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ある日、町の中で熊さんに出会った

作者: 雉白書屋

「おっと、へへっ、ふうー、転びませんよっと……えっ」


「あっ」


「く、熊!」


 驚きのあまり、酔いが一気に吹き飛び、全身が凍りついた。当然だ。夜の帰り道、ゴミ捨て場でゴミを漁る熊と鉢合わせするなど、誰が予想するだろう。

 確かに最近、熊が都市部に出現しているというニュースは耳にしていたが、まさか自分が住む町にも現れるとは思ってもみなかった。この町にも山はあるが、熊がいるなんて話は聞いたことがない。いや、もしかすると、もっと遠くの山から迷い出たのかもしれないが、そんなことは今どうでもいい。

 おれはテレビに取材されるのか、いや違う。この状況をどう切り抜けるかが問題だ。熊と遭遇したらどうすればいいんだったか。大声で威嚇すべきか、静かに後ずさりするべきか、死んだふりは逆効果だったか、ああ、どうすればいい。ある日、森の中で熊さんに出会ったら、ええと、何をどうして……いや、ん?


「え? 今、『あっ』って言わなかった?」


「……いや」


「は!? 『いや』って言った! 熊が!」


「あの、もう夜遅いので大きな声を出すのは控えたほうがいいですよ」


「おあっ!」


 おれは再び驚いた。まさか熊に正論を言われる日が来るとは。いや、いったいどうなっているんだ。熊が喋るなんて、まさかロボットなのか? いやいや、そんな馬鹿な……。


「えっと、な、なあ……」


「まずは挨拶からでしょう。こんばんは、人間」


「あ、ど、どうも、こんばんは……熊、さん……」


「まあ、道の真ん中では落ち着かないですから、近くの公園に移動しましょうか。人けもないし、ゆっくり話せますよ」


「あ、はい……」


 おれは熊の提案に従い、公園へと向かった。熊はベンチの横に腰を下ろし、隣に座るように促した。おれはおそるおそる、そのとおりにした。


「えっと、君、いや、あなたはどうして人間の言葉を話せるんだ?」と、おれは熊に訊ねた。敬語を使うべきかどうか迷っていた。


「んー、適応しすぎた」


「適応しすぎた!?」


「最近、熊たちが人間の生活圏に出没することが増えているよね?」


「あ、はい……エサが足りなくなってるとか……」


「そうそう。それがニュースになったりしてさ、人々を不安にさせているのは同じ熊として申し訳ないと思っているけど、君たちもちょっと騒ぎすぎだよね」


「あ、まあ、はい……」


「私がちょっとゴミを漁っていただけで、さっきの君みたいに大騒ぎしてさ。大悪党扱いだよ。君たちは欲が深いねえ。自分たちが捨てたものにまで権利を主張するんだから」


「いや、別にそういうわけでは……」


「自分たちは我が物顔で山や森の中に入ってくるのにさ。ちょっと不公平だと思わない?」


「ま、まあ、ちょっとは……」


「さんざん、私たちをモデルにしたキャラクターやグッズを売って儲けているくせに、君たち人間が熊にしてくれたことって山の入り口に『熊出没注意』なんて看板を立てることくらいだよね。でもね、本当に立てるべきは『人間出没注意』の看板だよ」


「それは、はい……」


「まあ、人間社会に触れる機会が増えたおかげで、君たちの言葉や文化を学んで、こうして喋れるようになったんだけどね」


「え、いや、でも熊が喋るなんてやっぱりありえない……」


「へえ、見くびってくれるじゃないか」


「あ、そういうわけでは! すみません……」


「ははは、いいんだ、いいんだ。ああ、そういえば昔もいたみたいだよ。人間の言葉を話せる熊がさ」


「え? そうなんですか?」


「そうそう、歌にもなっているよね。『ある日、森の中』ってやつ」


「あれって実話!?」


「実話というより、告発じゃないかな」


「告発!?」


「そう、森の中で人間の言葉を話すことができる熊に出会った娘が、見逃してもらう代わりに、この出会いを秘密にするという誓いをした。しかし、熊の脅威を感じた娘は、歌にして人類に警告したんだよ」


「そんな事実が……」


「まあ、ジョークだけどね。ははは! ははははははっ!」


「えっ」


「ははははははははっ!」


「あ、ははは……」


「まあ、熊は森の哲学者って呼ばれるくらいだから、人語を理解した熊がいても不思議じゃないけどね」


「いや、森の哲学者は確かフクロウじゃ……」


「グアアアアオ!」


「うわっ、なんですか!?」


「別に」


「いや、急に野生の感じを出さないでくださいよ……」


 熊が突然こちらを向いて咆えたので、おれは腰を抜かしそうになった。

 おそらく、ごまかしたかったのだろう。そして、熊はその後、何事もなかったかのように話し続けた。


「わかるよ。君たちも私たちと共生を望んでいることは。でも、こっちが歩み寄ると君たちは迷惑と言うよね。これってどういうことかな?」

「君たちが山に入り自然を楽しむように、私たちも町を楽しみたいよ。まあ、そうしたら君たちは熊被害がーって言うけどさ。本当の被害者は誰なのかな」

「ハチミツは別にそこまで好きじゃない」

「君たち人間は『侵略』という言葉を『開発』という言葉に置き換えたがるよね」

「まあ、そうは言っても、私たちの山や森でも住宅開発が進んでいるんだけどね。つまり、熊たちが番いになって、その子供が増えているってこと。規模の割に生息密度が高くて息が詰まりそうだから、こうしてリフレッシュしに町に来ているのさ」

「君たちって自然を楽しむふりして、スマートフォンをいじりすぎだよね」

「ソロキャンプって何? そこまでして孤独を感じようとしなくても、人間は孤独だよ」

「君たちこそ、冬眠したほうがみんなのためになるよ」

「境界線を曖昧にすることは危険なことだよ。これは、あらゆることに当てはまるよね」


 おれは何も言い返せず、熊の語る皮肉混じりの言葉に相槌を打ち続けた。鼻につくジョークに、精一杯の愛想笑いを浮かべた。


「疲れているみたいだね」


「え、はい、あ、いえ、全然……」


「眠いかい? まあ、もう夜遅いからね」


「はい……仕事が忙しくて、もう、ストレスが……それで帰りに飲んで、でもまた明日も仕事なんですよね……はあ、正直、熊さんが少し羨ましいですよ。のびのびと生きて、あ、いや、その、熊さんも大変だと思いますけど……」


「ふーん。じゃあ、最後にジョークを一つ。それでお開きにしようか」


「あ、は、はい!」


「どうして熊が喋ることを人間に知られていないと思う? それはね……」


 熊がゆっくりとおれに顔を近づける。


「……それを知った人が、二度と喋れなくなるからさ!」


「え、あ、あああぁ!」


「はっはあ! 私が君を食べると思った? 食べやしないよ。だって人間って添加物まみれで味が悪いからね!」


「あ、あ、あははは……」


「じゃあね」


 熊はそう言うと立ち上がり、歩き始めた。ようやく解放されたと思うと、全身の力が抜けた。


「でもね……」熊がおれのほうへ振り返った。「君は本当に熊が喋ると思うかい?」


「え、それはまあ、ありえないと思いますけど、現に……」


「これは君の妄想だとは思わないかい? 君は夜道で熊に出会い、逃げる熊の後を追って、この公園まで来た。熊は喋らない。これまでの会話は全部、君の内なる声だった。つまり、哲学者は君自身だ」


 熊はそれだけ言うと、足早に去っていった。その後ろ姿は紛れもなく、人間社会に迷い込んだ野生動物そのものだった。

 だが、そういうおれはどうなのだろうか。迷子になってはいないだろうか。熊がおれの返答を待たなかったのは、答えを聞かせるべき相手が他にいて、それはおれ自身なのではないだろうか……。

 頭痛がし始めたので、おれは考えるのをやめた。ベンチから立ち上がって家に帰り、泥のように眠った。


 翌朝、おれは熊になっていた。

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