ひとつ目の願い
可愛い天使のエルちゃんは、30年も前に助けてくれたお礼に、私の願い事を3つ叶えると言う。唯、条件がひとつあるとも。彼女はゆっくり言葉一つ一つを噛み締めるように話し始める。その声も正に鈴を転がすような、心洗われるような愛らしい声だ。
「自分の事は願えないの。自分以外の人の事を願って欲しいの」
私はしばらく考えて「母が元気になって欲しいから、それを願ってもいいの?」と聞く。
「勿論OKです」エルちゃんは小さく白い指でピースサインを作っている。
「じゃあ。母が元気に、なって、大好きな生クリームたっぷりのロールケーキが食べられますように」
「それで良いの?」
「もっと長生きして欲しいけど、それは無理かな?」エルちゃんは少し考えてから、「お母さんがどれだけ生きられるかは、神様がお決めになられるから、私には出来ないことなの。ごめんなさいね。でも、元気な時間を少しくらいなら、延ばすことは出来る」
「有り難う。それで十分だわ。エルちゃん、宜しく御願いします」彼女はにっこり微笑むと、大きく頷いた。帰る前に母に挨拶したいと言うので、私の大事な友達だと紹介する。母は大きな瞳でしっかりエルちゃんを見ていたが、その愛らしい姿が気にいったらしく、両手を彼女に差し出した。
「こんにちは。エルと言います」母のやつれて厚みのない手を、小さくて白い手で包んでくれる。
母は「とても、暖かくて、身体が軽くなった。とても、良い気持ちよ」そう言うと、うとうとし始めた。「有り難う。久し振りに母の穏やかな顔を見たわ」「優しいお母さんだってこと、よく分かる。明日、お母さんのお好きな物を差し上げてね」エルちゃんは私の両手をしっかり握り、「また、お会いしましょうね」といつもの愛らしい笑顔を残して帰って行った。
そのあと、不思議なことに、母の認知症の症状は消えていた。話す内容は辻褄が合っているし、何年ぶりかで私は母とちゃんとした会話が楽しめた。大好物のロールケーキを朝、昼、晩と1個ずつ美味しいと言って食べてひと月が経った。亡くなる前日、母は黒い衣装を纏い、黒い頭巾を被り、右手に鎌を持った人がいると言い出した。もしかして、その人は死神?と思った。
しかし、母は怖がる様子もなく、「死神さんも神様だから、私は怖くない。神様の所へ連れて行って下さるのよ。人は誰でもいつかはあの世に行く。行かない人は残念だけど居ない。私の番が来たの。唯、それだけの事。私がいなくなっても、ずっと見守っているから、元気で後悔しない人生を送ってね」母はそういうと、笑顔を見せた。
そして、翌朝、母は苦しむことなく静かにあの世へ旅立った。そのとき、すぐ近くでエルちゃんの鈴の音が聞こえた。初めて会ったときにも聞いたが、その半年後にも聞いていた。
大学生の時、友人二人と美ヶ原高原へ旅行に行った。天気の急変で雨と霧に見舞われ、軽装で出掛けてしまい
あわや遭難かと思ったとき、エルちゃんの鈴の音に導かれて助かった経験があった。
今回も母が無事にあの世に行けるように、鈴の音が導いてくれている。エルちゃんの懐かしく優しい、あの鈴の音が……。