15時
明け方、家の浴室で、左手首を一回切った。
昼前に、ゲームセンターのトイレで、右手首を一回切った。
「嘘っ!!オレンジジュース売り切れてる!?」
未だかつて売れ切れていたことのなかったオレンジジュースが売り切れていた。今までこの自販機を使っている人に会ったことがなかった。まさか、他にもいたなんて……!
「いひひひ!しょうがないね」
生きていればこんな日もある。むしろ今まで一度も売れ切れているところへ遭遇しなかったことの方がおかしかったのかもしれない。自販機横のベンチに座り、バッグを肩から降ろす。少し気が抜けてため息を吐いた。世界が少し離れた。
「もうおやつの時間かぁ」
公園の時計は21時を反転した形、15時を指していた。小さい頃は15時といえば、おやつの時間だった。お母さんがよくホットケーキを作ってくれて、バターをかけすぎなくらいかけて食べるのが好きだった。今も、ホットケーキを作って、独り寂しく部屋の小さなテーブルで食べることはあるけれど、小さい頃に比べたら、ホットケーキを食べる頻度は減った。結構カロリー高いしね、ホットケーキ。
「食べても太らなければいいのに、太らない人はいいなー!そう思わない?」
足元に寄ってきた痩せ気味の鳩に向かって、言葉を投げる。返事はなくて、鳩と会話のキャッチボールは成立しなかった。キャッチしてもらえたのか、無視されてしまったのかも分からない。ボール音だけがボクの耳に響いた。
「いひひ!人の言葉は分からないよね!……うん?」
鳩が首をかしげるような仕草をしたので、ボクも真似をして、首をかしげる。この痩せ気味の鳩も生命として生きている。そんな気がしなければならない仕草だった。首をかしげたら世界が少し傾いた。傾いた世界でも、公園で過ごす人たちは変わらず過ごしている。ランニングをする人、噴水に飛び込む少年、ダンスの練習をする5人組のお兄さんお姉さん、人の動きを察知して飛び立つ鳩、飼い主を引っ張っていく子犬、変わらず過ごしていて、みんな生きている。ちゃんと生きている。はず。首を傾けて世界を元に戻す。
視線を鳩に戻すと、鳩がこちらを見つめていた。鳩の目はどこか機械的に見えて、センサーで動きを捕捉されているような気分だった。鳩が作り物に見えた。世界が一気に離れた。
「待って……やめて」
耐え切れず鳩から目をそらす。公園を見渡す。何も変わったところはない。今までと同じ、平凡な日常が流れていた。流れていると思おうとした。感覚が遠くなっていく。止まらない。現実が夢に溶けていく。ボクの肉体を抱き締める。世界から仲間外れにされる。目に映る人達がみんな作り物に見える。目を閉じる。深呼吸。目を開く。
哲学的ゾンビたちの日常が、作り物の世界がそこにあった。
「切らないと……戻らないと……」
バッグを開けて、常備しているナイフを探す。歩いている時の上下運動が人より激しいみたいで、バッグの中身はいつもシェイクしたようになっていた。ナイフは財布の下敷きになっていた。ハンカチに包まれたナイフと、消毒液をバッグから取り出す。いつからか手慣れてしまったけれど、客観的に見たら、公園でナイフを消毒している姿は、通報ものかもしれない。思いながら、ナイフを消毒する。手を洗うのと一緒で、切る前にはナイフを洗うようにしている。
「太ももかな」
周りの視線がこちらを向いていないことを確認する。たぶん誰も見ていない。左手でナイフを持ち、スカートを少しだけたくし上げる。外だとちょっとだけ恥ずかしい。左の太もものまだ傷が出来ていないところに、ナイフを触れさせる。ナイフを左へ滑らせる。肌が切れ、血が溢れる。夢が覚め、現実に戻る。世界が近付く。ゾンビたちが人に戻った。
「いひひ!さて、おやつでも食べにいこっかなー!」
ナイフと太ももの血を拭き取り、ベンチから立ち上がる。バッグを肩からかけて、鳩にさよならの言葉を投げる。鳩語は分からないから人間語で。
「またね、ばいばーい」
踏み出した一歩で、足元が崩れなかったことに安心する。次の一歩を踏み出す。
歩くような速さで世界が流れていく。
やっぱりホットケーキかな――




