青い炎と夜を越えていく方法。
深い暗闇の中、青い明かりが一つ、灯される。二つ、三つ、と次第に増えていく明かりは、辺り一面を照らすように広がっていく。そうして森の中にある湖は、暗闇の中からやっと姿を表して、その中央に一つの影を浮かび上がらせた。白いブラウスに胸元に結んだ金糸の刺繍が入った臙脂色のリボン、ベストとスラックスは皺ひとつなく、青年のような体躯をしなやかに見せている。けれどその頭だけは、どこかとぼけた顔を描いた、かぼちゃ頭だ。
手には古ぼけたオイルランタンが下げられ、中には青い炎が揺らめいていた。丁寧に磨かれた革靴の爪先をそっと水面に触れさせると、波紋が広がって、やがて湖全体に溶けて消えていく。確かめるように一歩一歩踏み出した彼は、そうして湖の上をゆっくりと、何かを確かめるように歩いていった。
針葉樹の森の中は静かで薄暗く、湖とその周囲だけがぼんやりと明るくなっていたが、深い木々の間から、ひとつ、ぼんやりとした小さな明かりが現れている。かぼちゃ頭は動揺する素振りもなく、ただゆらゆらと頭を揺らしてそちらへと近づいた。明かりは怯えるように小さくなったり、けれど懸命に立ち向かうかのように元の光量を取り戻しているけれど、頼りなく、危なっかしい。
かぼちゃ頭が湖の淵へと近付いて、そっとそのとぼけた顔で見つめたのは、ランタンを下げている幼い子供だった。怯えた顔で見上げてくる子供は、燃えるような真っ赤な髪の少女の様で、つばの広いとんがり帽子に黒いワンピース、暖かそうなケープを身につけ、身体には不釣り合いな大きな箒まで手にしている。
「君、どうしたんだい? 迷子かな?」
問い掛けても、少女は身体を震わせて手にしていた箒を取り落としたきりで、答えに応じる事はない。この森の近くには、人間達の住む小さな街がある。其処から迷い入り込んでしまったのだろうか。
「駄目だよ、此処は悪魔達が沢山いるから」
早く街にお帰り、とかぼちゃ頭が水面の上でしゃがみ込むと、少女は大きく瞬きをして、震える唇を開いている。
「あ、あなた、もしかしてジャック・オー・ランタン?」
「うん」
「そう、初めて見たわ」
視線を彷徨わせながらじりじりと後ずさる少女を見て、かぼちゃ頭はことりと首を傾けた。
彼女はそれでもその場から逃げ出そうとはせず、箒とランタンの取っ手を掴む手を白くなるまで握り締めて、意を決した様に大きく深呼吸をしていて。
「わ、私は魔女よ! 悪魔もあなたも、怖くなんてない。少し遠い所から来たのだけど、住む場所がなくて困っているの。だから暫く此処に居させて頂戴」
胸を張り、真っ直ぐに見つめてくる彼女の緑の瞳は、淀む事を知らない湖にも似ている。
彼女は魔女だと口にしたが、それが偽りだという事を、かぼちゃ頭はよく知っていた。
「魔女は僕達の縄張りを荒らさない。だから君は魔女じゃあない」
首を振ってそう言えば、彼女は怯んだように、再び怯えている。
きっと近隣の街から家出でもしてきたのだろう。夜の森には悪魔が沢山いるのだと、この地域では幼い頃から言い聞かされている筈なのに。
「僕達にはそれがハリボテの姿だって解るんだよ。さあ、街に帰りなさい」
「帰りたくないわ、あんなところ!」
彼女は今までにない程大きな声でそう言った。その途端に、近くの木々から鳥の羽ばたく音がして、少女は声を上げてしゃがみ込んでしまう。緑色の瞳にたっぷりと水分を含ませ、今にも零れ落ちそうなのを懸命に堪えながら、彼女は言った。
とっても嫌な事があったの。髪がまるで血の色みたい、って近所の男の子達に笑われたの。止めて、って言ったのに、髪まで引っ張られたのよ! パパとママにも言ったのに、気にしない方が良い、って言うの。みんなひどいわ!どうして私の気持ちをわかってくれないのかしら。
そう言って、鼻をすんと鳴らした少女はゆっくりと立ち上がり、かぼちゃ頭を見上げた。
「子供だから、って笑ってる? 私にとってはとても、とっても、大事な事なのよ」
唇を噛み締めた彼女の悲しみは、その小さな身体いっぱいに満ちているのが見て取れる。かぼちゃ頭は笑う事も蔑む事もせず、ただ淡々と、彼女の言葉を聞き、頷いていた。
「うん。君にとって、それは一大事なのだろう? だから、君は此処へ来た」
「ええ、そうよ」
「でも、それとこれとは話が違う」
思いも寄らない言葉だったようで、少女は目と口を大きく開いた。
「いいじゃない、少しくらい!」
彼女はそう言うけれど、此処は悪魔達が蔓延る森の奥。薄暗い森の其処此処に、ゆらゆらと蠢く影がいるのを、かぼちゃ頭はよく知っている。それが、今にも少女の背中に縋りつきそうにしている事も。
「君はジャック・オー・ランタンがどんな存在か、知っているかい?」
少女は何かを答えなければならない、と思っているのだろう、口を開いたり閉じたりと繰り返し、視線を彷徨わせているので、かぼちゃ頭は吐息混じりに笑って立ち上がった。
手にしたランタンを掲げ、ゆっくりと左右に揺らせば、周囲に青い炎が幾つも現れ、少女を取り囲むように広がっていく。少女は小さく悲鳴を上げていたが、青い炎が彼女を守るように壁を作ると、ほう、と息を零している。
「僕はジャック・オー・ランタン。堕落した人生を送って亡くなったその魂が、天国へ立ち入りを拒否されて、彷徨っているんだよ。悪魔達から火種を貰ってね」
炎の勢いに恐れ慄くように、周囲の暗い影達は木々の奥深くへと逃げていった。横目でそれを眺めていたかぼちゃ頭を、けれど少女は恐れるようには見上げてはいない。
「でも、あなたの炎はとても綺麗。穏やかで優しい色をしているわ。決してそんな風には見えない」
澄んだ緑色の瞳でかぼちゃ頭を見つめた少女の、伸ばしたその小さな指先を傷つけないように、炎は避けるように揺らめいて、霧散してしまう。かぼちゃ頭は淋しそうに少し俯いて、それでもとぼけた顔で少女に告げた。
「僕はジャック・オー・ランタン。道案内をしなければ。君を帰るべき場所に、返さなければ」
それが、此処にいる理由なのだ、と少女にも自分自身にも言い聞かせるようにかぼちゃ頭は言って、少女の小さな頭をそっと撫でた。
手袋をしている手のひらは大きくて、あたたかさをまるで感じられる事はなかったけれど、少女は何故だかそれを、酷く懐かしく感じていた。
「君の髪は命の色をしている。それは、誰にも汚されることもなく、誰にも奪われることも許されることのない、尊いもの」
だから、君は此処へ来てはいけない。
そう告げるかぼちゃ頭の言葉は、少女の身体に染み渡るように静かに落ちていく。決してふざけた物言いではなく、真っ直ぐに向けられた言葉は、ささくれていた少女の心を、穏やかにさせてくれていて。
いのちのいろ。
そんな風に考えた事はなかった、と少女が告げると、微かに笑う気配がした。それはひどくやさしく、いつくしみに満ちたものに感じられて、少女は胸元をそっと押さえた。
「僕はずっと此処にいるよ。だから、もし君が本当に絶望した時には、ふさわしい場所へと連れて行ってあげる」
手を取ってそう言ったかぼちゃ頭は、そのとぼけた顔で、けれど真っ直ぐに見つめて、いて。自分より大きいその手のひらをぎゅうと握り締めて、少女は問いかけた。
「それは、約束?」
「ああ、約束しよう」
戸惑いひとつ見せずにかぼちゃ頭が答えるので、少女は自然と笑みを浮かべてしまう。
「さあ、だから今日はお帰り。彼らが君を待っている」
大きな手のひらに引かれて、少女は森の入り口へと歩き出した。入る時は先の見えない恐怖に竦んでいた足取りはもう、踊り出してしまいそうな程に、軽やかだった。
***
森を抜けた先には、オレンジ色の穏やかな明かりが灯っている。少女の見慣れた、街の明かりだ。木々を抜けて道へと出れば、悲痛そうな声で名前を呼んでいる大人達がいる。
「……っ、パパ、ママ!」
この森に入ってきたばかりの時には、全て捨てても構わない、とさえ思っていたのに、なりふり構わず探し回っている両親を見ると、とてつもなく悲しい思いでいっぱいになってしまう。
思わず少女が二人の前に飛び出すと、驚いた顔の父親と、泣き出しそうな顔の母親が、両手を広げて少女をきつく抱き締めた。
「どこへ行っていたんだ!」
「ああ、もう、心配していたのよ!」
二人の腕の中はとても暖かく、確かめるように撫でてくれる手のひらからは、確かに生きている温度がしていた。今までがまるで夢のように感じて少女が振り向くと、もう其処にかぼちゃ頭の姿はない。
「森の中で、ジャック・オー・ランタンに会ったの。でも家に帰りなさい、って」
少女がそう言うと、父親と母親は顔を見合わせて不安げな顔をしているので、少女は慌てて、彼が怖いものではないと話をした。
彼は自分の髪を命の色だと言ってくれたのだ。誰にも傷つけられてはいけない、尊いものだ、とも。
「ねえ、あれは堕落した人生を送った魂が彷徨っているって本当なの?私の事を助けて、此処へ送り届けてくれたのに?」
とぼけた顔をしていたけれど、彼が手を引いてくれるその間は、確かに不安な事は一つもなかった。暗闇に潜む影にも、木々を揺らす風の音にも、怯える必要がなかったのだ。
少女がそう告げると、父親は柔らかく眼を細めて、小さな手のひらを握り締めた。
「ハロウィンはね、祖先の魂が帰ってくるんだよ。その人は私達の祖先なのかもしれないね」
「そうよ。今日はハロウィンだもの。きっとあなたを守ってくれたのね」
同意するように母親が言って、頭を優しく撫でてくれる。その当たり前のようでかけがえのないものを、少女は今更ながらに感じて、二人の体に頭を押し付けた。
「今日、私は嫌な事ばかりだったけど、」
でも、と言って、少女はまた、森の奥へ眼を凝らした。森の奥深くに、あの優しい青の炎が見える気がして。
「でも、あの人が約束してくれたの。だから、私、きっともう平気だわ」
何を約束したんだい、と父親が問いかけてくるけれど、少女は悪戯に笑って、内緒よ、と言った。
だって、あれは二人だけの約束なのだから、と。
***
背の高い樹木の上から、少女が両親と再会したのを見届けたかぼちゃ頭は、満足げに頷いた。
道案内をしている間、疎ましげに見つめていた影達が、炎の勢いを落としたランタンを見るなり、その周囲にまとわりつくように近づいてくる。
「お前、お前、どうして帰らせてしまったんだ」
「どうして、どうして、あれは仲間になれたのに」
呻くような声を上げて、影達は恨み言を次々に口にした。鬱陶しそうにその言葉を聞いていたかぼちゃ頭は、肩を竦めてランタンを乱暴に揺らして炎を巻き上げた。
「彼女の色は命の色。何者にも脅かされることもなく、失われることのない、尊いもの。お前達には相応しくない。散れ」
吐き捨てるようにそう言うと、黒い影達は文句を言いながらあちこちの暗闇へと消えていってしまう。
かぼちゃ頭は、少女の姿が見えなくなるまで見届けると、小さく息を吐き出した。
「優しい色、か」
そっと手をかぼちゃに添えて、彼は頭からそれを脱いだ。風に揺れる髪は、燃える炎のように、真っ赤な髪をしている。
「まあ、悪くはないかもしれないな」
僕の可愛い子供達が、そう言ってくれるのなら、と。
そう言って、彼は柔らかく笑っていた。