ストレンジ・シチュエーション
ちっ……、心の中で舌打ちをした。
私の担任であり、心理学専攻の准教授でもある三戸先生はスライドを変え、学生に向かって説明し始める。
「エインズワースの行った子どもの愛着行動を引き出す実験によって、それぞれの子どもの愛着タイプを四種類に分けることが出来ます。愛着行動が見られないAタイプ、愛着行動が見られるBタイプ、どちらの反応も見られるCタイプ、以上の三つには見られない矛盾した行動を取るDタイプ、ですね。尚、Dタイプというのは、虐待を受けている子どもの可能性があります」
子どもの愛着行動を引き出す実験、というのは子どもを母親と一緒に知らない部屋に入室させ、知らない人と二人きりにさせてみたり、子ども一人だけにさせてみたりして、そのときの子どもの反応と母親と再会させたときの反応を見る実験だ。対象となる子どもは生後九か月を過ぎた辺りの乳児となる。
乳児の頃の記憶というのは残りにくく、子どもと会話が出来る頃には実験を覚えていることはほとんどない。だから子どもの精神的問題にはならない。そのことからか、この実験は現代でも行われているらしい。世界的に見ると、全体の約七〇パーセントがBタイプだ。大概は、アタッチメント(愛着)を両親に対して持っているらしい。
私の右手のひらが疼き始める。無意識に左手で右手のひらをさする。
「ですが、どのタイプだから、と言ってその子の未来が決まったり、特定の性格の人間に育ってしまう、ということは決してありません。愛着タイプというのは、その子どもが両親に対して自分がどのような反応をしたら両親がどのような行動を取ってくれるか、を見極めた結果がそのタイプだったというだけなのです。赤ちゃんも人の反応を見ているということですね。虐待を受けた可能性に見られるDタイプなんですが、最も近い存在である母親からの虐待が多いのですが、母親のせいだけでは決してないので、そこは誤解がないようにお願いします。育児疲れから母親には心理的負担がかかってきているので、周りの家族がフォローを入れてあげることが大切です」
母親のせいでは決してない? それはそうかもしれないが、虐待を受けた子どもの方はどうなる? この場合、父親だろうが母親だろうがその他の親族だろうが、関係ない。何を言っても一番被害者なのは虐待を受けたその子どもだ。
右手のひらの疼きが強くなる。左手でさするだけではどうしようもなくなり、掻きむしりだす。私の右手には常に包帯が巻かれていた。包帯が邪魔で右手の疼きはまったく収まってくれない。私は筆入れからカッターナイフを取り出すと、誰にも見られないように机の下で右手のひらを切り裂いた。
カッターの刃は簡単に包帯を裂き、右手のひらの皮膚をも切り裂く。鮮血が流れ、白い包帯を赤くさせる。私はもう一度刃を皮膚に食い込ませ、さっきとは違う方向から、バツ印になるように右手のひらを切り裂いた。
ここまでしてようやく疼きは収まってくれる。もう何度も切り裂いてきた箇所だからか、痛みはない。
白い床に血が滴る。私は鞄から新しい包帯を取り出すと、止血のために強く傷口を押さえた。
私はDタイプだったろう。私は実験を受けたのかどうかは知らないし、確認を取ろうにも両親がいない。だけど、Dタイプの子どもだったろうな、と思う。私があの人たちに愛着行動を取るとは思えないし、そんなことをした過去があると思うだけで、虫唾が走る。
ちっ……、私はまた、心の中で舌打ちをした。
「まーた吸ってる……」 キャンパス内の屋外にある喫煙スペースで煙草を吸ってると、彼氏の支倉が近づいて来た。私は彼を無視して紫煙を空気中に吐き出す。支倉は顔を顰めた。
「そんなに吸うなよな。身体に悪いよ」
「知ってる。支倉が嫌なら別れようか」
「またそんなこと言う」 支倉は心底うんざりするような顔で言うと、私の右手に目を向けた。
「それ。包帯変えたの? 朝見た時より新しくなってる」
「包帯は確かに変えたけど、前のが使い物にならなくなったから」 私はそう言いながら紫煙を肺に送り込む。煙草は一年の時から嗜んでる。二十歳になってなくてもキャンパス内の喫煙スペースなら、教授たちでも全ての学生の顔を把握できていない。だからでかい顔をして煙草が吸える。
「また切ったの? しかも講義中に。誰にも見られてない?」 支倉はよくわからない奴だ。心理学専攻の私とは違う文学専攻に属していて、接点のないはずなのに一年の頃からよく私に絡んできた。告白されたのは私に絡むようになって数か月経った頃、「見た目が好みだから付き合ってくれ」と言われた。何を言ってるんだこいつは、とも思ったが、なぜかOKと答えている自分がいた。それからズルズルと現在まで関係は続いている。だけど、支倉と私に身体の関係はおろか、キスすらしたことはない。手も繋がない。
それは最初に私が支倉に取り付けた条件があるからだ。
「付き合ってもいいけど、私は一生結婚する気は無いから。それと私には触れるな」 これが私の言った条件だ。こんな条件を出されても支倉は「いいよ、わかった」と言い、今でもその条件を律儀に守っている。まあ、破ったら、間違いなく別れてるだろうけど。
友人が言うにはそれだと付き合ってる意味はあるのか、だ。確かに、そうだ。私はそれでいいが、支倉がこの条件を守ってまで私と付き合ってる意味なんてないだろう。男なら好みの容姿の女にしたいこと、させたいことが沢山あるだろう。支倉はそれどころか、私には触れられないのだから。ただ、話すだけ。男にしてみれば蛇の生殺しだ。だから、私の中で支倉はよくわからない奴になっている。
「だってさー、講義中なのに右手が疼くんだもん。そうなったら切るしかないじゃん」
「美加は心理学専攻向いてないんじゃないかな」
「母親に関係しないことなら大丈夫。特に問題なのは一年の時に習った発達心理学の分野。成長には母親が不可欠なんだよねー。今日はたまたま復習として講義に出てきたけど」
「あのさ、美加。前言ってた話なんだけど、考えてくれた?」 支倉は急に真面目な顔になって私に聞いてくる。前言ってた話、というのは専攻の移籍の話だ。支倉は私を心理学専攻から文学専攻に移籍させたがってる。
「悪いけど、私、これでも心理学気に入ってんだよね。そりゃー、嫌なことは思い出すし、手のひらは切っちゃうし、煙草は進んじゃうけど」
「そっか……、わかった。じゃあ代わりに、課題教えてくれない?」
「はあ?」 支倉は文学専攻のくせにまったく文学には詳しくない。小説もからっきしだ。
「だって、美加の方が俺よりも断然本に詳しいだろうからさ」
「支倉は何で文学専攻入ったの? まあいいや。その課題いつまで?」
「明後日まで」
「じゃあ、明日にしよう。私、もう今日講義は無いから帰る」 そう言うと私は鞄を持って喫煙スペースから出る。支倉は「気をつけてな」と後ろで言っていた。私は返事の代わりに手を上げる。私達の関係なんてこんなもんだ。あっさりしていると言えばいいだろうか。私はそのままキャンパス内から出ているバス乗り場まで行き、自分の家のある方向のバスに乗った。
バスは以外に空いていて、私は定位置の座席に座る。黙ってイヤホンを耳に突っ込み、流れていく外の景色をただぼんやりと目で追った。こないだまで咲き誇っていた桜は散り、緑葉が枝を覆っていた。
途中、停車したバス停で父親と小学生ぐらいの女の子の親子が乗り込んできた。二人は中々の大きさの声で楽しそうに話し出す。
「ねぇ、パパ。ママ、待ってるかな?」
「大丈夫だよ。ママは買い物をして待ってるって言ってたから。合流したら店に入ろう。何が食べたい?」 私は右手の傷がある箇所を包帯の上から強く抓った。傷口が開いたか、包帯には赤い染みが広がる。
「あなた、怪我をしているの。それ血じゃないの。大丈夫?」 近くに座っていた年配のご婦人が心配そうに声を掛けてくる。その声のせいで私に視線を注ぎ始める人たちもいた。
私はイヤホンを外し、「大丈夫です、今日、料理してて切っただけですから」とご婦人に言う。どう考えても料理をしていて切ってしまう箇所ではないし、傷が深すぎる。それでもご婦人は私の対応に満足したのか「それなら、いいのだけど」と言って引き下がった。
私は病気だな、と思う。だが、これも私をDタイプに育てさせた母親が悪い。これなら、私が赤ちゃんの頃にストレンジ・シチュエーション法で母親の虐待を暴いてほしかった。公にして欲しかった。母親を晒し者にして欲しかった。だけど、私の母親は罪に捕らわれず、今日もどこかで知らない振りをして生きている。
私はそんな母親を恨んでいる。殺してやりたいぐらいに……。
「ちっ……」 本当に舌打ちをしてやった。
バスを降りると少し歩き、私は自分の家へと帰って来た。木造一軒家の父の実家。私はここで父の兄である伯父さんと暮らしている。祖父母は私の生まれた時にはすでにいなかった。
「ただいまー」 誰もいない家に向かって挨拶をする。玄関に伯父さんの靴はないからまだ帰ってきていない。伯父さんは小さな出版社勤めの中年だ。本とアルコールが好きな独り身のおじさんで、父が亡くなった時に真っ先に身寄りになってくれた。誰にでも敬語を使うちょっと変わった人だ。
私は家に上がり、自分の部屋に鞄を置くと、部屋着に着替えた。麦茶でも飲もうと、台所に向かう。その途中にやけに立派な仏壇が置いてある仏間の前を通る。何を思ったのか、私は仏間に足を踏み入れていた。
遺影は全部で五枚、その内二枚は会ったことの無い祖父母で一枚は私の父だ。残りの二枚は誰なのかも知らない。私が知っているよりも若く、僅かに笑みを浮かべている父の遺影に向かって言ってやった。
「なに見てんだよ、私を置いて死んだくせに」 もちろん返事は無い、逆にあったら困る。私はホラーが苦手だ。
私はそそくさと仏間を後にし、台所で麦茶をコップに注いで一口飲んだ。
父が死んだのは私が中学生の時だ。中学三年生の秋に交通事故で亡くなった。高速道路の反対車線を走って、トラックにぶつかって即死だった。遺体は見せてもらえなかった。事故だと親族は言い、警察もそう報告書にまとめたらしい。でも、あれは事故なんかじゃない。父の死は自殺だ。自分と娘を捨てて、どこかに行ってしまった父にとっての妻。私にとっての母親に裏切られたショックで自殺したんだと思う。
父も酷いが母はもっと酷い。いや、母なんて呼んでやるもんか。あの人は、幼かった私に虐待して、私に反抗心が芽生える前に逃げた。精神的にも弱かった父を捨てて。それが小学校四年生に上がる前の話だ。それから父はショックだったのか、急に病弱になった。自殺するまでにも何度も入退院を繰り返し、そのせいで私と父にもほとんど会話をする暇も無かった。
――駄目だ……、右手が疼く! 父が自殺してからというものあの人のことを考えていると、虐待を受けた右手のひらが疼くようになった。私は包丁を手に取ると、迷うことなくいつもの箇所を切る。かつて切った傷に沿うように。
包帯も切り裂かれ、台所の床に落ちる。包丁はこないだ研いだばかりだからか、切れ味が良くいつもより深く肉が裂ける。今回は出血も酷く、流れる様にして床に生暖かい血溜まりを作る。だけど痛みなんてなく、あーあ、伯父さんが帰ってくる前に掃除しなきゃ、と私は考えていた。
私の右手のひらには自分で切った傷の他に、手のひらの中心に円状に黒く変色した箇所がある。これは喫煙者だったあの人に車の中でシガーソケットを押し付けられた跡だ。まだ、乳児だった私にはその記憶がない。生前の父に聞かされた話だ。
「美加が泣き止まないから、お母さんは仕方がなかったんだよ」 父はその時、私にそう言った。仕方がない? ふざけんなよっ! あの人のことが好きで仕方がなかった父はいつでもあの人の味方だった。捨てられて自ら死ぬほどに。
私の右手が疼くのはこの火傷の跡のせいだ。だから私はこの跡を消すためにその上から傷をつける。喫煙者だったあの人の真似をするわけでは無いが、あの人が生んだ私の身体なんか、汚い。だから、煙草の紫煙でくすませてやる。
いつからかそう思うようになっていった。
「ただいま」 私が夕飯を作っていると、玄関で伯父さんの声が聞こえた。静かに廊下を歩きながら、伯父さんが台所に顔を出す。
「おかえりなさい、伯父さん」
「ただいま。いやー、悪いね、毎日みたいに夕飯作ってもらって。助かります」 伯父さんはそう言いながら、ネクタイを緩めて上着を脱ぐ。
「やめてよ、伯父さん。世話になってんのはこっちなんだから」 私は経った今出来たばかりの夕飯、旬のアスパラガスを使ったサラダとさやえんどうのお味噌汁をおぼんに載せてリビングのテーブルへと持っていく。伯父さんはご飯を茶碗に二人分よそって持っていってくれた。
いただきます、と二人で呟いてから私は思い出す。夕飯を作っている時に支倉から届いたメールのことを。メールの内容は、今日支倉が言っていた課題のことで、今日中に読んどいたほうがわかりやすいから、と課題図書が何かを送って来たのだった。私は伯父さんにその課題図書について聞きたいことがあった。
「伯父さん、家にイソップ寓話ってあったけ?」
「えっ? イソップ寓話……。確か、あったよ。僕が持ってるのだけど。どうしたの、課題?」
「う、うん……」 伯父さんは私に彼氏がいることは知っているが、私がその彼氏の課題を手伝っていることは知らない。別に言っても、伯父さんは怒らないだろうけど。伯父さん自身、学生の頃はよく他人の課題をやってあげていたらしいことをこのあいだ言っていた。
「わかったよ、夕飯が終わったら探してみるから。確か僕の部屋の本棚にあった気がするんだよ。なかったら、ごめんね」
「ううん、ありがとう。仕事忙しいのに」
「それが、全然。出版業界は不況で参ってるよ。特にうちみたいな小さな会社じゃあね、どうしてもお得意さんがいなきゃ、やっていけない」 そう伯父さんは、「はーあ」と盛大に溜息をつく。
「ほら、伯父さん、溜息ついたら幸せが逃げてくってよく言うじゃん」
「いやー、僕の場合はもう、溜息のし過ぎで、幸せの概念そのものが無くなってるような気もするけどね」 そう言って伯父さんは、「ははは」とおじさん臭く笑う。
「あ、そうだ。伯父さん、話しは変わるんだけど、私って赤ちゃんの頃にストレンジ・シチュエーション法の実験とかに協力したことってないよね?」 私がそう聞くと、「なにそれ?」と伯父さんは反対に聞いてくるのでそのことについて説明した。
「あー…、なるほどね。悪いけど僕が知る限りだと、そういうことに協力したっていう話は聞いてないな。君の父さんからも、美沙さんからも」 美沙、というのはあの人の名前だ。
「そっか、ならいいんだ」
夕食が終わると、今度は伯父さんが食器を洗ってくれた。朝は伯父さんが朝食を作ってくれる。代わりに私が食器を洗う。そういう役割分担になっている。最初は伯父さん一人で全部してくれていた。私が黙って手伝い始めると、いつの間にか、そういう分担になっていた。
私が手伝わないと、伯父さんは黙って何でも自分でしようとする。
「伯父さーん、私じゃあお風呂沸かしとくからねー」 食器を洗う伯父さんの背中にそう呼びかける。伯父さんは「ありがとう、沸かしたら先に入っていいよ。僕は本を探しとくから」と答えた。
私は冷水を底に適量溜めると、冷水を止めて、お湯を溜め始めた。一定の量が溜まるまで、私は煙草を咥えてリビングに行く。伯父さんは丁度、食器を洗い終えたところで、椅子に座ってた。
「食器洗うの早くなったねー、伯父さん」 伯父さんはスーツのまま、胸ポケットに入っていた煙草を取り出すと、一本咥えた。愛用のジッポで火を点けた後に私にも火を貸してくれる。
「美加さんがお嫁に行ったら僕一人だけだからね。今のうちに出来るようにならないと」
「それは残念でした。私はお嫁に行くつもりはないからね」 伯父さんは紫煙を吸い込み、吐き出した後に言う。
「伯父さんの真似をすることは無いよ。彼氏いるじゃないですかー、美加さんは」 椅子に座った私も紫煙を吐き出して答える。
「支倉のこと? アイツは確かに彼氏だけど、結婚までは考えたことなんかない。っていうか、伯父さん、さん付けやめてよー」
「いつものことじゃない。美加さんはさー、結婚のことより、母親になることが嫌なんじゃないかな? 僕みたいに」
「えっ?」 突然の言葉に私は唖然とする。「母親」というワードが出たことよりも、「僕みたい」っていうワードが気になる。
「いや、違うな。僕は、旦那にはなれないし、父親にもなれない。だから、美加さんを受け持つことになった時も不安だったんだ―。僕なんかに育てられんのかってね。中学生三年生の難しい時期の子を。でも、美加さんは僕が思っていたよりもずっと大人で、反対に僕が助けられたこともたくさんありました」
「急になに? 伯父さん、酔ってるの?」
「一滴も飲んでないよ。ただ、いつか言わなきゃいけないなとは思ってたんだ。多分、僕はそのタイミングを間違えたとは今思ってるけど……」
「なにそれー!」 私は伯父さんが可笑しくて大笑いしてしまった。でもちゃんと私のことを考えてくれていることに、後で気づいて泣くんだろうなって思った。
「ねえ、伯父さん。私も今だから言うとけどさ、この美加って名前好きじゃないんだよね。あの人の名前に似ているし、大体何? 美しさを加えるって。よく考えたら酷いと思わない?」
「……」
「伯父さん?」
「あー、えっと、ね。何と言うか、その名前、伯父さんが付けたんだ……」
「うえっ?」 その事実は知らなかった。マジか。伯父さん、落ち込んで、萎んで、煙草をふかして遠いところを見ている。私は慌てて言った。
「それなら話は別。私は伯父さんが付けてくれた名前なら、大好き!」
「……ははは。なら良かった。僕はイソップ寓話探してくるね。お風呂入りなよ」 そう言って伯
父さん、煙草を揉み消して立ち上がった。そしてそのまま、自分の部屋のある二階へと上がっていった。
「さて、と」 私は先に溜めていたお風呂のお湯をとめ、部屋から下着とバスタオルを持って来てから脱衣場で服を脱ぐ。私は湯船に浸かる前にすべてを終わらせるタイプだ。要するに身体から頭、すべてを洗い終えてから、お湯に浸かる。
「はあーあ」 これは溜息ではない。お湯に浸かることで自然に出た感嘆の声、とでも言おうか。右手のひらの傷はお湯につけたことで身体を洗っていたときよりもジンジンと痛みを増す。
だが、それが妙に心地いい。疼いているときよりも全然マシだった。なんなら、痛ければ痛いほど疼きの根源である火傷の跡を消してくれているようにも感じた。
「それにしても——、支倉の奴本気だったんだな」 私は支倉が私を心理学専攻から文学専攻に移籍させたがっていたことを思い出し、そう呟いた。言い出したときは、いつもの気まぐれだと思っていたけど。もう一度聞いてきたあのときの顔、どうやら真剣らしい。
「なんにしても……、なぜその代わりに私がアイツの課題をしなければいけないわけ?」
私がお風呂から上がると、伯父さんはリビングでビールを飲んでいた。トップバリューの安価なビールだ。テーブルの上には頼んでおいたイソップ寓話と消毒液が置いてあった。
「上がったよー」
「あ、うん。美加さんちょっと、こっち座って」 伯父さんは、ぽんっぽんと隣の椅子を触り、座るように促してくる。
「なに? どうしたの」 私は言われた通り、伯父さんの横に腰を下ろした。
「右手のひら出して」
「えっ?」
「気づいてないとでも思った? 台所の床、まだ少しだけど血痕残ってたよ。包丁は綺麗だったけど」 伯父さんは私の右手のひらの疼きのことを知っている。傷つけることでそれが収まることも。いつだったか、切っているところを伯父さんに見られて、説明したことがあった。伯父さんは怒らなかったけど、酷く悲しそうな表情をしていたのを覚えている。
「……ごめんなさい」 私は咄嗟に謝っていた。
「え、あ、いや、謝らなくていいよ。一番その疼きを嫌だと思っているのは美加さんの方だからね。もし、僕に同じような症状があって、傷つけることでそれが収まるならば僕も同じことをしていたと思う。ただね、見ている身としてはやっぱり、ほっとけない。傷つけるなって言っているわけじゃないよ。何が言いたいかって言うとね、えーと、うーんと……」 伯父さんは時々、言葉に詰まることがある。本人曰く、話すのが苦手だから書くことを選んだ、ということらしい。
「——そうだ、例えばね。伯父さんはお酒が好き。だけど、お酒は体に悪い。それでも、伯父さんはお酒をやめない。悪いことだっていうのはもちろんわかるんだ。それでもそれに縋ってこそ、今を生きていられるんだと僕は思ってる。美加さんのその行為もそれと似たものじゃないかなって。まあ、このことは今度ゆっくり話しましょう。ただ、今は黴菌が入らないように消毒させてもらえませんか?」
「——ありがとう、伯父さん」 私は少し、伯父さんの不器用さに笑いそうになったが、ここは笑ってはいけないと思い、思いとどまる。そして大人しく右手を差し出した。
「いいえ、いいえ」 伯父さんはそう言って差し出された私の右手のひらの傷に消毒し始めた。
「うーん、酷く切ったね。化膿したら大変だよ。それはそうと、そこにイソップ寓話置いといたから。どんな課題かは知らないけど、作者は紀元前の人物、アイソーポス、だって言われている」
「言われている?」
「うん、なんせ、昔も昔、大昔の人物だからね。正確にはわからないんだよ。キリスト以上に昔の人物。元は奴隷だったとか、どうとか。まあ、でもイソップ寓話と言えば多くの作家が影響を受けて、自分なりの作品に書き直している。それぐらい印象的なものが多いんだろうね」
「確か、課題は蟻とキリギリス、だったような」 私は支倉からのメール内容を思い出す。
「蟻とキリギリス。福沢諭吉バージョンだとキリギリスじゃなくてイナゴになってるんだよ。現代でもいろんなバージョンがある。教訓は個人的にも時代的にも変わるって言うことなんだろうね」
「教訓は変わる」 私は伯父さんの言葉を繰り返していた。
「そう、言葉だって変わっていく。古い言葉は消え、新しい言葉が生まれたりする。言葉すら変わるんだから、人間の考え方だって変わっていって当たり前なんだと思う。変わらない、ことがあるのもいいことなんだけどね。まあ、それは僕か、と。こんなもんでいいでしょう。あんまり深く切らないようにね」 伯父さんは消毒してくれた上に新しい包帯まで巻いてくれた。
「ありがとう、伯父さん。伯父さんも飲み過ぎないようにね」
「うん、後はウイスキー何杯か飲んで、やめとくよ」 そう言って、お互いに少し微笑んだ。
伯父さんと別れ、自分の部屋に戻ってきたところで、スマホが震える。着信音が部屋に響き渡った。着信元を見てみれば、支倉からだった。私は少し迷って通話に出てみる。
「もしもし、」
「あ、もしもし、支倉です。美加さんいらっしゃいますか」
「あのね、私の電話番号にかけているのに、私以外が出たらおかしいでしょ。アハハッ、まったく」 私は自然な流れで支倉の奇行に笑ってしまう。
「——良かった」 その支倉の一言があまりにも安堵したものだったから、私はなぜか少し焦った。
「えっ?」
「いや、何でもない。それより、悪いな。夜に電話をかけて。ただ、昼間の美加の様子が心配だったから。どうしても電話をかけて声が聞きたくなって」
「な、なによ、それ」 本当になんなんだ、その理由。そしてなんで私はこんなに焦っているんだ。
「ううん、別にもういいんだ。良かった、安心した。それじゃあ、おやすみ、また明日」 支倉はそう言うと、本当に通話を切ってしまった。
「なんなの、アイツ」 私は切れてしまった後のツーツー、という不通音をしばらく聞いていた。
その夜、私はなぜだか、伯父さんから借りたイソップ寓話を読む気にはなれなかった。そして、支倉との会話の一部始終を幾度も幾度も自分の中で繰り返した。
なんなのだろう、この焦り。焦り? 私は焦っているのか、いったい何に対して?
答えは、支倉だ。あのときの支倉の妙に安堵した口調。あれを聞いたときから、私の何かが焦りだした。私は支倉との会話の中に、焦りの正体に関する答えを、ヒントを求めて、何度も自分の中で巻き戻しては再生した。
「酷い顔」 次の日、喫煙所で私の顔を見た支倉はそう言った。
「うっさい、寝てないんだから仕方がないでしょ」 そう、私は昨晩、とうとう眠ることが出来なかった。焦りに対する、答えもヒントもついには見つからなかった。イソップ寓話も読んでいない。これでは、支倉の課題を終わらせることは出来ないだろう。でも、それ以上にこの焦りの答えを見つける方が今の私には重要に思えて仕方がなかった。
「どうして、眠れなかったの?」 そう言いながら支倉は私の隣に座って来た。
「え、どうしてだろう」 昨日の電話が原因で、とは支倉だけには知られたくなかった。
「講義は?」
「今日は休む」
「そうか、美加にしては珍しいな。それなら、なんで大学に来たの? もしかして、俺に会いに?」
「……」 図星だった。支倉に会えば何かわかるような気がしたのだ。
「ね、ねえ! 支倉は煙草きらいでしょ。もう少し離れれば?」 気づけばまったく心中にない、言葉を吐いている自分がいる。そんな自分に嫌気がさし、支倉から顔を背けた。
「嫌いだよ、煙草は」 次の瞬間、支倉はそう言って私の右手を掴み、煙草を奪い取ってきた。
「ちょ、なにするの」 私が油断して支倉の方に向き直った瞬間だった。
「……っ!」 支倉は私にキスをしていた……。伯父さんの言っていた言葉が蘇る。
――人間の考え方だって変わっていって当たり前だと思う―― そうか、変わってもいいのか。私は焦りの答えがなんとなくわかったような気がした。私はきっと自分の心配を心からしてくれた支倉が私の偏屈な考え方のせいで、自分の前からいなくなってしまうのが怖かったんだ。だから、自分も気づかない内に焦ってしまっていた。
しばらくして、支倉は私を、私の唇を解放してくれる。
「美加が嫌なら別れようか?」 支倉は少し、意地悪そうな顔をしてそう言った。きっと、私の顔は真っ赤になっていることだろう。
「……」 私は無言で首を振り、必死で支倉の申し出を断った……。