたため息をつく。
「取りがいがあって、あんたは気持ちいいでしょうけど……元勇者様の耳の中が汚れてるなんて、なんだか嫌でしょう。きっと、都の人たちからしたら。そう思わない?」
「んー、それぐらいズボラになれる平和の勲章的な……ことにならない?」
「ならないわよ、もう」
ふふふ、と余談も楽しみながら、モミジは耳かきを指の中で握りなおした。
先が細くてよくしなり、奥の耳垢もとりやすいという、故郷特注の一品。
「ほら、いれるからね」
「はーい……」
そうしてモミジは耳穴へと耳かきを差し込んだ。
──かりっ。
まず触れるのは、一番手前にある耳垢。これを取らないことには先の耳垢もよく見えない。剥がれかけていて、皮が捲れたみたいに耳穴を隠しているからだ。
取るのは簡単そうだった。根元へと耳かきを当てて、こそぐに匙で掻いていく。全く力は入れない。指を動かすくらいの力で良かった。
──かりっ、かりっ。かり、かり、かり。
元勇者と言えども、耳は繊細だ。耳壁の肌は柔らかくて薄い。肌と耳垢の隙間をちょっとずつ広げていくように、耳かきを動かす。
「ふぅ……」
サリヴァンが心地よさそうな声を漏らした。それを聞いて、モミジも言葉にはしないものの、柔らかく微笑むのだった。
──こり……ぺりっ。
やがて、耳垢がごそっと剥がれた。サリヴァンの肩がピクリと動いた。しかし、痛みによるものではないようだった。膝枕に頭の重みを預け切って、目を閉じた横顔は安らかなまま。
薄皮一枚と言う感じで、しつこく張り付いた残りの根元もかりかりと責めていけば……ほろりと、耳かきのさじを埋めるくらいの耳垢が取れた。
取りこぼさないように、慎重に引き上げる。
耳の穴から出きったら手の甲に乗せて、サイドテーブルに広げていたちり紙の上に、ぽとりと落とす。
モミジは満足そうに呟く。
「うん。やっぱり取りやすいわ」
モミジの想像通り、耳垢はうまく乾ききっていて、軽く耳かきするだけで崩れるように取れてくれるものばかりのようだった。
「耳垢、まだまだある?」
眠たげな声で、期待を込めた風にサリヴァンが呟いた。
「ええ、まだまだたくさん」
モミジの返答を聞いて、嬉しそうに寝顔の口角が上がる。言葉はなくとも、心地よさは十分に見て取れた。
モミジも得意になってきたか、もう口元に浮かぶ微笑みは消えそうになかった。その眼差しもまた、もうずっと慈母のように柔らかい。
「ほら、続きね」
「うん……」
もう一度耳かきを入れ直す。
この後も、同じことの繰り返しであった。手前側の方から、目立つ耳垢を取っていく。
少し変化が起こるとすれば、奥の方に差し掛かったときくらいだ。
奥に行くと、耳道が軟骨から骨に支えられるようになるから、刺激が強くなる。皮膚が薄くなって、神経がより敏感になるためだ。
だから、奥をやるときはもっと慎重にやらなければならない。
「手前の方、本当にカサカサね……。楽しいくらいに取れる取れる……」
「うん。私も気持ちいい……」
手前の掃除は順調に進んでいた。
耳壁にぴったり張りついているものも、窪みになっているところの裏っかわにこびりついたものも、軽い力で良く取れた。
特に、窪みの裏は反応がよかった。
耳の中腹あたりに、軟骨の形に沿って奥まったところがある。そこに耳垢が溜まりやすいことはモミジも知っていた。奥まっている分見えにくいけれど、だいたいの目測で匙を動かせばごっそりと取れる、モミジも好きなポイントだ。
今日もまたよく溜まっているようで、かりかりと、ずらし動かすみたいに耳かきを操る。
そのたびに、ぴくぴくとサリヴァンが反応を見せる。──瞼をきゅっと瞑ったり、肩を少し動かしたり。
「……ここ、気持ちいいんだ」
普段はおおざっぱなサリヴァンが見せる、繊細な反応の可愛さに、ついモミジの興も乗ってしまった。
焦らすわけじゃないにしても、より慎重に、丁寧に、耳垢を掻いてあげる。
──かり……こり……。
ゆっくり、ゆっくりと耳垢をこそいでいく。
やがて剥がれかけてきたら、今度は大きく耳かきを動かして、肌と耳垢の間に滑り込ませていく。
「んん……」
心地よさの緩急に声を漏らすサリヴァン。モミジの狙い通りであった。
それから耳垢が剥がれてきたら、掻きだすように軽く力を入れる。
そうすると、少し膨らんだ軟骨のところに、耳かきが絶妙な力で当たるのだった。
──こりっ、こりっ……。
「わ、そこ、きもちよ……」
一周回って、サリヴァンの眼はとろんと開いた。たまらないという風な声に、モミジもまた「んふふ」と艶っぽい微笑みをこぼす。
「これ、すきでしょ」
──こりっ、こりっ……。
サリヴァンの瞼が、痺れたように細まる。
「うん、すき……ずっとされてたい……」
「だめよ。お耳、傷ついちゃうから……」
「ええー……」
切なそうな声に、モミジの微笑も蕩ける。
「あと、もうちょっとだけね……」
──こり、こり……。
そうして、たっぷりと時間を掛けて、手前の耳垢は綺麗になった。
そんなうち、二人とも耳かきを始めたときの主旨なんて忘れていた。
ただ、夕日を浴びながら暖かい時間を共有することだけが、目的になっていた。
「──んよし。じゃあ、次は奥をやっていくからね」
「んん……」
手前の耳垢を取り終わり、ちり紙で耳かきの先端をぬぐって、準備は万端。サリヴァンの体はすっかり力が抜けきって、表情も夢見心地の中にあった。今ならモミジの力でも、体を持ち上げることは容易そうだった。
けれど、それどころか子供をあやすようにモミジは頭をぽんぽんと撫でる。
「痛かったらいうのよ?」
「うん……」
もぞりと、サリヴァンは膝枕の上で身じろぐ。太ももの温かさを確かめなおすみたいに。それから安心しきった長い息をすぅと吐いた。
再び耳の中へと視線を落とすモミジ。眼差しには、耳かきに集中し続ける疲労の色など、微塵もなかった。むしろ、頬の血色は階段を下りた頃より明るい。
背中に浴びる日差しと、太ももに抱くサリヴァンの体温が、十二分にモミジのことも温めていた。
しゅり……と慎重に産毛をなぞりながら、耳かきは奥へと入れられた。
奥に潜むのは、手前にあったものよりもやや柔らかそうな耳垢。
乾き具合で言えば、よく空気に触れる手前よりは劣るのだろう。
それに、奥にあるものだからよく見えづらく、どのようにはりついているかもわかりにくい。
だからこそ、腕の見せ所であった。
言葉にこそ出さないが、サリヴァンの耳のむずがゆさが増してきていることは明白だった。ゆっくりと、握ったり、開いたりを繰り返す手。すりすりと、爪先同士をこすりつけている足。夢見心地のサリヴァンが、自覚しているかは分からなかったけれど……いじられ続けた耳が温まって、その分敏感になっていることは想像しやすかった。
それは敏感になっているぶん、痛くもなりやすいということだ。
サリヴァンの寝顔の、一分たりとも歪ませる気はなかった。モミジは集中しきって、自分の指の一部かのように耳かきを動かす。
──こり。
サリヴァンが、短く息を吸う。とうとう、ぴくりと肩を動かすような力も、肩には残っていないようだった。
そして表情は安らかなまま。確認してから、モミジは耳かきを動かし続ける。
──こり。かり。こり……。
耳の奥で、耳垢が匙に乗って、よく動いているのが見えた。モミジはひとまず安堵した。こびりついた、取りにくいものではないようだった。
下手に千切れて耳垢の破片を奥に残し、取り残しては厄介だ。モミジは可能な限り小さな力で、耳垢を持ち上げようとする。
すると、僅かな抵抗感。奥の見えないところで、耳の壁に張りついているらしい。
迷うことなく、最少の力で地肌の方へ、耳かきを潜り込ませる。
柔らかな触感にあたって、耳かきを止める。おそらくはそこが耳の壁であった。
手を止めたまま、モミジは一度だけ小さく息を整えた。ほんの少しだけ起こった緊張を、息に乗せて吐き出す。
それから、張りついた根本を剥がすように動かす。
──かり……。ごそ……。かり……
サリヴァンの眉間に、小さく皺が寄った。すぐにモミジも気づいて、手をまた止める。
「……いたい?」
「……ううん。ちがくて……」
今にも眠りに落ちそうな声が、もどかしそうに言葉を紡ぐ。
「かゆい……」
声を聞いて、ふっとモミジの表情も緩んだ。それから、耳かきにまた集中しなおす。
「そうよね……こんな奥の取ろうとしたら、かゆいわよね……」
「うん……。すこしなら……いたくてもいいから……はやく……とってほしい……」
切実なのにふやけた声の可愛さに、油断してしまわないよう注意しつつ、ふふとモミジも微笑んだ。
「だーめ。痛くはしません。そんなの、私が許さないわ……」
あくまで優しく、一番丁寧なやりかたで耳を綺麗にすることしか、モミジの選択肢にはなかった。
それから勿論、サリヴァンの気持ちを和らがせることも忘れない。
耳かきを動かさないように、慎重に唇を耳元へ近づける。
「だいじょうぶ。すぐとってあげるから」
甘いささやき声。心地よさに、サリヴァンの眉間の皺もふっと消える。
囁きの魔法が効いている間に、耳垢を取ってしまおうとモミジは考えた。
──ざり……。ぞり……。
耳壁に沿って、耳かきを少しずつ持ち上げる。耳垢が引っ張られて、やがて微かな抵抗を感じたら、耳かきを元の場所に戻す。
その繰り返し。
──かり……ざり……こり……ざり……。
少しずつ、だが着実に耳垢は剥がれてきていた。
「うぅ……」
切なそうな声がまた漏れる。痒みが苦しいほどにならないうちに、はやく取ってあげたい。けれど、急げば痛ませてしまうジレンマ。
賢者には賢いなんていう字がつくが──その肩書に元が着いた今でも、モミジは至って冷静だった。
──かり……こり……ざり…………。
耳かきの先端に感じる、引っ掛かるような力が、絶妙に弱くなった瞬間。
──ぺりっ……。
モミジはほんの少しだけ力を加えて、耳垢を剥がした。
「あっ……!」
サリヴァンが短く声を声を漏らすのと一緒に、僅かに体が震えた。
モミジは、耳かきを痛いところに当てずに済んだ。
もう奥の耳垢は取り切って、中腹あたりで零さないよう抑えていたから。
焦らず、騒がず、ゆっくりと耳垢を引き抜く。
ずぞぞ……と出てくるのは、匙からはみ出るくらいの、柔らかくしなった耳垢。
確かな達成感が、モミジの表情を綻ばせる。
同時に、耳垢がなくなった耳の中へ、新鮮な空気が入り込む。
大きな異物感に、疲れるくらい痒みを覚えていたサリヴァンの耳が、ひやりと冷やされる。
「ふぅ……全部取れた」
満足げなモミジの呟き。
一方で、すっきりとした寝顔を浮かべていたサリヴァンは、とろんと目を開いて、もぞ……と膝枕の上で身をよじる。
横眼の上目遣いで、モミジを見上げた。
「もう……こっちは終わり?」
「ううん」
モミジは優しく頭をなでながら、首を振った。サリヴァンの潤んだ瞳の意味は、モミジにもよくわかっていた。
「しあげに、細かいのを取ってくわ。そのついでに、かゆいところもかいてあげる。奥のとこ……まだ気になるんでしょ?」
それを聞いたとたんに、サリヴァンの眼差しから不安の色が消える。「うん……」といってすぐ、現金なことに目は閉じられて、もういちど膝枕の収まり具合を整え直す。
二度寝を許されたような、幸福な寝顔がまた浮かぶ。
「もう……しかたないんだから」
呆れたような言葉もまた、口調はどこまでも幸せそうだった。
「さ……まずは奥からね。一番かゆかったんでしょう?」
「うん……まだ、むずついて……」
「ええ。あの耳垢も、長く溜まってたことでしょうし……下の地肌も、敏感になってるだろうからね……」
モミジは、耳かきの匙を斜めにして、奥の耳壁に沿わせた。
耳にあたる面積を増やすことで、先端だけで触れるより、刺激を分散して和らげることができる。
──かりり……。かりり……。
そうして、耳かきをゆっくりと上下に動かす。
「ふわ……」
またサリヴァンの声が漏れる。仕方のない事だった。久しぶりの空気に触れた地肌の敏感さも相まって、気持ちいところの神経に、直接触れられているようだった。
──ざりり……。さりり……。
それに、一緒に細かい耳垢の塵も掻き取られるものだから、掻かれるたびにわずかに感触も変わる。たまらず、サリヴァンの唇も開きっぱなしになってしまうというものだった。
「そこ、もっと……」
「うん。赤くならない程度にね」
「やったあ……」
嬉しそうに唇を動かした時、唇の端に透明で冷たいものが見えた。なんとか、「じゅる……んむ……!」とサリヴァンが口を閉じるのが間にあう。
モミジは楽しそうに笑う。
「ちょっと、涎垂らさないで」
「ごめん……」
「……うそ。別によだれくらい、いいわよ。口も、開けっ放しでいいから……」
モミジの柔らかな声に、結ばれたサリヴァンの唇も緩む。
それから、モミジは慎重に動かしていた耳かきを、少しだけ早く動かし始めた。
──かりっ…。さりっ…。かりっ…。ざりっ…。
「んぁ、ふぁ……」
一番気持ちいいところを、少しだけ早く、細かく掻いてあげる。ゆっくりとした気持ちよさに慣れてきたばかりの耳が、また驚かされて過敏に反応する。
「ね。そのまま、口、開けっ放しでいいから……」
悪戯っぽくモミジは囁いた。サリヴァンもされるがまま、口から力を抜いて、その心地よさに浸り続けた。
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「ふぅーー…………。ふっ……」
すっかり綺麗になった耳の中に、温かなモミジの息が吹き込まれる。遮るものが無くなったから、耳の中全部がそのこそばゆさに反応する。
サリヴァンはふるっ……と体を揺らして、最後の快感に浸った。
「──はい、これでこっちもほんとにおしまい。綺麗になったわよ、お疲れ様」
「んー……」
両耳の掃除が終わった。
くたっと、サリヴァンは膝枕の上で転がって、真上を向いた。目覚めてすぐのような、蕩けた目で、モミジをじぃっと見つめる。
モミジもまた、どこか熱っぽい瞳で、じぃっと見返す。
サリヴァンは何も言わないまま、微笑んで、両手を前へ広げる。
モミジもまた、──ふぅっと何かを諦めるみたいな息を吐いてから──両手を広げて、モミジの体を抱えた。「よい、しょ……」なんて声をサリヴァンは出しながら、二人して抱き合って体を起こす。
そして、サリヴァンは背もたれへモミジを押し倒すみたいに抱き着いた。
「わ、ちょっと……」
モミジの抗議の声を、頬ずりでかき消す。
それから右耳の方へ優しく、サリヴァンは囁く。
「耳かき、ありがと。気持ちよかった」
「うん……」とモミジは控えめに返事してから、目を逸らす。サリヴァンの背をもう一度抱きしめ直しながら。
密着して、二人して鼓動の音は二つ聞こえていた。ゆっくりとした方と、少し早い方。
いっとき静寂を味わってから、またサリヴァンは囁きかける。
「ね。このままお昼寝して。一緒に」
「……」
返事はないが、抱きしめる手の力も緩まない。
「ねえ」と言って、サリヴァンはゆっくりモミジへ体重をかける。こんどは背もたれじゃなく、腰かけの方へ。押し付けないように、重くないように、宝物を扱うように……ゆっくりとモミジを押し倒す。
「……」
モミジはずっと目を逸らしていた。力のまるで入っていない体で、赤らんだ頬のまま。
そうして、二人はソファに寝ころび合った。抱きしめたモミジの体はいつの間にか、いとも簡単に横向きに寝かされていた。
モミジは歯がゆそうに眼を瞑る。
特注ソファは、ゆったりくつろげるようやや奥へと傾いている。
奥側にサリヴァンは体を沈めていた。
「ね。そのまま私に体重預けて。そう……私を抱き枕にして」
今度はサリヴァンが重みを預かる側になる。段々と感じるモミジの重さ。
サリヴァンは背中を抱き留めていた手をひとつ外した。頭の方へ持ってきて、さっきまでずっとされていたお返しのように、さらさらと髪をなでる。
モミジの鼓動もまた、段々とゆっくりとしてきた頃──サリヴァンはモミジの眼鏡を外してあげた。サリヴァンが手を伸ばすだけで、サイドテーブルには簡単に届いた。
『あっ、もう……』なんて表情に書いているみたいに、ようやくモミジが目を開いた。じとっと目を細める。
あまりにも可愛いものだから、サリヴァンの笑みも綻ぶ。
二人は十秒、熱っぽく見つめ合った。
静寂はサリヴァンによって破られた。
「ね……モミジ。“まいった”って言って」
「……」
目を逸らすモミジ。けれど、また髪を撫でているうち、「はぁっ……」と折れたようにため息を吐いた。
「まいったまいった。私の負けよ」
「ふふふ」
サリヴァンはぎゅうと抱きしめる。モミジもまた、ひかえめに抱きしめ返す。
「あなた、体温高いのよ……。これじゃあ、いつまで寝ちゃうか……」
「だいじょうぶ。起きたら、疲れてたの全部忘れてるくらい、ぐっすり寝かせてあげる。耳かきのお返し」
サリヴァンはもう一度頬をすりつけ、軽い口づけをした。髪もまた、寝かしつけるようにぽんぽんと撫でる。
モミジの瞼も声も、簡単なくらいに蕩けていく。
「もう……あなた、お日様の匂いしかしないじゃない……」
「そりゃあ、たくさんあったまったから……」
やがて、耐え切れないように瞼が閉じられた。息はすぐ深くなる。
愛しさに包まれながら、サリヴァンはまだモミジが眠り切らないうち、優しくささやきかけた。
「おやすみ。だいすきだよ」
「……」
少し遅れて、言葉は帰ってくる。
「わたしも。おやすみ」
サリヴァンもまた、微笑みながら目を閉じた。