昇華
「ほら、さっさと今日の稼ぎ出しな。……まったく、これっぽっちかい。まともに山菜すら取れんなら、そろそろ自分の身体でも売ってきたらどうだい?」
「……申し訳、ありません……」
今日朝早くから山菜取りに出掛け、収穫したそれを昼過ぎから路地売りし、何とか売り捌いて夕刻には帰宅出来たが、養母に売上金を渡したところで怒られてしまい、玄関先で縮こまった。
ぼんやりと、今日の夕飯について考える。夕飯というか、1日一食なので今日のご飯についてだが。
養って頂いている身なので、夕食で頂けるのはご飯と沢庵ひとつだ。義母の機嫌が良い時には、たまに御味御付がついている。
あまりにも毎日お腹が空いてしまい、生食出来る山菜で腹を満たしてはいるが、それだと売上金が減ってしまいあまり生産性は上がらない。
そして怒られてしまった今日も御味御付はつかないだろう。
「まぁまぁ、おねねだって毎日頑張っているんだからさ。おねねに今後良いご縁が舞い込んで来た時、身体なんぞ売ってたら洒落にならないじゃないか」
義母の後ろから私を庇うように義父が言い、私の肩を抱いて家の中へ入れる。
「ガリガリで器量よしでもないねねに、そんな縁談くる筈もないじゃないか。毎回あんたがそうやってねねに甘いから、結局今しか値がつかないものも売れないんじゃないかい」
義母は後ろから付いてきて、ため息をついた。
そうしてぶつぶつと何か言いながら、台所へと行ってしまう。
「……」
肩にのっていた義父の手が、するりとおりて腰に回る。腰から更に尻へと移動し、そのまま撫でられた。
「おねね、大丈夫だぞ。お前が嫁に行くまで、変な輩から俺が守ってやるからな」
尻をぎゅう、とそのまま鷲掴みされて、ぞわりと鳥肌がたち、心の臓が凍る。優しい言葉をくれる義父が、何故苦手なのかわからなかった。
義父母には、豊かな暮らしではないのに両親に代わって育てて頂き、感謝している。
八歳の頃に引き取られたから、もう8年もお世話になっていた。
あまり食事を取らせては頂けないから、同じ年頃の子供達より成長は遅い、らしい。そう近所の人達が噂しているのを聞いた。
ただ、そんな魅力のない身体であっても、処女というのは売れるらしく、事あるごとに義母は身体を売れという。
義父は毎回反対してくれるので、今のところ何とか身体を売るまでには至っていない。
もう、私は16歳だ。
お嫁は無理でも、そろそろ奉公しにこの家を出たいとは思っているが、私を疎ましいと言う義母ですら、それには首を縦には振らない。
……だから、私はここにいて良いのだ、とその度に安堵する。
「ねね、いつもの裏山の山菜が芳しくないなら、明日から姥捨て山に行っといで」
欠けてヒビの入ったご飯茶碗半分ほどに盛られた米粒を、ひとつひとつ丁寧に噛み締めながら頂いている時、義母がそう言った。
私に拒否権はない。
「……はい」
「明日は特別に、おにぎりひとつ持たせてやるよ。1日山で山菜をたんまり取って、2日目にそれを売り捌きな。きちんと2日分以上の売上を出すんだよ?」
「はい」
姥捨て山との通称を持つ、この家から歩いて四時間程でたどり着く山は、山中に足を踏み入れた年老いた方々だけ神隠しにあうといつの頃からか言われている。しかし、最近は若い者達ですらも姿を消すと噂されていた。義母がそれを知っていて私にその指示をしたのかどうかはわからないが、確認する事も出来ない私は臆病者だ。
要らない、用無し人間と言われるのが怖いのだ。
下手な事を聞いて義母に嫌がられるよりも、文句を言わずに山へ入って山菜を沢山取って、義父母に喜んで頂いた方が良い。
姥捨て山で採れる山菜は豊富で都から近い事もあり、山に入る者は少なくない。私の様な、若く山に詳しくない者が山の中で道に迷うなんて事はよくある事で、要は迷わない様に目印をつけて行けば良いのだ、とこの時の私は浅はかにも思ってしまった。
***
私は、びくびくしながら姥捨て山を一人歩いていた。
大きな羽音がバサバサッと上空から急に聞こえてその場でしゃがみこむ。
義母から頂いたおにぎりはとうに食べ終えており、足に力が入らない。
竹筒の中の水は、先程最後の一滴を飲み干してしまった。
私が山に入り、4日目になる。
初日は、良かった。山に入れば、直ぐ様茸や山菜があちらこちらに生えており、私は山道が見える位置で枝を折り、その折れた枝が見える位置で再び枝を折り、と少しだけ山道から外れたところへと入って、一時間程で普段よりも多く収穫出来た事に気分は高揚していた。
義母の指示は、1日目はたっぷりと収穫のみをする事だったが、予定外に収穫量が多かった為、一度都に売りに行き、そして戻ってくる事にした。
目印にしていた、折った枝をひとつずつ辿る。
しかし、その後いくら折った枝を辿っても、山道に出る事はなかった。
おかしい、と気付いた時には既に遅く、「他人のつけた目印」を誤って辿ってしまい、山道からは大分離れたところで途方に暮れる。
結局、野宿を三回しても、道らしい道にたどり着く事はなく、私は生きる為に思考を切り替えた。すなわち、ひとまず水場を探す事だ。
自分が山で迷うとは思わず、水は初日で半分飲んでしまっていた。道に迷ったと気付いてからは、ちびりちびりと飲んでいたが、それでもやはり喉の渇きには勝てず最終的には飲み干してしまった。
水場には、熊など危険な動物も集まっては来るが、如何せん、水すら飲めずにいたら何日か後には確実に死んでしまう。
方向感覚が狂う山でも、獣道を辿っていけば、いつかは水場に遭遇する筈……そう自分を慰めながら、一歩一歩、足元を見ながら歩き続けた。
すると。
チョロチョロ、と明らかに水の流れる音が耳を掠めたのだ。
その音を逃すまいと私は思わず音のした方角へ走り出し、そして……落ちた。
「ヨキ、やっと嬢ちゃん目が覚めたべ」
「お、それは良かった。おい、お前。大丈夫か?痛いところはないか?」
うっすらと目を開けると、そこには私と同い年位の手拭いを喧嘩かぶりした男の人と、白髪のおじいさんが、横たわった私を左右から見おろしていた。
「……ここは……」
慌てて起き上がろうとすると、身体に激痛が走る。
「つぅ……っっ」
「あばら骨が少し折れてるかヒビが入ってるっぽいな。身体みたけど、特に皮下出血もないから、しばらく安静にしときな」
「あ、はい……でも……」
私は、背負っていた籠を探した。山菜や茸を売って早く帰宅しないと、義母に怒られてしまう。
「家族が心配しているかもしれないってのはわかるけど、きちんと身体治してから行かないと。山道に戻るのは大変だぞ?」
「……はい……」
「じゃあ、わしは粥でも作ってくるとするか」
「お前、何ていう名前だ?何であんなところに倒れてた?」
おじいさんは台所に行ってしまい、残った男の人に矢継ぎ早に質問されて戸惑う。
「……私は、ねねと申します。山菜取りに山へ入り、山道へ戻ろうとしたところで道に迷いました。私を助けて下さり、ありがとうございました」
ここで頭を深々と下げ、相手の様子を伺う。
「こんな小さな子供が、一人で山菜取り……?家の手伝いか?偉かったなぁ」深く下げた私の頭に、そっと暖かい手が置かれて撫でられた。
……この男の人は一体、私の事をいくつだと思っているのだろう、と疑問が沸いた。
「……お肉が、入ってる……」
おじいさんが作って下さったお粥を、ゆっくりと咀嚼しながら食べた。
お粥には、何かの赤い実と、鳥のササミが細かく刻まれた様なものと、溶き卵が入っていた。梅干しや沢庵が添えられ、具沢山の御味御付まで付いている。
「こんな、ご馳走……本当に、ありがとうございます」
二人に笑顔を向けると、二人は顔を見合わせた。
ヨキと紹介された男の人が、私の食事が終わると声を掛けてくる。
私が食事を済ますまで待っていて下さったのだろう。
お腹を満たす為に、ゆっくり食べる癖がついているので申し訳なく思った。
「……ねねは、普段何食べてるんだ?肉は珍しい?」
「そうですね。八歳で義父母に引き取られてからは、数回しか口にしていませんね」
「八歳で……じゃあ、ここ3年位はあまり食べてないのか」
私は首を傾げる。
「いいえ。8年位です」
「……え!?は!?……ええと、ねねっていくつ?」
「16でございます」
「……じゅう、ろく……?」
「はい」
「……そうか、16なのか……ねねはここでゆっくりしてて。おい、じーちゃん、ちょっと!!」
それきり、私が空にした器は全てヨキさんが回収し、おじいさんと一緒に部屋を後にする。
「……?」
普段だったら食後は後片付けをするのが普通であったが、他人の家で一人でする事もなく、ただ布団から縁側の外を眺め……そのまま、眠りについてしまったらしい。
「よし!ねね、上手になったな!!」
それから、2週間。深呼吸をしても胸が痛む事はなくなったが、何故か私はヨキさんのお家でまだお世話になっていた。
今は、銛で魚を捕ったところだ。
私の身体の痛みが少なくなると、ヨキさんとおじいさんは「今度は体力の回復を」と言って、何もせずにご厄介になる事を恐縮し早々と帰ろうとする私に様々な事をやらせてくれた。
義父母の家と比べてはいけないと思うが、1日三食きちんと食べさせて頂ける様になり、明らかに身体に肉がついたのがわかる。
そして遅い成長期を迎えたのか、ここ最近で背が伸びたのを感じた。
ヨキさんもおじいさんもとても親切で……だからこそ、早く帰らなければと気が焦る。ずっとここに居たくなるから。
ヨキさんとおじいさんは、私を気遣いながらも色々質問してきた。
普段している仕事の事、一緒に住んでいる義父母の事、都での暮らし。
二人は真剣に聞きながら、時折顔を下げた。
最初はわからなかったが、しばらくすると、私の言った事が「普通ではない」事であったのだと気付く。
二人は私に痛ましい顔を見せない様にして、私を見る時だけは優しい笑顔を向けてくれた。
義父母には、仮にお金だけ巻き上げられ金ヅルだと思われていても、傍に置いて下さるだけで感謝しなければ、と思っていた。……いや、思おうとしていた。ガリガリに痩せた小娘を気にかける人なんて、義父母しかいなかったから。
だけど。
ヨキさんとおじいさんの、人としての本当の優しさに触れてしまっては……助け合い、協力して仕事や家事をこなしていく事を知ってしまっては、いくら義父母に感謝してても、もうこれ以上一緒にいる事は出来ないと感じた。
「ヨキさん、ありがとうございます!教えて頂いたとおりにやったら、私にもお魚が獲れました!」
獲れた魚をヨキさんに見せようと頭の上に持ち上げた時、魚が暴れて足元が滑り、「きゃ……っっ!!」そのまま水の中に倒れそうになった。
「ねね!!」
私は慌てて手に触った何かをぐいと引っ張り、同時にヨキさんに両手首を持ち上げられ態勢を戻される。それは一瞬の事で、瞳がぱちくりとした。
「す、すみません……」
目の前に、ヨキさんの顔が迫っていて顔が赤くなった。
ヨキさんは、多分格好良い人、という部類に入るのだと思う。
私の手を見ればヨキさんの頭に喧嘩かぶりしていたトレードマークの手拭いがあり、先程引っ張ってしまったのはこれだったのかと気付く。
「あの、これ……」
手拭いを差し出しながら、見てしまった。
凛々しく整っている顔。しかし、その額には……普段手拭いで覆われて見えなかったところには、二本の角が生えていたのだ。
みるみる、赤かった私の顔から血の気が引き、青くなっていく。
ヨキさんは、私の手を離して悲しそうな顔をした。
「すみません、ヨキさん……すみません……!!」
ヨキさんの悲しそうな表情が胸に突き刺さる。
やはり、見られたくなかったものを、ヨキさんが隠したかったものを、私は見てしまったのだ。
手拭いを勝手に外してしまい、本当に申し訳なくて泣きたくなった。
必死でヨキさんの頭に手拭いを被せようと背伸びすると、その手を再び掴まれる。
「……なんで、謝る……?」
「……?その角、見られたくなかったんですよね?私が勝手に外してしまったから……本当に、ごめんなさい……」
痩せっぽちな私を助け、優しく面倒見てくれた人。
そんな人に嫌われたくなくて、縮こまる。
「……俺が怖いんじゃなくて……俺が嫌がると思って、そんなに泣きそうなの、か?」
ヨキさんの問いかけに頷き恐る恐る顔をあげると、ヨキさんの瞳が真っ赤に光っていた。夕焼けの様な綺麗な瞳だが、普段は黒かった気がして首を傾げる。
「はい。ヨキさんに嫌われたくなくて……ところで、ヨキさんの瞳って、赤かったのですか……?」
私がそう言うと、ヨキさんは自分の瞳を腕で覆い隠してしまった。
「!!いや、これは……、いや、……、ねね、俺は……鬼なんだ。今はちょっとお腹が空いて……」
「そうでしたか」
鬼が人外という事は当然わかる。
だが、ヨキさんは、私に隠していた正体を明かしてくれたのだ。
つまりそれだけ、ヨキさんに近付けたという事。それがとても嬉しくて、思わず彼に微笑みかけた。
ヨキさんは、私が笑ったのを見て泣きそうな顔をする。
……何か間違えただろうか?
「……でも、ねね、ここにいろ。俺が守ってやるから、帰るな」
一瞬焦った私を、ヨキさんはぎゅう、と抱き締めてそう言ってくれた。
その事に、安堵する。
義父にも過去に言われた守るという言葉は、ヨキさんが言うだけで私の心に優しく響いた。
しかし、次の瞬間。お腹に激痛が走って思わずかがみこんだ。
「痛……っっ」
「ねね!?大丈夫か?ねね!!……血の、匂いがするぞ」
股に違和感を感じ、足元を見ると、捲り上げた着物の間からのぞく私の太腿を、つぅと血が流れていた。
目の前のヨキさんが、それを認めた瞬間、顔を真っ赤にする。
「……??」
「ねね、月のモノが来たんだな。早く家に帰って休もう」
「……これが?月のモノ……」
普通の少女は、12歳位に初潮を迎えるらしいが、私には来なかった。
16歳になっても来なかったから、そういう体質なのか、と思っていたが。
「最近はしっかり栄養のある食事をしていたから、やっと身体が正常に機能し出したんだな」
ヨキさんは、そう言って私の手元から魚を回収し、横抱きにひょいと抱えあげて嬉しそうに笑った。
私は慌ててヨキさんに抱き付きながら、ヨキさんの反応からするにこれは良い事なのだと判断し、じんわりとしたお腹の痛みを歓迎した。
***
真っ赤な瞳のヨキさんを見て、おじいさんは「なんじゃ、おねねが気になってさっさと食事に行かんから逆にバレたか。間抜けな話よのぅ」と笑って言った。
ヨキさんは苦笑いしながら、「ねねは体調が良くないから、ちょっと見といてくれ。血の匂いに当てられてそろそろ限界だから、食事に行ってくるわ」と、私を家に置いてどこかへ行ってしまった。
ヨキさんがいない事を寂しく思いながらも、夕食の準備をし出したおじいさんに寝床から声を掛ける。
「ヨキさんは鬼だそうですが、おじいさんも鬼なのですか?」
おじいさんは、ほっほ、と笑って答えてくれた。
「いいや、わしは違うよ。人間じゃよ」
「ヨキさんは、人間を食べますよね?」
「そうじゃな、わしはヨキの非常食といったところじゃ」
「……?」
不思議そうな顔をする私に、おじいさんは鬼について色々教えてくれた。
鬼とは本来、年老いた人間を喰らう人間とは相容れない存在である事。
鬼は雄しか生まれず、人間の女を伴侶として迎える事。
鬼は生まれてから一年で12歳まで成長する為、繁殖力が異常に高いが、角と赤い瞳と異常な成長の早さで区別がつく為、大抵が鬼狩りに見つかり殺される事。
おじいさんは元々、大好きだった自分の祖母を鬼に喰われて、鬼狩りになった事。
「……じゃあ、おじいさんはヨキさんの敵なのですか?」
「そうじゃなぁ。わしの両親と嫁と子供達、そして孫までが仲間だと思っていた人間に殺されるまでは、敵じゃったな」
私には思いも至らない、何か壮絶な出来事があったのだろう。
おじいさんは悲しそうな顔をし、私の胸も痛くなる。
「鬼は、不憫な生き物なんじゃ。人間にはなれず、とはいっても人間を喰わねば赤い瞳が隠せず、ずっと飢餓状態が続く。喰っても喰わんでも、人間からは排除される……鬼が人間を喰うのは、自分が生き残る為じゃ。人間とは違い、無駄な殺生はせん」
「鬼は……ヨキさんは、私が歳をとったら食べるつもりなのでしょうか?」
「どうじゃろなぁ……それは本人に聞いてみんとわからん。だが、鬼は、人間の要らん恨みを買わない様に、喰うのは老人だけと決めておるらしい。若い人間を喰べると、あまりの美味さにその後も若い人間しか喰わなくなるらしいが、それは“はぐれ鬼”として鬼からも嫌われるらしい」
「おじいさんを、喰べないのは何故でしょうか?」
「何故じゃろうなぁ……わしは、家族も財産も失って全てがどうでも良くなって、姥捨て山にいるだろう鬼に喰われにきたのじゃが」
「……」
「鬼狩りの連中からすれば、山に入った老人ばかりがいなくなる、なんて鬼の仕業としか思えんからのぅ。山を何日も歩き回って、ヨキに会って、孫みたいで可愛くて嬉しくて、つい抱き締めてもうてな……以来、一緒におる。老人……それも、元鬼狩りと一緒に暮らす鬼なんぞいないだろう?」
おじいさんは再びほっほ、と笑ってゆっくりゆっくりヨキさんとの出会いを語ってくれた。
「ヨキは、良い子じゃよ。鬼とは、習性的に群れたりはせん筈じゃが、たった一年という短い間でも、人間の母から愛情を注がれたのだろう事がよくわかる。鬼は、普通子供にも親にも関心は持たずに、伴侶だけは大事にするらしいがな、こんな老いぼれを……沢山こき使ってくれとるわ」
私とおじいさんは、笑いあった。
義父母に育てて貰っていた時には感じた事のない、暖かい空間だった。
ヨキさんは、その日の夜には戻って来てくれて、私にT字帯を作る為の布を渡して下さった。お食事の後に、街に寄って下さったのだろう。感謝を込めて、頭を下げた。
私が捕った三匹のあゆの串焼きや、おじいさんが作ってくれた夕食を三人でゆっくり味わいながら、楽しく談笑する。
そしておじいさんは、私達に気を遣って「じゃあ後は二人に任せた」と言って部屋にこもってしまった。
私はヨキさんに、今日おじいさんに聞いた事、そして疑問に思った事を聞いてみた。鬼であるならば、何故おじいさんを喰わないのかと……無知であるが故のストレートな質問に、ヨキさんは気を悪くするでもなく答えて下さる。
「言い方は悪いが、人間だって豚や牛に個体差があるのはわかるだろ?普段食用で育てていても、可愛くて愛着がわけば、そいつを愛玩動物と同じ扱いにしたり、腹が減っても最後まで生かそうとするじゃないか。山羊だって、ウサギだって、食べる場合もあれば墓を建てる場合もある。……じーちゃんは、まだ喰う気にならないだけ」
成る程、と思った。興味ついでに更に聞く。
「ヨキさんのご両親って、どんな方だったのですか?」
「……そうだな、二人して不器用な人だったかな。ついでに頑固」
「不器用?」
「父親はさ、母親の家族を喰ったから、母親はそれを一生許さないって決めてた。だから、父親が言われて喜ぶ様な事は、一切言わなかったな」
「家族を食った!?」
「ああ。母親は殺して喰われたと思ってるけど、本当は熊が母親の家族を殺して、父親は母親にその亡骸を見せない為に殺された家族を喰ったんだ」
「何故、お父様は本当の事をお母様に話さなかったのでしょうか?」
「熊が母親の自宅を襲撃した原因が、父親だったからだ。父親は、母親との結婚を認めて貰う為に色々獣を仕留めてプレゼントしたらしいんだが、毎回突っ返されるもんだから、その日の熊肉はこっそり台所に置いたらしい。だが、それは子熊の肉で、母熊は鼻が良いから匂いを辿った末、そこに居合わせた母親の家族を襲った……らしい。結果的に自分の行為が母親の家族を死なせた訳だから、俺のせいだ、と言っていた」
「成る程。それで、お互いに思い合っていても素直になれず、な訳ですか」
「ああ。……ただ、端からみれば、お互いにベタ惚れなのはバレバレだったけど。母親は、だからこそしょっちゅう狂えたら楽なのに、と愚痴っていたな」
ヨキさんは、どこか懐かしむ様な瞳をしてた。
その目の先に、昔の光景が広がっているのだろう。
「……ご両親に会いには行かれないのですか?」
ヨキさんは、笑って言う。
「独り立ちした鬼は、もう赤の他人だ。母親は喜ぶかもしれんが、父親は会いたいとは思わないだろう……それに、お互いに生きているかどうかもわからないしな。鬼は、あまり家族に執着しない。直ぐに殺される場合が多いから」
「……そうですか」
「あ、でも」
「?」
「鬼は、子に名前をつけない場合が多いんだが、俺の名前は母親がつけた。夜に生まれたから、夜の鬼、でヨキだ」
変わった名前だと思っていたが、そういう字を充てるのか。
家族には執着しないと言いながらも、母親を語るヨキさんの瞳には様々な感情が込められている様に見えた。
「少し変わってはいますが、素敵な名前だと思います。……ところでヨキさんは、私を喰べるつもりなのでしょうか?」
不思議と、全く恐怖は感じなかった。
最近はこの姥捨て山で、若い人間も消えると聞いている。おじいさんがヨキさんに喰べられないのであれば、ヨキさんは若い人間を喰べる鬼なのかもしれない。
ヨキさんは、笑って答えた。
「俺は、ねねを嫁に貰いたい」
その言葉は、私の胸を風が吹き抜ける様にサラリと駆け抜けた。
「……私で、良いのでしょうか?」
「ねねが良い」
鬼の嫁。それは、人間から殺される覚悟で生きなければならないという事。
ヨキさんの嫁。それは、ずっとここにいたいという夢が叶う事。
ヨキさんは続けて話して下さる。
「俺が鬼だと知っても、ねねは変わらなかった。拒まないし、嫌わないし、怖がらない。そんな女子はとても貴重だし……何よりも、俺がお前を欲しいと思った」
「……嬉しい、です」
お金は関係なく私という人間を見てくれる人がいてくれる、という奇跡。両親が死んでから、ずっと貰えなかった無条件な好意。
私は、目からポロポロポロポロと涙が零れ落ちるのを止められなかった。
ヨキさんはそんな私の顔をそっと引き寄せ、流れる涙を舌で舐め上げ、唇を押し当てた。
***
それから一週間で月のモノが終わり、私は心に決めていた。
「ここまで育てて下さった義父母に、ご挨拶に伺いたいと思います」
私が義父母の家を出てから、1ヶ月が経過している。
山で遭難して死んだと思って貰った方が良いかもしれないという考えも何度か過ったが、八年間も育てて頂いたのに、御礼のひとつもなしに消えるというのは余りにも不義理である様に思えた。
ヨキさんとおじいさんは顔を見合せたものの、反対はされなかった。
「……そうだな、俺も一緒に行く。一度会っておきたい」
「良いのですか?」
義父母に会いに行くのは正直気が進まず、今更会いに行ったところで「売上金はどうした」と言われそうで怖かったが、ヨキさんが付いてきて下さるなら話は別だ。
ただ、結婚は親が決めてくる事が普通であるから、ヨキさんが何か嫌な事を言われないかと、それだけが心配だった。
ヨキさんが一緒に付いてきてくれるという安心感と、ヨキさんが嫌な思いをしないだろうかという不安感。それを抱えながら、ヨキさんの道案内のもと、道すがら山菜と茸を籠一杯に採取しながら歩き慣れない山道を辿って都へとたどり着く。
都でそれらを声をあげ売り裁きながら金に替えていく。全て換金した時には、もう夕刻だった。
義父母の家に付き、深呼吸をする。
コンコン、と扉を叩けば、懐かしい義母の「誰だい?」という声が返ってきた。
「私です、ねねです」
「……ねね!?ねねだって!?生きてたのかい!!」
部屋の中からドタバタと音がし、ガラッと扉が大きく開かれた。
1ヶ月ぶりに見た義母の顔は、少しやつれた様に見える。
「あんたっ!!売上金はどうしたっ!早く帰って来ないから、私達まで働……」
そこまで怒鳴り、ようやっと私の後ろに控えていたヨキさんに気付いたらしい。
「……そちらさんは?」
義母は、おっかなびっくり、それでも胡散臭げに聞いてくる。
「私の、旦那様になる方です。今日は、売上金を渡しに……それと、今までご厄介になったご挨拶に伺いました」
「は?何だってぇ??」
私が売上金を渡しながら頭を下げると、義母はきょとんとしたまま、それでも売上金はしっかり奪うように受け取った。
「まさか、ねねにこんな良い人との出会いがあるとは思わなかったよ!」
「良かったなぁ、おねね。幸せになるんだぞ?」
義父母は、今まで見た事のないご馳走でヨキさんを歓迎して下さっていた。
というのも、ヨキさんが、私を嫁にやる条件として毎月決まった金額を義父母に渡すという難題をあっさりと快諾したからである。
快諾しただけならまだしも、その金額を、「今月分」と言ってその場で義父母に差し出したものだから、義父母のみならず私までも唖然としてしまった。
ヨキさん曰く、狩りで結構稼いでいる、らしい。
「おねねも、しばらく見んうちに……女らしい体型になったのぉ」
義父に、舐めまわす様に見られながら腕をさすられゾワリとしたが、さりげなく私をヨキさんが引っ張ってくれて、義父の手が離れて助かった。
「ねねは、家で養生している間も本当に働き者で。こんなに心の清い女性がいるんだなと思い、是非嫁に欲しくなりました」
「私達もね、もう年だもんでね。ねねが働き頭なもんですから、嫁にはやれんと思っておりましたけれども……毎月そんなお金が頂けるなら、喜んで嫁にやれますわ」
「ほんに、素敵な男性と出会えたなぁ」
「式はあげませんけれども、よろしいか?」
「式をあげる様な格式ばった家ではありゃせんし、ヨキ様の好きにして頂ければ」
「おねねは、私達が可愛がって育てた娘なんですよ。前はガリガリに痩せこけて色気ひとつなかったもんですが、髪艶が良くなって、つくべきところに肉がつけば、こんなに別嬪やったんやなぁと思いますわ」
「ねねは、いつも可愛いですよ。特に笑顔が良いですよね」
ヨキさんが、真横で私に笑い掛けてくれるものだから、私は顔を赤くして俯く。
一通りご馳走を食べ終え、私が片付けの為に席を立とうとすると、義母に止められた。
「何しとるんだい、ねね。今日は泊まるんだろう?ヨキ様と一緒に、先に湯を使っておいで」
今まで一度も言われた事のない言葉に耳を疑ったが、着替えと手拭いを渡された事で本当なのだと理解した。
「……ありがとう、ございます」
ペコリと頭を下げて、義母に礼を言い、ヨキさんに今日は泊まりになったと事情を話し、お風呂に入って頂いた。
ヨキさんの次に身体を浄めながら、ぼんやりとこの家でお風呂を使わせて頂いたのはいつぶりだろう、と考えた。
私は火加減役を終えたら、歩いて5分の水路で手拭いを濡らし、そこで髪や身体をささっと浄めるのが常だったのだ。
ヨキさんのお家にご厄介になる様になって嬉しかった事は沢山あるが、1日三食頂ける食事と同じ位、毎日お風呂に入れさせて頂けるのに感動したものだ。……そう、私が毎回御礼を言うものだから、風呂に入れる頻度を聞かれて答えて、その時もヨキさんとおじいさんは微妙な顔をなさっていたっけ。
ゆっくり身体を温めてから、風呂場を後にする。
脱衣所で着替えようとすると、扉が横に音もなく開き、義父が入ってきた。
「おぉ、おねね、まだ入っていたか」
「すみません、直ぐに出ますので……っっ」
身体も拭けずに着物を羽織り、直ぐ様この場から逃げようとしたが、義父に腕を掴まれてしまい、その場に立ち往生する。
「あの、離して下さい……」
義父の笑い顔が、何だか仮面を貼り付けた様に見えて、恐怖がせりあがる。
顔を見ない様に俯き、義父に掴まれた腕をぶんぶんと振ったが振りほどけなかった。
「あの……」
「おねね、ここまで育ててやったわしに何の相談もなく、あんな男と夫婦になるなんぞ……閨について何も教えとらんのに、大丈夫かいな?」
「閨?だ、大丈夫です……ヨキさんに……色々……」
「色々教わったんか?そういや、真っ平らな胸が随分と成長しとうの」
「きゃ……っ!!」
義父は、もう片方の手で私の乳房をぎゅむ、と掴む。
嫌だ。怖い……!!
「おねねの成長を楽しみにしとったわしにも、少しは味見させてくれるよな?」
壁際に追い込まれ、義父の顔が近付いてくる。
するりと着物の合わせから手を入れられ、直に乳房を痛い位に揉まれて、涙が滲んだ。
カタカタ、と恐怖で歯が噛み合わない中、必死で抗議する。
それは私がこの家に来てから、初めて見せた拒否の言葉かもしれなかった。
「い、やです……わ、私、私は、ヨキさんの……」
義父の顔が私の顔スレスレまで近付き、ぎゅうと目を瞑った時だった。
「ねね。こいつと俺、どっちを選ぶ?」
ヨキさんの声が響いて、弾かれた様に顔をあげると。
首を片腕で絞められ、顔を真っ赤にさせた義父の後ろに、表情を失くしたヨキさんが立っていた。
どっちを選ぶ?そんなの、とうに決まっている。
「……ヨキ、さんを。ヨキさんが、良いです……」
私が着物の前を両手で合わせ、泣きながら紡いだ言葉を聞いて、ヨキさんは微笑んだ。
「そう。じゃ、ねねは先に部屋に戻って着替えて支度をしておいで。夜も遅いけど、やっぱり今日帰るよ」
「はい」
私は、口から泡を吹く義父の顔を見ずに、そのまま脱衣場から逃げ出した。
その後、ゴキリ、という音が僅かに聞こえた気がした。
***
義母にお別れの挨拶すらせず、二人で逃げる様に帰路につく。
否、逃げる様に、ではない。
恐らく逃げているのであろう。
今頃、倒れた義父を見つけた義母が、いなくなった私達に追っ手を寄越しているかもしれない。
ただ夢中で、私達は都を抜けて山へと入り、そこでやっと、安心して一息ついた。
つい1ヶ月前は、山の中でびくびくしていたのに、今では山の中で安心するなんて変な話だ。
「ねね、足は大丈夫か?痛めてないか?」
二人で岩の上に座ると、ヨキさんは優しく私の足をあん摩して下さる。
「はい。大丈夫です。……ヨキさん、すみませんでした……」
私が、あの家に挨拶に行くなどと言い出さなければ、今回の事は起こらなかった。ヨキさんとおじいさんと三人で、誰かに追われる事もなく静かに暮らしていけた筈なのに。
「何でねねが謝る?我慢出来なかった、俺が悪いだろう」
ヨキさんは苦笑して、私の足をするりと撫でた。
義父の時には嫌悪しか感じなかったのに、ヨキさんにされると途端に胸が高鳴る。
「本当は、人を殺したら、鬼であればその命の恵みに感謝して血を一滴も溢さずに食わなきゃいけないんだけど……昔、母親に言われたんだ」
「……?」
「お嫁さんにしたい子がいたら、絶対にその子の身内を食べては駄目だ、と。食べてはいないから問題ないとは思うが……ねねが俺を選んでくれて良かった」
「……」
お母様がおっしゃられたのは、喰す事だけではないと思います……と思いながらも黙り込む。
ただ、わかるのは。
もし仮に、あの場で義父を選んでいたら義父は死なず、ヨキさんを選んでいたら義父が死ぬ、とわかっていたとしても、私はヨキさんを選んでいた。
「ねねがあの家でどんな境遇に置かれていたか知っていても、ねねの家族がどんなに酷い奴らでも、殺さずに金で済む事なら我慢しようってじーちゃんと話して決めてたんだけど……やっぱり鬼は伴侶に執着が強いから、ああいう事されると我慢出来なかった。まぁ、一緒に行って良かったよ。ねねが無事だったから」
ヨキさんは、人を殺した後とは思えぬ程にサバサバと笑っていた。
「……っっ」
そんなヨキさんに、恐怖でなく安堵が胸を占めて思わず抱き付く。
「うわ!……ねね?」
「ヨキさん、本当にすみません……そして、ありがとうございました……」
「ねね……」
私が、抱き付いたままヨキさんの胸の音を聞いていると、ヨキさんが私をひょいと横抱きに抱え上げた。お尻に、何やら固いモノが当たる。
「……?」
「ねねが抱き付くから、こうなった」
「……ぁ……」
それが何なのか思い当たり、私は聞いた。
「……あの、手でしますか?」
私が聞けば、ヨキさんは驚いた様子で私を見つめる。
「……手でって?」
「男性が、あの、こういう状態になったら、きちんと手で発散させるのが女の務めだ、と義父が……」
そこまで言って、気付いた。ああ……これは義父から、他人には自分から言うなと口止めされていた事だった。勃ったから手で擦れ、と言われたら擦り、言われてもいないのに女性から言うのは礼儀知らずだと聞いていたのに、間違えてしまった。
「……あの、糞が……」
不機嫌そうな低音でヨキさんがポツリと洩らし、やはりマナー違反な事だったと私は身を竦めたが、ヨキさんがぎゅう、と抱き締めて下さったのでホッとする。まだ嫌われていない事に、安堵する。
「ねねの初めてを貰うには殺風景なトコだけど……帰ったらじーちゃんいるし、今したい。ねねを抱きたい」
「……あの、私、上手く出来るかどうか自信が……」
全くありません。と言おうとしたが、言う前に口が塞がれた。
ちゅ、という音がして、直ぐに柔らかかったものが離れていく。
「はい、か、いいえ、で答えて?」
月夜に照らされたヨキさんの顔は、色っぽくて。情欲を滲ませた瞳がただ真っ直ぐに自分を見てくれているのが、本当に嬉しくて。こんな、貧相でちっぽけな小娘を嫁にと欲してくれる目の前の男性が、愛しくて。
「……はい……」
恥ずかしさで、消え入りそうな声だったけど、ヨキさんにはきちんと伝わった様だ。
ヨキさんは、着物を少しだけずらして露出させた鎖骨に口付けを落とした。
***
「ヨキ、やっとおねねの目が覚めたべ」
「ねね!!大丈夫か?痛いところはないか?」
聞いた事のあるやり取りを耳にしながらうっすらと目を開けると、そこにはヨキさんとおじいさんが、横たわった私を左右から見おろしていた。
どうやら、私は営みの最中に気絶してしまい、ヨキさんに運ばれたらしい。
「……ヨキさん、すみません……」
「謝るのはヨキの方じゃ!」
目の前でヨキさんの頭をおじいさんがペシッと叩き、目を丸くする。
「初夜の前に操を奪ったあげく、野猿のごとく処女にがっつくなんて、鬼の所業じゃ!」
「……じーちゃん、俺、鬼……」
「うるさいっ!少しは反省して、一人で魚でも取ってこいっ!3日はおねねに近寄らせんからな!!」
「ええっ!!じーちゃんの鬼~~っ!!」
ヨキさんはそう言いながらも、銛を持って家を出て行った。
「おねね、身体はまだ辛いだろう。ゆっくり休みなさい」
おじいさんは、私の頭を撫でてそっと部屋を出る。
おじいさんが枕元に置いてくれた水を飲もうと身体を起こしたら、驚く程に身体が悲鳴を上げた。
水を飲んだら、家事を手伝うつもりだったが、本当に全身が痛い。
普段使った事のない筋肉を使ったせいだろうか、と昨日の夜の事を思い出して一人赤面する。
その時だった。
「おねね!!逃げなさい!!」
おじいさんの、叫び声が聞こえた。
悲鳴を上げる身体に鞭打ち、無理矢理立ち上がって部屋を出る。
部屋を出た途端にむわりと鼻を掠めた血の匂いに足を止め、目の前に倒れたおじいさんの姿に、心の臓が止まりそうになる。
「おじいさん!?」
慌てて駆け寄れば、おじいさんは背中に斬られた形跡があった。
脳裏に、昨夜放たれたであろう追っ手が思い浮かぶ。
まさか、こんな山奥までたどり着いたのだろうか……!?
おじいさんは、苦しそうに血を吐きながらも、私に告げる。
「剣さえ、あれば……っ、あんな奴に……、………、おねね、早く、逃げ……」
「みぃ~っけた♪」
玄関を背にして、一人の男が……いや、角を隠そうともしない、鬼が、いた。
目は赤くない。………という事は、飢餓状態ではない筈だが。
鬼は手にした剣を一度振って、ついた血を落とす。
「やっぱり喰うなら若い人間だよなぁ~♪こんなに美味いのに、喰っちゃいけないなんて、他の奴らはどうかしてる」
その台詞を聞いて、私は思い出した。
そう言えば……最近は、この姥捨て山で若い人間も消えるという噂があった。
それはもしかして、この鬼の仕業だったのか。
ニヤニヤ笑いながら近付いてくる鬼を目にして、私は力の限り叫んだ。
「よ……ヨキさん!!ヨキさん!!助けて!!」
「んん~?気を失うかと思えば、意外だなぁ?しかし、ちょっと肉付きは悪いが、喰べ頃だ♪若い女は胸と尻が美味いんだ。内臓を喰ったら、直ぐに……」
涎を滴ながら近付いてくる鬼が、逃げ道を塞いでいてどうしようもなかった。
それでも、おじいさんは逃げろと最期に言った。
体格の良いこの鬼の股ぐらをくぐってなら、何とか逃げられるだろうか?
私が覚悟して、腰を屈めた時だった。
ドス、と音がして、鬼の頭から三本目の角が現れた。
……いや、違う。鬼の額から、銛の先端が出ていたのだ。
頭蓋骨すら、突き抜けて。
「……ねねから離れろよ、“はぐれ鬼”」
スローモーションの様に、頭を銛で貫かれた鬼がドスンとうつ伏せに倒れる。
「ヨキさん、おじいさんが、おじいさんが……っっ!!」
「……わかってる」
ヨキさんは、泣きそうな顔で私を抱き締めた。
しばらく、二人でそうする事しか出来なかった。
***
「陽鬼、あまり遠くに行かないでね?今日はおじいさんのお墓参りに行くからね」
「はいよ」
あれから、二年。
私とヨキさんと生まれた子供は、姥捨て山の奥深くで誰からも狙われる事なく、仲睦まじく暮らしていた。
私達の生活には、人間の死が常につきまとう。
義父も、おじいさんも、ヨキさんや陽鬼の喰べた人間、これから喰べるであろう人間。
それでも、生きていく為に鬼である彼らは人間を喰うし、私はそれを支えていく。
あの日、ヨキさんはおじいさんの遺体を喰べる事なく、おじいさんの家族が眠るという墓に埋葬した。
「人間だって、可愛がってた豚や山羊が死んだら食べずに墓に埋めるだろ?」
ヨキさんは、辛そうな素振りを私にも見せない。
しばらくして、人間を喰らう自分にはおじいさんの死を哀しむ資格がないと、ヨキさんが考えている事に気付いた。
ヨキさんの代わりに、私が泣いた。
私達の子供の陽鬼は、今ちょうど一歳になる頃で、独り立ちをする歳だ。
「陽鬼、絶対に若い人間を喰べては駄目よ?それと、好きになった子の身内も喰べちゃ駄目。それと……」
「わかってるって。それより、母さんが俺にべったりだったから、父さんいじけてる。もう少し構ってやって」
「ええ?……う、うん……」
陽鬼が生まれてからも、直ぐに毎日身体を交わらせ続けているのに何処にいじける要素があるのだろう、と思いながらも、鬼の感覚がわかる陽鬼に言われて頷いた。
そして陽鬼が家を出て落ち込む間もなく、ヨキさんは待ってましたとばかりに夜通し私の身体を貪り続ける。
「俺の母は、よく狂えたら楽なのに、と言っていたが……ねねは大丈夫なんだな?」
人間を喰う鬼に貫かれながら、囁かれる。
「うーん……どうなんでしょう?」
私は曖昧に笑って答えた。
私は大丈夫、なのだろうか?
たまに、思う。
鬼を受け入れた時点で、私も心は人喰いだと。
つまり、普通の人間から見れば、とうに狂っているのだろうと──
マニアックなテーマであるにも関わらず、最後までお読み頂き、ありがとうございました。