天使の悩み
22才の若い娘に戻った36時間が終わりを告げる午前0時。エレベーターの扉が開く。一歩廊下へ踏み出した途端、足や腰、身体全体に違和感が走る。それは慣れ親しんだ、懐かしい感覚で、手ぶらだった両手に久し振りに持たされた荷物のように、重くのし掛かる。
つまり、元の65才に戻ったのだ。軽やかで美しい、若さという翼を記憶の中に再び閉まって、楽しい夢から目覚めたのだ。
しかし、夢でなかった証に私の左手の中指には、愛する彩斗さんから貰って、指にはめてくれたブルーサファイアのリングが輝く。魔法が解けてもシンデレラのガラスの靴が残ったように。
カーテンから差す10月初めの朝の光に起こされて、目を開けると、天使のエルちゃんがいつもの愛らしい笑顔で私を見ている。
「お早う。ミカさん。良く眠れた?」
「お早う。エルちゃん。ぐっすり眠れた」
「それは良かった。楽しい時間だったかな?」
「勿論。言葉では言い尽くせないくらい楽しかったし幸せだった。エルちゃんとリリちゃんのお陰です。本当に有り難う」エルちゃんは更に嬉しそうに微笑む。寝起きの目を凝らして良く見るとエルちゃんの両隣に初めて会う天使が二人いる。二人ともニコニコ笑っている。「こちらがリリちゃん。とても、しっかりしていて頑張り屋さんなの。ピアノもお上手なんだよ」と向かって右側に立つ、ブラウンの巻き毛の丸顔の可愛い天使を紹介する。彩斗さんが私と出会えるように計らってくれた、愛のキューピッド。
「はじめまして。リリです」
「はじめまして。リリちゃんのお陰で楽しくデート出来ました。本当に有り難う」
「私はお二人があの朝、うまく出会うようにしただけで、あとは何もしていない。何もしなくても、彩斗さんはミカさんを愛しているのが分かったから、唯、見守っていただけです」
そうだったのか。彩斗さんが私にしていた行動は全て彼の意思だったのだ。余計嬉しくてまた、泣きそうになる。
「こちらがノノちゃん」二人より少し背の高い、ウェーブのかかった黒髪をショートカットにした、目の大きな可愛い天使だ。
「はじめまして。ノノちゃんです」その少しおどけた様子に癒される。
「はじめまして。よろしくね」
「ノノちゃんは新米天使だけど、矢をハートに当てるのがとってもお上手なの」とエルちゃん。
「でも、この前違う女の人のハートに矢を当てちゃったの。大失敗だった」
「でも、間違えたお陰でその女の人に片思いしてた男の人と上手くカップルになったんだよね」とリリちゃんがフォローする。
「それは、良かったわ。ノノちゃん」私が言うとノノちゃんは恥ずかしそうに笑っている。
「でも、ノノちゃんは、私たちが悲しいとき、いつも笑わせて慰めてくれるやさしいお姉さんなの」とリリちゃんは言う。おしゃべりしていると、エルちゃんが「ミカさん。皆で朝のお食事頂きましょう」と声を掛ける。さっと、着替えてテーブルへ。トーストとバター、苺ジャム、スクランブルエッグ、ポテトサラダ、バナナとミルクが置かれていて、どれも美味しそうだ。三人で作ったと言う。改めてお礼を言う。冷めない内にとスクランブルエッグから口にする。柔らかくてほんのり塩味で美味しい。私の反応を見ていた三人は安心したように食べ始める。
「トーストは私が焼いたの」とノノちゃん。
「トースターに入れただけじゃん」と突っ込むリリちゃん。そのやり取りを聞いて笑っているエルちゃん。
とても楽しい。食事の後片付けも三人であっという間にしてくれる。リリちゃんと、ノノちゃんは予定が入ってるとかで先に帰って行った。
「また、お会いしましょうね」とお互い挨拶を交わして。
「二人とも良いお友だちね。安心した」
「ありがとう。家族のいない私たちにはお友達と先生が家族なの」
「そうなのね。家族がいないのは私も同じ。でも、先生やヘルパーさん、看護師さん、彩斗さん、そこにエルちゃんたちが加わって良くして貰ってるから、淋しくないといえば嘘になるけど楽しく過ごせている」
「リリちゃんから、ミカさんが若くなっていた時のことは聞いているの。彩斗さんも本当に優しくて私達も嬉しかった」
「夢のような幸せな時間だった。本当に有り難う」
「こちらこそ。ミカさんが喜んでくれるのが天使として一番嬉しいの。だから、本当の年齢に戻っても嘆かないでね」「嘆かないよ。彩斗さんにも同じことを言われたしね」
エルちゃんはちょっと神妙な顔で話し出す。
「私たち天使は10才までに高いお空に昇った子どもなの。私は病気だったけど、いろんなことで皆お空に行ったの。
だから、ずっと子どものままなんだ。大人にならないんじゃなくて、成れないの」
「そうだったの。私は何年経っても年を取らず、可愛いままのエルちゃんが羨ましかった」
「私はミカさんが羨ましいよ。だって、いろいろなこと出来たでしょう。大人の女の人として。今だって、彩斗さんを愛している。私には分からないことだもの」
私はそれでも笑みを絶やさないエルちゃんが可愛くて抱き締めた。彼女の温もりが伝わって来る。
「私は贅沢な悩みを抱えていたのね。彩斗さんを愛したばかりに、自分の年齢と老いて行くことへの哀しみとか、怒りとか嘆きに囚われていた。年を重ねることも老いて行くことも自然の事なのに。有り難う。エルちゃんに教えられたわ」「ミカさんが元気になってくれればいいの。私のお話はお仕舞い」歌うようにエルちゃんは言うと、好物のホットケーキを食べ始めた。作って置いていたらしい。私も食べながら「淋しくなったら、いつでも私の所へ来てね」と言うと
「ありがとう。ミカさんは私の家族だ」と言ってくれた。
「でも、心配しないでね。お友達のリリちゃんやノノちゃんもいるからね」
「そうだね。良いお友達が居て良かった」ホットケーキをペロリと食べ終えると、ポシェットを斜め掛けにして、「また、お会いしましょうね」と小さい手をふり、愛らしい笑顔を残してエルちゃんは帰って行った。




