天使
連日の、今まで経験したことのない暑さが8月に入るとより一層力を増す。その所為か、85才になる母の具合が良くない。心臓と腎臓に病を抱えているが、普通に生活は出来ていた。
ところが、徐々に食欲が落ち、とうとう何も欲しくないと言い出した。腎臓内科の医師からは、水分を沢山摂るように指示されているが、それも言うことを聞かない。少しずつ認知症の症状も出て来ているからでもあるが。
かかりつけ医の所へ連れて行くと脱水症状を起こしていると言われ、そのまま、救急車で総合病院に行く事になった。
私はもう、駄目かも知れないと覚悟をして、救急車の母を見つめていた。こんなに簡単に歩けなくなるほど体調が悪くなるとは思っていなかったから、不安でたまらない。そんなとき、母に付き添って下さる、若い救急隊員の男性が、私に、「点滴をすれば元気になられるかもしれませんよ」と言われたのだ。本当にまた、元気になるかもしれないと、その言葉に随分勇気づけられた。
その後、母は入院し、救急隊員さんの言われた通り、元気を取り戻した。
そして、2週間後に退院したが、食欲はほとんどなし。点滴で何とか命を繋いでいる。口から栄養が摂れないので、かかりつけ医も、入院していた病院の医師も余命1週間位と私に告げた。
何とか、もう少し生きられないか、せめて、好物だけでも食べさせたいと心から願った。
その翌日。いつものように、母の世話を終えて休んで居た時だ。
「こんにちは」と誰かがやって来る。玄関の扉を開けると、そこには思いがけない人が微笑みながら立っていた。
「エルちゃんなの?」私は突然30年前にタイムスリップした気がした。なぜなら、彼女はあの時と全く変わらず
7才の可愛い女の子のままだったのだ。「お久しぶり。私のこと覚えていてくれたんだ、ありがとう。ミカさん」「私のことも覚えていてくれたのね。嬉しいな」エルちゃんは少し、恥ずかしそうにしている。私は彼女を応接間に招き入れた。あの時とは違って、真白いレースの半袖のワンピース姿。白いサンダルの爪先を向こうに向けてきちんと揃えて脱ぐと、私の後についてくる。「お母さんのおからだどうなの?」母の寝室の方を見ながら言う。「どうして、母のことを聞くの?」「私には何でも分かっちゃうの。ミカさん、驚かないでね。私は天使なの」「天使って。あの背中に羽根をつけた可愛らしい天使?」エルちゃんは頷いた。初めて会ったときのあの愛らしく、心を癒す微笑みを浮かべて。本当に天使なら、初めてあったあの時の不思議な印象も頷けるし、30年経っても年を取らない理由も分かる。
そして、22才の時に行った美ヶ原高原で遭難仕掛けた危機を救ってくれたのが、エルちゃんだというのも。「あの時、ミカさんに助けて貰わなかったら、私はお巡りさんに、連れていかれてどうなってたか分からない。私はあの時見習いの天使で先生たちに叱られる所だったの。ミカさんのお陰だ」「そんなに大袈裟に言わないで。大したことしてないよ」「本当に助かったの。ありがとう。だから、お礼がしたいの」
「お礼なんていいよ。エルちゃんの顔が見られるだけで良いもの。それにお礼を言うのは私よ。昔、高原で助けてくれたでしょう?」
「そんなことあったかな」エルちゃんははにかみながら笑っている。「だから、ミカさん大好きなんだ」エルちゃんは、テーブルの冷たいオレンジジュースを美味しそうに飲み終えると、私の目をちゃんと見て話し始めた。「私は、今は一人前の天使だから、ミカさんの願い事を3つ叶えられるの」優しい笑顔の奥に前にはなかった自信のような、堅い意志が感じられる。
もし、本当に叶うなら彼女の申し出は有難い。エルちゃんは更に続けて言った。「ただ、ひとつだけ条件があるの。それを守れば何だって叶えられるわ」
その条件とは何なのか、私はやはり気になった……。