非業
それは、いつもと変わらぬ日だったと思う。
村の外れにある粗末な我が家へ、田んぼ道を歩いて帰宅していた。
途中のお地蔵様に、道端で摘んだ名も知らぬ花と、おはぎを一個お供えして、両手を合わせてから再び歩く。
日が大分傾いてきて、その日の夕焼けはまるで血のように空を赤く染め上げていた。
田んぼを抜けて、森林をぐるりと囲む通りに着いた。
森林の向こうに我が家があり、森林の中の道なき道を歩けば近道だ。
木々をかき分けながら、ちょうど森林の真ん中辺りまで進んだ時の事だ。
頭にほっかむりをした男が一人、一本の木の下に座り込んでいた。胡座をかき、頭は下を向いている。
寝ているのか、気を失っているのか。
見れば、男の身体のあちらこちらに痣や擦り傷や切り傷が見える。
無視する事も出来たが、もし明日この道を通った時にこの男の亡骸にでも遭遇したら、次の日から目覚めは最悪になりそうだ。
うちには金銭的な余裕もなく、男に渡せる薬は揃っていないが、持っている竹筒にはまだ幾分か水が残っていた。
「……あの……?」
一応、声を掛けてみる。空腹で行き倒れているならば、水だけでも飲んで貰おうと思ったから。
気を失っているかと思ったが、男は意外と素早い動きで顔を上げ、こちらを見た。
(何て、綺麗な瞳……)
所々、土で薄汚れているのにそれでも凛々しく整っているのがわかる顔。
しかし私が惹かれたのは、顔ではなく真っ赤に光る眼だった。先程見た夕焼けの様な瞳。こちらをうかがい見る眼光は、鋭くギラギラとしている。
充血しているのとはまた違い、村では見た事のない色彩。
「大丈夫、ですか?」
無意識に、その男と目線を合わせようと、私は男の前で屈んだ。
男の鋭く睨み付ける様な視線は、戸惑いに変化する。
「あ、あぁ……」
こちらに敵意がないのを敏感に感じ取り、警戒を解いた様に見える。対応が早すぎる気もするが、それはこちらにとっては有り難い事だ。
「お腹が空いて、動けないのでしょうか?」
「……まぁ、そうだが」
男は、見た目の印象よりも低くしゃがれた声で答えた。
「水と……ここに、おはぎを一個だけ置いておきますね。もし、貴方さえ気にしないのであれば、この森林をあちらへ抜けて、真っ直ぐ続く田んぼ道を行くと、お地蔵様にも同じ物をお供えしています。空腹な旅人には、お地蔵様もその寛容なお心で喜んで分けて下さるかと。……すみません、私にはそれ位しか出来ませんが」
「……あ、あぁ……ありが、とう」
どうやら男は、辛うじて御礼は言うものの、私がその場にいる事に戸惑っている様だった。事情はわからないけれども、私がいてはこの男は落ち着けないだろうと判断する。
「では、失礼致します。……もうすぐで日が暮れますゆえ、道中気をつけて下さいね」
私はそう言って、その場を後にした。
ただ、これだけのやり取り。ただ、これだけの出会いで私の人生が大きく変わるなんて、その時は思ってもいなかった。
***
「おじい、おばあ、ただいま」
「お帰り、せん。今日は遅かったねぇ。後ちょっとでも遅かったら、心配したお祖父さんがせんを探しに行っちゃうところだったよ」
「ごめんなさい、今日は少し時間がかかった上に、道すがら行き倒れていた方がいて、おはぎとお水を渡したの」
「あらまぁ、せんはほんに良い子だねぇ」
おばあは、顔の笑い皺を深くした。うちは人に施しが出来る程裕福では決してないのに、怒らず誉めてくれるおばあが大好きだ。そして同時に申し訳なくなる。
「……勝手にごめんなさい。おじいとおばあの分はあるからね」
「なぁに、せんの方が村まで行った帰りなんだ、お腹が空いているだろう?皆で仲良く残りを分けようじゃないか」
居間から出てきたおじいが、私の頭を優しく撫でる。
「私達の娘は、ほんに可愛くて優しい孫を生んでくれたねぇ。さぁ、せん。今日も疲れただろう?早くおあがり」
「うん。ありがとう、おじい、おばあ」
私の両親は、私が5歳の時に流行り病で二人して急逝してしまった。
そんな私を引き取り、今まで可愛がって育ててくれたのが、私の母方の祖父母だ。
「こんなに器量よしで可愛い自慢の娘なのに、何で村のモンとの縁談はうまく纏まらないのかねぇ?」
ついでにそんな事を言われ、何でだろうね、と苦笑する。年のいった二人の傍を離れる事は考えられない。だが、村の男達は誰と縁談をしても、皆一様に同居は許さないと答えたのだ。
女は嫁入りするもの。……そうとわかっていても、嫌だった。自分が変わり者である自覚はあるが、年老いた二人を置いていけと言う男に嫁いでも、幸せになれるとは思えなかった。
夕飯がわりのおはぎを皆で分けあって食べ終え、汚れた竹皿を家の横を流れる湧水で洗う。
外はもう真っ暗だったが、星が煌めいて大地を照らしている。
今日はラッキーだ。
夜なべしようにも、火を灯す蝋燭も勿体ない。こんな日には輝く星々の恩恵を受けるべきだ。祖父母が寝たのを確認して、ナイフとのみを一本ずつと処理済みの竹を幾つか家から持ち出す。
家の周りは竹やぶだらけで、竹を加工して作ったものを売ることで私はお金を手にしていた。
今日は、男にあげてしまった竹筒から作る事にする。つい、何か物を作る時は職人の様にこだわってしまいがちだが、「これは私のこれは私の」と暗示をかけて、何の飾り彫りもない質素な量産品を一つ作った。
しかし、作り終えたところで、そう言えば前に竹筒を作ったのはいつの事だったかな、と首を捻る。
夏場は沢山作ったが、ここ2ヶ月程は竹籠、一輪挿し、簪、行灯などを作っていた。冬場には売れ行きが伸びる商品ではないが、少しなら需要があるかもしれない。
夏場に作った量産品ではなく、今買って貰えるとしたら、自慢したくなる一品だったり、他とは趣の違う商品だろうか。
ぼんやり頭の中に浮かぶ構想を、手を動かして曖昧に削っていく。下書きなどはせずに、曖昧に削ったものを、どんどん削って頭の中に思い描いていた形を再現させるのだ。……これは、私のやり方。
私は、日が明ける直前まで作業に没頭した。
***
翌日、早めに帰宅すると、真っ青な顔をした祖父母が居間で呆然とし、二人して腰が抜けた様な、ただならぬ様子だった。
「ただいま戻りました……おじい、おばあどうしたの!?何かあった?」
先におばあが、直ぐ様傍に寄った私をひしと抱き締めて言う。
「せん!せん!……良かった、無事に帰ってきたね……、本当に、良かった……!!」
「おばあ……?」
これはただ事ではなさそうだと思い、おばあを安心させる為にしっかりと抱き締め返す。
「せん、わし達は……お前が幸せにならんとわかっている結婚なんぞ、例え殺されようとも認めんからな!」
おじいも、そんな私達二人をまとめてぎゅう、と抱き締め語気も荒く宣言する。
「うん、ありがとう……」
二人に何があったのだろう、村の者が何か言いに来たのだろうかと思いながら、落ち着いたから二人から話してくれるのを待つ事にした。
結局、一週間後にその理由を知る事は出来たのだが、それは祖父母の口からではなく、二人をそうさせた張本人からだった。
「いや、ぃやだ、おじい!おばあ!!」
私は、男に両腕を床に押し付けられていた。
綺麗だと感じた瞳は赤から黒へと変化していたが、見慣れた色なのに何も写してない様で酷く怖い。
家にいる筈の二人を懸命に呼んでも、二人が姿を現さないという事が更に恐怖を煽った。
「何でっ、こんな、事を……っっ!!」
良かれと思って、お水やおはぎを分けた私に、何故こんな事をするのか。
恐怖で縮こまりたくなる自分を必死で奮い立たせ、怒りを滲ませた目で睨み付ける。恩を仇で返すとはまさにこの事だ。
「お前の祖父母は、俺が一週間通ってもお前との結婚を承諾しなかった」
幸い、男は答えてくれた。
「……だからと言って!!やり方が、違うのでは!?」
「二人には、毎日毎日違う肉を持って行った。雉、熊、鹿、猪、鮭、豚、馬、牛……だが、認めて貰えなかった」
「……毎日、それだけの物を??」
私は、目を見開いた。どれも、村の祭りでしか食べる事が出来ない肉ばかり。村の狩人では、その獲物を一匹獲るのに一週間から1ヶ月かかるだろう。
祖父母が強欲であれば、貰える物だけ貰って断る位しても良さそうな品々だが、男の言い方だと恐らく受け取りすら拒否したのだろう。ここ一週間ご馳走が並んだ記憶もなければ、二人が街へおりて肉と引き換えに金品を手に入れた様子もなかった。
「二人は、話が通らない方々ではない筈ですが……」
「鬼には大切な孫はやらん、と言われた。不幸になるとわかっていて、何故せんを嫁にやれるのだ、と言っていた」
「……お、に?」
「あぁ。俺は鬼だ」
男がほっかむりをするりと取れば、頭から二本の角が出て来て息を飲む。
「……鬼、ですか」
「あぁ」
「鬼が食すのは、人間でしたか」
「あぁ……飢えを満たすのは、人肉だ」
「私の祖父母を、どうしましたか」
喉が渇く。どうか、二人は無事だと言って欲しかった。
「食った」
──私が、あの時、鬼を助けようとしたせいで、関わってしまったせいで、二人は──
口から、勝手に悲鳴が飛び出していく。獣の咆哮の様な、家がびりびりと震えそうな、凄まじい声。
それを、私はどこか他人事の様に聞いていた。
「……よくも、おじいとおばあを……!!」
「仕方なかった。お前を娶るのを止められた。お前を拐っても良かったが、それだと追っ手を寄越されそうだった」
「許さない……っっ!!」
私は、どこにこんな力が眠っていたのかと思う程、渾身の力で鬼だと名乗る男を突き飛ばした。
男は後ろに少しよろめいた位だったが、その隙に台所へと駆け込む。
「そっちは……っっ!」
「ひっ……っっ!!」
台所だった場所は、血の海だった。その海の中を、今朝お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが着ていた着物の端切れが漂っている。
そして、獣が引っ掻いた様な傷が柱に所々見受けられ、ひっくり返った釜や二本の包丁もその海に沈んでいた。
二人は、今の私と同じ様に、包丁で鬼に反撃しようとしたのか。
ずるずる、とあまりの惨状に腰を抜かした私を、後ろから近付いた鬼はひょいと抱え上げて今いる居間から寝室へと運ぼうとする。
「いやっ!!離してぇ!!」
「無駄だ。俺は、お前を妻にする。そして、10人の子供を産んで貰う」
「……は……?」
この男……いや鬼は、何を言っているのか。
「鬼の子は、男児しか産まれない。俺達は、娶りたいと決めた人間の女を孕ませ、そして出来る限り子供を産んで貰う。産まれる子供は全て鬼だが……殆んどが狩られて、大人になれる者は一人か二人といったところだ」
「……私が、自分の大切な家族を奪った者に、嫁ぐとでも?」
「……では、嫁ぐ必要はない。子さえなして貰えれば」
目眩がする。
意を決して舌を噛もうとした瞬間、男が一瞬先に口を左右から片手で掴んで無理やり口をこじ開けさせた。
「血を流すな。……食いたくなる」
男の瞳の瞳孔が蛇の様に縦に伸びて怯んだものの、私は叫んだ。
死のうとした私に、怖い事なんて何があろうか。
「食えばいいっ!!」
「それはずっと後だ。ひとまず、子供を産んで貰わねばな」
寝室に連れていかれ、畳の上に下ろされた。
四つ這いで逃げようとしたところを、髪の毛を掴まれ痛みに顔が歪む。
「逃げるな、せん」
「離し、て……っ!!」
この鬼に、名前を呼ばれる事がおぞましく、我慢ならなかった。
するりと髪の毛の痛みはなくなったが、代わりに一瞬で猿轡をされる。
「うーーっっ!!」
「子供が産まれるまでは、死ぬな。そして、逃げるな」
何の感情も写さない瞳が、近寄ってきて……ぎゅう、と閉じた瞼に、接吻をされた感触だけが残った。
***
鬼は私を膝の上にのせ、目立ってきた私のお腹を撫でる。
「鬼の子の妊娠期間は人間と同じく十月十日。ただし、出産した後の子供の成長は人間のそれより著しく、1年で12歳まで一気に成長する。乳を飲むのは1ヶ月の間だけ。2ヶ月目から、1ヶ月に一度は人肉を食わさねばならん。狩りには俺が連れて行くし、たった一年で子離れするんだ。……人間の子供に比べれば、楽なものだろう?」
何も答えない私を気にすることなく、鬼は続けた。
「産まれた子供に教えなければならないのは、決して若い人間は食わない事。間違えて食えば、その小鬼はもう年老いた人肉に戻れなくなり、人間からの恨みを買いやすくなり、結果的に鬼狩りで命を落としやすくなる」
「……」
鬼にペロリと後ろから首筋や耳を長い舌でなぶられ、身体を震わす。
「若い人間を食うと、その分食糧難になるという観点からもタブーだから、そうした鬼は“はぐれ鬼”として鬼からも嫌われる」
お腹を撫でる手は、鬼とは思えぬ程に優しい。
「……そして、出来たら鬼は出来る限り都で人間と同化して過ごす事。……俺も、せんと会う前は食糧が豊富にある都に住んでいた。鬼は飢餓状態になると瞳が赤くなるから、その前に人肉を食らえば人間と変わらない」
鬼の手に反応するように、お腹の子は何も知らずにぽこりと胎を蹴り上げた。
「これを、一年後には親元を離れる子に必ず伝えなければならない」
「……」
鬼は、今でも殺したい程憎い。
今は綺麗になった台所を目にする度、おじいとおばあの悲惨な最期が目に浮かぶのだ。毎日、好きでもない男に犯され、子を孕んだ時の絶望も、未だに胸に巣食っている。
この鬼の子を産んでも、その先にあるのは祖父母の様な惨劇なのだ。
産みたくない。
だが、それでも命は命。
日々大きくなり、先程のように胎動を感じられるまで育ってきた。
私の大事な家族を奪った鬼が、許せない。
思うままに凌辱の限りを尽くし、私を孕ませた男。
……では、私の産む子供は罪なのだろうか?
わからない、産みたくない、でも会いたい。
初めて私のお腹に宿った命。奪いたくない、けれども怖い、なのに愛しい。
ずっとずっと堂々巡りの考えが頭を占めて、どちらにもなれない。
いっその事──狂いたい。
心が日々掻き回されて、何も考えたくない。
人間でいる事を、考える事をヤメタイ。
「……鬼狩りとは……」
久しぶりにまともな言葉を発した私を、驚いた鬼が後ろからそっと覗き見る気配を感じた。
「鬼に恨みを持つ人間で形成された組織の事だ。鬼を殺す事を生業にしてる。大抵の鬼が、二十歳になるまでにこいつらに見つかって殺される。瞳は隠せるが、角は隠せるものではないから」
では。
では、私がこれから産み落とす子供も、二十歳になる前に殺される可能性があるのか。
麻痺した筈の胸が痛み、涙が一筋頬を伝った。
「……泣くな、せん。それは鬼の定め。鬼が多くなりすぎても、生態系が保てなくなる。鬼狩りは狩人で、鬼は熊の様なもの。丸腰の人間が熊のテリトリーに住めば殺される可能性があるが、狩人は熊を殺せる。人間に危害を加えれば熊はやはり殺されるし、とはいえエサが人間であれば熊も食らうだろう」
ぽたり、と鬼の手の甲に、涙は落ちる。
「……鬼は、たった一人だけ、妻と望んだ者と子を為す。せんには悪いが、俺が選んだのがお前だっただけ。お前は何も悪くない。人間を食らう鬼を産むのも、俺のせいだ。お前はただ犯され、孕まされたのだ」
「……」
この鬼は、残酷だ。
自分が私に優しくしている自覚がない。
そしてその事が、私を苦しめている事に気付かない。
「せん、鬼に拐かされた大抵の妻は、気が狂う。私の母も、発狂していた。だが、狂った方が幸せなのだ。狂う前は毎日泣いて、毎日手首を切っていた。子供の首に手を掛け、次の瞬間には抱き締めていた。狂ってからは、いつも穏やかな顔をしていたから……だから、せん。せんも早う狂って楽になれ」
***
鬼が来てから、私は一度も畳の部屋を出ていなかった。
たまに襖が開いた時に居間と台所を目にする位で、毎日犯され続けて身体が動かせず、居座った鬼に養われ、食事や風呂の介助までされながら半年を迎えたのだ。
筋力が明らかに落ち、子を孕んだのがわかっても産むのは難儀になるのが目に見えていた為、お腹が重くなる前に筋力と体力を取り戻そうと、極力家の中での生活は普通に送る様に努力していた。
途中、鬼がいぬ間に崖の上で1日悩んだ事も、川の淵でじいと水面を覗いていた事もあったが、結局死ぬという選択を出来ずに9ヶ月を迎えたある日。
「もうし、すみません」
家の外で、男の声がした。
「はい」
私は答えてから、ゆっくりと身体を起こして扉を開ける。
「せんさん!無事で……」
そこにいたのは、一人の村男だった。一度見合いをした事がある位で、名は忘れた。その男の目は、私の膨らんだ腹を凝視している。
「お久しぶりです。本日は、如何なさいましたか?」
私はゆるぅく微笑んで男に尋ねた。
「いやいや、最近村のモンがせんさんを見掛けねぇってんで、無事かどうか見に来ただけだ。無事なら良いんだ、しかし……いつの間に」
私が村に行かなくなって、十月程になる。
よっぽど耳が遅いか、本当は別件なのだろう。
「ええ。たまたまご縁がございまして」
「お祖父様とお祖母様も息災か?」
「……いいえ。……私の両親と同じく、だいぶ前に流行り病で……」
「そうか。それは……悪かった。ただ、最近村の方で、ここ十月程高齢の人達が神隠しにあってたから、耳に入れておこうかと思って……」
「それはわざわざ、ありがとうございます」
「まあ、それもそのうち解決するだろうが。噂を聞いて都の方から人が来るらしいんだ」
こんな村までわざわざ良く来てくれるよな、とその男は続けていたが、私の耳には入って来なかった。
都の方から、老齢の方々の神隠しの話を聞いて人が──……
私の胸が、期待に膨らむ……家族の仇をうって貰えるのではないかと。
その時、お腹を中から子に蹴られた。
鬼が退治されるのと同時にこの子は父を失い、道標を失う。
産んでも、私が人肉を用意出来る訳がない。
望まれずに産まれ、産まれてからも満たされず……この子は何の為に、産まれるのか。鬼として産まれたとしても、本人が悪い訳ではないのに。
は、と気付いた。
そう……鬼として産まれたとしても、本人が悪い訳ではない。
私の為の食材を求めて今は山に入っている、私の全てを奪った鬼もそうなのか。
私は、男が去った後、普段は踏み入れない台所に続く引き戸を開けた。
鬼は、あの後私に謝った。
「本来であれば、鬼は食材に対して血の一滴も垂らさぬ様に感謝して食わねばならない。だが、せんの祖父母は上手く食う事が出来ずに、こうして血を流してしまった。本当に申し訳ない」と。
私は謝るところはそこではないと、何とずれた謝罪をする男なんだと思って怒りが増した。私の大事な家族を奪っておいて、何という感性の持ち主なのかと思ったが……自分を生かした生命に感謝する、という部分は持ち合わせているのだ。
人間を食わねば瞳が赤くなり狩られ、人間を食っても狩られる。
お互いに相容れぬ存在であるのに、鬼は人間社会に溶け込まないとまた生きていけない。
……何て、残酷なのだろう。
罪のない祖父母を殺した事は許せない。
では、人間が日々生き延びる為に、食糧として狩る生物にはどんな罪があるというのか。
──これ以上は、考えてはいけない。
私はこれからも、あの男を憎み続けなければ、殺され食われた祖父母に顔向け出来なくなる。
「……では、旦那さんはいないのかな?」
村の男の声が耳に入り、自分が思考の渦に絡めとられていた事に気付いた。
「ええ、今は猟に出ております」
「そうか。では、神隠しの件だけは旦那さんの耳に入れといてくれ。都から人が訪ねてくるかもしれない、ともな」
「わかりました。わざわざありがとうございます」
私は、その村男を見送り家の中に入った。
……鬼狩りが、来る。
私があの男に復讐をする機会が来たのだ。
では、この子は?
鬼狩りであれば、鬼の子は人間の女が産む事を知っているだろう。であれば、この子は産み落とした瞬間に……殺されるのであろうか。
それで、私が鬼と交配した事はなかった事にされるのか。
それとも、鬼の子を身籠った事自体を生涯に渡り指差されるのか。
もしくは、子殺しという判定を受けるのか。
ぐねぐねと元気いっぱいに胎の中で暴れまわる子供を皮膚越しに撫でながら、溢れ出る涙を止められない。
自分がどうしたいのか、どうすべきなのか、全くわからなかった。
それでも、月日は誰しも平等に過ぎ去るのだ──
***
おぎゃあ、おぎゃあ、と元気良く泣いて出てきた赤ん坊を、嬉しそうに抱える鬼を見て不思議に感じる。
鬼と子供の頭に角がなければ、他人から見ればこの瞬間は幸せの象徴であるに違いないのに。
「せん、よく頑張ったな。元気な子だ。……名前はつけなくても良いが、どうする?」
そう鬼に言われて、意味がわからず、首を傾げた。
「名前をつけない……?」
「人間からすれば、鬼は鬼だ。そして、巣だった子供達は殆んどが殺される。人間のせんには、名付けをしたら余計辛いだけだろう」
ぼうっとしている私よりもよっぽど辛そうな顔をして、鬼は赤ん坊をぬるま湯で浄めていく。
そこで、初めて気付いた。
この鬼にも、名前はあるのかと。
一度もこの鬼を呼ぼうとしなかったし、聞いた事はなかった。
「……あなたの、名前は?」
私がそう言うと、鬼は苦笑する。
「俺には、名はない。便宜的に、太郎とは名乗っていたが」
「そう……」
鬼から視線を外し、ぼんやりと天井を見る。
「ゆうき。夕方の夕に、鬼で夕鬼」
「おお、この子の名前か?」
鬼は、嬉しそうに赤ん坊をそっと綿布に包みながら笑った。
「違う。……貴方の、名前」
「……せん……」
「その子は……夜に産まれたから、よき。夜の鬼って書いて、夜鬼」
「……結構……安直な……」
私は、ギロリと夕鬼を睨んだ。
「や、良い名前だと思うぞ!よき、か。良き名だ」
「……」
二人して、初めて笑い合った瞬間だった。
***
それから、1ヶ月が過ぎた。
床上げもとっくに終わり、乳を貪る様に飲む夜鬼の為に精のつく物を食べては、全て奪われていった。
夕鬼が夜鬼を連れて、夜中にこっそりと外出したのに気付き、ひとしきり泣く。
夜鬼は、もう普通に歩ける様になっていて、瞳が赤くなっていた。
「……せん、せん!!」
夕鬼が、私の名前を呼びながら、わざわざ居間に布団を敷いてまで私を抱く。夜鬼は襖の向こうの寝室ですやすやと寝ていた。
どんなに感じてしまっても、決して声はあげないと、決めている。
隣の台所から、祖父母の香りも気配もとっくに消えてはいたが、瞳を閉じればいつでもあの惨劇が脳裏に浮かび、「許すな」と私に訴えるのだ。
「~~~っっ、……っっ」
「せん、せん……」
夕鬼から、好きだと言われた事は一度もない。
代わりに、泣きそうな声で……すがるような声で、名前を呼ばれるのだ。
「ここ最近、何かかわった事はございませんか?」
「……特に、ございませんよ」
村男から聞いていた鬼狩りは、3ヶ月遅れてこの家までやってきた。
夜鬼は、2ヶ月。もう二歳だから、赤ん坊の時に着せていたおべべは全く使い物にならない。
それでも小さな着物が外にぶら下がっているのを見て、鬼狩りは何か感じたらしい。
「お子さんがいらっしゃるのですか?おいくつで?」
「……二歳になります」
どうみても、2ヶ月の赤ん坊が着る大きさではない。だから、こう答えるしかなかった。
「そうなんですか!良いですなぁ、私も嫁を鬼に食われてなければ、とうに父親になっとったんですがなぁ」
いきなり鬼という単語を出され、肩が震える。
頭の中で、目まぐるしく計算した。
この場合は、鬼という単語に反応すべき?それとも……
「……鬼、ですか?」
「ええ。許せませんよねぇ。他人の嫁を食っといて、自分達は子沢山なんてねぇ」
夕鬼は、若い人間は食わない。恐らく別の鬼の話だが、鬼狩りにとってはそんな事どうでも良い事なのだろう。
「怖い、ですね……鬼ですか。神隠しと関係あるのですか?」
「勿論ですよ!日本の神隠しなんて、殆んど鬼に食われとりますわ」
「そうなんですか」
怖い、鬼。思い出せ。目の前の鬼狩りに対して自然に振る舞う必要がある。
夜鬼を守る為にも、あの日の恐怖を……心底、鬼に震える人間となれ。
「ところで、奥さん。奥さんはつい先日まで、妊婦だったと伺いましたが?」
額を冷や汗が伝う。
「え?私の事ですか?」
「ええ」
「それは勘違いだと思いますよ?」
震えそうになる手を、押さえつける。
「そうですかねぇ……そいや、さっきの鬼の話なんですがね」
「え、ええ」
「……鬼の子供は、やけに成長が早いんですよ……」
鬼狩りは、スッと立ち、刀を抜いてこちらに向けた。
「ちょうど、2ヶ月前に鬼が産まれていたら、二歳ってところですね」
「……そう、ですね」
鬼狩りの瞳は、至って冷静だった。
これは、逃げられそうもない。前から斬られるか、後ろから斬られるかの違いしかないだろう。
以前、妊娠していた期間に、鬼の子は産み落とされた瞬間に鬼狩りに殺されるのかどうかを考えた事がある。
あれは、甘かった。
鬼狩りは、身内を殺され恨みを抱く者……つまり、鬼も、鬼の子も、それを孕んだ女も許さないのだ。
もし、妊娠しているのが鬼の子だと知ったならば、人間の女ごと斬るという選択肢をとるのかもしれない。
私は、覚悟を決めて瞳を閉じた。
……やっと、楽になれる。
夕鬼に惹かれ、祖父母に懺悔し、夜鬼を愛しく思う、そんな毎日からやっと解放されるのだ。
「鬼の子を産んだ女など……許しておけぬ」
鬼狩りの男の、刀を振り下ろす気配がした。
***
「夜鬼、この男はまだ若い。だから、食ってはならん」
「どうちて?」
「若い肉を食うと……呪いにかかって、若い肉しか食えなくなる。そうすると、人間から殺される」
「ころたれる!」
「だから、駄目だ。この男は……埋葬する事も出来ぬから、山に還す」
「やまにかえしゅ!」
二人の会話をこれ以上聞いていたくなくて、その場を離れた。
結局、鬼狩りの男は、刀を振り下ろす直前に帰宅した夕鬼に、後ろから斬られて殺された。
……狩人も、逆に殺られる事があるのか……
ぼんやりと、「まだ楽になれなかった」と思う。
鬼狩りの男は、殺された事で、復讐という呪縛から解き放たれただろうか?
「せん、大丈夫だったか?怪我はないか?」
夜鬼に一通りの教育をした夕鬼は、私の顔を覗き込む様に見た。
こくりと頷けば、夕鬼はホッとした様に言う。
「せん、ちょっとあの男を山に埋めてくる……悪かった、しばらく休んでてくれ」
私はまた、頷いた。
その後、別の鬼狩りが現れる事もなく、夜鬼は順調に育ち、一年……12歳になったところで家を出て行く時が来た。
「夜鬼、十分気をつけて。都に行って、なるべく目立たない様にね?それと……お嫁さんにしたい子がいたら、絶対にその子の身内を食べては駄目よ?」
「ん、わかった」
夜鬼は、夕鬼にそっくりの容姿で笑う。
夕鬼は滅多に笑わないが、夜鬼は笑い上戸だった。
この子がいないと、また家は静かになるだろう。
私と夕鬼は、ひとつの風呂敷に荷物を詰め込んだ我が子の門出を、その姿が見えなくなるまで見送る。
私のお腹の中には、二人目の鬼の子が宿されていた。
それからまた、一年程した頃に他の鬼狩りがやって来た。
今度は、居合わせた夕鬼がまた勝った。
二人目の子を見送るのと同時に、私達も住み家を替える事にした。
三人目の子を身籠ってはいたが、初めての旅は楽しく、また新しい住まいはそれなりに快適だった。
四人目、五人目を見送り、都住まいも慣れて来た頃の事だ。
「せんは綺麗だな。本当に綺麗だ」
五人も子を産んでも、まだ5年しか経っていない。身体の線はかなり崩れたが、それでも夕鬼に誉められると嬉しくなる。
……いや、嬉しいとかの感情は捨てなくてはならないけれど。
この都も去り、新しい住まいを探さなければそろそろ鬼狩りに目を付けられそうだと、確かに夕鬼は言っていた。
私はその日、竹細工を卸しに行って、帰宅した。扉を横に滑らせると、見た事のない男達が五人、後ろを向いて立っていた。
「……せん、……逃げろ……」
「……!」
男達のその先に、血みどろで地に倒れた夕鬼が見えた。振り返った男達……鬼狩りの手には、血で濡れた刀が握られている。
私は、夕鬼の言葉には従わず、男達をかき分けて夕鬼の傍に走り寄った。
夕鬼の傷は深く……ああ、これはもう、助からない。
「ばか……逃、げろ……」
夕鬼の瞳から、生気が失われていく。
私の祖父母を殺して食い、私を犯した鬼。
二度と起き上がる事の出来ない、夕鬼の胸に耳を当てる。
とくん、とくん、と弱々しい脈がとうとう静止したのを確認して、私はそのまま呟いた。
「逃げません。私は、貴方の……夕鬼の妻ですよ。貴方を愛していました」
夕鬼を許してはならぬ、という思いから、自分の想いに蓋をし、絶対に好意的な言葉は口にしなかった。絆されてはならぬ、これは身内を殺した鬼なのだ、と何度も何度も思い直した。
でも……夕鬼が死んでしまった今なら自分の想いを伝えても、おじいとおばあは許してくれるかな?
まだ暖かい胸から顔をあげ、夕鬼の顔の傍まで移動してそれ見る。
出会った時と変わらぬ、端正な顔。
「……お前、この鬼の伴侶か。すまぬが、身籠っている可能性がある故……お前も殺すしかない」
私は鬼狩りに背を向けたまま、一度も交わした事のない口付けを夕鬼に送った。
一生伝わる事のない想いを込めて。
ズン、と背中から凄まじい衝撃と、燃える様な熱さ。次いで何も感じなくなった後、急激に寒さを感じた。
かじかんで上手く動かせない手をよろよろと伸ばして、夕鬼の頬に触る。
──もう、冷たい。
そして、もう一度だけ、唇を寄せる。
最期の口付けは、血の味がした。
狂えたら、楽だった。
狂えたら、難なく貴方を愛せたのに──