熊山幻想記~遙かなる空 彼方なる海原~
序章
展望台から、広がる景色は、空と大地。山々と平野の間を、大きく曲がりながら流れている吉井川が、遠くまで見える。その水面は、微かに空を映していて、彼方には、瀬戸内の島々が霞んで見えてる。
芽吹いたばかりの山々には、淡い緑色と深い緑色が重なり合っていて、所々には、ツツジが彩りを添えていた。
この辺りには、多くの史跡等があるので、ハイキングコースが整備されている。天気も良く、春麗かな日とあってか、ハイカー達が、辺りを散策していた。
展望台のベンチにも、ハイカー達が座り、弁当を開いて、他愛の無い雑談をしていた。
青年は、それを気にする事も無く、南の彼方を、その空を、じっと見つめていた。
古に、想いを馳せながら。
第一章 霊山の麓
晴渡った空には、雲雀の歌声が響き、南から吹く風には、花の香が漂っていた。
村の中には、幾つもの小さな水路が張り巡らされていて、その水路を辿ると川へと至る。雪解けの水で、川の水量は多く、川の両岸には、黄色や白色の菜の花が、咲き乱れていた。水面には、菜の花が映り、揺れている。そして、その川の中には、小さな魚達が群をなして、泳いでいた。
川の辺の高台にある、小さな村では、村人達は、それぞれ農具を手にして、田畑を耕している。春の陽射しが、水面に煌いていて、芽吹いたばかりの、岸辺の木々を照らしていた。
「田起こしも、だいぶ終わったな」
手を止めて、一息。彼は、汗を拭いながら、雲雀の声を追って、空を仰ぐ。
「今日も、御山は美しいな」
空へと、聳え立つ雄々しい山を見上げて、呟いた。
ここは、御山と山々の麓と、川の間にある、小さな村。連なる山々、点在する山々の中でも、その山は最も高く聳え立っている。その事から、神々の住まう山・霊山として、村人だけでなく、周辺の村集落や、吉備国などからも、崇められている、一つの信仰の山だった。
「もうすぐ、豊作祈念の祭だな。今年も、豊作でありますようにと、しっかりと、お祈りしなければなぁ」
もう一人の村人も、手を止めて、御山を見上げて言う。
田畑の周りには、水路と畦道。それらが、交わる所には、赤子程の石が置いてあり、注連縄が巻かれている。それが、石の所もあれば、木の所もある。それは、田畑の周りだけでなく、村の中の道が交わる所には、必ず置いてあった。
「さぁ。もう少しだ。稲の種蒔きが終れば、開拓作業が、待っているから、これから、忙しくなるぞ」
言い、汗を拭くと、また耕し始めた。
「ところで、カヤト。豊作祈念祭の祭主は、イツキちゃんなのかい?」
黙々と耕している青年に、鍬を地面にさして、もたれ掛っている、細身で色白の青年は言った。
「ああ。長老の後を継いだからな。今までは、長老が、付いて、神事などの指導していたけれど、今年から、神事は一人で、執り行うんだ」
手を止めることなく、答える。
「へーぇ、そうか。長老の代わりに、これからは、村の祭りなどをやるのか。大変だねぇ。そうなったら、何度も、御山に登らないといけないんだろ。長老は、若い頃から、何度も、御山を登っていたから、今では、ヨボヨボになっているじゃないか」
色白の青年は、手を止めたまま言う。
「それは、神々と接する為だから、必要な事だ。それに、イツキは、長老やムラ長に付いて、幼い頃から、村の神事や祭を、手伝っていたからな。本人も、ずっと、そのつもりでいるからな。それに、イツキは、この辺りで一番優れた、巫女でもあるからな」
カヤトは、鍬を振るいながら答え、最後のひと鍬を打って、御山を見上げた。御山は、まるで、村と土地をその胸に抱くかの様に、聳えていた。
御山の西には、悠々と川が流れ、上流と下流の土地、そして、海へと至る。その為か、川は重要な航路となっていて、時折り、舟が往来していた。吉備国の東の端ではあるが、中心部からも、御山は信仰を集めていた。その霊山である御山を、拝もうと、村には巡礼者が立ち寄る事もあった。
御山の麓、そこは豊かな土地。四季それぞれ、大地と川の恵みがあって、それを、御山への感謝と祈りとし、崇めながら、人々は暮らしていた。
村の中心には、舟形の様な磐座があり、それを囲む木造の回廊がある。その磐座と回廊を含めたものが、村の神殿だった。その磐座は、神々の力が宿るもの。それを示す、立派な注連縄が巻かれている。その磐座の周りには、種の入った瓶が、幾つも並べられていた。引こずる程長い黒髪に、白い長衣の娘は、磐座に向かい、祭壇に供物を揃えていた。
「祭の準備は、順調かい?」
祭壇の間へと、杖をついた、長い白髪を後ろで束ねた、一人の老婆が入って来た。
「長老様」
ゆっくりと、振り返り、娘は答えた。
「今年も、豊作であるようにとの祈りを、種に込めました。あとは、本祭までに、御山の磐座へと、赴くだけです」
と、言い、そっと、瓶の中の種に触れた。
「吹く風にも、花の香が漂い、神々の恩恵もひとしおで、ございます」
と、微笑む。
「そうか。そなたには、神々の声が、解るのじゃな」
うれしそうに、長老は頷いた。
「はい。御山の磐座と、ここの磐座は、二つで一つ。共に神々の力が宿り、御山の磐座に降立つ神々の力が、ここへと流れて来ていて、その恩恵を受ける事が出来るので、この村が、恵み豊かであると、何時も、長老様は、仰っていたでしょう」
穏やかな口調で言う。
「ああ、そうさ。その事が、解るのであれば、何時までも、その心を忘れずに、持っているんじゃよ、イツキ」
「はい。豊かで美しい、御山と川、この土地が、この先、ずっと続いていく事を、祈っております」
磐座に向き直り、イツキは、深く頭を下げた。
その日は、朝から祭の準備。村中、祭の事で、沸き立っていた。
村から御山へと続く道は、奇麗に整えられる。その道には、均等感覚で、小さな石が置かれていた。山と言えば、狩りをしたり、木の実などを採る山のこと。御山と言えば、霊山を指す。霊山である御山以外の山々は、山と言い、そう呼び分けていた。御山へと続く道は、云わば参道のようなもの。
御山の上へと続く道は、木々の枝で薄暗い。木々には、柔らかそうな芽が伸びている。木の芽と花、土の香が、参道を進んでいると、漂っていた。人一人が、通れる程しかない山道を、祭の神事を執り行う、イツキと、それを手伝う村人数人が、御山へと登っていく。その道の途中に幾つかある、神木や、お山に住まう神々の祠などにも、供物を供えて、祈りながら、御山の上にある磐座へと向う。そんな、イツキ達を、時折り、茂みの奥から、獣が様子を伺っていた。
幾ら手入れされている山道といっても、木々を切り開いただけの道で、石や窪みがあって、足元は悪い。
「イツキ様、大丈夫ですか?」
供をしている年配の女が、息を切らし、おぼつかない足取りのイツキを気遣う。
「ええ。これも、務めですから」
と、答えて、足元を確認しながら、また先へと進む。
それから、また山道を登ってゆくと、木々や藪が伐採された場所へと、出た。視界が広がっている。そこは、明るく空が見える。
そこは、御山の磐座の処。大きな一枚岩がある。神々が、降立ち、その力が宿る磐座だ。
磐座の処からは、他の山々が見下ろせ、山と山の間にある集落や、山々の間を大きく曲がりながら、流れていく川が、南西へと続き、微かに霞んで見える海へと至っているのが見える。遠くの山々は、青く霞んで見えている。
供の者が、御山の磐座の前に、小さな祭壇を作り、色々な供物を並べて、磐座に降立つ神々に捧げる。そして、イツキが祈りの祭文を捧げて、豊作を祈願する舞を奉納する。山道を登って来た疲れを見せる事もなく、豊作の祈りを込めた舞を、捧げた。イツキが舞う度に、それに応じるかの様に、山の木々が揺れていた。
神々に使え、神事を執り行う巫女や巫者などの神職者は、イツキ以外にもいるが、イツキが最も、巫女としての才能に恵まれていたのだった。故に、イツキは、長老の次に、神格のある巫女とされていた。御山への共の者は、長老とイツキに付いて、神事を手伝う、神職者であった。
神事を終えた、イツキは肩で、大きく息を吐いた。磐座の所から見渡せれる、景色を見つめて、大きく深呼吸した。
「ここから見渡せる景色は、何時見ても、良いですね。この御山に、神々が、在す事が、よく解ります。そして、この御山が、代々護られて来た理由も」
磐座の脇に立ち、イツキは呟いた。
山の上とあってか、風は麓より強く吹いてはいたが、その風は、心地の良いものだった。流れゆく川、その水面の煌きは、その場所からでも見え、川には幾つもの中州があるのまで、見え渡せた。
「そうですな。これ程、美しい眺めは、他には有りませんな」
供の男が言い、頷いた。春の盛りの、山々には、淡い緑に木々花々の色が綺麗に映えていた。
「明日は、いよいよ本祭ですね。神々への挨拶廻りも終りましたから、後は、私が皆の思いを神々に伝え、神々の思いを人々に伝えなければ」
その景色を見つめて、呟くイツキを、供の者達は、不思議そうに見つめていた。
麓の村では、村人達が、祭の準備で盛り上がっていた。村中にある祠や、注連縄の巻かれた石や木の注連縄を、新しい注連縄に交換して、供物を捧げる。去年収穫された、米や穀物。米や穀物で、祭の為に仕込んでいた酒などと共に、野菜や干物、祭用に狩られた獣などが、神殿の祭壇に置かれる。そして、村の所々に、神々と人間との宴の壇が作られていく。
御山から、イツキ達が戻り、村全体が清められると、祭を待ちきれないとばかりに、人々は語り合う。年に三度の大祭。小さな祭は、何回かあるけれど、三度の大祭に比べると、他は神事だけの祭であり、宴は催される事は無かった。大祭の日だけは、普段は口に出来ない、貴重な物でも、食べたり飲んだり自由に出来た。
翌朝、村の真中にある磐座に、祈りを捧げてから、村を廻り田畑に、神々の力を振り撒いてゆく。榊に色とりどりの布を付けたものを、一つ一つの田畑で、イツキが振ると、それに合わせて、村人達は、豊作を願い祈る。
全ての田畑を廻り終えて、磐座の神殿に戻る頃には、太陽は西へと沈みかけ、東の空は暗くなり始めていた。春の宵。新月の日であった。太陽が沈むと同時に、村中に篝火が灯されて、磐座の神殿を中心として、神々と人間との、宴が始まる。
新たなる生命を、育む為に、英気を養う事が目的。古代より始まった、この祭は、村人達の楽しみであり、また励みでもあった。
神事を終えたイツキは、息を吐いた。宴を囲んで、盛り上がっている人々を見て、微笑み頷く。翌日からは、村人総出で、稲の種を蒔く事に決まっていた。祭の宴は、これからの労に、活力をもたらすものでもあった。
「ご苦労であったな。イツキ」
長老が言うと、イツキは、小さく頷いて、
「でも、まだまだ不習いだから、きちんと、祈りが届いたか、不安です」
と、答える。
「それでも、昨年までに比べると、良くなってはいるぞ」
大柄で、日焼けした肌の中年の男は、大きな声で言い、ガハハと笑った。
「カヤトも、一人前以上に立派な若者に、育ってくれたし。村を取りまとめる才にも、長けているみたいだなぁ。やはり、都へ上がり、唐へと渡っていたからか?」
男は、イツキの隣に座っている青年を見る。カヤトは、少し照れ臭そうにして、
「はい。都や唐で、様々な勉学に励む事が出来たのも、長老やムラ長のお蔭です。恩の代わりに、学んだ事を、この村に活かせるように、励みたいです」
ハッキリとした口調で、言う。
「今でも、薬草などは、この村だけでなく、近隣の村でも、世話になっているぞ。よい、薬と評判だ」
と、長老。
「そう、だから、時期、ムラ長は、俺よりも、カヤトがいい。カヤトの方が、絶対にムラ長に向いているからさ。カヤトにしてくれないかい?」
どっしりとした体格の男は、器を置くと、長老とムラ長に向いて、言った。
「おい。ウサラ。その様な事を、言わないでくれ」
幼馴染のウサラに、カヤトは、慌てて言った。
「ウサラが、時期、ムラ長になるという事は、以前から、決まっていた事じゃあないか。それに、ムラ長になる者には、きちんと、妻子がいる者でないと。そうでないと、一人前の男では、ないのだから……」
と、カヤト。
「そうかい? 別に独り身でも、ムラ長は務まるぞ。女房子供に、時間を取られないぶん、村の事が出来るのだから。それに、ワシは、ムラ長であっても、女房の尻に敷かれっぱなしなんじゃからなぁ」
と、酒を啜りつつ、ムラ長は言った。
「ウサラが、時期ムラ長を決めるのは、自由だけど。まずは、その事を、民達に告げてからじゃよ」
長老は呆れた顔で、言った。
「はっははは。では、民に言い、カヤトに任せる事にしよう。きっと、賛同してくれるさ」
「おい、ウサラ」
「まぁ、まずは、ワシが、ウサラにムラ長を譲ってからじゃ。でも、ウサラが、カヤトにムラ長を任せたいというなら、カヤトに任せればよい。カヤト、快く、引き受けろ」
ガハハと笑い、ムラ長は言った。
「別にいいじゃないの? 兄様」
クスッと笑って、イツキが言う。カヤトは、ムラ長とウサラを見て、溜息を吐き、ムラ長を見た。
「お主達の好きにすれば、よい。まだ、先の事なのだしな」
と、言い、
「それにしても、お前達二人は、良い子に成長してくれたよ」
満足そうな笑みを浮かべて、カヤトとイツキを見た。
「これも、幼くして両親を亡くした、私達を育ててくれた、長老のお蔭です」
カヤトとイツキは、頭を下げた。
「いいのじゃよ。これからも、この村の為に、頑張っておくれ」
長老は、そう言うと、何度も頷いていた。
祭の宴が終った、翌日。村人達は、総出で、稲の種を蒔く準備を始める。村の磐座の周りに置いてあった、瓶に入っていた種を小分けして、耕したばかりの田んぼに、蒔いていく。最後の田んぼに種を蒔く頃、一番初めに種を蒔いた田んぼには、小さな芽が出ていた。
「都へと、瓦を運んでいる舟だ」
川岸から、水路を見回っていた、村人は川を下って行く舟を、指さした。数隻の舟には、それぞれ瓦が積まれている。
「このところ、頻繁に行ったり来たりしているよな。今は、種蒔きで忙しいだろうに」
と、もう一人の村人が言う。
「都では、大きな仏像や、寺を色々と建立しているのさ。帝は、仏教を信仰していれば、国が安泰すると、信じているんだ」
色白で細身の青年は、偉そうな口調で言うと、わざとらしく髪をかき上げた。村人達は、日焼けした肌なのに、彼はそんな感じではない。舟の話をしていた村人は、
「へー、そうなのかい?」
と、興味なさそうに、適当に相槌を打ちながら、水路の底に溜まっている泥を、掬い出しては、土手へと置いていく。
「この辺りは、都との繋がりがあるから、大仏建立の手伝いが、出来るんだな」
色白の青年は、作業を手伝う事なく、話続ける。
「それは、違うだろ? 大仏建立の手伝いをしているのは、ここより北の地で、そこで瓦を焼いている、職人達の事だろ、コウヤ」
鍬を担いだ大柄な男が、やってきて言う。
「ウサラ」
自慢気な笑みが消えて、コウヤは苦笑いと、冷汗を浮かべる。
「いや、そうだったかな」
と、目を反らして裏返った声で呟く。水路の手入れをしていた村人達は、お互いに顔を見合わせて、溜息を吐いた。
「コウヤ、ここに手が足りていて、お前が暇ならば、これから、新しい水路を造るから、手伝ってくれよ」
ニヤッと笑い、ウサラは言った。
「い、いや。僕は、ちょっと……」
と、後に引く。
「なんだい、ウンチク話するほど、暇なんだろう?」
ウサラが、詰め寄ると、
「あ、急用が」
それを払い退ける様にして、コウヤは、一目散に、そこから逃げ出していった。
「おーい、水路の」
ウサラは、駆けて行くコウヤに向かい、叫んだが、無視しているのか聞えていないのか、振り返る事はなかった。
「無駄さ、ウサラ。あいつには、何を言っても無駄なんだから」
水路の手入れをしていた村人の一人は、言い溜息を吐いた。
「頭が良くて、この辺りの代表の一人として、都に上っていたのに、一人だけ、早くに戻って来たじゃないか。村の為に、行った筈なのに、帰って来ても、村の事を殆どせずに、何時も口先だけだ。本当に困った奴さ」
その言葉に、水路の手入れをしていた村人達は、頷いた。
「そんなんでは、駄目だかと、俺はコウヤに言っているんだけどなぁ」
と、溜息を吐いてウサラは言った。
田畑に蒔いた種が、芽吹いて葉を伸ばす頃になると、春も酣となり、雪解けの水が一気に増える。それに合わせる様に、新しい水路を造り、そして新しい田畑の開拓を始めてゆく。水量が増えると共に、霊山である御山を崇めようと、吉備国各地から巡礼者が訪れるようになり、村は賑わう。
山々は、生きる糧の宝庫。様々な恵みを与えてくれる。なくてはならないもの。その山々を生命の源として、神々として崇めていた。山には山の神々を、川には川の神々を。土地には土地の神々をと。
豊作祈念の祭とは別に、御山や山々に入る祭が、行われる。その祭は、巡礼者が御山へと入る為の祭でもあり、これより一年の狩りに対する、神々への挨拶でもあった。その祭に合わせるように、小さいながらも市が立つ。折しも、都へと向う舟が往来するのと重なってか、その年の御山開きは、賑やかだった。
「このまま、この村が、ずっと豊かで、賑やかだったら良いな」
ムラ長は、満足そうに笑い、カヤトに言った。
「そうですね。それで、この辺りが豊かになればいいですよね」
と、頷く。
「ところで、カヤト。ワシには、いまいち、よく解らないんだが、如何して、帝は、大仏を建立するんだ? 仏を崇めると国を安泰させれるって、聞くが、それは神々とは、違うモノなのか?」
ムラ長の言葉に、コウヤが、意味深にニヤッと笑う。
カヤトは、難しい顔をして、
「仏は人の心に、安息をもたらすモノだと、都で聞きました。そして、神々は、古より云うには、全てに在るモノで、仏の様なカタチはないと、されています」
カヤトは、微妙な答え方をした。
「駄目だな。そんなんじゃあ、唐へ行った意味がないな」
ふふんと、笑い、コウヤは言う。
「どういう事じゃ?」
怪訝そうに長老が、問う。
「仏は、ね、全ての願いを叶えて救ってくれるのさ。だから、帝は必死に仏に縋り、大仏を建立しているのさ」
コウヤは、自分の意見に酔っているかのようだった。
「そうなのか、カヤト?」
ウサラが問う。
「それぞれの心だと、思いますよ。神々でも仏でも、自分が信じたいモノを信じればよいと。結局は、人間にとっては同じなのだから」
カヤトは、淡々と答えた。
「大切なのは日々の心掛け。それらのモノを、信じて崇めながら、暮す事だと思います」
カヤトの答えに、長老もムラ長も頷く。それが、面白くなかったのか、コウヤはふて腐れた顔をして、酒を呷った。
田んぼには、水が満たされて、あちらこちらで、蛙が鳴いている。湿気を含んだ風は重く、生暖かい。風は、南から川を伝って、吹いている。空は雲に覆われて、太陽が見えない。
「どうやら、梅雨に入りましたね。どうか、良き雨と風に恵まれますように」
村の磐座から見える空に向かい、イツキは祈った。
この村が、川の辺で、水に恵まれていても、梅雨は必要。川から遠く高台にある田畑を潤すのは、やはり雨。人の手で、溜池に水を運ぶ事に比べたら、やはり雨は、ありがたいものであった。また、降る雨が、御山から滲み出て来る、湧水となり、それは神水とされ、酒や薬を造る時に使う決まりとなっていた。
「イツキ。お祈り終ったなら、皆と一緒に、山に、山菜とかを採りに行かない?」
神殿の外から、大きな声がする。イツキは、
チラッと、長老を見る。すると、長老は、
「いいよ、行っておいで」
と言った。イツキは、それを聞いて、嬉しそうに、頷いて、神殿から、自室へと行き、神職者の長衣から、普段着に着替えて、外へと出る。
外は、蒸し暑くて、湿り気のある重たい風が吹いていた。
「お待たせ、ハグミ」
外には、イツキの二周りはあろうか、ふくよかで血色の良い健康そうな娘がいた。
「入梅したみたいだから、夕方には、雨が降り出すかもしれないよ」
イツキは、空を仰いだ。
「そうなの? そんなことも、わかるんだねぇ」
ハグミも、空を見上げたが、ただ雲っているだけで、
「私は、そんな事は、判らないよ」
と、呟いた。
「梅雨に入ったら、長雨で痛んでしまうものもあるから、それを採ろう。それに、そろそろ、杏の実等も、熟している頃だろうし。で、美味しい実のなる木は、枝を切ってきて、挿し木苗にしようよ」
籠を背負った中年の女が言う。ハグミも、ふくよかだけれど、彼女も同じ感じだった。
「それに、何時も、カヤトに薬草を分けてもらうばかりだと、悪いし。たまには、よく使う薬草位、自分で採って来ないと」
「そんな事ないよ。兄様は、皆の為にやっているのだから。あ、でも、薬木はまだ苗木だから、必要なら、山へ行かないといけないかもね」
御山以外の山々が、日常利用する山で、御山で、山菜採りや、狩りをするのは、祭の前や、如何しても採れなかった時で、それ以外は、稀な事だった。人々は、如何なる時も、恵みを与えてくれる神々への、敬意を忘れはしない。
ハグミとイツキ、年配の女達と連れ立って歩いていると、村の男が何度も声を掛けてきた。
「ハグミ、俺の女房になってくれんかぁ?」
小柄な男は、そう言寄る。その男で、五人目。
「いやや。私はまだ、決めとらんのんじゃ。もう、いい加減にして」
頬を膨らませて、突っぱねる。その度に、男達は肩を落として、立ち去って行く。
この辺りでは、基本的に女性が主に、結婚相手を選ぶ権限を持っていて、男性から求婚されても、自分が気に入らなければ、拒否出来た。
「あらら。ハグミが、きちんと夫を見つけないから、あーゆーのに言い寄られるんじゃよ。なんてったって、ハグミは、理想の女だもんな」
と、年配の女は面白がって言う。
「そうそう。ハグミだったら、何人産んでも平気そうだもんなぁ」
と、年配の女達は笑う。
「そんな事言ったって、うちには、気に入った男は、おらんのんじゃよ、今は」
ふくよかな身体を揺らし、ハグミは照れた様に言った。
「そうなんだ。でも、私には、そんな事は、よく解らないよ」
イツキが呟く。
「イツキは、カヤト兄がいるから。兄さんの事ばかり、見ているからよ。それにしても、カヤトは良い男なのに、女房がまだいないってのが、これまた不思議。でも、良すぎて、近寄り難いかもなぁ」
と、年配の女達は、話に花を咲かせていた。
村から山へ続く道の境には、大人一人程ある石が置かれていて、注連縄が巻かれている。境を示す物であって、ある種の結界でもある。
山へと入ると、生い茂る木々で暗い。山の中には、獣道を広げたような小さな道が、幾つもある。それぞれ狩りに入った時や、山菜採りで使ったりする。その様な道の中で、一番広く手入れされている道が、御山へと続く参道の一つだった。
数種類の野菜などは、畑で栽培しているが、それ以外の物は、やはり山の恵みだ。欲しい物があれば、気ままに山へと入り、採って来るのだった。
「あ、自然薯があるよ。幾つか、持って帰ろう」
茂みを掻き分けて、イツキが言った。
「そうだね。じゃあ、掘るから、引っこ抜いてよ」
と、ハグミは背負っていた籠を置き、小ぶりの鍬を取り出して、蔓の根元を掘り始めた。他の女達も、山菜や木の実、鳥の卵等色々な物で、籠が一杯になっていた。そうこうしているうちに、山の中は暗くなり、周囲や足元が見えなくなって来たので、ハグミ達は、山の中が夜闇に包まれる前に、山を降りた。
「あ、雨だ。本当に降りだしたよ」
村へと戻る道を歩きながら、ハグミは言った。
「これから、暫くはこんな天気か。まあ、それは、仕方ないなぁ」
年配の女は、空を見上げた。
「ところで、イツキちゃん。お芋どうする? そのまま、茹でるだけでいい? それとも、団子にしようか?」
別の年配の女が、問う。
「どちらでもいいよ。長老様、お芋好きだから」
「そうかい。それじゃあ、何か作って、後で持って行くよ」
「カカノ、何時も、ありがとう」
イツキは、ニッコリと笑って頭を下げた。
皆で、山へ入って、色々と採って来た物は、一緒に行った者達で、均等に分け合うというのが、村での決まり事だった。
イツキは、神殿に隣接している住居で、長老と兄カヤトとの、三人で暮らしていた。このところ、長老は足腰が弱ってきて、村の神事は全て、イツキが引き継いでいた。長老は、イツキに助言をし、神事の祝詞等を、伝授する位だった。
兄妹は、足腰の弱ってしまった長老の身の回りの事を手伝っていた。長老は、この辺りで一番の長生きで、村を含めた、この辺りの土地の、宗教的指導者・シャーマンであった。その様な事から、立場がムラ長よりも上だった。そして、また、兄妹の親代わりでもあった。
神殿に近づくと、独特の匂いが漂っていた。その匂いは、家に入ると、強まった。
「ただいま、戻りました」
イツキが部屋に入ると、先に帰っていた兄が、迎えた。
「お帰り」
カヤトは、囲炉裏に鍋を掛けて、薬草を煮詰めていた。その薬草の独特の匂いが、部屋中だけでなく、家の外までも漂っていたのだった。
「長老様は?」
「奥で、書物を読まれているよ。ところで、夕食、どうしようか? 今、薬草を煮詰めているから。ここは、暫く、使えないよ」
カヤトは、薬草の入っている鍋を混ぜながら、言う。夕食は、日没後となっている。雲っているせいか、日没ともなると、既に暗くなってしまっていた。
「皆で、山で採った物が幾つかあるよ。それに、カカノが、自然薯を茹でて持って来てくれるよ。後は、鳥の卵や、木の実とかもあるよ」
土間に、籠の中身を出し、其々、台の上に並べる。
「それじゃあ、カカノを待つ間、もう少し、煮詰めていようかな」
と、鍋の中身を焦がさないように混ぜながら、壷の中から、粉にした薬草を出して鍋に入れた。すると、匂いは強くなる。
「何のお薬?」
鍋の中を覗いて、イツキは問う。緑とも黒とも言いがたい色で、その上、物凄く強い匂いを放っていた。
「虫下し。これからの季節には、必要だからな」
答えて、囲炉裏の火を強くする。すると、匂いは一段と強く、鼻や目に沁みる。薬草の強い匂いに慣れていても、強烈な匂いのする物は、やはりキツイ。
「それも、唐で学んだの?」
「ああ。薬学の書物を写本させてもらったり、薬師王とされる方に師事して、色々と教わってきたのだよ」
「へー。でも、そこまでされたのに、都でのお努めは、よろしかったの?」
「任期を切り上げてもらったんだ。この地方の奉仕、都との関係を強める為にね。これからは、都と地方の関係も重要で、それが上手くいけば、国が安泰する。大仏建立は、それを願う、帝の方針だ」
鍋をゆっくりと掻き混ぜながら、答えた。
「帝が思われるように、神仏に願い、皆が幸せになれると良いですね」
と、イツキ。
その時、扉を叩く音がして、カカノが茹で芋を持って来た。
「凄い匂いだね。鼻が麻痺しちゃうし、涙が出るよ。村中、この匂いが立ち込めているし。また、その薬草を飲まないといけないんだねぇ」
涙を浮かべて、鼻を摘む。器に入った、芋煮をイツキに手渡し、また、鼻を摘む。
「丸薬にするから、今までの様に、涙が出る程は、苦くは無い筈だよ」
カヤトは、鍋を掻き回しながら、笑って言った。
「そういかい? まぁ、良く効くからいいけれど。……それにしても、凄い匂い。じゃあね、カヤト、イツキ。長老様に、宜しく」
と言って、カカノは、足早に帰って行った。
その芋煮と、山菜粥を夕食にする。長老と兄妹で、夕食を囲む。食事をするのは、何時も三人でしている。
夕食を終えると、カヤトは、唐で出会った友の話を、始めた。それは、イツキの、
「唐では、勉学以外に、何かあったの?」と言う、一言から始まった。
「そうだな。面白かったのは、色々な国の人が、いたことかな」
と、カヤト。
「その者達も、勉学に来ていたのか?」
興味深そうに、長老が問う。
「いえ。勉学に来ている方より、商人の方が多くいましたよ」
「ほお。まあ、唐は大きな都だから、往来している物も、珍しかろうな」
「どんなものなの? 絹とか?」
「絹も麻も、食物なども、色々だったよ。それに、金や銀。綺麗な玉も。唐の西、西域よりも西の国からは、白い肌に、青い瞳に金の髪の民で、胡人と称される者も、たまに来ていたんだ。それに、遥、南の海の民も」
そう言うと、カヤトは立ち上がり、書棚から一枚の紙を、持って来た。それを見た、長老は目を丸くして、
「なんじゃい、これは?」
と、問う。
「この世界だそうです。唐人の学者から、そう聞きました。ここにある、細長い島が、私達の国で、紙一面にある大きなものが、唐や西域の国々だそうです」
地図を指しながら、カヤトは話す。現在の世界地図とは違っていて、大雑把でありながら、何処か違っていた。
「私達の国は、とても小さいのね」
地図を見て、イツキは呟いた。
「唐で友になった者は、この下の方、南の海にある島から来ていたんだ。彼は、私より先に国に帰ったが、無事に帰り着けたのだろうか」
地図を見ていたカヤトは、ふと遠い目をした。
「大丈夫ですよ。その方も、唐には、仏について学びに来ていたのでしょう? ならば、きっと、仏の加護に護られていますよ」
兄を気遣う様に、言った。カヤトは、その言葉に「ああ、そうだな」と頷いた。
第二章 漂着者
一 異国マレビト
梅雨に入ると、川の水量が増え、山々からは水が滲み出てくる。作物は、日を追うごとに育っていき、それに競う様に、山々や川岸の草木も、伸びていった。
それは、激しい雷雨の日から数日経った、日の事。梅雨の合間の晴天、久しぶりの太陽の下、雨で滞っていた農作業や漁へと出掛けていく。川に魚を釣りに来た村人達は、村のやや下南辺りの川辺に、見た事もない舟が着いているのを、発見した。村人達は足を止めて、不思議そうに、その舟を見つめて、何だろうと互いに顔を見る。
「何の舟だろう? 都へ向う舟とは、違うし、この辺りの村の舟でもないよな」
言いながら、その舟へ、少し近づいてみる。舟の外には、その舟の者だろうか、周りの様子を伺っている様に見えた。じっと、見つめていた村人の一人は、
「ま、マレビトだ」
息を飲み言った。一緒にいた者達も、驚いて見る。
「本当だ。この辺りの者じゃないな。何をしているんだろう?」
「……褐色の肌、い、異国のマレビトか?」
草の茂みの間から、警戒しながら、マレビトの様子を見つめる。
「と、とにかく、長老とムラ長に」
村人の一人は、そう言い、村へと駆け戻って行く。
田んぼの手入れをしていた村人は、かけていく男を、不思議そうに見つめる。
「なんだい、そんなに慌てて」
声を掛けられて、彼は走りながら振り返り、
「マレビトが」
と、叫んだ。その言葉を聞いた、者達は、ざわめいた。
「マレビトだ。褐色の肌のマレビトが、舟で、下の川岸に」
そう言いながら、彼は、長老とムラ長のもとへと、急いでいた。
彼が、長老とムラ長を伴って、その舟が見える場所へと戻ると、褐色のマレビトを一目見ようと、村人達が集まって来ていた。マレビト達は、此方の様子に気付いたのか、こちらを気にしていた。
「確かに、マレビトだな。しかも、異国の者か。しかし、何故ここに?」
ムラ長は不思議そうに、呟く。長老は、そのマレビトを見つめ、考えていたのか、
「皆、村へ戻れ。それと、誰か、カヤトを呼んで来てくれぬか」
と、言った。それを聞いた、若者の一人は、頷いて、駆け出した。
その頃、カヤトは、山の麓にある薬草園で、薬木の苗の手入れをしていた。そこへ、イツキが顔色を変えて駆けてきたので、カヤトは手を止めて、
「何かあったのか?」
と、不思議そうに問う。イツキは、呼吸を整えて、
「マレビトが、下の川岸に舟を着けていて、皆が騒いでいます」
「マレビトで?」
ここは、霊山があるので、他の土地から巡礼者が訪れる。マレビトと言っても、特に珍しい訳ではない。
「それが、異国の者のようで。なんでも、褐色の肌だそうです。それで、兄様なら、異国の言葉が解るのではと、長老様が」
イツキの言葉を聞いた、カヤトは、ハッとした顔をして、
「解った、直ぐ行く」
と、言うと、手入れしていた、薬木の苗を置くと、駆け出した。
「おお。カヤト、来てくれたか」
その場へと駆けつけた、カヤトをムラ長が迎え、茂みの向こうにある、川岸にある舟を指差した。
「マレビトです。この国や唐や新羅の者では、ないみたいです」
と、村人は、舟の所から、此方の様子を伺っている者を見た。カヤトは、それに応じる事なく、その舟と、その者達を見つめる。遠目に見ても、肌色や体格が、違っているのがよく判った。その者達を、じっと見詰めるカヤトを、村人達は不安そうに見守る。
暫く様子を見つめていると、その者達が、御山に向って、仰いで祈るような仕草を創めた。
「あの者達は、御山に祈りを捧げているようじゃ。異国からの巡礼者か?」
と、長老。
「カヤト、唐の言葉で、声を掛けてみたらどうだ?」
ウサラが言う。
「あの肌色には、見覚えがあります。唐に留学していた、遥か南の海の民と、よく似ています」
カヤトは、見詰めたまま言い、
「唐で友となった者も、南の海より来ていた者でした」
言って、一歩踏み出す。
「大丈夫なのか?」
心配そうに、ムラ長が言う。
「はい。彼等も、神仏を信じ仰ぐ者でしょうから、唐の言葉も通じると、思います」
真顔で答えて、カヤトは、ゆっくりと、茂みの向こうへと歩いて行った。
茂みを抜けて、近づいて来るカヤトに、気付いたのか、相手の一人が、こちらへとやって来る。そして、カヤトと相手は、お互いの顔がハッキリ見える距離で立ち止まり、警戒したまま、お互い見詰め合っていた。その様子を村人達も、マレビト達も息を飲んで見守っていた。すると二人は、見守る者達の、予想もよらない行動に出た。
二人は、走り寄り互いに手を取り合った。
その行動に一同は、驚き、村人達もマレビト達も、二人を見た。更に、二人は抱擁したので、一同は唖然とする。
「ルヤン」
手を取り、カヤトは驚きと笑みの混じった表情で言う。彼は、褐色の肌で、カヤトより頭一つ背が高く、ガッチリとした体格だけど、かなりやつれていた。そして、彼もまた、カヤトの名を呼び、再び抱擁を交わした。
「ルヤン、如何したんだ?」
驚きを隠しきれないまま、カヤトは、唐語で問う。
「唐から戻った後、私達は、仏の整地を目指して、旅に出た。が、途中で、嵐に遭い、道を見失ってしまったんだ。それで、ここへと辿り着いたんだ。これも、神仏のお導きか?」
唐語で言い、天と御山を仰いだ。
そのやり取りに、一同は不思議に思ったが、カヤトとルヤンが親しいのを見て、敵対意識は無いと、ムラ長とウサラ、ルヤンの仲間が、二人に歩み寄った。
「カヤト、どういう事だ?」
ムラ長が、怪訝そうに問う。
「彼は、ルヤン。共に唐で学んだ、友人です」
と、答えた。
「南の海の民と、いう者か? なんだ、お前を、訪ねて来たのか?」
ムラ長が問う。
「いいえ。それは、きっと偶然でしょう。彼等は、西域にある、仏の聖地を目指していたそうですよ」
ルヤンの言葉を、訳して伝える。
「経緯は、よく分からんが、困っているのなら、なんとかしてやらねばな」
ムラ長は、ちらっと、長老を見た。長老は、頷く。
「友ならば、力になってやらねば。だけど、異国のマレビトを、いきなり村に入れると、民も不安がろうし、暫くは、村外れの巡礼者などが使う、小屋になるが……」
と、ムラ長は、カヤトに言う。
「ありがとう。……取敢えず、話を聞きたいし、大変だったろう」
カヤトはムラ長の言葉を伝え、その小屋へとルヤン達を、案内した。その様子を他の村人達は、遠巻きに見詰ていた。
村外れの小屋で、一息ついた、ルヤン達に、ここへと辿り着いた経緯を聞く。
その席には、カヤトを始めとし、長老、ムラ長、ウサラなどの、村の有力者が顔を出し、カヤトとルヤンの共通語である、唐語で話が始まった。
「唐から国に戻った、私は暫く、神々と仏について、師匠に付いて、人々に説いていました。神々と仏は同じモノでありながら、また違うモノであると。そして、師匠が亡くなり、師の遺言と共に、もっと神仏を知る為に、仏の聖地へ向う事となり、旅立ったのですが、その途中で嵐に遭ってしまい、道を見失い、何日も海原を漂っていました」
ルヤンは、帰国してから、仏の聖地を目指していて、ここへ辿り着くまでの事を、説明する。
「その間に、共に聖地を目指していた仲間も、命を落としてしまいました」
ルヤンの仲間は、啜り泣いていた。やつれて、血色の悪さは、長い漂流を物語っていた。
「生き残ったのは、私達だけかもしれません。だけど、誰かが辿り着いたと、信じたい」
力なく、ルヤンは話す。
「そうだったのか。でも、如何して、ここに漂着するんだい? ここの海は、内海で外海とは違うし、河口から遡上しないといけないんだぞ」
話を聞いていたムラ長が問う。それを、カヤトが訳して、ルヤンに伝える。
「解らない。オール等も嵐で、流されてから、波間に漂っていた。何度も島影は見え、何とか舟を寄せようとしても、思うようにコントロールできずに、ただ流され続けていた。穏やかな海域に入ったのは、潮の流れで判ったけれど、相変わらずだった。そこが、何処なのかも分からず。もう、気力も尽きようとしていた時、北東の空に、天へと昇る光を見つけたんだ」
そこまで話、ルヤンは、一番細面の青年の肩に手を置いて、
「ジュヌが言うには、その光は、夜だけでなく昼間にも、視えていると言った。その光は、常に、天へと昇っているのだと。光が立つ場所は、神々の在す場所とされるから、私達は、その光を目指そうと、なんとか、光を目指して舟を進めたんだ」
と、言った。
「その光って、御山・霊山の事かい?」
ウサラは、長老に問う。長老は静かに頷いて、
「確かに、神々の在す処であるな」
と、呟き、
「その光を頼りに進み、ここへ辿り着いたのであれば、それも、神々のお導きの一つであろうな」
と、言った。その言葉に、カヤトは頷く。
「その光を頼りに進んでいると、河口を見つけたんだ。その河口の北の方に、その光は昇っていた。だから、その川を遡上していた、すると、光の立ち昇っている大きな山が見えて来たんだ。光の立ち昇る、その山を後は、ひたすら目指したら、ここへと辿り着いたのです」
ルヤンは、薄らと涙を浮かべていた。
「それで、カヤトと再会出来るとは、思いもよらなかった。きっと、神仏が与えてくれたものかもしれない」
と、ルヤン。カヤトは、そんなルヤンを気遣う。
「神々の光を視て、ここへと辿り着いた。それが、カヤトの友人である以上は、それなりに、もてなし、その長旅を労い、ゆるりと休ませて差し上げろ」
長老はムラ長に言う。カヤトの友人なら、仕方ないかと、村の有力者も賛同する。
「私の方からも、そうお願いいたします」
カヤトは、長老達に礼を述べ、頭を下げた。
ルヤン達は、長老達の好意で、巡礼者用の小屋に、留まれる事になった。彼等の世話は、カヤトとウサラが中心だった。いくら、カヤトの友人であっても、異国の者を村の中に入れるのは、他の村人達に、些かな不安と抵抗感があったから。
「大丈夫かい?」
食べ物と薬草を持って来て、カヤトはルヤンに問う。
小屋の中には、一通り生活に必要な物が置かれている。五人で使うとなれば、少し狭い。その小屋の中で、一番年下で十五歳の少年ラクシュが、寝ていた。苦しそうに呻きながら、汗を滲ませている。その汗を、一番年上のヤンブが、拭っていた。
「きっと、疲れからくる熱病だろう。まだ、ラクシュには、早かったかもな」
それらを受け取って、ルヤンは答えた。ルヤンも仲間達も、疲れきった顔をしている。
「肉や魚は? 食べられるのであれば、用立てるが」
粥だけでなく、滋養のある物でもどうかと、カヤトは問う。
「ありがとう。それは、もう少し疲れが回復してから、頂くよ。暫く、食べ物を口にしていないから、少しずつじゃないと、逆効果になってしまうから……」
と、ルヤンは笑顔を浮かべた。
「そうだな。あと、それは、熱冷ましの薬草と、疲れに効く薬草さ。君の国の物とは、少し違うかもしれないけれど、使ってみるといい」
「ああ。すまないな」
気が引けているのか、ルヤンは、申し訳なさそうだった。
「あの、カヤト、その」
ルヤンは、申し訳なさそうに、カヤトを見る。
「何だ、遠慮するなよ」
「ここは、私達の国に比べると、寒い。すまないが、何か、羽織れるような物を分けてはくれないか?」
「ああ、分かった。持ってくるよ。今は、梅雨と云われる、雨の時期だから、少し肌寒いかもな」
気にするなと、言い、カヤトは小屋を出て行った。
カヤトが小屋を出て行くと、溜息を吐いて、ヤンブが、
「ルヤンの友の地へ、辿り着いてしまったのは、何かの導きであったとしても、本来の目的である、仏の聖地へは、どうやって行くつもりだ? あの小さな舟では、もう無理だろうし。新しい舟を造るにしても、無理がある。これから、如何するつもりだ?」
仲間の中で、一番マジメで、神仏への想いが強いヤンブは、これから先の事で、ルヤンに意見を求めた。
「今はまだ、考えていない。考えられないんだ。今はとにかく、ラクシュが回復しないと。それに、私達の疲れも癒えてない。まずは、皆が癒えてからだ」
言いながら、ルヤンはラクシュに、薬湯を飲ませた。
「しかし、このままでは」
「舟が、如何にかならない限り、聖地へ向う事も、帰る事も無理だな」
芋と雑穀の団子を、摘みながら、ネジャは言い、
「ここへ、留まる事は許されているんだ。とりあえず、久しぶりの陸。暖かな食べ物も、ゆっくりと眠れる場所もあるのだから。暫く、様子を見てみよう」
と、楽天的に言う。
「ここは、唐の東。その海を越えたところにある島国。その内海に臨む土地らしいからな。聖地に向うには、まず、内海を抜ける為に先導がいるし」
ルヤンは、言い溜息を吐く。
「ならば、如何するべきか?」
ヤンブは、苛立ちを露にしていた。長い漂流と知らない国と言葉。そして、帰る事も、行く事も出来ない失望で。
「今は時を待つ。神仏の意思と共に」
平静を装っている、ルヤン自身、胸の内には、如何する事も出来ない、無念な思いが溢れていた。
「ジュヌは、どうなんだ?」
苛立った口調で、囲炉裏の火を見詰ている、青年に問う。
「僕は、ルヤンに合わせるよ。それにさ、そう苛立っても、仕方の無い事ですよ」
と、淡々と答えて、鍋の粥を器に注ぎ分ける。
「はい。お腹が減ると、駄目だね」
ニッコリと笑ってジュヌは、ヤンブに、粥の入った器を渡した。
「聖地を再び目指すとしても、留まるとしても、この国の言葉を覚えなければ、何かと不便だなっ」
粥を啜り、ヤンブは呟いた。それを見て、ルヤンは、クスッと笑った。
一方、村の神殿では、今後、ルヤン達をどう扱うかを、話し合っていた。
「カヤトの友であるのならば、出来る限り力になるべきだと、思うが」
と、ウサラ。
「でも、異国の者で、言葉も通じない。ワシは、再び出発出来るようにだけしてやり、彼等は、目的地へ行くべきだと思うぞ」
村の有力者の一人は、ルヤンが留まり続けるのには、反対だと言う。
「まぁ、とりあえずは、元気になるのを待ってからだ。それに、一方的な事を言うだけでは、駄目だ。彼等や民の意見も聞くべきだ」
ムラ長が、有力者達の前で言う。それに、頷く者もいれば、考え込む者もいた。
「彼等は、果てしない海原を彷徨った果てに、御山に導かれて、ここへと辿り着いたのじゃ。偶然にしては、出来過ぎている。私は、そこに、神々の意志を感じるのじゃがな」
篝火を見て、長老は言った。
「では、長老は、彼等がここに留まりたいと、申したのなら、それを受け入れるのですか?」
有力者の一人が、問う。長老は黙って、頷く。
「他に何か、意見のある者は?」
ムラ長は、一同を見る。
「特に無い。留まるのであれば、この国の言葉を使ってもらい、村に馴染んでもらう。それが、条件だ」
有力者の一人が言う。それに、他の有力者も、賛同する。
「出来る限り、力にはなるが。すべてが、認められたという訳では、無いぞ。カヤト」
最後に、ムラ長は、そう言った。
「はい。皆の心遣い、感謝いたします」
カヤトは、深く頭を下げた。
ルヤン達が漂着して、数日。村人達は、興味深そうに、ルヤン達の留まっている小屋を、遠巻きに見つめていた。村人達は、長老達の方針に従ってはいたが、どことなく異国の者に対しての、不安感もあった。
ルヤン達は、今後如何するかを、話し合っていた。ラクシュの熱も下がり、ルヤン達の体調も、回復していた。
「色々と考えてみたが、船を造るのには一年は掛かるし。それに、内海から外海へ出るには、海域に詳しい先導がいる。俺達だけでは、無理があるなぁ」
カヤトが差し入れた、川魚を焼きながら、ネジャは言った。
「かと、言って、何時までも世話になっているのも、気が引ける」
「仏の聖地へは、行けないのですか?」
壁にもたれかかって、ラクシュは問う。
「それどころか、帰る事さえ出来ない」
と、ヤンブ。すると、ラクシュは顔を曇らせて、
「では、師匠様の遺言は如何するの?」
言って、俯いた。
「他の船の者達が、無事に聖地に辿り着いているなら、それでよい。その事を、知る由もないけれどな」
ルヤンは、淡々と言い、小さく息を吐いた。
「どの道、道は二つしかないんだ。船を造り、再び聖地を目指す。それとも、この地に留まり、ここで生きてゆくかの。そのどちらにしても、ここの民達に、協力してもらわないとな」
ヤンブは、難しい顔をしていた。
「カヤト殿に、お任せしている以上、彼を信じましょう。ここへ、ずっと、留まる事を許して貰えるのであれば、それを、ありがたく受け入れましょう」
と、ジュヌ。
「そうなれば、ここの言葉を覚え、馴染む様にしよう。ずっと、留まる事が出来ないのであれば、舟を直して立ち去ろう」
と、ルヤンは仲間を励ました。
ルヤン達が来てからも、それには関係無いと、村人達は日々の仕事をして、過していたが、それなりに、異国の客人には、興味を抱いていた。
梅雨。毎日の様に雨模様であるが、日に日に暑くなり、田畑が潤って、稲は伸び、作物は育ってゆく。
カヤトは、仕事の合間に、ルヤン達に言葉を教えていた。
「話し合って決めたのだけど、ここに受け入れてくれるのであれば、留まりたい。それから、身の振り方を考えるよ。仏の聖地に向うにしても、国へ帰るとしても、船を造るのには、時間も掛かるから」
ルヤンは、カヤトには唐語で伝え、たどたどしい大和言葉で、その思いを長老達に伝えた。
「わかった。でも、村の一員となる以上、何時までも、客人扱いは出来ない。お前達にも、田畑や狩りなどを、やってもらわねばな」
ムラ長は、ゆっくりと言い、カヤトは唐語でも言って、聞かせた。
「はい。お願いいたします」
と、大和言葉で言い、頭を下げた。
二 季節
激しい雷雨が、続いている。村の水路を管理している者達は、川や水路を見回っては、水路に溜まっている泥などを、取り除いていた。
「今は、雨の時期なのですか?」
片言の言葉で、ジュヌが、ウサラに問う。
ここへ辿り着いて、一ケ月程、ルヤン達は少しずつ、大和言葉を覚えてきた。この処は、ウサラも彼等の世話を、手伝っていた。
「んー。梅雨っていって、雨ばかり降る季節だ」
分かりやすい言葉を選んで、答える。
「それでは、雨の降らない時期もあるのですか? まったく降らない時期も?」
「そんな事ないさ。今が、雨がよく降る時期だけど。春にしろ、夏にしろ、季節、季節で、雨は降るし、降るといっても、梅雨以外、毎日雨が降るとは限らないさ」
分り易そうな言葉を選んで、話すと、つい首を捻って考えてしまう。
「私達の国は、雨の降らない時期と、雨の好く降る時期がありますが、この国は、そうではないのですか?」
ジュヌは、興味津々で問う。
「ここは、唐とよく似ている。唐にも、色々な時期があったからな」
ルヤンが変わりに、大和言葉で答えた。
「色々な時期って、どんな感じ?」
ラクシュも、興味を掻きたてられたのか、瞳を輝かせる。
「うん。まあ、暮らしてみれば、解るさ」
と、ウサラ。
「この雷雨が止んだら、夏が来る。そうしたら、田畑を始め、山も川も一気に、活気に満ち溢れるんだ」
と、ウサラは大げさな、リアクションをする。
「夏?」
「ああ。眩い陽射しと暑い季節さ。夏が、過ぎれば、秋。米の収穫を始めとした、実りの季節。そして、冬があって、また春が来るんだ。それの、繰り返しさ」
言い、ウサラは頷く。
「季節? それが、どういうものかは、よく解らないな。ここは、私達にとっては、初めての事ばかり、この先どうなるか……」
ヤンブは、母国語で呟き、溜息を吐いた。ウサラは、ヤンブが呟いた言葉は分らなかったが、その雰囲気から、
「なんとかなるさ」
と、言って、とりあえず、励ましてみた。ヤンブは、はにかんだ笑みを浮かべ、
「ああ」
と言って、頷いた。
丸二日続いた雷雨は上がり、久しぶりに、眩しい青空が広がっていた。その眩しい陽射しを受けると、植物達は一気に勢いを付けて、伸びていく。捗っていなかった、農作業を、村人達は片付けてゆく。
その陽射しを待っていたかの様に、蝉達が鳴き始めると、村は活気に付き始める。
村の磐座の神殿では、梅雨明けと夏の到来を告げる、神事と小さな祭が、執り行われていた。その祭で、村人達に、ルヤン達を紹介し、顔見世をする。
ルヤン達は、この土地の神々の依代である磐座に、仲間入りの挨拶をし、村人達と飲食を共にして、ハレて村人の一員となった。住まう家も、村の中に移り、村の仕事もする。村人には、皆其々に仕事が与えられていた。ルヤン達は、自分達の国でやっていた仕事に近い仕事を、引き受け、村人の手伝いをしながら、村へと溶け込もうとしていた。
ネジャは、漁師をしていたので、ここでも漁師の仕事。ラクシュは、田畑の手伝いをしながら、紙を作る職人達の手伝いをする。ヤンブとジュヌは、新しい田畑の開拓を。そして、ルヤンは、カヤトと共に、唐で薬学を学んでいたこともあってか、カヤトと共に、薬草の栽培をすることになった。
始めは、遠巻きに見ていた村人達も、必死に村に馴染もうとしている彼等を、次第に見守り、受け入れ様とする様になってきた。
一日の仕事を終えて、長老の下へと顔を出した、ルヤン達にイツキが声を掛ける。
「ここの暮らしには、もう慣れましたか?」
と、にこやかに笑う。
「はい。色々と、お気遣い、ありがとうございます」
ルヤンは、何故か照れくさそうに言う。
「いいえ。私は、何もしていませんよ。異国より来られ、見知らぬ土地で、頑張っておられる、貴方方の心意気ですよ」
と、イツキ。
「長老殿方や、カヤト。皆のお蔭です。国は違っても、作物を育てるという事は、同じです。だから、出来る事があるならば、何でもします」
長老とムラ長に向かい、ルヤンは言う。まだ、たどたどしいけれど、きちんと通じ合えていた。
夏の太陽が、照り付けている。青く澄んだ空、山々は眩い緑を輝かせていた。その山々の中にある、一番高い山は、御山と呼ばれる霊山で、その上空を大きな鷲が、翼を広げて優雅に舞っていた。川の南に広がる平野の彼方には、空へと湧き立つ入道雲。川には、舟が出ていて、漁をしている。
村では、新しく田畑を開拓していて、人手は多い方がよいと、ルヤン達も開拓を手伝っている。
太陽は真上に来ていて、高台にあるその場所から見下ろすと、陽光で川面が眩しく輝いていた。
「お昼ですよ」
年配の女達が、そこへと昼食を持って来る。雑穀の中には、少しだけ米が入っている。収穫された米は、都へと納める事となっているので、米だけのご飯は、普段は食べる事はしない。多くても、雑穀と半々。あるいは、少しだけ米を炊く位で、米だけのご飯は、祭りの時位だった。雑穀と米のおにぎりと、野菜を茹でた物と塩漬けが、昼食だった。この辺りの土地は豊かなので、米を納めても、民がひもじい思いをする事は無く、また、古来より、巡礼地でもあったので、色々と物が行交う土地でもあった。
作業を止めて、木陰に入る。木陰は涼しく、皆で昼食を食べる。木陰には、涼しい風が吹いていて、流した汗も乾いてゆく。
「ここの暮らしには、もう慣れたかい?」
小柄な割りには、筋肉質な若い男が問う。
「はい、だいぶ」
言葉も交わせれるようになった、ヤンブが答える。
「お前達の国も、こんな感じなのか?」
ヤンブと同じ年頃の男が、問う。開拓ばかりしている為か、彼等は皆、日焼けした肌と筋肉質な身体つきだった。それでいて、何処か大雑把な性格。
「私達の国は、平地が多いので、そこを全て田畑にしようと、日々、開拓を続けています。今頃は、開拓されたその土地にも、稲が育っているでしょう」
たどたどしく、ヤンブは言う。それに、頷きながら、開拓の村人は、
「やはり、沢山の米を採りたいなら、沢山の田畑だよな。それなら、開拓を続けることが一番だよな」
と、言う。
「この辺りは、豊かな土地だから、田畑を増やしていけば、もっと豊かになれるさ」
真新しい鍬を手にした、若者は意気込んだ。
「俺は、カヤトみたいに頭が良くないけれど、代わりに力がある。その力で、土地を耕していくんだ」
と。
「人間には、それぞれ与えられた使命が、あると言います。それを知って、果たす事が、大切だと」
ポツリと、ジュヌが言った。
「そうなら、俺等は、ひたすら大地を耕していくだけさ」
お椀の汁を、一気に飲み干して、若者は立ち上がり、
「今日中に、一枚分は耕してしまうぞ」
と、鍬を担いで、木陰を出て行く。
「あいつは、もうすぐ、一人目の子供が産まれるからな。だから、何時も以上に張り切っているんだ」
開拓の指示をしている年配の男が、笑って言った。
「お前達は、国に、妻や子がいるのかい?」
村人の一人が問う。
「いいえ、私達にはいません。神仏についての勉学や、仕事で、そちらの方は……。だけど、ネジャには、妻と三人の子がいます。ネジャは、前向きに明るく振舞っていますが、きっと胸の内では、妻や子供達が心配でしょう」
答えて、ジュヌは、村人達と共に、川に出ている、ネジャを見た。
川の両岸に茂っていた、蒲の穂や葦などは、奇麗に刈り取られ、それらは土手に、干されていた。それらの茎は、家や籠などの細工物に使われる。また、蒲の穂は薬として使う為に、別の場所に干されていた。高台からは、その作業をしている様子が、見え、川面には陽光が煌いて、眩しそうにしながらも、漁師達は舟から、網を川へと投げ入れていた。その網を揚げると、網には、幾つもの輝く物が見えていた。
漁師達は、大量だと喜んでいて、ネジャも一緒に笑っていた。そんな、ネジャを複雑な気持ちで、ヤンブとジュヌは見詰ていた。
「神々が、人それぞれに与える使命。ならば、私達に与えられた使命とは、何であるのだろう」
川面に浮かぶ舟を見つめ、ヤンブは呟いた。
「どんなに悩んでも、解らない時は、解らないし、解る時には、解るものさ」
と、落ち込んでいる様子の二人に、年配の村人は言う。その言葉に、二人は頷いて、聳え立つ御山を見上げた。
川では、漁が続いていた。引き揚げる網には、多くの川魚が掛かっていて、川海老や蟹なども、掛かっていた。川での漁は、夏しか出来ない。だけど、毎日、漁をするわけでもなかった。三日に一日の漁。他は、網の手入れや、新しい網、漁に使う道具などを作ったり、開拓を手伝ったりしていた。
「明日は、海へ行くが、お前は如何する?」
ネジャと、同い年のヤシオが、問う。ヤシオは、村の中で一番体格が良い。最近になって、漁のまとめ役を任されたばかりだ。
「海。漁をしに行くのかい?」
「塩さ。塩の村に、塩を分けて貰いに行くんだ。そのついでに、海で漁をするんだ」
ヤシオが、答える。
「ネジャ、お前腕良いから、一緒に来いよ」
仲間の漁師が、言う。
「あ、ああ」
頷く。まだ、言葉や習慣に戸惑う事もあるけれど、漁は昔からしていた事だし、それに、漁師としての血が騒ぐのだった。
翌朝早くに、ヤシオとネジャを含めた、数人の漁師は、川で漁をする時に使う舟より、二回り程大きな舟に乗り、川を下って往く。緩やかに曲がりながら、川は流れている。川の両岸には、直ぐ山裾がある場所や、谷間みたいな場所、森や林、石が転がる川原がある。そのぶん、開けた平地は少なく、天然の土手が続いていたりしている。その辺りには、小さな集落が、点々とある。
村を出て、川を下ること暫く。
「やっぱり、御山は大きいよなぁ」
漁師の一人が振り返り、川の先、空へと聳える御山を仰いで、呟いた。
山二つ程越えた辺り。川幅も少し広くなった辺りからでも、御山は大きく存在感を放っている。手前に見える山々の間に見えている御山は、その山々よりも大きく見える。
「ネジャ。お前さん達は、御山を目指して、やって来たんだろう? どうだ、何処からでも見える、御山は凄いだろ?」
初老の漁師頭は、自慢げに言う。
「昼間は、あまりよく見えないが、夜になると、御山の頂が、幽かに光っているのが、見えるんじゃ。海で、漁をして戻って来る時は、夜が多いからな。でも、その光を見ると、励まされるんじゃ。この川のお蔭で、便利でも、海から戻る時は、丸一日近く掛かる。夜は、川岸に寄せて、休むのじゃが、その時は、必ず、御山が見える所で休む。何処にいても、御山が拝める、ありがたいことじゃ」
言って、漁師頭は、御山を仰いだ。すると、ヤシオ達も、御山に向かい仰いだ。なんとなく、自分も同じ様にしないといけない気がして、ネジャも、御山に向かい仰いだ。
自分の国でも、神仏が宿るモノは大切に崇めていた。皆が、仰ぎ讃える御山に導かれたのは、やはり神仏の加護なのかもしれない。自分は、神職者でも僧でもないけれど、その心は大切にしていた。
やがて、川は直線になり、山や森も無くなって、川幅も大きく広がり、両岸には、砂の川原が続くようになると、その向こうに、大きな集落と田畑が見えてくる。近くの集落の人達だろうか、川岸で作業をしながら、舟に気付くと手を振っていた。川岸の所々には、舟が係留されている。川から、田畑の方へと、幾つもの水路が引かれているのも、見えた。
「この辺りに、こんなにも集落があったなんて」
ネジャは、驚く。
「来るときに、気付かなかったのかい?」
と、ヤシオ。
「ああ。あの時は、ルヤンとジュヌが、光る山が見えると言って、ひたすらそれを、目指していたんだ。なんて言うのか、まるで、眼に視えない力に、引っ張られているみたいだったよ」
岸辺で、手を振る子供達を見て、ネジャは答えた。
「御山には、神さんがいるんじゃよ」
年配の漁師は言う。その言葉を聞きながら、ネジャは、微かに見える御山を見つめていた。その顔は、何処か寂しげだった。
暖かく湿った風に、潮の匂いが漂い始めると、目の前には、大きく広がった水面と空、そして、島々が見え始めた。
「海だ、瀬戸の海さ。もう少し行った所に、塩を作っている村がある。そこで、塩と干し肉などを交換して、その後、海で漁をしよう」
ヤシオの言葉に、一同頷いた。
潮の匂いと波音に、海の男であるネジャの魂は、揺らいだ。
河口から海へと入ると、心地よい潮風が吹く。そこから、岸に沿って、海を東へと進んで行くと、砂浜があり、その向こうには、緑の平野が広がっている。その砂浜には、幾つもの小屋があり、桟橋が造られている。その桟橋に舟をつけると、小屋の中から、人が顔を出した。
「お、塩か?」
「ああ。干した猪肉や鹿肉などと、交換してくれ」
と、ヤシオ。すると、小屋の中から、数人の男が出てくる。
「久しぶりだな、ヤシオ。いつも、いい薬を、ありがとな」
塩職人である彼等は、ヤシオと親しげに話す。
「おう、カヤトに言っとくよ」
言い、ヤシオは、干し肉などと塩を交換する。
「おや。なんだい、異人かい?」
塩職人達は、ネジャを見て、問う。
「カヤトが唐に留学していた時の、友人のツレだ。なんでも、遥か南の海の彼方から、御山に導かれてやって来たんだ」
と、ヤシオは簡単に、ネジャの事を紹介する。ネジャは、ペコリと頭を下げた。
「へーぇ。それで、村入りしたのかい?」
「ああ。良い奴だぞ」
塩を舟に積みながら、ヤシオは言う。
「そう言えば、何年か前に、讃岐の国に、異国のマレビトが漂着して、そこで、そのまま一緒に暮らしているが、それと同じようなものか」
と、塩職人達は、その様な事はたまにあるよな、と話、
「宜しくな」
と、ネジャに言った。
塩を積み終えると、ヤシオ達は、海で漁をする。獲った魚は、その場で開いて、塩漬けにする。川を遡上し村に戻るのに、一日近く掛かるので、痛んでしまうから。昼過ぎに、塩の村に着き、塩を交換してから、漁をしていたので、太陽は、既に西へと傾いていた。
「瀬戸の夕暮れは、何時見ても美しいな」
海辺の集落と島影が、茜色の光に照らされて、影絵の様に浮かび上がっている。幽かに夕霧が、たちこめていて、海面に映る夕日が霞んで見えていた。他に舟はなく、ヤシオ達の舟は、夕暮れの海をゆっくりと進んで行く。舟に驚いたのか、魚が音を立てて跳ねて、深いところへと一気に、潜ってゆくのが、あちらこちらで、見える。
「この辺りの海には、夕刻になると、風が止まるのかい?」
岸辺の草木を見て、ネジャは不思議そうに問う。
「夕凪さ。この時期、この時刻になると、何時も風が凪ぐ。これから、宵の暫くは、蒸し暑くなるよ」
と、ヤシオは答えて、漕ぎ手達に、指示を出していた。
夕暮れの空を、烏が数羽ずつ横切ってゆく。
「あらら。干潮か」
漕ぎ手の一人が、水位が低くなっている事に、気付く。
「まだ、大丈夫さ。どっちみち、夜を明かさないといけないんだ。底をぶつけないように、気を付けてな」
竿で、海底を探りながら、年配の漕ぎ手は言った。
舟は、ゆっくりと河口へと入り、村を目指して、川を遡上する。
川を遡上するにつれて、夕日は山々の向こうへと隠れて、川沿いは、黄昏て、東側にある山の上には、細い月がうっすらと、姿を見せ始めていた。辺りが暗くなるにつれて、水面の上を幾つもの小さな光が、舞いだした。
土手の向こうの、小さな集落に篝火が揺れているのが、見えていた。河口から、離れた為か、干潮の水位は関係なくなり、幾分余裕が、出てくる。そこから、更に遡上して、山沿いに曲がった先で、北の空に幽かな光が見えた。
「御山の光だ」
漁師の頭は、そう言うと、その光を拝むと、皆も、拝む。ネジャも同じ様にするが、その度に何故か、心が揺れてしまった。
「暗くなってきたな。この辺りで、夜明けを待とう」
ヤシオは言って、漁師頭を見た。漁師頭は頷く。それを確認して、舟を川岸に寄せた。その岸には、簡単に作られた係留場があり、川原には、使い込まれた小さな小屋があり、それらは時折り使われている、形跡があった。
「この川沿いには、川と生きる者達が、所々に作っている、休憩小屋が幾つかあって、その一つさ」
と、言い、ヤシオは舟を係留させた。
その川原で、軽い夕食を摂り、交代で火と舟の番をする。それぞれ二人組みで、ネジャとヤシオが組みとなり、夜半から夜明けまでの時間となった。
満天の星空。細い月は、西へ傾いている。ヤシオとネジャは、川原で焚火を見つめていた。川のせせらぎと、時折り吹く風が木々を揺らす音に、微かな虫の声と蛙の声。それ以外に音は無く、二人は会話する事もなく、ただ焚火を見つめていた。焚火には、羽虫が集まってきては、炎の中へと落ちてゆく。ふと、ヤシオが口を開いた。
「なぁ、お前の国は、どんな所なんだ?」
焚火に、枯草をくべながら言った。ネジャは、暫く夜空を見上げてから、
「―海に囲まれ、年中花が咲いている。皆、明るく穏やかで元気。男は、海に漁へ出るか、田畑を耕し、女は子供を育てながら、織物や籠などを作っている。豊かな土地で、神仏と共に暮らしている。でも、時折り、大雨が全てを流してしまったりもするが、な」
まだ、上手く言えない。
「一年中、花が咲いているんだ。へー色んな国が、あるもんだ。大和の中にも色々な、国があるもんな」
興味深そうに頷き、また、枯草をくべる。木や草が燃える音がして、その臭いが煙と共に昇っていく。そして、勢いのついた炎は、小さな火の粉を幾つも散らしていた。ネジャは、それを目で追い、何度も云えない寂しそうな顔をして、溜息を吐いた。
「如何した? もしかして、国の事を聞いてはいけなかったかな?」
「いや。いい。ただ、国に残してきた、妻子の事を思ってな」
と、首飾りを握る。その首飾りは、小石や貝殻で作られた物だった。
「それでも、仏の聖地を目指して、大海原を旅していたのかい?」
「ああ。神仏の事を、もっと知る為に、それを知れば、人々が救われるのだ。それと、我らに、神々と仏について説いてくれた師の、遺言と望みを果たすために」
ポツリ、ポツリと、言葉に詰まりながらも、問いかけに答える。言葉が上手く喋れないせいか、その口調は、屈強なネジャの姿からは、想像出来なかった。
「ふーん。神々とか仏とか、俺には、よく解らない。だけど、それらのお蔭で、日々、日々豊かな恵みを受けられると、思っている」
と、言う。それに、ネジャは、小さく頷く。
焚火から、枝の弾ける音が、一段と大きく聞え、時折り何処かからか、夜の鳥が鳴いているのが、聞えていた。
「俺も、本音は、その様なものだ。神々と仏を学ぶ為だけでなく、俺は、海を知る男として、聖地へ向う使命の方が大きかった。その旅は、聖地に無事に辿り着け、生きて帰って来れるのか、どの位の月日が掛かるのか、判らない旅立ちだった。皆、死を覚悟しながら、旅立った。出来る事なら、生きて帰りたかった」
明るく元気に振舞っている時には、見せたことの無い一面。国へ帰ることも、聖地へ向う事も、不可能かもしれないと知り、それが、望郷の想いとなっていた。
また沈黙が続く。
「……すまんな。色々と、聞いてしまって」
ヤシオが、詫びる。ネジャは、首を振って、
「いいさ。妻と子達の事は、ここからでも想えるさ。せっかく、ここへ迎い入れてもらい、暮らさせてもらっているから。ここで、生きていく」
無理に作った笑顔で、答えた。
「そうか? お前、良い漢だなぁ」
と、ヤシオは笑った。ネジャも、少し笑い、御山を見て、
「神々の御山。幽かに見える光は、神々の御験か」
呟いて、細い月の懸かる星空を見上げた。
焚火の炎が揺らめいて、二人の影を幾重にも揺らし重ねていた。少し蒸暑い風が、川に沿って吹いてきた。その風は、湿気を含み、ほんのりと水の匂いがしている。二人は、時折り言葉を交わす程度で、後は黙ったまま、炎を見つめていた。
それから、暫くすると、辺りが微かにざわめき始める。ふと顔を上げると、東の空が白み始めていた。山間の川原、谷間みたいなこの場所からでは、日の出は見えないが、正面の山、その向こうには、朝日が昇り掛けているのだろう。空が白むにつれて、辺りの茂みや、山々がざわめき出すと、闇夜に沈んで見えなかった景色が、徐々に浮かび上がってきた。
「夜明けか」
ネジャは呟き、最後の一掴みの、枯草を焚火にくべた。
「もう少ししたら、皆を起こそう」
と言い、ヤシオは大きく伸びをした。
村では、火にかけた大鍋に、木の皮を入れて、それを一昼夜、煮込んでいた。大鍋からは、独特の臭いが漂っている。その大鍋を大きな杓子で、掻き混ぜたり、薪を焼べている者達は、煤で黒くなり汗だくになっていた。
「ラクシュ。そろそろ、飯にしようぜ」
同じ年頃の少年が、新しい薪の束を持って来て言った。
「ありがとう」
ふぅと、息を吐いて、腕で顔の汗を拭った。新しい薪を、窯の前に置き、大鍋から離れると、涼しく感じる。
「後は、今持ってきた、薪の束を燃やし終えて、一晩冷やして、糊を混ぜるんだ」
その少年は、言う。
「へー、紙って、こうやって作るんだ」
「ああ。都へ納める物だけどな。ま、それは、中でも上物だけさ」
いかにも職人といった感じの男が、言った。
「このところ、税の取立てが、厳しくなっているとかで、煩いからな。でも、ここは、霊山の麓とあってか、さほどでも、ないけどな。他の村は、結構厳しいらしい」
と、溜息。
「都の方も、何かとあるらしいからな」
澱粉糊を練りながら、職人は言った。
「お蔭で、農地を増やさないといけないとかで、さらに開拓をしないといけない。でもそれで、国や民が豊かになれば、良いのだがな。手の空いている者は、朝早くから、日が沈むまで、原野に出て、精を出しているよ」
昼食を摂りつつ、糊作りを手伝いながら、ラクシュは相槌を打ち、
「何処の国も、同じ様なのですね」
と、言った。
「そーなのか?」
少年が、問う。
「国が不安不穏、だから王は、神仏に縋るのだと、お師匠様が、言ってました。だけど、祈るだけでは、民は救われないと」
ラクシュは、言って、ふぅと溜息を吐いた。
その話に、大人達は頷く。
「ここの土地は、都との繋がりも強い。それに、豊かだ。これも、全て、御山におわす、神々のお蔭。我らは、すっと、御山と共に生きているのだから」
と、職人は言い、練り上げた澱粉糊を、丁寧に水に溶いていた。
太陽が西に傾いた頃、塩の村に行っていた、ヤシオ達が帰って来た。帰り着くと、まずは、村の磐座に、新しい塩を捧げて、この先の豊漁を祈る。それ以外の塩は、村の貯蔵庫に入れる。
「これからも、豊漁でありますように」
ヤシオは、磐座に塩を納め、空を見上げた。
まだ日は高く、蝉や夏虫が鳴いている。稲も伸びてきていて、小さな蕾をつけ始め、その田んぼの上を、蜻蛉が舞っていた。水田では、雑草を抜き、稲についている害虫を取り、雑草は干して焚火などの燃料に使う。そして、蝗は食物にしていた。
その様子を見つめていた、ヤシオは、
「そろそろ、祖霊祭かな?」
と、イツキに尋ねた。
「ええ。長老様が、そろそろ準備を始めようと、言っていましたよ」
「それじゃあ、そのつもりで、漁とかしないといけないな」
と、腕を組んで、川の方を見る。
「カヤトや漁師頭に言って、そのようにするよ。何か、他にあるのなら、言ってくれるといい」
言って、ヤシオは神殿を後にする。
「ヤシオにとっては、大事な事だから、張り切るんじゃよ」
神殿の奥から、長老が出て来る。立ち去った、ヤシオを不思議そうに見ていた、ラクシュが、長老に、
「祖霊祭って、なんですか?」
と、問う。
「亡くなった者の魂を讃えて、生者と死者の幸せを祈る祭。死んだ者の魂は、御山へ向い、神々の下で修行をして、やがて、この世や土地を護るような力を得る。その為に、生きている者が、その魂の為に祭を行い、親しい者の魂と共に過す、祭の事じゃよ」
答える、長老。そこへ、薬草を持って、カヤトとルヤンが、来た。
「その様な祭が、あるのかい? ここの土地にも」
話を聞いた、ルヤンが問い、カヤトは頷く。
「ヤシオは、漁師の父が、波にさらわれた。死体は、あがらなかった。生死は、未だ不明。でも、もしかしたら、祖霊祭で、その父に逢えるのではと。それで、張り切っているのじゃよ。誰よりも、父を慕い尊敬して、おったからな」
と、長老。
「ふ~ん」
頷く、ラクシュ。
「その心、解かる。漁は、何時も命懸けなものだからな」
ネジャは頷く。
「……その祖霊祭で、旅の途中、命を落としてしまった者達の魂を、ここで、その祭で、労っても構いませんか?」
暫く沈黙していた、ルヤンが、長老とイツキ、カヤトに問う。
「ああ、構わないよ。それは、とても大切な事じゃからな」
と、長老。
「ありがとう」
ルヤンは、頭を下げる。
「その想いは、きっと仲間の魂へと、届きますよ」
一瞬、ルヤンが悲しそうな顔を浮かべた様に見え、イツキは、気遣うように、優しく言った。
「……ああ」
小さく、ルヤンは頷いた。
三 祖霊祭
先日、海で獲った魚を、塩漬けにしていたものを、日干しにした塩魚も、いい干物となっていて、稲には小さな穂が付いていた。様々な作物も、花や小さな実をつけて、山々や林には、多くの獣が駆け回っていた。
祖霊祭が近いとあってか、村人達は、仕事の傍ら、祭の準備をしていた。夏の作物を収穫して、狩や漁をする。春の豊作祈念と、秋の収穫祭、そして、この祖霊祭が、この村での大きな祭だった。その祭の日だけは、米や肉を食べ放題なので、祭が近づくと、皆、沸き立っていた。
山から、竹を切ってきて、村人が何人か集まって、掌に乗るほどの、小さな舟細工を作っていた。
「何だい、あの小さな舟細工は?」
祭の準備を手伝っていた、ルヤンが問う。
「魂の舟よ。祖霊祭の夜に、川に流すの」
イツキが答える。
イツキ達は、祭の準備をしている村を、歩いて廻る。そうすることで、村人達の想いを拾い集めて、祭に臨む。
「どうして、川に流すのか?」
と、ルヤン。その問いに、カヤトが答える。
「祖、死んだ者の魂は、祭の時に、山から村へ戻り、血族・身内と共に過す。祭が終ると、魂は、川へ、そして、雨となって、また、御山へと戻る。古来から、そう伝えられているんだ。御山は、その様な場所でもある。だから、魂を乗せる舟を作って、川へと流して、魂を送る。村が、これからも、恵み豊かでありますように、祈りながら」
言って、カヤトは、ルヤンに、舟細工を作ってみるかと問う。ルヤンは、頷き、命を落とした仲間の物も作ると言った。
「共に聖地を目指した者の数だけ、作りたいんだ。無事に着いたのか、命を落としてしまったのか、知る由もないけれど」
と、ヤンブ。
「せめて、死を看取っていない者の無事を祈り、亡くなった者の魂に、幸があるようにと……」
手を止めて、ジュヌは言い、御山を見上げた。それを聞いていた、コウヤは、
「どうして、そこまでするんだ? そんなに作って、如何するつもりなんだい?」
と、嫌味ったらしく言った。
「共に聖地を目指していた、者達全てだから。それは、舟を漕いでいた者達も一緒だ。神仏の為に、共に命を賭けた仲間だからさ」
ネジャが答える。
「舟を漕ぐのは、罪人だろう?」
ふふふと、不適に笑う、コウヤ。
「罪人にであっても、聖地へ向い帰って来て、無事に務めを果たせば、彼等の罪は許される。彼等は、神聖なる贖罪人だ。故に、共に救われなければ、ならない魂だ」
コウヤの態度に、応じる事無く、ルヤンは、淡々と答えて、切ってきた竹を、適度な大きさに切り分けていた。コウヤは、面白くなさそうに、フラフラと、祭の手伝いをする事もなく、何処かへ立ち去っていった。
「すまないな。あいつは、どうも捻くれた奴で」
と、ヤシオは取り繕う。
「別に、構わないさ」
ルヤンは、笑う。
「うん。じゃあ、俺は、村の仕事に戻るから、祭の事は宜しくな」
言い、ヤシオは、川の方へと向う。
「参道の手入れか?」
カヤトが、問う。
「ああ、水神様の方さ」
と、答えると、ヤシオは、皆の下へ駆けて行った。
祭の前になると、村の仕事より祭の事が、優先される。それぞれの分担が、与えられて、祭と神々に対しての準備をする。祭の準備の傍ら、舟細工を作る。そこへ、ハグミが籠を抱えて、やって来た。籠の中には、団子が沢山入っていて、何個かずつ大きな葉っぱで、包まれていた。
「神さんのお下がりで、作った団子。祭までに、食べる事になっているんだ。だから、貴方達も、食べて」
と、言い、竹を小さく切っていた、ジュヌに籠の中から、葉っぱに包まれた団子を渡した。そして、カヤトに舟細工の作り方を、教えてもらっている、ルヤンとラクシュを見て、ハグミは、ふくよかな身体を揺らしながら、これ程ばかりに、目を丸くして、
「すっごいなぁ。沢山、作るつもりなの?」
驚いて、問う。
「共に旅をした者の分です」
ジュヌは、竹を切りながら、答えた。ハグミは、じっと、その様子を見て、
「一所懸命に、作れば、その想いは届くぞ」
と、言い。
「皆、祭の夜には来てくれるさ」
ハグミは、元気に言った。ジュヌや、ルヤン達は、ハグミの元気の良さに、クスッと笑い、
「皆、ここを気に入ってくれると、いいな」
と、ジュヌは言った。
祖霊祭の日は、まだ暗いうちから、御山へと登り、御山の上の磐座へ向う。イツキとカヤト。ムラ長とウサラに、続き、ヤシオなどの村の代表者が、共に向う。ルヤン達は、ルヤンが代表として、同行させてもらう。山守が、普段から手入れしている参道は、歩き易い方。他は、獣道を広げたものが、山の中に幾つもある。春と秋の祭の時には、イツキと、神事を手伝う者の数人だけだが、祖霊祭の時は、十数人で向うのだった。
空が白んでくる早朝、山々は、朝霧に包まれている。その為、御山の参道にも、朝霧がたちこめていて、漂う空気は湿っていて、木と土の匂いに満ちていて、微かに服風が、朝霧を揺らしていた。イツキ達の気配に、眠りから覚めたばかりの獣が、驚いたのか、茂みの奥で音を立てていた。
やがて、御山の上の磐座に着く頃には、空はすっかりと、明るくなっていた。木々が、切り揃えられている為、視野が広がる。御山の磐座からは、広々とした空と大地が見渡せれる。東の空には、太陽が昇り、朝日が山々の影を、霧の中に浮かび上がらせると、風が空を吹き抜けていき、朝霧を散らしていった。すると、眩い朝日と澄んだ深い青の空、朝日を受けて、大地に影を伸ばしている山々と、清らかに流れる川が、朝日で輝いている光景が、パノラマに目の前に広がった。
「凄いな」
ルヤンは、身を乗り出す様にして、その光景を見つめる。
「この辺りだけでなく、天気の良い日には、海を挟んで向こうにある、讃岐まで見えるんだぜ」
自慢げに、ウサラが言った。
ルヤンは、興奮しているのか、感激しているのか、その光景を食い入るように見つめている。
「あの川の先や、山向こうに霞んで見えているのが、瀬戸の海で、その向こうが、讃岐だ」
と、ウサラは、指差し言った。
「何処の国の長も、ここまで素晴しいものを、持ってはいないだろうな。ここからは、全てを、見渡す事が出来るからな」
ムラ長は、そう言い、祭の世話係りで、神事を受け持つ者達に、磐座の周りを清めさせた。
「ああ、ここが、神々のおわす場所であるということが、よく解る。あの、ずっとずっと空の彼方に、私達の国はあるのだ」
ルヤンは呟いて、川の先、山と山の合間を流れて伸びる川、その先に、霞んで見える海を、その空を見つめる。
「ここから、祖国の事を、想われてはいかがですか?」
ルヤンの隣に、イツキが立つ。
「えっ?」
驚く、ルヤン。ここは、聖域で神域なる場所だから。異国の者である、自分が無暗に立入って良い場所では、無い筈と、思ったから。
「ここから、祖国が見える訳では、ありませんが。それでも、生まれた国を、彼方なる国を、想い浮かべる事は、出来ますでしょう?」
イツキは言い、ルヤンが見つめていた、先へと視線を向ける。
「では、神々の鎮座する、この場所へ、時折り来ても、良いのですか?」
と、イツキに問う。すると、イツキは、
「構いませんよ。ここへと来て、祈る方もいますから」
ニッコリ笑って、答える。
「ここで、空と大地。そして、彼方へと続く川の流れを見つめて、神々に祈り、その力を感じて、生きる力を得るのですよ」
と、続けた。
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
ルヤンは言い、頷くと、また彼方を見つめた。
磐座に、供物を捧げ、祈りを捧げる。磐座の周りで、香を焚き、その香が風に乗るのを待つ。太陽が昇るにつれて、御山は、目覚めた生き物達で、ざわめきだすと、涼しかった磐座の辺りは、少しずつ暑くなり、蝉が一斉に鳴き始めた。香は風に乗り、磐座を包むように、立ち込めてゆく。焚いていた香が、全て燃え尽きると、イツキ達一行は、御山を降りて、村へと戻る。
参道を下っていると、その後から、付いてくる幾つもの気配が、あった。それも、一つや二つではなく、大人数といった感じだった。その気配に、ルヤンが足を止める。
「祖霊の方々ですよ。これから、村へお連れして、祭をするのですよ」
チラッと振り返り、イツキは言う。その気配は、ルヤンの目には、無数の人影の様に視えていた。
「あの中に、誰かを捜し求めるのであれば、村へ戻ってからだ。あれら全てが、祖霊であるとは、限らないからな」
立ち止まっている、ルヤンに気にするなと言い、進めと、促した。
「あ、ああ」
その意味を察したのか、ルヤンは、また歩き始める。
「祖霊以外のモノも、共に迎える事にはなりますが、それらのモノは、また別に、もてなすのですよ」
と、イツキは言い、振り返る事なく歩き続けた。
村では、其々の家の軒先に、御山で拾ってきた小石が積み上げられていて、その傍らには、花や供物などが置かれている。それは、祖霊達の依代。ジュヌ達も、それにならって、小石を積み上げて、イツキ達が、御山より帰って来るのを、待っていた。
御山と村を繋ぐ参道の真中辺りには、篝火が焚かれ、人一人程の木で出来たヒトガタが幾つも並べられていた。その前には、色々な食べ物が、供物として置かれている。御山より戻って来た、イツキ達を、巫女や巫者達が、そこで迎える。
「さあ、そなたらは、ここで、もてなそう」
イツキが振り返り、気配に向って言うと、巫女達は、気配に向い一礼する。すると、御山から、付いてきた気配の一部が、まとまって、そちらへと行った。ルヤンは、その儀式を見ていて、成る程な、と思った。
「あの気配は、災いを招く精霊と、よく似ているな」
と、ルヤンは呟いた。
「ルヤン様の国でも、この様な祭を、しますの?」
イツキが問う。
「似ている祭が、あります。災い等を招く精霊、その様な精霊ばかりを呼び集め、供物を捧げる。そして、まとめて浄化させるのです。その祭が終ると、新しい年の始まりになります」
と、答え、巫女達が見守るなか、ヒトガタや供物に纏わり憑くモノを、見つめた。
「あのモノ達は、村へは入れずに、ここで清められる。村へ入れるのは、祖霊達だけ。……さぁ、祖霊達のお戻りだ」
ムラ長が言うと、巫者達が村へと駆けて行き、家々に、その事を伝えて回る。
太陽は、少し真上を過ぎていて、地面からは、陽炎が立ち昇り揺らめいていた。蝉や夏虫達は、相変わらず元気に鳴いていて、草いきれが漂う。大空には、鳶が甲高く鳴きながら、大きな翼を広げて舞っていた。
イツキ達が、村へ入るのを見届けると、村人達は、軒先に積んでいる石に、手を合わせる。御山より、自分達の祖霊が帰って来た事に、挨拶を兼ねて。手を合わせる事は、互いに思っていますと、いう意味があるとされている。それから、日没まで、家族と祖霊で、共に飲食をして、恩恵を願う。
「ここが、豊かな土地なのが、解る気がする」
村の様子を見つめていた、ルヤンは呟いた。
「似ている。だけど、似ていない。でも」
ヤンブは、積んでいる石を見つめて、
「信じて、祈りたい」
と、瞳を閉じた。その時だった、ふと、そよ風が、ルヤン達の周りを吹き抜けていったのは。その風に、ルヤン達は、思わず言葉を失い、涙が零れ落ちる。
「――ここは、やはり、神仏がおわす土地と、御山があるんだな」
ジュヌは言い、積んだ石の傍らの篝火に、枝を焼べた。
祖霊祭は、賑やかでありながらも、何処か静かな祭。
夕刻になり、太陽が沈みかけると、あちらこちらの家では、川へと向う用意が始まる。東の空には、細い上弦の月が浮かんでいて、元気に鳴いていた蝉の声は、殆ど聞えなくなっていて、川辺に近づくと、せせらぎが聞えてくる。やがて、太陽が沈みきり、闇の帳が下りて、村が夜闇に包まれると、村中で篝火が灯され、その炎が闇夜に浮かんで揺らめく。川原には、祭壇が設けられて、そこでは、大きな篝火が音を立てて、揺らめいていた。その火を、一つ一つの舟細工に乗せて、川面へと放つ。闇の川に、幾つもの小さな炎が浮かび、流れていく。昼の賑やかさが、嘘の様な静けさの中、村人達は次々に、舟細工に火を灯して、川へと流していく。
「どうか、何時までも、豊かでありますように」
と、祈りの呟きが、あちらこちらから聞えてきていた。
「まるで、魂みたいだな」
川を流れていく、小さな炎を見つめて、ネジャは呟き、そして、自分達の舟細工を川に流す。
「ああ、そうだな。私達の思いも、きっと、届いてくれているさ」
ヤンブは頷き、舟細工を放した。舟細工は、乗せた炎を、揺らめかせながら、川を流れてゆく。
「師匠の御魂にも、届いていたら良いな」
ルヤンは言って、最後の一つを、川面に置いた。
「想いは、遥かなる聖地へと、届かん事を」
呪文の様に呟いて、そっと、手を放した。
川を流れていく舟細工の炎で、仄かに川岸が浮かび上がり、水面には、幾つもの炎が映っている。やがて、舟細工は流れながら、炎に包まれると、燃えながら川へと沈み、闇へと消えていった。村人達は、それを見届けると、御山の光を仰いで、其々の家へと帰っていった。
ルヤン達は、暫く川原から、御山の光を見上げていたが、篝火が燃え尽きる頃、その場を後にした。
祖霊祭が終ると、夏も酣となる。稲は青々と伸びて、穂を膨らませていく。陽射しも一段と強くなり、大きな入道雲が、空高くまで、沸き立っていた。
「この辺りは、夕方になると、凪になるんだな」
網を直しながら、ネジャは言う。
「そうさ。だから、宵の内は、蒸暑いんだよな。と、今日はもう、終おうか」
汗を拭き、ヤシオは、北の空を見上げる。その視線を追って、ネジャも見る。川の上流、北の山々の間に見える空には、黒い雲が掛かっていて、どことなく空気が重くなってきていた。
「嵐でも来るのかい?」
「夕立だ。ま、ザーッと降って、直ぐに通り過ぎるさ」
ヤシオは、干していた漁の道具を、片付ける。空の様子に気付いたのか、村人達は、干している物を、慌てて仕舞い込んでいた。
「スコール、見たいなものか」
と、呟き、ネジャは、網をたたみ、漁の道具などを入れている小屋へと、急いだ。小屋へ入ると、ポツポツと雨音がして、同時に大きな雷が響き渡った。小屋を出ようとしたら、雨が滝の様に降り始め、激しく雷が響く。仕方なく、ヤシオ達は、そのまま雨宿りをする。
川面には、雨粒が無数の波紋を作っている。ここまで降ると、何も出来なくなる。村人達は、夕立が通り過ぎるのを、ただ待っていた。一時間程して、雷雨が遠ざかってゆくと、また蝉が鳴き始めて、夕立が過ぎ去る。雨雲が消えた空は青く、南の空から御山の方へと、虹が架かっていた。仕事を再開しようと、外へ出てきた村人達は、それを見て驚き、そして、何時もと同じ様に、御山に向かい、祈り仰ぎ頭を下げた。
虹は、川の先、海の方から、まるで、御山の頂に降立つ様に、架かっている。その虹を見上げ、ルヤン達の心には、祖国と聖地への想い、だけど、如何する事も出来ない事実に、深い溜息が零れてしまった。
ここへ辿り着いて、随分と経って、言葉にも暮らしにも慣れたし、村人達は、暖かく接してくれる、だけど、馴染めば馴染む程、心の中では、その想いが蠢いていた。
稲の穂が頭を垂れると、赤とんぼが、水路や田んぼの辺りに飛び始める。蝉の声にも、元気が無くなり、その数も減ってくると、朝夕には、コオロギの声が聞え始める。
「夏も、もう終わりだな」
村外れで、土を耕していた村人が言った。
「今年の米は、良い出来らしいぞ」
と、村人同士は、話す。
「みたいだな。だとしたら、収穫祭は、賑やかだろうな」
開墾も進んだ、村外れにあった藪、その藪を切り開き、耕し田畑にする。
「この国は、やたらと祭が多いよな」
鍬を持つ手を止めて、ヤンブが言う。
「そうだな。ルヤンが言うには、この国には、四季というものが、あるらしい。それは、私達の国には、無いもので、なんでも、四つの時期があるのだとか」
と、ジュヌ。
「年中、作物が採れる私達の土地とは、違うのか?」
「ああ。これから、暫くは、沢山の作物が採れる。だけど、その先にある冬という時期には、殆ど何も採れないらしい。だから、しっかりと、色々な物を蓄えておくのだと」
ジュヌは、土に埋もれている石を拾い、掘り出した石ばかり置いている場所に、置く。その石は、石垣や道を造るのに使う。
「ふーん。なんだか、よく解らない事だな、季節とかいうもの。でも、ここ数日、風が変わってきたのは、その為なのか」
ふぅと、息を吐いて、ヤンブは空を見上げた。
天高く沸き立っていた、白い入道雲は小さくなり、小さな雲が、疎らになって、空に浮かんでいた。吹く風は、少し涼しくなっていた。
第三章 想い
激しい風雨が、村に吹き荒れている。ヤシオ達漁師は、増水した川に、舟が流れない様に、舟を川岸から離れた場所へと、移動させる。田んぼの稲は、激しく揺れ、山々の木々は、呻る風に音を立てて揺れている。吹き荒れる風は、渦を巻くかのように、川に沿って吹き抜けていった。村人達は、何事もなく嵐が通り過ぎるのを、家の中で、ひたすら待ちながら、祈り続けていた。
「大丈夫でしょうか?」
風で軋み、雨が入ってくる。それを心配そうに、ラクシュは見る。
「まぁ。そんなに、酷くはならないとは、思うが……。そなたらの国でも、この様な嵐は、来るのか?」
と、長老は問う。
「はい。大きな嵐の場合では、命を落としたり、家や田畑家畜を失ったりします」
ルヤンが、答えた。
「まあ。それでは、大変でしょう」
と、イツキ。
「――それでも、また、最初から作ります。失っても、また。嵐は、田畑を奪ったりしますが、ただ失うだけでは、ありませんから」
心配そうにしているイツキに、ルヤンは、笑ってみせ、
「嵐の後には、肥沃な土が出来ます。それが、新たなる恵みを与えてくれるのです」
と、言った。
「失う事が、良しも悪しも、それらは一つだ。そこに、神々の意思があるんじゃよ」
長老が言い、その言葉に、ルヤン達は頷く。
「この嵐が、過ぎ去れば、秋。今年は、良い実りですから、刈り入れが待ち遠しいですね」
揺れる炎を見つめて、イツキは言った。
嵐は夜半には、過ぎ去り、村は静けさを取り戻した。翌朝は、早くから、村人達は、村の中を見回り、壊れた家を直したり、田畑の手入れをする。
台風一過で、綺麗に晴れ渡った空には、雲ひとつなかった。空気は澄んでいて、吹く風も涼しくなっている。
幸いにも、村の被害は少なかった。川の水は、土手の辺りまで増水していたが、舟は移動させていたため、大丈夫だった。川原にあった、桟橋や係留場は流されてしまっていたけれど、他は無事だった。
普段は、清水が流れている川も、嵐の為か、濁流となっていて、水流の音と水飛沫を上げて、激しく流れていた。時折り、その濁流の中に、木や舟の残骸と思われる物があり、川の北の方では、被害が出たのだと分かった。風で倒れた、稲や作物の手入れをしながら、村人達は、ホッと胸を撫で下ろした。
「よかった、思ったより大丈夫で」
倒れた野菜を起こして、支柱を立てながら、ハグミは言った。
「ああ、そうだな。――ここは、こうした方が」
ハグミの手伝いをしながら、ジュヌが言った。
「この村は、川の直ぐ傍だけど、こう見えて、川より高い土地にあるから、大嵐でも大丈夫なんだよ」
と、ハグミは、ニコニコ笑って言う。
一方、カヤトの薬草園。嵐の影響を受けた、薬草や薬木が、倒れたり、枝が折れたりしているのを、片付けていた。薬草園の薬草は、都へ納めたり、村で使ったりするので、重要なものだった。カヤトも、開拓や稲作を手伝う事もあるが、もっぱら、薬草園を切り盛りしていた。薬木の折れた枝を、整えて、折れてしまった枝は、挿し木苗にする。ルヤンと二人で、薬草園の手入れをしていた。カヤトは、作業をしながら、ふと、ルヤンに声を掛けた。
ルヤンは、何だと振り返る。
「なぁ、ルヤン。こんな時に何だけれど、お主、イツキの事を、どう想い感じている?」
唐突に、問う。ルヤンは、一瞬驚きの表情を浮かべ、
「どうって、良い娘だと思うけれど?」
首を傾げて不思議そうに、カヤトを見た。
「そうか。……なら、頼まれてくれないか。お主と一緒にいるイツキが、嬉しそうにしているのを、感じるのだが」
真直ぐ、ルヤンを見つめて言う。
「は、確かに、話していて、良いなとは、思うが。でも、彼女は、神に仕える者だし。それに、私は、この村で生まれた訳でもないし。もし、再び、聖地を目指せる方法があるのならば、と、考えたりもしているのだぞ」
答えて、ルヤンは、カヤトから顔を背ける。
「神々に仕える者でも、ここでは、子を産める。その子供が、成長すれば、その子供にも、力が受け継げられる事が、多いからな」
ルヤンの素振りから、その思いを読んで、言う。
「――でも、他の者が快く思わないだろ。特にコウヤは、彼女に気があるみたいだし」
と、ルヤン。
「コウヤか? アイツは、誰構わずに声を掛けている様な奴さ。なのに、村一番の娘からの求婚を、跳ね除けるし。それに、村の仕事をサボってばっかりだしなぁ。本当に困った事に、口だけは達者なんだ。注意しても、聞き入れないし、だから、村の皆は、コウヤの事を諦めているのさ」
ふぅと、溜息を吐いて、
「都で、躓いて以来、それに拍車が掛かったみたいだよ」
と、言った。ルヤンは、御山を見上げ、
「そうか。困った者は、何処にでもいるんだな。……だけど、まだ、その様な事は、考えてはいないし、考えられない」
と、ルヤンも深い溜息を吐いた。
磐座の神殿では、イツキが、嵐の被害を取りまとめ、それを、長老に報告していた。
「倒れた稲や作物などは、日が経てばまた元気になるであろう。それにしても、被害が少なくて良かった。これで、収穫祭も快く迎えられるな」
御山と磐座が見える所に座り、長老は安堵の息を吐いていた。
「はい。収穫祭が終れば、来年の春に向けて、開拓を進めて、新しい田畑には、豊作の神を勧請しないといけませんね。そうしていくうちに、ここは豊かになり、誰も飢える事のない土地になるでしょう」
長老の隣に座り、イツキは、御山と磐座を見つめる。
天は晴れ渡り、空の青と山々の緑との際が映えていて、綺麗な彩りとなっている。神殿は静かで、涼しくなった風が、神殿の回廊を吹き抜けていった。長老とイツキは、黙ったまま暫く、御山を見つめていた。
「イツキ、お前は、ルヤンの事をどう思う?」
ふと、長老が口を開き、問う。
イツキは、その言葉に驚く。思いもよらない言葉だったから。
「それは、どういう意味ですか?」
如何して、その様な事を聞くのと、イツキは、頬を赤らめて問う。
「そのままじゃよ。そなたも、そろそろと、伴侶を見つけて、伴に過してはと、思ってな」
長老は、淡々と言う。
「お前達、兄妹も、そろそろ身を固める時期だろう? 少し遅いくらいじゃが。私も早く、お前達の子を見たいのじゃよ」
と、長老が言うと、イツキは、更に顔を赤らめて俯き、消えそうな声で、
「――私、まだ。それに、このまま、独り身で、祭主を続けてもいい。別に、ずっと独りでも」
と、消えそうな声で言う。
カヤトとイツキの兄妹には、両親も血族もいない。イツキの母は、イツキを産み、命を落とし、父は、イツキが生まれる前に、病で他界していた。両親を失い、血族もいない、幼いカヤトと、生まれたばかりのイツキを、引き取り育てたのが、長老だった。長老は、二人の親代わりだった。
「……そうかい。私は、お前達二人は、良い仲だと思ったんだがなぁ」
長老は、残念そうな溜息を吐き、
「まぁ、こればかりは、な」
と、呟いて、奥の部屋へと入って行った。
一人残ったイツキは、深い溜息を吐いて、磐座の向こうに見えている、御山を見上げた。
「ルヤン様は、兄様の大切な友人。確かに、兄様みたいで、良い方。でも、そういう事って、どういう事なのか、解らないよ」
うっすらと涙を浮かべて、イツキは呟いた。
青く澄み渡った空には、雲ひとつ無く、重たそうに穂を垂らした稲は、黄金色に輝いている。心なしか、ひんやりとした風が、稲を揺らしていた。米の収穫は、種まき同様、村人全員で、行う。米や雑穀等、全ての田んぼの刈入れが終ると、都へ納める米と村の米を分けると、収穫祭の準備に取り掛かる。村の磐座の前に作られた、祭壇には、収穫した、米や作物、獣や魚等とともに、神に捧げる米として、古より伝えられる、赤米も並べられる。豊作を感謝する神事を、村の磐座で行い、村人達は、労いあう。
そして、村の磐座から、御山の磐座へと、神々を送るために、イツキ達は、御山へと向う。その参道の途中には、色々な石が並べられている場所がある。
その石の中にある、注連縄の巻かれた棒状石と、丸い窪んだ石が並べてある前で、供物を捧げて、熱心に祈っている男女がいた。二人は、御山へと向っているイツキに、気付くと、イツキ達に、深く頭を下げ、
「イツキ様。良い子が授かりますようにと、どうか、お願いいたします」
と、二人して言った。イツキは、それに応える様に微笑んで、その二つの石に向って、祈りを捧げた。
「元気な子が、生まれますように」
と、二人に言い、イツキ達は、また歩き始めた。イツキ達が、御山へと歩き始めても、夫婦は暫く、そこで祈り続けていた。
「あの石は、リンガですか?」
ルヤンが問う。
「なんだぁ、それ? あれは、金精様さ。陰陽石とも言って、男と女を模った神様だ。子宝や豊作等も祈ったり、願掛けしたりするんだ」
と、ウサラは、にんまり笑い、
「俺も、沢山、祈ったから、沢山の子宝に恵まれたよ」
ガハハと笑って言う。
「リンガの事をここでは、そう呼ぶのか。私の国では、あの様な形の物は、リンガと呼んでいて、シヴァ神の姿の一つとされる」
「金精様は、ルヤン様の国の神様と、同じ姿なのですか?」
イツキが問う。
「シヴァ神は、幾つもの姿を持つ神と伝えられていますが、時として、男根の形で現され祀られます。その姿の時は、子授けと豊穣を祈る対象となっています。そのあたりの事は、ここと似ています」
と、ルヤン。
「幾つもの姿を持つ神。それは、一体どの様な神様なんだい?」
ムラ長が問う。
「色々と属性はありますが、一言で言うならば、破壊と再生の荒ぶる神でしょうか」
「その様な神であれば、宥め鎮めるのが大変では、ないのか?」
「いえ。この国でいう、荒神や祟り神とは違います。シヴァ神は、一つのことが終わり、そこからまた創まる。ということを司る神です。確かに、恐ろしい一面を持つ神でもありますが……」
振り返り、ルヤンは陰陽石を見つめる。
「大いなるモノの中にある、神のひとつ」
と、呟いた。
「どの様な神仏であっても、其々に対して、祈り信じるという、己の心と魂が大切だ」
カヤトは言って、祈り続けている夫婦を見た。ルヤンは、一瞬、寂しげな顔をしたが、
「そうだな。……さぁ、行こうか」
と、何かを吹っ切る様に、イツキ達の後に続いた。
御山の磐座にも、祭壇が作られて、赤米などの米を始めとした、様々な供物が供えられている。イツキは、そこでも、豊作であった事を告げて、返礼の神事をする。
「今日は、讃岐が見える。本当に、良い天気に恵まれた」
ムラ長は、磐座から少し離れた場所に立ち、見渡せられる景色を見て言う。
磐座を中心にして、幾つかの祭壇がある。その、一つがある場所で、そこからは、天と地と彼方の山々、そして海まで、見渡せられる。そこは、天地を往来する龍神に、祈雨をするのに、良い場所だった。
「ここへ、来たのは二回目だ。それにしても、本当に良い場所だな」
ルヤンは、南の彼方を見つめる。
「だろう。都の帝だって、この様な、眺めを手にすることは出来ないさ」
くっくと、ムラ長は笑う。
「ここは、神々と人間が、接し逢える場所。巡礼者も、ここへ登って来る人は稀だ。ここには、神々と人々の想い祈りが、集まってきている、そんな感じのする場所」
ルヤンの隣に立ち、カヤトは言った。
「……祈りか。人々は、何の為に祈り、そして、何を祈るのだろうか」
空を見上げ、ルヤンは呟いた。
「そりゃー、豊作とか平安とか?」
と、ウサラは、
「誰も、飢えたり、痛い思いは、嫌だからな」
と言う。
「それもありますが、もっと深い想いが、あるのではないでしょうか? 私達のずっと奥にある、例えば魂に、元々ある想いが祈りではないかと、私は思います」
神事を終えて、イツキがやってくる。
「神々も私達も、一つのモノ。カタチや存在は違っても、本当は、一つのモノで繋がっていて、源は同じであったと、私の師が、何時も言っていました。その名残が、私達の魂の中に、在るのかもしれません」
と、ルヤン。イツキは、ルヤンの隣に立ち、景色を見つめる。
「では、私達が神に祈るのと同じ様に、神々は、私達に何かを求めているのでしょうか?」
イツキは、ルヤンに問う。
「それは、きっと、私達の純粋な祈りの心。それが、互いに繋がった時、一つになれると、私は考えています」
ルヤンは答え、微笑んでイツキを見た。イツキは、その応えに頷いて、微笑むと、
「ずっと、この先も豊かな恵みの下で、平穏な日々が続くと、良いです。それが、私の祈りです」
と、青く浮かび上がっている、彼方の山々を見つめて言った。
その様子を見ていた、ムラ長とウサラは、ニヤリと笑って、カヤトを見た。カヤトは、怪訝な顔をして、二人を見る。
「いいのかよ、イツキちゃんの事?」
ウサラが、ニヤニヤして問う。
「それにしても、良い感じだよなぁ、カヤト。あの二人は」
今度は、ムラ長が言う。
「なんだ、そういう意味か。それは、本人達次第の事なのだから、私は、別に構わないさ」
と、言い、カヤトは、ルヤンとイツキが二人並んで、景色を見つめているのを、少し離れた所から、見る。
「へー、そうなんだ。兄上公認なんだ。そう言やぁーさぁ、ハグミの奴、ジュヌに気があるみたいだよな。一時期、コウヤを気にしていたが、コウヤは、その気無しだったからな。もったいない、ハグミは、良い女だから、言寄る男共が多いのにな。その男共は、相手にしないんだよなぁ」
ウサラが言う。
「でも、ジュヌも、満更では無いみたいだしな」
ムラ長とウサラは、ああだ、こうだと話している。
「そういうのは、当人の問題だ。別に、誰が誰と一緒になろうと、いいじゃないか」
苦笑いを浮かべる、カヤト。
「ふ~ん。じゃあ、お前は、どうなんだ、カヤト? お前、さぁ、そっちのコトは、もっぱら晩熟じゃあないか?」
と、ムラ長。
「そんな事ないさ。私は、ただ自分の事より、イツキの事を考えている。だから――」
小さく、息を吐き、仲睦ましそうにしている二人を見て、
「ルヤンとイツキが、一緒になってくれればいいんだ。自分の事は、それからだよ」
と、呟いた。
「ほおぅ。それなら、ワシの娘を……」
ムラ長は、ニンマリと笑った。カヤトは、それを笑って、かわし、そろそろ戻ろうかと、言った。
収穫祭が終ると、吹く風も肌寒くなり、朝露が降り始めると、山々が、少しずつ色付き始める。日が短くなり、村は、冬を迎える準備に執りかかる。
「これが、季節の移ろいってものか?」
上着を羽織、ヤンブは言う。南の海の民である彼等にとって、季節の移ろいは無く、寒さというものは、始めて体験するものだった。
「冬に、寒くなる前に、きちんと用意しておかないとな。唐程でも、ないと思うが、もう直ぐ、凍える風が吹くようになるぞ」
と、言い、ルヤンは、家から出る。
「薪とかを、拾い集めに行くが、一緒に来るか? あと、家の手入れも、しておかないと。……自分達で出来る事は、やらないと、何時までも甘えるわけには、いかないさ」
ルヤンは言って、歩いていく。それに、ラクシュが付いて行った。
「ああ、そうだな。せめて、寒くないように、しないとな」
壁に、所々ある隙間を見て、ヤンブは言い、上着を脱いで立ち上がった。
刈入れの終った田んぼを、耕している者や、籠を背負って山へと入る者。刈り取った稲藁を干している。稲藁は、ゴザや縄を編んだり、家の一部に使ったりする。また、水路の底に溜まっている泥や、土等を混ぜて、壁土を作ったりしていた。その様な光景が、あちらこちらで、見られる。村を歩きながら、物珍しそうに、ラクシュは、その様子を見つめる。山に向かい歩いていた、ラクシュが、ふと足を止め、
「山の色が何時もと、違う」
と、言い、じっと山々を見つめた。
山々は、緑色から、少し黄色掛かって来ていた。その色の中に、点々と赤味がかっている。そんな山々を、ラクシュは、不思議そうに見つめる。
「本当だ、何かの前兆なのか?」
ヤンブも、山々の変化に驚く。驚いて、村人達を見回してみても、皆、何時もと同じ様に、仕事をしている。疑問に思いながらも、村外れまで来る。村外れには、色付き始めた木の実が、沢山あった。
「山の色の変化は、秋だからだ。寒くなってくると、この国では、山々の色が変わってくるんだ。それが、季節。もう少ししたら、山々は、黄色や紅になると聞いた」
ルヤンは、二人に説明する。
「それって、何だか奇妙な事だな。山々の色が変わるって」
薪を拾いながら、ヤンブは、赤茶色になっている藪と、色付いている、木の葉や実を見た。
「確かに、私達の国からしてみれば、ここや唐は、変わっていて、目新しく珍しい事ばかり。でも、唐より西、西域の西には、白い肌に金の髪の民がいる。国は色々とあって、その国々で其々違っているんだと思う。それに、国によっては、崇める神も信じる神も違うと、聞いたことがある」
そう言い、ルヤンは御山を見上げた。青く澄んだ空へと向って、聳え立つ御山も少しずつ色を変えていた。
「私達は、自分達の事だけしか、知らなかったという事か」
溜息交じりに、ヤンブは言い、薪を拾っていく。
「僕は、面白いと思うよ」
ラクシュは、言って、茂みの奥にある、紫色の木の実を見た。
「あれは、食べられるのかなぁ?」
と、紫色の房生りの木の実に、手をのばした。その時だった。
「それは、ダメー」
ルヤン達の後で、女の声がした。その声に、驚いて、ラクシュは、ひっくり返った。そこには、ハグミとイツキ、そして二人より、幾つか年下のミサトが、立っていた。
「あの実には、毒でもあるのですか?」
ヤンブが、問う。イツキは、ルヤンと目が合うと、微笑んで会釈する。ルヤンも、照れ臭そうに笑って、頭を下げる。ハグミは、そんな二人を見て、満面の笑みを浮かべた。
「いいや、毒じゃない。すっーごぉくぅ、酸っぱいんじゃ。食べれんことはないんじゃけど、そりゃあもう、舌が麻痺する程、酸っぱいんじゃよ」
と、ハグミは、酸っぱい物を食べた時の顔をして言った。
「だから、染物等に使うんじゃ。この実を使うと、綺麗な紫色が出るんだ」
と、ミサトは言い、その木の実を房ごと捥いで、籠に入れた。
「そんなに、酸っぱいのかぁ? なら、一つ試しに、食べてみよう」
「ちょっと、止めなよ」
ハグミ達の制止を聞かず、ラクシュは、その実を口に入れた。
「あー」
すると、見る見る、ラクシュの顔色が変わってきて、余りの酸っぱさに、真っ赤な顔になり、汗と涙が滲んでいた。
「すっぅぱぁー」
ぶっと、実を吐き出し、ラクシュは、半泣きで口をパクパクさせていた。
「だから、言ったじゃない。なのに、食べるからよ、もう」
ミサトは、キツイ口調で言い、
「その実、一粒でも結構な、色が出るのに、もったいないねぇ。それより早く、口と顔を洗ってきなさいよ」
と、続けた。ミサトに言われ、ラクシュは、近くに流れていた小川に行き、水面に映った、自分の顔を見て驚いた。口や口の周りが、まるで血を滴らせているみたいに、赤紫に染まっていたのだ。慌てて、小川の水で、口を漱ぐ。口の中も、赤紫に染まっていて、口を漱いだ水は、赤紫だった。何度も口を漱ぎ、顔を洗う。なんとか、色は落ちたものの、口の中には、まだ、酸っぱい味が残っていた。ラクシュは、困った顔をして、戻ってきた。それを見て、ミサトは、ケラケラと笑う。
「そんなに笑うと、失礼でしょう? その実はね、染物だけでなく、薬としても使ったりするの。気付薬とかにね」
イツキは言って、クスッと笑った。
「見た目は、すっごく美味しそうだったのに」
ふぅと、大きな溜息を吐く。
「もう少ししたら、山々や森に、色々な木の実が、食べ頃になるから、その時には、美味しい木の実を、教えてあげるさ」
笑いすぎて、涙目になったミサトが言う。ミサトとラクシュは、同い年なのに、ミサトの口調は、何処となく、姉さん女房みたいだった。
山々が色付くにつれて、村人達は、其々、山へ入ったり、家の手入れをする。田畑の作業をするよりも、そちらの方に、村人達は、力を注いでいた。
開拓作業も一段落して、今は、そこに新しい水路を引きながら、新しい田畑には、肥しを入れては耕していた。
「春には、ここに稲を。あちらには、桃の苗や梅の苗を、植えていけばいい。そうすれば、山歩きをしなくても、桃の実などが、村で採れるようになる」
汗を拭き拭き、ムラ長は言った。
「そうだあ。そうしたら、村はまた豊かになる。都に納めるだけじゃあ、駄目だ。ここが、霊山の麓だからといっても、上の役人共は、煩いからな」
ウサラは、溜息交じりに言う。
「そんなこと、都で暮らしていれば、考えなくて済むんだよ」
畦に腰を下ろし、コウヤは嫌味たらしく言って、笑った。
「ああ、そうかい? なら、都へ行けばいいじゃないか? 丁度、都へと納める品を運ぶ船が、出る頃じゃないのか?」
ムラ長は、負けずと言い返した。すると、
「それじゃあ、一緒に行かせてもらうさ。今、都じゃあ、何かと人で不足らしいからなぁ」
立ち上がり鍬を置き、コウヤは言う。
「じゃあ、好きにしな。せめて、納める品に付ける札でも、書いとくれよ。俺らは、お前さんみたいに、字は上手く書けんからなぁ」
ウサラが、大きな声を張って言うと、コウヤは、鼻で笑い、
「分かりましたー」
と、答え、その場を立ち去った。
コウヤの姿が、見えなくなって、
「全く、学問が出来るとかで、田畑もまともに耕せられないのに、如何して、あんなに態度がデカクて、しかも性格が悪いのかしら?」
一緒に耕していた、ウサラの妻が言った。
「都には、カヤト達と一緒に行っていたのに。村へ戻って来ているって事は、都では、駄目だったんじゃないの? カヤトは、海を越えて唐まで、行って、色々と学んできて、そして、村の為にと戻って来たのだけど、コウヤはどうなの?」
もう一人の女が、言った。
「さあね。唐には、身体を壊して行けなかったらしいがな。で、それで、村に帰ってきたんだと」
と、ウサラ。
「それで、さらに捻くれてしまったって訳か。一緒に行った、サタキは、都で仏様に仕える僧になって、今、都で国の安泰を祈りながら、大仏様を建立しているんだろ?」
ムラ長は、溜息を吐き言い、天を仰いだ。
山々は、紅黄色に色付いて、空は高く雲一つ無い秋晴れ。吹く風は、肌寒くなっていて、仄かに枯草の匂いがしていた。
「神様仏様は、有り難いモノだろうけれど、私には、よく解らないさ」
言って、女は、御山を見上げた。
「その様なモノに、命を賭けて海を渡るなんて」
と、呟く。
「まあ、それぞれ。ルヤン達には、彼等にしか解らない事が、あるんだろう。それは、カヤトを始めとし、唐を目指した者達もだ。イツキが言うには、目には視えない力があって、自分達はその中で、生きているんだと、さ。それが、神仏だとか。ワシには、御山と磐座にしか見えないものにも、視える者からすれば、きちんと、神々が宿っているんだろうなぁ」
ムラ長は、御山を見上げて呟いた。
「でも、その力のお蔭で、この辺りは、恵み豊かなんだ。で、今年も大豊作だったのさ」
と言うと、皆で御山を仰いだ。
村に吹く風向きが変わると、山々は色鮮やかに、黄色や紅に染まっていった。
「それじゃあ、都へと納め品を運ぶ船が出る、塩の村まで運んでくるよ」
舟に積んだ荷物を確認し、ヤシオはムラ長に言った。
「ああ、宜しくたのむぞ、ヤシオ。それにしても、コウヤ、マジで都に行くつもりなのか?」
ムラ長は、呆れた顔をして、ちゃっかり舟に乗っているコウヤを見た。
「ああ。都に言って、役人になってやるんだ」
と、相変わらずエラそうに答える。その場にいた村人達は、互いに顔を見合わせて、苦笑いを浮かべて、溜息を吐く。
「じゃあ、出すよ」
若い漕ぎ手が、言って、舟は桟橋から離れていく。川を下っていく舟を見つめ、長老は溜息を吐き、
「やれやれ。本当は、都で務まらなかったから、村へと戻されたんじゃろうに。それなのに、また行くとはな。村での仕事も、ろくにしないし、出来ないのにな」
と、呟いた。
「まぁ。本人の問題ですよ。都では、大仏建立で、人手不足だといいます。都近くの村からは、多くの村人を動員しているそうです。都である仕事と言えば、その力仕事でしょう」
カヤトは、淡々と言った。
鳴いていた秋の虫達の声も、いつの間にか聞えなくなると、川の水が冷たくなり、魚の姿も、殆ど見えなくなった。川で漁をすることもなくなり、手のあいた漁師達は、開拓を手伝ったり、川岸や川原に生えている、葦や草木を刈り、それを村へと運んで干していた。それらは、冬場の燃料等に使われる。
ルヤン達は、黄色や紅に色付いた、木の葉を手にして、珍しそうに見つめては、青く澄んだ空と山々のコントラストを、見つめる。
「ここは、美しい国なんだなぁ」
と、ジュヌが呟いて、山々を見つめる。
水面には、青空と色鮮やかな山々が映っていて、何処からか、色付いた木の葉が流れてきていた。
「ああ、そうだな」
ルヤン達は、そう呟き、なんともいえない溜息を何度も吐いていた。
色付いていた山々が、その色を褪せさせていく頃になると、強く冷たい風が、川を下って、村の中を吹き抜けてゆく。その風は、木々を揺らして、色褪せてしまった木の葉を散らせていく。
ルヤン達は、その風の冷たさに、驚き戸惑ってしまった。南の海で、生まれ育った彼等にとって、生まれて始めての冬が、訪れようとしていた。
第四章 望郷
村を吹き抜けてゆく風が、すっかりと冷たくなる。その風は、色あせた木々の葉を散らせ、枯葉を空へと舞い上げていった。風は、木々を揺らし、家を揺らして、吹いてゆく。
「あんなにも、綺麗な色になっていた山々の木や、村の木が、枯れてしまっているぞ。コレは、どういう事なんだ?」
夏の終わりに、山から、大きな木を数本、切り出しておいたもので、新しい荷運びの舟を造る。その手伝いをしていた、ヤシオは、川原に生えている木が、葉を全て落としている様を見て、ヤシオに聞いた。
「もう時期、冬だからな。冬になって、寒くなると、木は葉を落とすんだ。中には、年中、緑の葉を茂らせている木もあるけど。今は、枯木に見えても、春になれば、また芽吹いて葉を茂らせるんだ」
と、ヤシオ。
「それって、木が生まれ変わるって、ことかい?」
その答えに驚いて、近くにある木を見た。
「さぁ。そういうもの、なのかな? まあ、春になれば、解るさ。でも、木が葉を落とすって事が、そんなに珍しいのか?」
逆に、ヤシオが問う。
「俺の国じゃあ、木々は、ずっと緑。色の変わる木なんて、殆ど無いし。葉が落ちるってことも、余り無いな。やっぱり、暖かいからかも。ずっと暖かいから、年中、米も作物も収穫が、出来るんだ」
ネジャは、耕された田畑を見る。
「そりゃあ、いいな。年中、収穫出来るのなら、困ったりしないだろう?」
「その点は、な。だけど、争いは多いな」
ふと、寂しげに言った。
「この辺りは、争いは無いが、都より北の方では、よく戦が起こるらしい。ここは、平穏だからなぁ」
と、舟職人。
「だから、帝は、仏に国の安泰を祈っているんだろう」
ヤシオが言う。
「同じだ。俺の国の王も、その為に、多くの同士を、仏の聖地へと遣わした。……でも、俺達は辿り着けなかった」
ふぅと、溜息を吐く。
「ここにいても、祈る事は出来るじゃろう。気落ちしているばかりだと、その想いも祈りも届かぬぞ」
と、年配の職人が言う。
「ああ。解って、います」
答えたものの、小さな溜息が零れてしまった。ヤシオ達が作業している川原に、上の方から、冷たい木枯らしが吹き抜けていった。
吐く息が白くなり、朝に霜が降り始めると、村は静かになる。
「寒いっていうのは、痛い様な感じだな。それに、息を吐くと口から、白い物が見えるのが、不思議だ」
と、ヤンブ。
「朝なんか、水がギヤマンみたいになっていたよ。触ると、痛くてヒリヒリしちゃったよ」
ラクシュが言う。
「それは、氷っていうものだ。唐で始めて見た時は、驚いたよ。寒いと水は、ギヤマンみたいになるんだ」
ルヤンが言い、笑う。
「よく、この国の人間は、この寒さに耐えられるよな。季節というものは、私達の国には、無いものだから、そういう事は、信じられないな」
ヤンブは、上着を被る。
「それでも、ここは、それ程寒くは、ないそうだ。この川のずっと北に行けば、もっと寒い土地らしい」
ネジャは言い、囲炉裏に掛けてある鍋に、水を足した。時折り、家を揺らす程の風が吹き、何処からか、冷たい隙間風が入って来ていた。
「今夜は、冷えるな」
隙間風が入って来ている所に、壁土を塗りながら、ジュヌが言った。
「もしかしたら、雪が降るかもしれない」
と、ルヤン。
「なんだい、それ?」
「空から舞い散る、白くて冷たいものさ。降れば分かるさ」
ルヤンは答えた。
「なんにしても、早く冬という季節が、終って、暖かい季節になってくれるといいな」
ネジャは言い、沸いている湯を器に注ぎ、その言葉に頷き、白湯を啜った。
風は、一晩中、村に吹き付けて、家を揺らしていた。ルヤン達は、身を寄せ合う様にして、寒さを凌いだ。
「うわーっ。なんだ、これー?」
ラクシュの驚いた声が、響く。その声に驚いた、ヤンブは起き上がり、家の外へと出て、ヤンブは、更に驚き目を見開いた。
「なんだよ、朝っぱらから」
ネジャが、目を擦りながら、外を見て、眩しかったのか、目を閉じて、恐る恐る目を開いた。
「し、白い」
と、呟きを零したのは、ジュヌ。
村は、一面の銀世界だった。村だけでなく、御山も山々も原っぱも、川原も土手も、全てが、白い雪に覆われていた。北の空は、暗く重たい雲に覆われていて、風が吹く度に、雪花が散っていた。
「痛くて堪らない程、寒いけれど、なんて綺麗なんだ」
ヤンブは、新雪の上に足を踏み出した。
「なんだか、砂浜を歩いた感触と、似ている」
一面の雪の上を、恐る恐る歩いてみる。
「冷たいのか、痛いのか、それとも、熱いのか、不思議な感覚だなぁ」
雪の上を歩きながら、残る足跡を見ながら、ラクシュは言った。
冷たく澄んだ空気には、雪の香が漂い、雪化粧した御山は、一層、神秘的に見えていた。降り積もった雪は、足首の辺りまで積もっていて、村人達は、屋根に積もった雪を箒などで、払い落としていた。
寒さは苦手だけど、始めての雪が、珍しくて、ルヤン達は、村の中を歩いていた。田畑と畦道、水路との境が分からない一面の雪。雲っている空からは、雪が舞い落ちている。
「雪とは、雨の様なものなのか?」
ヤンブが、問う。
「雨とは違うと思うが。とても寒い日に雨が降ると、雪となるらしい」
暫く考えて、ルヤンは答えた。
「ふーん。触っていると、手が赤くなって、痛いな」
そう言いながらも、雪を手に取り、握ったりして、珍しそうに見つめる。
「薬草園が心配だ。薬草園に、行ってくるよ」
言い、ルヤンは、足元に気を付けながら、畦道を歩いていく。まだ、誰も足を踏み入れていない雪に、くっきりと足跡が残っていくのを、ラクシュは、面白そうに見つめていた。
村の高台にある薬草園では、カヤトとイツキが、積もった雪を取り除いていた。カヤトは、こちらへと来る、ルヤンに気付いて、手を止め、
「やあ、ルヤン」
と、声を掛けた。ルヤンは、その声に、手を振る。
「薬草園は、大丈夫なのかい?」
ルヤンは、まだ雪に埋もれている薬草園を見た。
「大丈夫。藁を被せていたから」
と、雪を払って、藁を見せる。その藁を捲ると、その下には、薬草が植えられている。カヤトとイツキは、雪を取り除き、藁に付いている雪を、丁寧に払い落とすと、また、薬草の株の上に被せた。
「地面から、一段下げて深く掘り、薬草を植える。その両側を高くして、溝の様にする。そこに、藁を渡すように掛けておくと、寒さ、霜や雪から、護る事が出来るの。思ったより、多くの雪が降ったから、心配していたのだけど、大丈夫みたい」
言い、イツキは、畝を直し、藁を被せた。
「こうして、見ていると、白くて綺麗だけど、実は大変なんだな」
ヤンブが、来て言う。
「まあな。でも、ここはまだ良いさ。この川の上の土地は、冬は雪に閉ざされる。ここに、これだけ降り積もっている位だから、その土地は、もっと降り積もっているだろうな」
藁を整え終え、カヤトは、ふぅと息を吐いた。その息は白く、カヤトは、額の汗を拭った。
「驚かれたでしょう? でも、暫くすれば、雪は溶けてしまう。でも、また、降り積もって、溶けて……それを、繰り返して、やがて、春が来るの」
と、イツキ。
「ああ。そうだったな。それは、唐にいた時も、驚いたよ。なにせ、一晩で、辺り全てが、真っ白になったからな」
ルヤンが頷く。
「でも、寒いのは、どうも駄目だな」
ヤンブは、白い息を見て、苦手だよと、呟いた。
冬の村は、静かだった。雪は、積もっては溶ける繰り返し。雪の無い、天気の良い日には、田畑に出て、肥しを入れて耕していた。ルヤン達は、毎日に山に入っては、薪を集めていた。とにかく、寒いのは耐えられなかった。そして、毎晩、囲炉裏を囲んでは、話し込んでいた。
「共に旅立った、他の船の者達は、如何なっているだろうか。生きて聖地に、辿り着いているのだろうか。もう、国に帰っているのだろうか」
口に出るのは、その事ばかり。ヤンブは、囲炉裏の火を見つめて、呟く。
「その事は、良い方に考えよう。そうでないと、落ち込むだけさ」
言う、ネジャも、溜息を吐いていた。
「漁をする舟や、荷を運ぶ舟が造れるんだし、山があって、木も沢山あるのに、如何して、船を造るのが、無理なの?」
ラクシュが、問う。
「川で漁をする舟や、海でも沖まで行く位の舟なら、割と簡単に造れるさ。でも、大海原を渡る船となると、時間も人手も掛かる。それに、その様な船は、海辺でないと造れない」
答え、ネジャは、また溜息を吐いた。
「塩の村の人に、頼んでみたら?」
と、ラクシュ。
「それは、無理な願いだな。この村は、異国の我等を受け入れてくれ、色々と良くしてくれる。それだけで、充分。それ以上、望む事は、贅沢な事だし。何時までも、ここの人々を、あてには出来ないだろう。それに、塩の村辺りには、山はあるが、船に使えそうな木々は、少ないそうだし。この辺りの山から、木を切って運ぶのも、大変だ。それに、充分乾かしてからでないと、加工出来ない。私達が、乗っていた舟を造るのにさえ、一年は掛かったのだからな。木を切り出し、運び、乾かして加工する。そうなると、さらに、歳月は掛かる。それを、村人や、塩の村の者に、頼むのは、無理があると思う」
ジュヌが、力なく答える。
「ルヤンは、どうなんだ? 聖地へ行くことも、帰ることも、ままならない。このまま、ここで、骨を埋めるのか、それとも、古代のカヌーみたいな舟を造り、唐へ渡るか、それで、帰るか、試してみるか?」
ヤンブは、苛立った口調で言う。
「それは、一つの手段かもしれないが、何よりも、正しい航路が判らない。我等の知る海と、この海では、塩の流れも違う。それこそ、無謀な命賭けだ。……私は、私の考えは、ここに、骨を埋めても良いと思う。聖地へ行くという、使命を忘れたり、放棄するワケでは、無いが。御山の光を見つけ、ここへと辿り着いた事に、何かの意味があるのではと、感じている」
揺れる炎を見つめ、ルヤンは、淡々と言うと、幾重にも布に包まれた、小さな壷を、そっと、掌で包んだ。
「それは、イツキの事があるからか?」
ヤンブが、何時もとは違う、きつい口調で問う。それに対し、ルヤンは瞳を閉じ、少し間を置き、
「それだけじゃないさ」
と言い、再び、瞳を閉じて口を噤んだ。
唐に留学する者、仏の聖地を目指す者は、皆、命懸け。大切な者を故郷に残し、目指す者は、旅立つ。イツキの存在が在るから、この地に留まりたいのか? それとも、自分自身が、その様な感情に流されているから、強気の旅立ちをしないのか。それとも、それ自体が、神仏の意思なのか。ルヤンは、考えていた。ヤンブの苛立ちは、充分に、理解は出来るけれど。
ヤンブは、それに対して、吐き棄てる様な溜息を吐いた。
「僕は、無理して聖地へ向うよりも、ここに残る方が良いな。村の人達は、良くしてくれる。お師匠様の遺言は、大切かもしれないけれど……」
複雑な顔をして、ラクシュは言った。仏の聖地を目指すという使命、恩師の遺言の意味の重さは、充分に理解している。だけども、それが、全てでは無い気も、すると、ラクシュは、呟いた。
「ヤンブ、どうすることも出来ないんだ。ラクシュの言う通り、無理をしなくても良い。村人達の力を借りないといけない以上、やはり、強気には頼めない。彼等には、彼等の生活がある。田畑を増やすための開拓に忙しいんだし。それに、もし、機会があるなら、何かの方法で、聖地に行けるのであれば、その時が来る筈。あるいは、ここに骨を埋めるのも、それらは、全て神仏の意思かもしれない」
なだめるように、ジュヌが言うが、ジュヌもまた、拳を握りしめていた。
始めて体感する、冬の寒さが、彼等の叶わぬ使命の、苛立ちを煽っていた。今は、どうにもならない事だと、充分理解していても、寒さに曝されると、如何しても、暖かな故郷を思い出し、それと同時に、聖地への思いが揺らめいてしまう。
「お前達の気持ちも、果たさなければならない使命も、充分、解っている。如何する事も出来ない、事もな。それに、イツキの事が、あると、ヤンブは言ったが、それを否定するつもりは無い。彼女は、大切な存在になっている事は、事実なのだし。だからと言って、その事で、聖地に行くことと、師匠の遺言を果たす事は、また別の事だと思う。ただ―」ルヤンは、そこで言い止まり、息を吐いて、「きっと、今は、冬に、この寒さに、気が滅入っているから、心や身体が不安定になっているのかもしれない。だから、余計に、そう思ってしまうんだろう。春になって、また暖かくなれば、過し易くなるから、気分も変わるさ。だから、今暫くの辛抱だ。冬が終れば、何かいい案が、浮かんでくるさ」
ルヤンは言い、囲炉裏に薪を焼べる。薪は音を立てて、小さな火の粉を幾つも散らしていた。それを見て、ヤンブは、力の無い溜息を吐いて、
「そうだと、いいな」
と、呟いた。皆、小さな火の粉を散らしている、赤くなっていく薪を見つめていた。
村に吹く風向きが変わると、澄んでいた空が良く晴れているのに、花曇の様に霞む日が続く。すると、冷たく固まっていた田畑の土も和らいで、川の水が、日に日に増え始めていく。
それを待っていたかのように、村人達は、農具を手にして、田畑へと繰り出して行き、さっそく耕し始める。
「もうすぐ春だから、今のうちに、しっかりと耕しておくんだ」
鍬を担いで、ウサラは意気込んで、ヤンブに言った。
「春? そういえば、少し寒さが和らいだな。それじゃあ、もう、雪が降る事は、ないんだな?」
「まぁ、たまに舞う事はあるけどな。霜も、降ったりもするけど。これからは、少しずつ暖かくなって、過し易くなるさ。ほら、冬の間は、固くてなかなか、耕せなかった土も、こんなに、軟らかくなっているだろう? これが、春の始まりってところだ」
上機嫌で、ウサラは、土を耕していく。ウサラは、冬に四人目の子供が産まれたばかりだった。耕した土の中からは、驚いたミミズや、小さな虫達が出て、蠢いていた。それを狙っていたのか、耕したばかりの田畑には、沢山の鳥が、群がっていた。ウサラの言葉と、その様子を見て、
「それじゃあ、もう寒くはなくなるんだな」
と、ヤンブは、ホッとした顔をした。
鍬を下ろすと、冬は硬くて耕すのに、苦労した土も、ウサラが言う様に、確かに軟らかくなっていた。それが、何だか少し、嬉しく感じた。
川に沿って、北から吹いていた風が、南からの強い風になり、その風が強く吹きつけ、嵐を呼んだ。強い風と雨が、村を包む。家は揺れ、雨が叩きつける。
「この嵐が、過ぎれば、もう春だ」
長老は言い、激しい風雨の空を見上げた。
「この冬は、少し多い雪だったが、なんとか春を迎えられたな。何事も無く、春を迎えれるという事は、ありがたい事じゃよ」
呟いて、磐座に一礼した。
その嵐が去ると、空に雲雀の声が響き渡り、霞んだ青空に、陽射しが輝きだす。色褪せた木々の小さく硬かった芽も、軟らかく膨らみ始めると、村や川原、土手のあちらこちらに、春の草が顔を出した。それを、待ち望んでいた村人達は、籠を手に、春の草を摘みに出掛けた。
「ほら、見て。きちんと、芽を出しているでしょう。冬の間は、枯木の様でもね。春になると、ちゃんと、木は眠りから覚めるの。これが、葉になり枝になり、花を咲かせて実になるの。そして、秋には、葉が色付くの。そして、散って、冬には、木は眠りに就くの」
と、イツキは、小さな葉芽を開かせている木を、指差した。
「本当だ。枯れているように見えていたけど、ちゃんと、生きていたんだな。なんだか、生き返るというか、生まれ変わるというか、不思議だなぁ、この国の木々は」
ジュヌは、その小さな芽を見つめる。ルヤンも、それを見つめて頷く。
「もう少し、暖かくなれば、木々は花を咲かせて、村や川原土手に、色々な花が咲き乱れて、賑やかになります」
村外れを見て、イツキは言い、
「あそこには、梅の花が咲き始めています。夏には、実が採れますよ」
と、一角だけ、白く淡い色をしている場所を指した。
「花々が沢山咲けば、美しいですよね」
ジュヌは、頷く。
「ええ。でも、花が咲けば、また忙しくなります」
イツキは言い、川の方を見る。
川原や土手で、村人達が、春の野草を摘んでいるのが見える。川面には、陽光が煌いていて、黄色や白色の菜の花が、風に揺れていた。空は、晴れ渡っているのに、霞んでいて、あちらこちらで、雲雀の声が響いていて、御山の頂辺りを、鳶が舞っていた。
村や山々に、花が咲き乱れる。村に幾つかある桜が、満開となると村人達は、その桜の下で、ささやかな宴を行い、春の到来をお互いに喜んだ。豊作祈念とは、また違った思いの、宴だった。
「この花が、散る頃になれば、田起しだ。稲だけでなく、色々な作物を植えていくから、忙しくなるよ」
カヤトは、満開の桜を見上げる。花は、風が吹く度に、少しずつ花弁を舞わせていた。
「四季、季節があるというのは、良い事だな。雪も雪で白くて綺麗だが、あんなに寒いのは、辛いな。だけど、その後に、こんなにも、美しい季節が来るとは」
柔らかな草の上に、大の字に寝転がり、ネジャは言う。
「私達は、その中で生かされている。其々の国には、其々の美しさが在るのでしょうね」
イツキは言い、微笑み、ルヤンを見た。
「そうだな。私の国には、ここに在る様な季節は無いけれど、広大で深い森が広がり、そこは緑の世界で、色とりどりの草木が散らばっていて、様々な生命が満ち溢れているんだ」
ルヤンは言い、イツキに微笑み返した。
「まぁ。それは、また鮮やかな国ですね」
「ああ。森の奥深くに住まう鳥は、極彩色の羽を持っていて、とても美しい歌声で囀るのです。それはもう、神々の歌声とも例えられる程です」
「それは、一度、見てみたいし、その歌声を聴いてみたいものですね」
「叶うなら、そうしたい。私の国の、美しさも、見てもらいたい」
お互い、微笑みながら、語らう、イツキとルヤン。
その中睦まじそうな様子を、見ていた周りの人々は、二人を茶化して、囃し立てた。茶化された、イツキとルヤンは、紅くなり、二人して俯いてしまった。そこに、風が吹いて、桜の花弁を無数に舞い散らせていった。
桜の花が散り終えて、葉桜となると、あちらこちらの木々に、小さな実がつきはじめる。山々は、新緑に輝いて、心地良い風が、村に吹く。川の水量は、更に増してゆき、小さな魚達が姿を見せ始めた。
ルヤン達は、それに感銘し、そして、村人達が、心を躍らせながら、春の到来を喜んでいる理由が、解る気がした。そして、春の彩りを確認すると、村人達は、田畑へと出て、耕していた畑に、作物の種を蒔いていく。新たに開墾し作られた田畑には、念入りに肥しが入れられては、また耕されていた。種蒔の始まった村には、花と新緑と土の匂いが漂っていた。
今年の、豊作祈念祭の神事には、ルヤン達も一緒に、御山の磐座へと行く事になった。春になったとはいえ、聖地に向う事が出来ずに、気落ちしている、ヤンブ達にも、あの景色を見せてあげたいと、ルヤンが言ったからだ。
イツキの神事を見つめながら、ここへ来て一年が過ぎようとしている事を、思い、ルヤンは、新たな思いを胸に抱いた。
御山から見渡せれる景色に、ヤンブ達は、しきりに驚き、見つめていた。目の前には、空。眼下には、他の山々と大地と川の流れ。点在する集落が見えていた。そして、霞んで見える海と、浮かぶ島々に対岸。二度、その景色を見ている、ルヤンも、じっと、その景色を見つめている。
「他の山々や大地を、見下ろせれるなんて、凄いな」
溜息混じりに、ヤンブが言った。ルヤン達は、暫くの間、黙ったまま、その景色を見ていた。
イツキは、そんな、ルヤンを心配そうに、磐座の処から、見つめる。
「戻る事も、往く事も出来なくても、ここからなら、この空の彼方に、聖地と国を想うことは、出来るんだ」
ルヤンは呟く。その言葉に、四人は頷いて、じっと、遥か南の空を見つめた。
新緑の柔らかな木々の葉、周りには、山野草の花が咲いていて、良い香を放っている。吹く風には、木々の匂いと花の香が混ざり合い、独特の匂となって、漂っていた。
「そうだな。大地を見下ろせ、彼方までも見渡せれるし、空にも近い。ここが、神々が降立つ場所だというのは、そのような事からなのか」
このところ、疲れた顔をしかめたまま、黙り込んでいた、ヤンブだったが、景色を見渡し、呟くと、微かに笑って、大きく伸びをした。
それを見て、ルヤンも、カヤト達も、ホッとした。
豊作祈念祭が終ると、晴れている日は少なくなり、曇りで湿気の多い生暖かい日が続いて、梅雨に入る。小さな葉を伸ばした、田畑に雨が降ると、村には、蛙の声が溢れていった。
第五章 別離
村は、毎年変わらず、同じ事の繰り返しで過ぎてゆく。雨が、しとしとと降る中でも、新しい田畑の開拓は続けられていた。新たに耕された所から、種が蒔かれてゆく。何時もと変わらない、日々。だけど、この年の梅雨は、何時もの年よりも、気温が低く、降る雨も冷たい梅雨だった。その梅雨は長引き、漸く梅雨が明けた頃、川の上流の方にある村で、疫病が流行し、多くの人々が、倒れて命を落としているという話が、御山の麓の村にも、伝わってきた。また、都でも、流行病が広まり、多くの人が死んでいっていると、いう話が、人々を不安に陥れていた。
そして、ついに、御山の麓の村でも、疫病が発生してしまったのだ。
薬師でもある、カヤトとルヤンに、村人達は助けを求めた。朝から夜遅くまで、村人達は、薬草園へと来る。少しでも、病を食い止めようとし、カヤトとルヤン、それに、薬師の二人に師事する者達は、病に倒れた村人の家を廻っては、薬草を煎じて飲ましていた。
そして、まだ病を、患ってはいない者には、滋養のあるものを取らせて、予防的な薬草を渡して廻る。日夜、そうして廻っていても、それでも、命を落としてしまう者もいた。死者の数は、他の村に比べると、少なかったけれど、カヤトは、無力さと無念さに、打ちのめされた。
「幾ら、薬草や医術の知識があっても、救えない命がある以上、自分の無力さを感じてしまう」
つい、弱音を吐いてしまう。
「それは、その人の天命でしょう。兄様が、悪いわけでも、ルヤン様が悪いわけでも、ありません。兄様達のお蔭で、回復した人も、いますし。それに、今は、他の村などでも、疫病で人々が苦しんでいます。その村からも、兄様の、薬草を求めて来ている以上、力になって差し上げないと」
気落ちしている、カヤト達に、イツキが声を掛ける。
「ああ、そうだな。その為の、唐留学であり、薬師だよな」
溜息一つ吐き、カヤトは、言う。
「私は、御山の磐座に赴き、神々に、この流行病が鎮まる様に、お願いして参ります」
イツキは、カヤト達を励ます様に言った。
「私には、病を治す知識も術もありません。ただ、神々に祈り縋るだけの事しか出来ませんが、それで、病が鎮まる事を、信じて祈ります」
村の磐座を、そこから見える、御山を見つめて、イツキは手を合わせた。
「頼むよ。私達は、薬草を出来るだけ多くの病に苦しむ者に、届けれるように、ありったけの薬草を用立てるよ」
カヤトは言い、弟子に、山等へ行き、足りなくなる前に、必要な薬草を揃えるように、命じた。
その様な中、カヤト達を手伝って、近隣の集落に薬草を届けて廻っていた、ネジャとラクシュが、病に倒れてしまった。
「すまない、俺が不甲斐無いばかりに。逆に迷惑を掛ける事に。……薬を届けて廻る事が、せめてもの、恩返しだと思っていたが、これでは、それすらも、出来ないな」
病の床で、ネジャは、力なく、カヤト達に、謝る。
「そう、言うな。流行病は、誰だって襲われるものだ。それに、周辺の村々は、ネジャが、薬草を届けてくれた、お蔭で、随分と良くなったんだ」
ウサラが、励ます。
「そうだ、ウサラの言う通りだ。ネジャが、悪い訳じゃないさ。ネジャは、薬草を届けて廻ってくれたじゃないか。昼夜を問わず、走り回ってくれて、さ」
苦しそうに詫び続けるネジャを、ヤシオが、宥める。
「……だけど、迷惑、かけたし、俺の分まで、薬草を使っちゃうと……」
何度も、うわ言の様に、詫びの言葉を呟く、ネジャ。
ラクシュの方は、すぐに回復したけれど、ネジャは、日に日に衰弱していた。病の始めは、粥などを食べてはいたけれど、今は、水ですら飲めない程、状態は悪かった。その病の床で、ネジャは、国の言葉で、国に残してきた家族の名を、呼び続けていた。名を呼んでは、心配そうに、うわ言を繰り返す。
そのうわ言も、徐々に小さくなっていく。
「ネジャ、しっかりしろ。生きて仏の聖地に行き、そして、生きて帰るんじゃあ、なかったのか」
と、手を握り、ヤンブが言う。
「……死んだら、俺を、灰にして……海に、流してくれ。……そうしたら、帰れる……帰れるんだ……緑のジャングルと青い海に。待ってて、くれ、帰るから――」
ネジャは呟く。そして、眼を閉じて、懐かしそうに笑うと、そのまま、息を引き取った。
「ネジャ」
手を握っていた、ヤンブは、何度も名を呼び、身体を揺すったが、ネジャが再び眼を開ける事も、呼びかけに応える事もなかった。
ルヤン達の家からは、他の家同様、名を呼び啜り泣く声が漏れていた。イツキは、その様子に、胸の痛みを覚えながらも、村の磐座に、疫病が鎮まる事を祈り、御山へと向う準備を始めた。
ネジャの死は、ルヤン達に大きなショックを与えた。生まれた国を旅立ってから、大きな嵐も、長い漂流も、そして、この村での生活も共にしてきた、仲間を失ってしまった。旅の中で、多くの仲間を失い、辛うじて生き残って、ここへと辿りついた仲間。その仲間も、また、一人を失ってしまった。その事で、ルヤン達は、深い悲しみに打ちのめされてしまっていた。
流行病を鎮める神事を行う為に、御山の磐座へと行くと、そこから見渡せれる景色が、何時もとは違っていた。何処までも澄んでいた空は、霞んでいる。何時もなら、澄み渡った空が広がっているのに、あちらこちらから、荼毘に伏せる煙が立ち昇っていて、その煙で空が霞んでいたのだった。
その煙の多さを見て、イツキは更に胸が痛んでしまう。
イツキに出来る事と云えば、ただひたすら、祈り続ける事だけ。
「御山におわす神々に、申し上げますは、流行病疫病を、打ち払い清め鎮め給え。願わくば、流行病疫病をどうか、鎮め給うことを、恐み恐みお願い申し上げます」
と、祝詞を捧げて、ひたすら、御山の磐座、そして、天を仰いで祈り続けた。また、村人も神殿に集まり、村の磐座と、光を讃える御山を仰ぎ、必死に祈り続けていた。
薬草が効いたのか、それとも、イツキの祈祷が良かったのか、麓の村での、疫病は終息していった。病で寝込んでいた者も、回復して、村人達は、神々とカヤト達に感謝した。
「良かった。ここは、もう大丈夫だな。後は、この辺りの疫病が、全てが、静まるといいな」
村の磐座の前で、長老は、言って頷く。
「はい。では、私達は、他の村や集落に、新しい薬草を届けて廻ります。流行病も、だいぶ鎮まりました。この所、新たな病人は、出ていませんから、近いうちに、鎮まるでしょう」
と、カヤトは、気落ちしている、ルヤンを休ませて、弟子達と共に、薬草を届け、自らも病で苦しむ人々を、診て廻り、その村々で、自分達でも、病の薬草を扱える様にと、必要な薬草を教え、それぞれの処方の仕方を教えた。そのかいあってか、梅雨が明けて、夏の陽射しが降り注ぐ祖霊祭の頃には、流行病も鎮まり、病に伏せっていた人達も回復して、なんとか、田畑に出られる様になっていた。
流行病で多くの村人が、亡くなった事もあってか、この年の祖霊祭は、とても静かで、ひっそりとしていた。何時もなら、家族ごとで、賑わう宴も静かで、その宴も、ただのカタチだけのようなものだった。祖霊、病で亡くなった者の霊も共に迎える、だけど、例年の様な、盛り上がりはなかった。
村人は、身体が回復していても、喪った悲しみは癒えていなかった。ただ、病で命を落とした者を弔うかの様に、夜闇の川には、火を乗せた無数の舟細工が浮かんでいた。
祖霊祭が終ると、人々は悲しみを振り払う様に、朝も早くから、田畑に出ては、病で、寝込んでいて、滞っていた、作業に精をだしていた。生きている自分達が、これからも生き長らえていく為にも、田畑の手入れを怠る訳には、いかなかったから。真夏の太陽は、そんな人々を照りつけ、作物達に命の輝きを振りまいていた。
ネジャの遺言を果たす為に、ネジャの遺体を荼毘に付して、骨にし、その骨を粉にする。それを、祖霊祭が終るのを待ってから、ルヤン達と、ヤシオを始めとした、漁師仲間で、瀬戸内の海の沖へと向かい、そこから、ネジャの遺言である、骨粉を海へと流した。
海は、一つで全てと繋がっている。その海を越えていけば、生まれた国へと還れる。せめて、その魂、その想いだけでもと、ルヤン達は祈りながら、波間に消えて逝く、白い灰を見つめていた。やがて、それは水底へと見えなくなっていった。パシャパシャと、魚達は、陽光煌く海面を飛び跳ねていた。一際大きな、魚が飛び跳ねると、その魚は、何かを目指すように、飛び跳ねながら、何処かへと消えていった。
ネジャの死後、母国の事や聖地の事を話すのは、ルヤン達の中で、禁忌となってしまった。
長く冷たい梅雨と、流行病の事があってか、何時もの年より、実りの少ない秋。そんな時では、山々の鮮やかな彩りも、なんだか悲しく思える秋だった。その秋が過ぎて、ルヤン達にとっては、苦手な二度目の冬が来る。
ネジャの事に触れず、また触れようともせずに、ルヤン達は、村人達と共に、仕事をして、食事をして、語らい、時を過す。悲しみの中にいても、それでも、笑ったりしている、生きているとは、そうであると、感じる日々。それでも、時折り、寒い夜には、堪らない想いになってしまう。そんな中で、少しずつ、ルヤン達の中で変化するものが、あった。
雪の降る季節が過ぎて、麗かな陽射しが、村に降り注ぎ、春が巡ってきた。
冬の間に、ジュヌとハグミは一緒になり、ハグミのお腹には、新しい生命が宿っていた。ネジャの死後、落ち込んで、悲しみに暮れていた、ジュヌを、ハグミは、その明るい性格で、毎日、元気付け励ましていたのだった。そうしているうちに、二人は良い仲になり、村人達は、二人の仲を認めたのだった。ハグミを好いていた男達は、がっかりしたが、こればかりは仕方ないかと、諦めて、新たなる相手を探していた。
村人達は、悲しみを超えて、新しく生まれてくる、小さな生命を祝福しながら、次は、イツキとルヤンだなと、行事が何かある度に、二人を捲し立てていた。それは、イツキとルヤンの仲を、村人が公認したという、証であった。
それは、豊作祈念祭も終わり、稲の種蒔きが始まった頃だった。
都へと来ていた、唐の遣いが、霊山を近くで、一目拝みたいと、塩の村より、川舟に乗って、麓の村へとやって来た。御山に来る者は、巡礼者。誰であれ、何者であろうとも、村人達は、拒む事は、せずに迎え入れる。
唐人という事もあってか、カヤトとルヤンが、応対し、唐語で話して、自分達が唐へ留学していた事などを話したり、最近の唐の様子などを聞きながら、霊山の事などを説明していた。そこで、気があったのか、一緒に唐に来ないかと、誘いを受けた。
唐の使者の話によると、自分達が、唐へ戻り、その後、唐の都より、西域を目指す一団として、旅立つ事となっているので、仏の聖地を目指しているのなら、共に一団に加わらないかという、話だった。
そこへ同席していた、ヤンブは、その話を聞き、仏の聖地への想いが揺らいだ。祖国を発ってから、ここへ辿り着き、そして、待ちわびた、機会。
ルヤンも、心が揺らいだ。この唐人達と共に、唐に渡り、西域を目指す一団に入れば、仏の聖地に行ける。船を造る事もしなくていい。彼等と共に行くのであれば。そうすれば、師匠の遺言も果たせるし、同朋の思いも果たせれる。しかし、この村に骨を埋める覚悟を、自分の中で決めて以来、村の事を任されるようになったし、それに、イツキの事もある。唐へ留学する時も、仏の聖地を目指し旅立った時も、大切な者との別れは、覚悟の上だった。だけど、今は、大切な者との、別れの覚悟は、出来なかった。どんなに、考えても、今の自分は、それを出来ない。矛盾する感情が、ルヤンの中には、あった。だから、悩んだ末に、その話を断った。師匠は、同朋は、自分を非難するかもしれない、だけど。
ヤンブは、そんな、ルヤンに、自分の信じた道を選べば良いと、言い、自分は、彼等と共に、唐へ渡り、共に、仏の聖地を目指したいと、伝えた。
唐人が、誘った瞬間に、ヤンブの心は、決まっていた。ヤンブは、その事を、ルヤン達に話した。
「あの唐人達が、共に西域に向う者を求めている。これは、きっと、神仏の思し召しだ。その機会を与えて下さったんだ。この期を逃したら、もう、仏の聖地を目指す事は、出来ない」
ヤンブは、感情を露にして言う。ルヤンも、ジュヌも、その想いは、よく解っていた。
「それは、ヤンブの選んだ道で、ヤンブ自身が、決めた事。仏の聖地を目指すという使命を忘れた訳では、無いけれど、私はもう、ここへと残る決意をしたんだ」
ルヤンは、寂しげに笑った。ジュヌも、再び、家族を置いてまでは、いけないと言う。家族を置いて、旅立ち、この地で、病になり命を落とした、ネジャの決意を考えると、複雑な気持ちになるが、ここへ辿り着いた事に、神仏の意思がある、それを信じている事もあったから。
「国を出た時の決意、師匠の想いと遺言。今も、それは覚えている。だけど、聖地に向う事が全てだとは、思えなくなってしまった。聖地に行けば、それなりに得るものも、師匠との約束も果たせるだろう。だけど、それだけではないものを、見つけたんだ」
ジュヌも、ルヤンと同じ事を言い、ラクシュも残ると言った。ここへ、残るのは、ルヤンだけかと、思っていた、ヤンブは、ジュヌやラクシュの返答に対し、寂しそうに笑って、そうかと、呟いた。
唐人達と共に、村を出る日。ヤンブは、長老やムラ長に、挨拶を交わして、今までの礼を言った。川の桟橋の所で見送る、ルヤン達の下へと来た。そして、短刀で、後ろで束ねていた髪を切り落とすと、ルヤンに渡した。それを受け取り、何も言わずに、お互い抱締めあった。
「色々と、お世話になりました」
長老やムラ長、見送りに来ていた村人達に、頭を下げて、御山を見上げる。
「聖地に辿り着いたなら、これを聖地の何処かに、埋めて欲しい」
ルヤンは、小さな二つの包を、ヤンブに渡した。ヤンブは、それを受け取ると、丁重に懐へと仕舞って、頷いた。
ヤンブを乗せた舟は、ゆっくりと川を下ってゆく。川の両岸には、黄色や白色の菜の花が咲き乱れていて、そよ風に静かに揺れていた。ヤンブは、村が見えなくなるまで見つめ、ラクシュは、舟が見えなくなるまで、手を振っていた。
村が見えなくなっても、御山だけは、その大きく雄大な姿を見せていて、霞んだ空には、何処からともなく飛んできた、花弁が舞っていた。ヤンブは、それを見て、御山に深く、頭を下げた。
第六章 巡るもの
それから時は流れて、ハグミとジュヌの間には、五人の子供が産まれ育ち、イツキとルヤンの間には、子供が二人産まれた。
都と吉備を往来する者が、都の話をもたらすが、それらは、国の安泰を願う帝の思いとは裏腹の、キナ臭い話ばかりか、流行病の事ばかりだった。
ウサラの宣言により、新たに、ムラ長に就任した、カヤトは、その様な話を聞くたびに、村の将来を考え、より善くする為に、日々、働いていた。そんなカヤトに、村人達は進んで力を貸し、村の発展に力を注いだ。そして、今まで以上に、周辺の村や集落との交流を深めて、結束を固めていった。
月日は、ただ過ぎ去り、季節は巡って往く。都や吉備の話、その関係具合が村へと伝えられるが、そのざわめきとは関係無く、村の時は、ゆっくりと静かに流れていった。
そして……
「――ここへ、辿り着いて、もうどの位の月日が過ぎ去ったのだろうか」
元気に走り回る子供達を見て、ルヤンは、ふと呟いた。村に溶け込み帰化して、今では、村の有力者の一人でもあるが、今でも時折り、生まれ育った国の事や、聖地の事を思い出してしまう。
「そうだな。でも、ここも、私の国になった」
一緒に、はしゃいでいる子供達を見つめ、ジュヌは、頷いた。それを聞いていた、ハグミが、
「やっぱり、生まれた国が、恋しいの?」
と、問う。暫く、子供達を見つめて、
「本音は、そうかもしれない。でも、今、国に帰っても、待つ者は、誰もいない」
満開の桜を見て、ジュヌは答えると、溜息を零した。それに対して、ハグミは、すまなそうな顔をする。と、そこへ、
「お母さん、お父さん、見て」
二人の末っ子の女の子が、タンポポや菜の花を、両手一杯に摘んで持って来た。
「たくさん、あって、キレイね」
と、言ったので、ハグミとジュヌは、クスッと笑い、ハグミは、その花の一つを、末娘の髪に、付けてあげた。それを聞いていた、カヤトが、ルヤンとジュヌに問う。
「本当に良いのか? このまま、この地に、骨を埋める事で。仏の聖地に向う事が、使命だったのだろ?」
と。
「前にも言ったが、ここへと辿り着いた事が、定められた事。本当は、聖地に行き、そこで、師の骨を埋めて、神々と仏に祈願するのだったけれど、それは、この土地でも、出来るかもしれないと、思うようになった。……師の望みは、叶えて差し上げられないけれど。でも、師も同じ事を考えると思う」
と、ルヤンは答えて、御山を見上げた。
「とても、良いお方でしたのね」
「常に人々を導き、神仏に心から祈り、人間の在り方を、考えておられたよ」
ルヤンの話に、イツキは、頷いて、
「このところ、この国中で、戦や疫病など、良く無い事が続いていると、聞きます。帝の祈りである、大仏建立も、その思いも、人々の心に届いては、いないのかもしれません。ここは、とても豊かな土地ですけれど、神仏が人の心に、届かなくなることが、私は、気掛かりでなりません」
と、言い、小さく息を吐いた。
「確かにな。吉備をはじめとした、この辺りは、都との繋がりも深い。それらの事を、考えると、不安はあるな」
カヤトは、腕を組んで考え込む。
「貴方の、御師様みたいな方が、おられたならば、その様な事を解決出来るのかしら」
イツキは、舞い散る桜を見つめる。
「人の世も、人の心も、難しいものだけれど、それでも、人間を含めた、万物は続いていくのだと、何時も口癖だったな」
ルヤンは、懐かしそうに言った。
「ずっと、続くか」
カヤトは、呟いて、御山を見上げる。
「御山は、ずっと在り続けるわ。御山で神々に、ここが、ずっと豊かであると、祈り続けるように、この国が、平穏平安であるようにと、祈れば、それは叶うかしら」
イツキは、御山を見上げて呟いた。それに、つられる様に、ルヤンとジュヌも、御山を見上げた。
春の霞んだ青空へと、芽吹き色の御山が、聳え立っている。風が吹く度に、桜の花弁が、その空へと舞い上がってゆく。
「もし、御山の神々が、許してくれるのであれば、御山に、永遠を祈念する祭壇を、築きたい」
ルヤンは、その美しい情景を見つめ、涙を浮かべて言った。
「永遠か」
カヤトは、呟き、
「それも、良いかもしれないな」
と、頷く。イツキは、じっと、御山を見つめて、何度も独り頷いていた。
「――子供達の、ずっとまた、子供達にまで、その祈りを遺せる様に願いながら、その想いを祈り願いながら、村人皆で、カタチにいたしましょう」
と、御山を見つめ言い、今一度、頷いた。
豊作祈念祭で、御山の磐座に、神々と仏の力を併せ持ち、永遠を願う祭壇を創ると、村人達に伝えた。村人達は、始めは理解を示さなかったが、神仏の力を信じる事で、豊かで平穏な日々が、ずっと続くならばと、少しずつ賛同してくれた。
村人達は、農作業などの合間に、御山へと向かい、祭壇創りを手伝う。石工職人は、御山の中にある岩場で、石を切り出す作業を任され、農作業を手伝うより、そちらに専念する事となった。切り出した石を、漁に出ない日には、漁師が。農作業を交代でしながら、村人達が、岩場から、御山の磐座まで、運んでいた。
祭壇創りに、反対していたり、乗り気ではなかった村人達も、村まで届く、暗い噂を耳にする度に、少しずつ、祭壇を創る意味と、祭壇に込められた願いを理解して、力を貸すようになっていた。
霊山の磐座。神々が、降立つ場所である磐座に、平安と繁栄・この土地が、常しえに恵み豊かで在り続ける事を、願いながら、皆で、石を積み上げていく。より、天空へと近づくかのように。
「これは、随分と変わった祭壇ですね」
完成図と、創られていく祭壇を見て、イツキが言った。その図には、石を四角い段状に積み上げたものが、重なるようになっていて、その四角い段は、全部で四段あって、山を象形しているようにも、見えた。
「これは、神々と仏が交わったモノを、現した祭壇で、仏の主や経典を、納めるものでもあります。それを、築く事によって、祈りをカタチとして、現すのです」
ルヤンが、解説する。
「唐の遥か西方、西域の仏の聖地には、この様な意味を持つ祭壇が、幾つもあり、それらは、仏の骨を納める、仏塔と呼ばれている。飛鳥にも、幾つかあるが、それらとは、比べ物にならないほど、大きく美しい細工がされているらしい。この眼で見たことは、無いが、それらは、どれも、人々の祈りが込められているのだろうな」
カヤトは、言って、頷く。
「なるほどなぁ。そうであるなら、我等の願いが正しければ、きっと叶うのだろうな」
ウサラは、運ばれて来る石を、同じ大きさ形に分けていく。その石は、平たく切られていた。
やがて、大きく平たい一枚岩の磐座の上には、少しずつ、祭壇の形が出来上がってゆく。磐座の中央に、四角い段が、四段積上げられた、小さな山の様な、祭壇が出来上がる。それが出来たのが、祭壇を創り始めて、三度目の春だった。
そこまで、出来上がった祭壇の真中に、二段分程、中の石を取り除いた、小さな縦穴を作る。そして、上から二段目の四面には、小さな窓を造る。
すると、そこへ、丁重に布に包れた物が、運ばれてくる。布を解くと、祭壇の竪穴に、すっぽりと納まる程の、筒型の白色の焼物が、姿を現した。
「あれぇ、これって、金精様だろう? どうしてまた」
と、ウサラが問う。
「ここでは、そういう名で呼ばれている。私の国では、リンガと呼び、神の姿と力を、最も簡略化したカタチを現したモノであり、神の力の結晶とされたりもする。これを、この祭壇に納める事により、神々の力を増す事となり、祭壇を母体として、その二つが共に在る事で、永遠を願う」
ルヤンが、答える。
「なるほどな。なるほど。金精様も、そんなところだよな。子宝や豊穣を願うモノだし。それが、ずっと続けば永遠になるんだろうな」
ウサラは、リンガをしみじみと見て言い、頷いた。
ルヤンは、それにクスッと笑い、懐から、小さな壷を取り出して、皮紙と小さな包二つを、一回り大きな、綺麗な色が塗られた壷に入れると、その壷を布で包み、リンガと呼んでいる、筒型器の中へ入れた。
そして、ルヤン達は、カヤトやウサラ、ヤシオに手伝ってもらいながら、丁重に、祭壇の上部から、縦穴に、リンガを納めると、そこへまた、石を積め積んでいき、蓋をして封印すと、四面に作られた、窓の様な所には、都で僧となった、サタキが彫った、四体の石仏が納められると、祭壇は完成した。
祭壇が完成した事を、村人達は祝い、そして、祈る。豊作祈念祭や収穫祭、祖霊祭も、磐座と祭壇で行う。神仏の力が、その祭壇に宿ったのか、村人の祈りが届いたのか、村は活気に溢れていき、それは、周辺の村々まで広がっていった。
人々は、今日も、御山に向かい、祈り願う。どうか、永遠でありますようにと。
ただ、時は流れてゆく。
年老いた、ルヤンは、子供や孫の手を借りて、御山を登る。御山に登っては、磐座祭壇へと来て、祈りを欠かさない。かつては、一人で、あるいは、夫婦で来ていたが、年老いてからは、一人で行く事が出来ず、子供達の手を借りていた。
今では、イツキの娘が後を継いで、村の神事を取り仕切っている。磐座祭壇に込められた想いを、彼女は引継ぎ、村人達に伝えていた。
ルヤンは、御山へ来るたびに、そこから、見渡せれる、空と大地、霞んで見える海を、見つめながら、磐座祭壇が、創られた理由や、神仏の事を話して聞かせ、そして、自分が、生まれ育った国の事や、ここへと辿り着いた話などを、聞かせていた。
この、ずっとずっと果てしない空と、海の彼方にある島が、故郷であると、呟きながら。
時は、滞る事なく流れて、それとともに時代も移り変わる。御山の麓の小さな村は、周辺の村と合併し、一つの大きな村となる。地方国での内乱や、都との戦の中で、何時しか、御山の磐座祭壇の事も、それが、創られた意味も祈りも、人々の心から、記憶から、忘れ去られていった。
古来より、霊山としての信仰があった為、
磐座祭壇の存在を、忘れ去られても、各地より、神仏を求め、目指す者達は、集まって来る。そして、霊山である御山は、吉備国の隅にある山、隈の山と呼ばれていた事から、熊山名付けられた。熊山には、神仏と共にあろうと修行者が住み、寺なども建立されていった。だけど、磐座祭壇に関しては、誰も、その意味を知らず、ただ古の名残としての信仰としか、受け止められなかった。
移り過ぎ行く時の流れの中で、磐座祭壇は、草木に埋もれ、人々の記憶から消えてしまった。
ただ静かに、そこに在り続ける。吹く風に、時の流れを知るのみと、なって。
終章
青年は、土に埋もれた磐座の上にある、石積みを見つめていた。
――熊山遺跡。
春の風が吹く度に、木々が揺れて、花弁が散ってゆく。昼間、ハイキングに来ていた人々も、今は皆帰り、辺りは静かだった。
木々のざわめきと、鳥の声以外には、何も聞えない。木々の間からは、夕日が差し込んでいて、その茜色の光は、遺跡を照らしていて、それが、どこか、神々しく感じる。
青年は、それを見つめて、微かに笑った。
しばらく、それを見つめる。夕日は、少しずつ、薄らいでいき、夕闇へと変わる。
青年は、ふと背後に人の気配を感じて、振り返る。
「やっぱり、ここだったんだ」
同じ年頃の女が、ニッコリと笑って、立っていた。
「教授や、ゼミの皆が、連絡が付かないって、心配しているよ」
と、言って、女は、青年の隣に立ち、遺跡を見つめる。
「熊山遺跡って、不思議よね。磐座の上に、あるなんて。磐座って、どちらかっていうと、神道系でしょう。なのに、熊山遺跡は、仏教遺跡、仏塔説が強いじゃない。如何して、磐座の上に造る必要があったのか、そこが謎だよね」
女は、言いながら、遺跡の周りを歩いて廻る。
「奈良時代の物なのでしょう? 本地垂迹より、昔じゃないのかな? もしかして、もっと古い時代から、本地垂迹の考え、神々と仏は、同じモノという考えが、あったのかな」
と、青年に問う。青年は、遺跡を見つめたまま、
「さあな。その事も踏まえて、熊山遺跡について、考えてみようと、ここに、一人で居座っていたんだ。勿論、ケータイはオフにしてな」
ふふんと、笑って言い、すまなかったよ、と付け加えた。
女は、苦笑いを浮かべて、
「どうせ、そんな事だろうと、思ってたよ。――それで、何か浮かんできたの?」
「なんとなく、だけどな。色々な、物語が浮かび上がっては、降りて来たのさ」
遺跡から、展望台の方へと歩きながら、青年は、話す。
展望台からは、空と山々に大地が広がっている。西の空、山々と大地の向こうへと、沈みゆく太陽の欠片が、吉井川を茜色に染めて、暗い大地より浮かび上がっている様に見え、山々と平地が、その光に照らされて、深い造形を見せていた。
その景色を見つめながら、青年は、想い浮かんだという、物語を、彼女に話して、聞かせる。
「……どんな想いで、遺跡を造ったのかを考えていたらね。そして、遺跡を造った者達が、ここから見渡せれる景色を、どの様な想いで、見つめていたのかと……」
と、言い、息を吐いて、
「小学校の時、遠足で、ここに来て以来、ずっと、熊山遺跡の事が気になっていたんだ。学術的な事は、解明されているみたいだけれど、それだけでは無い、何かが、この遺跡には在ると、感じたんだ。それで何時か、きっと、その時感じた、遺跡の謎を解こうと、想い続けていたんだ」
と、普段は淡々とした口調なのに、青年は、熱の篭った口調で、言った。
「だから、色々な大学や学部を、ハシゴしているんだ。奇特だな、相変わらず」
女は、クスッと笑う。
「まぁ、そんなところかな。色々と、学べたし、情報も集まったよ」
答えて、暮れていく空を見つめる。その眼下を、カラスが数羽、横切っていった。
「僕、休学届けを出して、いや、退学届けになるかな。近々、インドネシアとインドに、行くつもりなんだ」
ポツリと、言った。
「はぁ? 如何して、また?」
女は、不思議そうな顔だが、呆れた口調で問う。
「理由なんて、特に無いさ。ただ、なんとなくさ。熊山遺跡が、仏塔なら、源は、その辺りだろうし。遺跡の中から出てきたとされる、円筒器は、リンガと呼ばれる物らしい。リンガは、ヒンドゥー教の神・シヴァ神を形どったモノとされる。それに、インドネシアもインドも、ヒンドゥーの神々と仏が、交わっている土地でもあるからな。その辺りは、日本と、よく似ている。もしかしたら、その辺りから、熊山遺跡の何かが、視えてくるものが、あるかもしれないと……」
と、青年は言う。
「そこまで言う、根拠はあるの?」
「無いさ、そんなもの、これぽっちも」
青年の答えに、彼女は、呆れ返り溜息を吐くと、
「あんたは、また――」
と、言いかけた。
「ま、そういう訳でも、ないんだけどな。僕は、僕なりの説があるんだ」
青年は、後を振り返り、山頂にある、熊山神社の方を見つめて、
「熊山神社の御祭神は、大国主命。大国主命の別名は、大黒様。大黒様は、仏教でいうと、大黒天。そして、大黒天は、シヴァ神という説が、あるかならな。それに、シヴァ神といえば、遺跡の中から出てきた、筒型器リンガ、さ」
少し、得意げに言う。
「それ、どういう意味よ。全然、解らないじゃない。それって、本地垂迹や渡来神、神社と遺跡に、何かの関係があるって事? 年代時代が違うのに?」
「……それにも、根拠は無い。ただ、なんとなく、その様な感じに想えるんだ。それに、この様な事って、根拠も証拠も、何も無いさ。逆に、根拠も証拠も無くて、謎に包まれているから、それを追い求めたくなるんだ。根拠や証拠が無いって事は、そこに、ロマンがあるって事なんだ」
青年は、沈んだ太陽が残していた、最後の光の線を見つめながら、言った。
彼女は、大きな溜息を吐いて、そういうものなのかなぁと、呟いた。そういうものさ、と、青年は、呟いて笑った。
冷たくなった、春の宵の風が吹く。花の香が漂う風。静けさに包まれた、その場所には、ただ、風が吹き抜けてゆく。
「所詮、文明なんてものは、後世の人間達が、好き勝手に解釈しているだけかもしれないな。この現代文明も、何時か滅んで消えて、その何百年か後世に生きる人間達は、どの様に、この現代文明を解釈していくのだろうか? そういうことを、考えるのも、楽しいな。熊山遺跡にしても、他の名立たる遺跡にしても、今解釈されていたり、解明されている事も、当時の人間からしてみれば、意味と価値は、まったく違うものかもしれないな。その遺跡に込められた、その時代に生きた人々の真実の想いなんてものまでは、唯一絶対とされる科学では、解き明かされる事は、無いのだから」
青年は、独り言の様に呟いて、吉井川、その先に広がる瀬戸内海。そして、空の遥か南の彼方を見つめていた。
空の彼方。遥かなる海原の向こうを、想い描いて。
終