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拝啓 悪役令嬢さま~元メイドは悪役令嬢の婚約破棄を憂う~

作者: 中村くらら

親愛なるエリザベスお嬢様へ


 ご無沙汰いたしております、お嬢様。


 わたくしがお嬢様の専属メイドの職を辞してから、もう半年になるのですね。

 大恩あるお嬢様にご挨拶もしないまま、逃げるようにお屋敷を去ったこと、今でも心苦しく思っておりますわ……。


 元メイドが今さら何の用か、とお思いでしょうね?

 お嬢様がアレン様から婚約破棄されたこと、わたくしの耳にも届きましたの。

 今やこの国で知らぬ者はいないでしょう。王宮勤めの騎士様から井戸端のおかみさんに至るまで、お嬢様とアレン様のお噂が人の口にのぼらぬ日はありませんもの。

 ある者は面白おかしく、またある者は眉を顰めて、お嬢様の婚約破棄とアレン様の新たな婚約を噂しております。

 無理もないことですわ。


 ボーデン伯爵家のご令嬢であるエリザベスお嬢様が、格下のグリフィス子爵家の二男にすぎないアレン様から婚約破棄されるだなんて!

 そのアレン様の新しい婚約者が、平民上がりの公爵令嬢だなんて!




 平民として育った娘が実は貴族様の隠し子とわかり、貴族の家に引き取られて華々しく社交界にデビューする……。平民の娘が喜びそうなおとぎ話ですわね。

 かく言うわたくしも、実は大金持ちの父親がいて母と私を迎えに来てくれる……そんなことを夢見た時期がございましたわ。ほんの子どもの頃のことです。

 でも、そんなおとぎ話に夢見る貴族様は、せいぜい男爵家か子爵家。それより上の階級の貴族様となると、もはや世界が違いすぎて、平民には空想すらも難しくなってしまうのです。

 それなのに、17の歳まで平民として育った娘が、まさか公爵家に迎えられるだなんて。物語ですら有り得ないようなことが現実に起こり、わたくしも信じられない気持ちですわ……。


 もちろん、ほとんどの貴族の皆様は、男性も女性も、平民育ちの公爵令嬢の登場を快くは思われなかったことでしょう。

 当然のことです。平民育ちの公爵令嬢など、階級秩序を乱す存在、排除されるべき異端児なのですから。


 ですが、その公爵令嬢――シャーリーンが社交界にデビューすると、その妖精のごとき可憐な容姿と、平民育ちのわりに品のある立ち居振る舞い、浮ついたところのない慎み深い態度に、貴族の皆様の見る目も徐々に変わっていったと聞いております。

 もちろん、公爵家の威光あってのことではあるのでしょうけれど。


 一方で、シャーリーンの評判が上がるにつれて、皆様のお嬢様を見る目は厳しくなりましたわ。

 曰わく、妖精のごときシャーリーンと麗しの貴公子アレン様との、運命の恋を邪魔する悪役令嬢であると……。


 平民として生きてきたシャーリーンが、実はメルヴィル公爵家の血を引く娘であると判明したのは、今から半年前のことでした。

 老公爵様の跡を継ぐはずだった一人息子が、奥方との間に子を授からぬまま、36歳の若さで病死したのが今から1年前。後継者問題に直面した老公爵様は、亡くなった息子が、結婚前に平民の女に子どもを産ませたことを思い出されたそうです。

 それからその子どもを密かに探すこと半年。

 決め手となったのは、その娘がメルヴィル公爵家の紋章の刻まれた指輪を持っていたことと、亡き公爵夫人によく似た白銀の髪をしていたことでした。

 そして、そのシャーリーンを見つけ出したのが、他でもないアレン様だったのです。


 アレン様の母君は老公爵様のご息女。つまり、アレン様は老公爵様の孫であり、アレン様とシャーリーンは、いとこ同士という関係にあたります。

 けれど、アレン様がシャーリーンを見つめる眼差しが、単なる従妹に向けられたものでないことは、誰の目にも明らかでした。

 老公爵様はそんな2人の様子をご覧になり、アレン様がシャーリーンと結婚してメルヴィル公爵家を継ぐことを望むようになりました。

 もちろん、アレン様ご自身も……。


 子爵家から伯爵家に婚約解消の申し入れをしたものの、お嬢様は決してそれを受け入れようとはなさいませんでした。

 伯爵様にとっても、格の劣る子爵家からの申し入れにすんなり応じることは、プライドが許さなかったのでしょう。子爵様と話し合いの場を持つことすら拒絶されたと聞いております。

 結局、業を煮やした子爵家は、公爵家の後ろ盾を得て、強引にお嬢様との婚約を破棄しました。

 伯爵家に対し相応の賠償金を支払ったとは聞いておりますが……お金などいくら貰ったところで、どうしてお嬢様の慰めになりましょうか……。


 お嬢様は、元凶であるシャーリーンをさぞや憎んだことでしょう。

 お茶会や夜会でシャーリーンが話題にのぼるたびに、激しい口調でシャーリーンを貶める発言をなさいました。時には、シャーリーン自身に向けて……。


「卑しい平民の女が産んだ子のくせに」

「平民育ちで貴族令嬢としての気品に欠けるわ」

「あの女が慎み深いですって? 使用人根性が染みついているのよ。公爵家の者として人の上に立つことなどできるはずがないわ」


 どれも真実であり、至極もっともだと、わたくしは思います。

 ですが、潔く婚約解消に応じず、シャーリーンを罵るお嬢様の姿は、周りの貴族の方々の目には好ましく映らなかったようですわね。

 エリザベスお嬢様は、アレン様の持つ類い希な美貌と公爵家の血筋に妄執している。皆様、そのように捉えて眉を顰めましたわ。


 さらには、お嬢様がシャーリーンに悪質な嫌がらせをしている、という噂も流れましたわね。

 取り巻きと一緒にシャーリーンを無視した。人を使ってシャーリーンを尾行し、監視した。シャーリーンの持ち物を切り刻んだ。ついには、男達を使ってシャーリーンを襲わせようとしたという噂まで……。

 こういった数々の噂が流れた結果、お嬢様は『悪役令嬢』と蔑まれるようになってしまわれた……。


 ですが、わたくしは、このジェニーだけは、エリザベスお嬢様が『悪役令嬢』などではないと存じております。

 お嬢様は、ただ純粋にアレン様に恋しておられた……そうですわよね?

 わかっておりますわ。5年もの間、専属メイドとしてお嬢様にお仕えしたわたくしですもの……。




 お嬢様……いえ、もはや貴女様のメイドではないのですから、本当はエリザベス様とお呼びするべきなのでしょう。

 ですが、今はまだお嬢様とお呼びすることをお許し下さいませ。お嬢様のもとを離れて半年経った今、なぜでしょう、お嬢様にお仕えした日々が思い出されてならないのです……。


 お嬢様、初めてわたくしがお嬢様とお会いしたときのこと、覚えておられますか?

 わたくしは今でもありありと思い出すことができますわ。

 お嬢様も私も、共に12歳でございました。


 お嬢様には退屈でしょうけれど、少しばかりわたくしの身の上話にお付き合い下さいませ。

 わたくしは王都のはずれの下町で、母一人子一人で育ちました。物心ついたときには父親の姿はなく、わたくしは父親の顔も知りません。

 母は、父の名前や居所はおろか、生きているのか死んでいるのかすら教えてはくれませんでした。

 母が父について語ったのは、ただ一度だけ。


「あの人は私を愛し、私もあの人を愛し、そしてあなたが生まれたのよ。それで充分じゃないの」


 父が母を愛していたのかどうか、それは私にはわかりません。

 でも、母が父を想っていたのは本当だろうと思います。母は、父から贈られたという男物の銀の指輪を、安物の銀のネックレスに通して、息を引き取るその瞬間まで、肌身離さず身に付けていましたから。

 その指輪は、後に母の唯一の形見となりました。えぇ、お嬢様のお許しを頂いて、わたくしがいつも身に着けていたあの指輪ですわ。母がそうしていたように、安物のネックレスに通して……。


 母は、通いで教会のメイドとして働きながら、女手一つでわたくしを育ててくれました。

 そんな母が、口癖のようにわたくしに言い聞かせていた言葉があります。


「いい? 与えられた場所で精一杯生きるのよ。そうすればいつかきっと、報われるときがくるからね」


 今にして思えば、母はわたくしにではなく、自分自身に言い聞かせていたような気がいたします。

 母はその言葉のとおり、わたくしを育てるために朝から晩まで休みなく働き……わたくしが10歳になった冬、たちの悪い風邪をこじらせて、呆気なく亡くなりました。


 孤児になったわたくしは、生きるために働かなくてはなりませんでした。

 貴族であるお嬢様には信じられないことでしょうけど、庶民の世界では、10歳といえばもう無条件に大人に守って貰える年齢ではないのです。

 幸いにもわたくしは、母が働いていた教会で、住みこみの下働きの仕事につくことができました。そこで2年ほど働いた頃、教会に通っていらした裕福な奥様のお口添えで、ボーデン伯爵家のメイドになったのです。


 こうしてわたくしは、12歳のとき、ボーデン伯爵家のキッチンメイドになりました。

 キッチンメイドは、伯爵家のメイドの中でも下っ端中の下っ端。お屋敷の地下にあるキッチンで、一日中、お皿を磨いたり野菜の皮を剥くのがわたくしの仕事でした。

 旦那様や奥様、お嬢様達、「上の方々」が地下に来られることは通常ありませんし、わたくし達奥向きの使用人が「上の方々」の生活スペースに顔を見せることは禁じられていました。

 本当なら、お嬢様とわたくしとは、顔を合わせることなどないはずでした。


 ですが、あの頃のお嬢様は、旦那様や奥様の目を盗んで、時折、コックにお菓子をおねだりしにキッチンに降りていらしてましたわね。

 コックや他のメイド達も、そんな風に身分の垣根を軽々と飛び越えるお嬢様に、親しみを感じているようでしたわ。


 あの日――わたくしがお嬢様に初めてお会いした日も、お嬢様はコックに新作ケーキの試作品をねだりにキッチンに来られました……。


「アンナ! 新作のケーキを焼いたと聞いたわよ。わたしが味見する分ももちろんあるんでしょうね?」


 ノックもなしにキッチンに飛び込んできた少女の声に、わたくしは驚いて芋の皮むきをしていた手を止めました。


 そこに立っていたのは、わたくしがそれまで見たこともなかった、上等なお人形のように愛らしい少女でした。

 真っ赤なワンピースに、艶やかな栗色の巻き毛、日に当たったことがないかのような白い肌。

 何より印象的だったのは、勝ち気そうにわずかに吊り上がった大きな瞳でした。光の加減によって緋色にも見える、薄茶色の瞳……。


「おやおや、お嬢様、お耳の早いことですね。心配なさらないでも、ちゃぁんと取り置いてございますよ」


 コックとしてキッチンを取り仕切るアンナが、笑顔を浮かべて少女に椅子を勧めます。お屋敷に勤め始めて1ヶ月、いつも眉間に皺を寄せてキッチンメイドを怒鳴りつけているアンナの笑顔を見たのは、それが初めてのことでした。

 椅子に腰掛けた少女は、アンナがケーキとお茶の準備をするのを待つ間、手持ちぶさたな様子でキョロリと辺りを見回し、キッチンの隅で呆けたままのわたくしに目を留めました。


「あら、珍しい、綺麗な色の髪ね。あなた、初めて見る顔だわ。いつからうちにいるの? 年はわたしと同じくらいかしら?」


 薄紅色のぷっくりとした唇から次々と飛び出す言葉に、わたくしはオロオロと立ち尽くすばかりでした。まさかお嬢様からお声をかけられるなど思ってもおらず、頭が真っ白になってしまったのです。

 気がつくと、お嬢様の薄茶色の瞳がすぐ目の前にありました。

 お嬢様の白く細い右手の人差し指が、わたくしの顎に添えられ、わずかにわたくしの顔を上向かせます。

 ひんやりとした指の感触に微かに身震いしながらも、わたくしは魅入られたようにお嬢様の瞳から目を逸らすことができませんでした。


「ふぅん、よく見たら綺麗な顔立ちをしているわね……。気に入ったわ、あなた、わたしの専属メイドになりなさい。そうね、ジェニーと呼ぼうかしら。今日からあなたはわたしのジェニーよ、いいわね?」


 真紅の薔薇が咲くように、お嬢様が華やかな笑みを浮かべました。

 わたくしの運命が変わった瞬間でした。

 ……そう申し上げても、お嬢様は「大げさね」とお笑いにはならないでしょう?


 後で知ったことですけれど、少なくともボーデン伯爵家では、キッチンメイドが令嬢付メイドに抜擢された例はなかったそうです。

 そもそも、「上の方々」の身の回りで立ち働く使用人には、身元の確かな者しか雇用しておらず、わたくしのように父親の素性すらわからない孤児をお嬢様専属メイドにすることに、はじめは奥様も反対されたと聞いております。

 けれど結局、可愛い一人娘のおねだりには勝てなかったようです。

 そうしてお嬢様は、気に入りの人形を手に入れるように、わたくしを専属メイドになさいました。


 お嬢様専属メイドになって、わたくしの生活は一変しましたわ。

 お嬢様のお部屋の近くに個室を与えられ、起きている時間のほとんどをお嬢様と過ごすようになりました。

 専属メイドとしてのわたくしの主な仕事は、お嬢様の身の回りのお世話。

 ですが、お嬢様のご指示で、お嬢様のお勉強やダンスのレッスンにご一緒させて頂くこともございました。


「わたくし一人ではつまらないわ。ジェニーが一緒だとやる気が出るのよ」

と仰って。


 わたくしは、お嬢様のお役に立ちたい一心で、勉強にもダンスにも必死に取り組みましたわ。メイドが歴史や地理など勉強して何になるのか、お上品なダンスなど身につけたところで踊る機会もあるまいに――他の使用人達の目は冷ややかでしたけれど、将来役に立つかどうかなど、私にとって大きな問題ではなかったのです。

 いつも頭にあったのは、母の口癖でした。

 与えられた場所で、精一杯生きる。

 礼儀作法やダンスはおろか、読み書きすら覚束ないわたくしは、いつも失敗してばかりでしたけれど。

 そんなときお嬢様はいつも、

「やっぱり駄目ねぇ、ジェニーは」

そう言って笑ってらっしゃいましたわね……。




 お嬢様とアレン様との婚約が決まったのは、お嬢様が15歳、アレン様が18歳のときでございました。

 ボーデン伯爵家にはお嬢様しかお子様がいらっしゃいませんでしたから、伯爵家に婿入りが可能なお相手として、グリフィス子爵家の二男であるアレン様に白羽の矢が立ったのです。

 世間では、夜会でアレン様に一目惚れしたお嬢様が、お父上である伯爵様におねだりして強引にアレン様との婚約を取り付けたと噂されておりますけど、それは真実ではありませんわ。

 お二人の婚約は両家それぞれの思惑で決まった政略的なもの。どちら側からの提案だったのか、わたくしに知る由はありませんけれど、ボーデン伯爵家にとっては、見目麗しく優秀との評判で、しかもメルヴィル公爵家と血筋の近いアレン様を婿に迎えることは悪い話ではなかったでしょうし、グリフィス子爵家にとっても、格上でかつ財力のあるボーデン伯爵家への婿入りは願ったり叶ったりだったのでしょう。

 お嬢様がアレン様と初めてお会いになったのは、両家で婚約が決まった後の顔合わせの場のことでしたから、お嬢様が夜会でアレン様に一目惚れしたというのは全くのでまかせです。

 人の噂など、本当にあてにはならないものですわ。


 ですが、無責任な噂には真実も含まれておりますわね?

 それは、お嬢様がアレン様に一目惚れをなさったということです。


 伯爵家と子爵家の当主同士の間で婚約が決まって間もなく、ボーデン伯爵家にて、グリフィス子爵夫妻とアレン様を招いて顔合わせのお食事会が開かれました。

 旦那様から呼ばれて応接室に出向いたお嬢様は、そこで初めてアレン様と対面なさったのです。メイドとしてお嬢様に付き従っていたわたくしも。


 アレン様のお姿を初めて見たとき、まるでその場所にだけ光が当たっているかのような気が致しました。

 癖のない明るい金の髪に、切れ長のアイスブルーの瞳。すっと通った鼻筋に、血色の良い薄い唇。

 この世にこれほど美しい殿方がいるものでしょうか。わたくしは己の立場も忘れて、アレン様に目を奪われたまま立ち尽くしました。

 

 アレン様の美しさに見惚れていたのは、お嬢様もまた同じでした。入室して淑女の礼を取ったきり、惚けたようにアレン様を見つめるお嬢様に、アレン様はふわりと小さな笑みを浮かべました。そして、流れるような動きでお嬢様の前に立つと、お嬢様の右手を取り、その甲にそっと口付けを落とされたのです。

 その瞬間、お嬢様の体が小さく震えたのがわかりました。お嬢様の後ろに控えるわたくしにはそのお顔は見えませんでしたけれど、きっと頬を染めて、薄茶色の瞳を潤ませていらっしゃったことでしょう。

 お嬢様が初めての恋に落ちた瞬間でした。


 お嬢様の手を取ったまま、婚約者として挨拶の言葉を述べたアレン様は、わたくしの不躾な視線に気づかれたのでしょうか。不意にその美しい瞳を、お嬢様の背後に佇むわたくしに向けられました。

 僅かに見開かれたアイスブルーの瞳がわたくしを捉え、わたくしも吸い寄せられるようにアレン様の瞳を見つめ返しました。

 その瞬間、世界から音が消え、時がその動きを止めたような気が致しましたわ。この世の中にアレン様とわたくし2人きりになったかのような……。

 それは永遠にも感じられる時間でしたけど、実際にはほんの一瞬のことだったのでしょう。

 晩餐の準備が調ったことを告げる執事の声を合図に、再び時は動き始め、わたくしもメイドの仕事に戻ったのです。




 アレン様とお嬢様との結婚は、お嬢様が18歳になってからということに決まりました。

 アレン様とすぐにでも結婚したいお嬢様は不満そうでしたが、アレン様が伯爵家の領地経営について学ぶために週に1度お屋敷に通ってこられることになり、ようやく機嫌を直されました。

 アレン様は、伯爵家を訪れる際にはお嬢様へお花やお菓子の贈り物を欠かさず、どんなに忙しくても必ずお嬢様とのお茶の時間を設けられました。

 長椅子にアレン様と並んで腰掛け、甘えるように身を寄せるお嬢様は、日に日に美しい婚約者にのめり込んでいくようでした。暇さえあれば、アレン様がこんなことを仰った、あの仕草が素敵だったとわたくしに熱っぽく語り、お勉強の時間にまでアレン様のことを考えてぼんやりし、家庭教師から叱られていらっしゃいました。


 婚約後しばらくは舞い上がっていたお嬢様でしたが、次第に、アレン様の女性関係に不安を抱かれるようになりました。あれだけ見目麗しいアレン様のこと、世の女性達が放っておくはずがありませんから、お嬢様が不安を感じられたのも当然でしょう。

 お嬢様は、お茶会や夜会などでアレン様の女性関係の噂を集めては、一喜一憂されていましたわ。お嬢様の集めて来られた噂によれば、アレン様は過去に多くの女性とお付き合いしてこられたようです。愛らしいと評判の某侯爵令嬢、豊満な肉体で世の男性を魅了する某男爵の未亡人、社交界では新興勢力である某豪商の娘……それはもう、様々な女性たちと。


「でもね、アレン様は、夫や婚約者のある方とお付き合いしたり、同時に複数の方とお付き合いするような、不誠実なことは1度もなさらなかったそうよ。仲の良いご友人には、『運命の恋人を探している』と仰っていたのですって。……ねぇ、わたくしはアレン様の『運命の恋人』になれるかしら? 」


 えぇ、もちろんでございますとも、お嬢様ほど魅力的なご令嬢はおられませんもの。

 何度そうお慰めしたことでしょう。その度に、「そうよね、わたくしとの婚約を了承なさったのですもの、わたくしを『運命の恋人』と認めて下さったということよね?」と勝ち気な笑みを浮かべ、それでも数日すればまた不安な気持ちを吐露するお嬢様は、恋する乙女そのものでしたわね。


 アレン様は実に律儀に週1回のお嬢様とのお茶会を欠かさず、常に紳士的にお嬢様に接しておられましたが、お嬢様の揺れる乙女心を知ってか知らずか、「好き」とか「愛してる」などの言葉を口にすることはございませんでした。

 お嬢様は、アレン様の心を確かめたいと思われたのでしょう。愛読するロマンス小説を参考に、アレン様の腕にしがみついて胸を押しつけてみたり、ときには可愛らしく口づけをねだったりなさいました。そのようなときアレン様は、穏やかに微笑みながら、「僕たちはまだ婚約者の間柄だからね、お父上やお母上を心配させてはいけないよ?」と、やんわりお嬢様から距離を取られるのが常でしたわ。

 お嬢様はそれを不満に感じつつも、「アレン様は誠実で紳士的な方なのだから」とご自分を納得させておられたのです。



 

 ええ、アレン様は実に誠実で紳士的な婚約者様でいらっしゃいましたわ。

 それだけに、アレン様の裏切りは、お嬢様にとって決して許せないものだったことでしょう。


 お嬢様がアレン様の裏切りを目の当たりにしたのは、2ヶ月前のことでした。

 その日、王宮で開かれた舞踏会に、お嬢様はお父様である伯爵様と一緒に参加されましたわ。

 婚約以来、お嬢様が夜会に出席される際のエスコート役は常にアレン様でした。夜会でのお嬢様は、どうしてもお断りできない方とダンスを踊るときを除いて、片時もアレン様から離れず、他の令嬢方を牽制されていたとお聞きしております。

 ですから、アレン様から王宮の舞踏会でのエスコートをお断りする旨のお手紙を受け取られて、さぞかしお嬢様は驚かれたことだろうとお察し致しますわ。


 お嬢様が舞踏会の会場に到着して間もなく、ホールの入り口の方から静かなざわめきが広がりました。いったい何事かと、お嬢様も思われたことでしょう。

 お嬢様がざわめきの中心に見たのは、メルヴィル公爵様、そして、社交界では初めて見る美しい銀髪の令嬢と、彼女をエスコートするアレン様の姿でした。


 そのときのお嬢様のお顔……。

 驚き。疑問。混乱。悲しみ。屈辱。怒り。様々な感情が目まぐるしくお嬢様の美しいお顔に現れては消え、最後には激しい憎しみが支配しました。

 扇子を持つ手を震わせ、アレン様とシャーリーンを睨みつけるお嬢様の双眸は、真っ赤に燃え上がるようでしたわ。

 あのとき、側におられた伯爵様が力づくでお止めにならなければ、お嬢様はシャーリーンにつかみかかっていたことでしょう。




 あれから2ヶ月、お嬢様はアレン様から一方的に婚約を破棄されました。

 お嬢様にとっては到底受け入れがたい、許しがたいことでございましょう。

 ですがお嬢様、このジェニーは、この度の婚約破棄はお嬢様のためを思えば喜ばしいことだったと思っておりますのよ。


 なぜって……確かにアレン様は誠実な方です。でも、お嬢様に対しては、誠実とは言えませんでしたわ。

 今まで誰にも打ち明けられずにいたことですけれど……えぇ、思い切って告白致します。


 アレン様は、お嬢様の婚約者として伯爵家を訪れるたびに、お嬢様や他の使用人の目を盗んで、わたくしに愛の言葉を囁かれていたのです。懐に隠し持っていた小さなお花やお菓子を、わたくしのエプロンのポケットにそっと忍ばせながら。


「愛しているよ、ジェニー」

「貴女を初めて見た瞬間にわかったんだ、貴女こそがずっと探し求めていた運命の人だと……」

「貴女に触れたい、抱きしめたい、キスしたい……貴女を想うと気が狂いそうだ」

「いつも身に着けているその男物の指輪……まさか恋人の物ではないよね? 情けないと思うだろうが、貴女が僕以外の男といるのを想像するだけで嫉妬してしまうんだ……」

「僕が愛するのは貴女だけだ。先に貴女に出会えていたら、家を捨ててでも婚約など受けはしなかった……」

「一生かけて貴女だけを愛することを誓うよ。どうか、僕の気持ちを受け入れてはくれないだろうか?」


 あの低く甘やかな声で、何度囁かれたことでしょう。

 わたくしの耳元で、わたくしにだけ聞こえる声で。

 アレン様の熱い吐息が耳をくすぐる度に、わたくしは身体の奥が震えるような心地が致しました……。


 アレン様の言葉をただの遊び人の戯れ言と思えれば、どんなに気が楽だったことでしょう。

 でも、わたくしに愛を乞うアレン様のお顔はいつも甘く、そして苦しげで、とても冗談とは思えませんでしたわ。

 だからこそ、わたくしは、今まで誰にも打ち明けられずにいたのです……。




 けれど、お嬢様は、気付いておられましたわね?

 アレン様の目がわたくしを追っていたことに。そのアイスブルーの瞳に激しい恋情が灯っていたことに。

 どんなに人目を忍んでも、いつもアレン様だけを真っ直ぐに見つめておられたお嬢様が、お気づきにならないはずがなかったのですわ。


 いつの頃からか、お嬢様はわたくしの前でアレン様の話をしなくなり、わたくしを遠ざけるようになりました。

 そのくせ、アレン様とのお茶会のときには、あえてわたくしに給仕をお命じになり、わたくしに見せつけるようにアレン様に身を寄せておられましたわね。ただの使用人にすぎないわたくしに、己の立場を思い知らせるように。

 そればかりか、わたくしにアレン様宛の手紙を持たせて子爵家に遣いに出し、それを他の使用人に密かに監視させることまでなさいましたわ。わたくしが嫉妬にかられてアレン様宛の手紙を破り捨てたりしないか、人目を忍んでアレン様と口づけなど交わさないか、お試しになったのでしょう。監視の者がどのように報告したかは存じませんけれど、わたくしは、お嬢様のメイドでいる間、お嬢様を裏切るような真似は一度も致しませんでしたのに……。


 お嬢様の仕打ちは、わたくしにとって辛いものでしたわ。敬愛申し上げていたお嬢様から疑われ、薄汚い物を見るかのような目を向けられ……。

 さらに辛かったのは、他の使用人達の態度の変化でした。

 お嬢様はご存知でいらっしゃったでしょうか? わたくしは元々、他の使用人達、特に同性の使用人達から浮いていましたわ。何の技術もない孤児のキッチンメイドがお嬢様付きのメイドに取り立てられたのですから、嫉妬を受けるのは仕方がないことだったのでしょう。それに、男性の使用人達がわたくしにとりわけ親切なのも、あの人達には気に入らなかったようです。

 それでも皆、わたくしが「お嬢様のお気に入り」であった間は、少なくとも表面上は和やかに接してくれていましたわ。

 けれど、わたくしが「お嬢様のお気に入り」から「お嬢様の婚約者を誘惑する売女」へと変わったとき、もはや皆はわたくしへの悪意を隠そうとはしませんでしたわ。

 他のメイド達からは無視され、聞こえるように陰口を叩かれ……食事をわざと捨てられたことも一度や二度ではありませんでしたわ。女性の使用人達からは、直接的な暴力以外の、ありとあらゆる嫌がらせを受けました。中でも一番堪えたのは、部屋を留守にしている間に、手持ちの下着を全て切り刻まれたことでした。次の休日に新しい下着を調達するまでの10日間、ずっと同じものを身に着けるわけにもいかず、夜の間に乾かなかったときには、やむを得ず下着の替わりに柔らかいストールなどを腰に巻いて過ごしましたけれど、あのときの心細さと言ったらありませんでしたわ……。


 女性の使用人達の嫌がらせ以上に恐ろしかったのは、男性の使用人達の好色な目に晒されることでしたわ。ニヤニヤしながらわたくしの身体を舐めまわすように見てくるのはまだ良い方で、


「なぁ、一晩幾らだ? 俺の相手もしてくれよ」


などと嫌らしい笑みを浮かべながら身体の関係を迫られ、お断りすると、


「どうせ処女でもあるまいに。お貴族様しか相手にしねぇってか? 高級娼婦気取りってわけかい、この売女が」


などと罵られ、顔に唾を吐きかけられました。

 男達の行いは次第にエスカレートし、言葉で辱めるに飽きたらず、偶然を装って乳房や尻を鷲掴みにされるようになりました。男性に手を握られたこともございませんでしたのに、それがどれほど恐ろしく、恥ずかしいことだったか……。


 ……お嬢様、このジェニーが信じられないのでしたら、暇を出して下されば良かったのです。紹介状さえ頂ければ、わたくしはいつでもお屋敷を出て行きましたのに。

 わたくしだって、お屋敷を出ることを何度も考えましたわ。でも、わたくしには頼りにできる身内もおりませんし、伯爵家からの紹介状がなければ、まとまな職を見つけることは困難という事情がありました。ですから、どんなに辛くとも、紹介状のないまま伯爵家を飛び出すことはできなかったのです。

 いいえ、お嬢様はそんなことはご承知だったのでしょう。わたくしを信用できないからこそ、伯爵家に留めおいて、監視なさろうとした。わたくしを自由にすれば、すぐさまアレン様の愛人になるとでも思っておられたのでしょう。このジェニーは、お嬢様を裏切ることなど考えてもおりませんでしたのに。


 結局わたくしは、紹介状を頂かないまま、お屋敷を出ることになりましたわ。

 お屋敷を出る前の晩、わたくしは人気のない倉庫で3人の男性使用人に囲まれました。お嬢様のご指示で、倉庫に探し物をしに行った、あのときですわ。

 幸運にも仕事熱心なハウスキーパーが倉庫の在庫確認に来なければ、わたくしはあの男達によって純潔を散らされていたことでしょう。

 ハウスキーパーには感謝してもしきれませんわ。「職場の風紀を乱さぬように」と一時間もお説教を受けたのは、なぜか男達ではなくわたくしの方でしたけれど。

 一時間という時間は、お屋敷を出る決心を固めるには十分な時間でしたわ。

 男性使用人達に襲われかけて、さすがにわたくしもお屋敷に留まり続けることはできませんでした。身の危険を感じたからでなく、お嬢様のお怒りがいかに激しいものかを思い知ったからです。

 わたくしは、ハウスキーパーがお説教を終えたその場で辞職を申し出、30分後には荷物をまとめて人知れずお屋敷を出ました。メイドのお給金で買ったわずかな私物と、母の形見の指輪だけを握りしめて……。




 わたくしとしたことが、いつの間にか話が逸れてしまいましたわ。

 お嬢様は「悪役令嬢」などではないと、お慰めするためにこの手紙を書き始めたはずでしたのに。

 お嬢様はシャーリーンに対して嫌がらせなどしておりません。わたくしが保証致しますわ。少々嫌みを言うくらい、何だと言うのでしょう。可愛らしいものですわ。

 お嬢様は、シャーリーンを無視したり、監視したり、持ち物を切り刻んだり、男達を使って襲わせようとしたりなど、噂されているような嫌がらせは一切なさってませんわ。

 えぇ、シャーリーンに対してはね。

 人の噂というのは本当にあてにならない、そして面白いものですわね。


 お嬢様、どうか誤解なさらないで頂きたいのですけれど、ジェニーは心からお嬢様に感謝しておりますのよ?

 キッチンメイドからお嬢様付のメイドに取り立てて頂き、礼儀作法やダンスなど貴族令嬢が知っておくべき最低限のことを学ばせて頂きましたわ。お嬢様のご親切がなければ、今のわたくしはありませんもの、感謝してもしきれませんわ……。

 ですから、きちんとお礼を述べて、お別れを告げたかったのです。


 お嬢様、5年の間、お世話になりました。

 この手紙をもって、あなたのジェニーは消えます。

 もうお目にかかることもないでしょうけど、お嬢様が心安らかに過ごされますよう、お祈りしておりますわ。


あなたのジェニーより




追伸 すでにお聞き及びかと存じますけれど、わたくしはこのたび、とある方と婚約致しました。わたくしが18歳になる3ヶ月後に正式に結婚する予定です。初めてお会いした日からずっと、わたくしだけを思い続けて下さった誠実な方ですわ。「運命の恋人」だなんて大袈裟だと何度も申し上げたのですけど、ちっとも聞き入れて下さいませんの。わたくしには過ぎたお方ですけれど、あの方のお気持ちに応えたいと思っておりますのよ。出会いのきっかけを作って下さり、また、わたくしがあの方の元へ飛び込むときに背中を押して下さったエリザベス様には、心より感謝しております。新たな環境に戸惑うことも多々ありますけれど、あの方の愛と亡き母の言葉を胸に、「与えられた場所で精一杯」生きて参りますわ。それではまた。ごきげんよう。


シャーリーン・メルヴィル


 


 



 












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