8章
理解できない状況と、認めたくない自分の考えを振り払うように淳お兄ちゃんから逃げ出してしまった私は、無意識に裏山の方向へ向かっていた。なんだか今日は走ってばっかりだな、私。
走る速度を緩めずに曲がり角に差し掛かったとき、この状況にしては、やけに冷静なもう一人の自分が心の中でそうつぶやいた。
と次の瞬間、唐突に黒い影が私の視界を覆った。突然のことでそれが何なのかを確認する余裕もなく、私はとっさに目を閉じて、ぎゅっと身を固める。
「うぉっ!」
「きゃあっ!」
影の正体は人だった。反対側から来た誰かと出会い頭でぶつかった。私はその衝撃で後ろにはね飛ばされて、しりもちをついてしまった。
「痛たた……」
おでことお尻をさすりながら身体を起こして前を見ると、そこには私と同じような格好で顔を押さえている男の子が居た。
「あっ――健ちゃん!」
「んえ……?」
私が叫ぶと、どこから出ているのか分からないような間抜けな声を出しながら健ちゃんが顔を上げた。
「あ、さき!」
そう言って驚きながら私を見る健ちゃんの鼻からは一筋の鼻血が流れていた。
「おまえどこに居たんだよ! いきなり居なくなったから探しちゃったじゃんか!」
そう言って健ちゃんは少しほっとしたような、怒ったような表情を私に向ける。いつもお母さんが私を心配して怒るときの顔にちょっと似ていた。誰かのこういう顔が自分に向けられると、私は悪いことをしてしまったんだなぁと、自分のことを少し嫌いになる。
「あっ……ご、ごめん。急に山ジジイが出てきたからビックリしちゃって……でも健ちゃん、無事だったんだね。山ジジイには捕まらなかったの?」
「ん? ああ、山ジジイ居た! おまえの悲鳴が聞こえて戻ってみたらそこに居たからすっげービビった!」
私が心配して尋ねると、健ちゃんは怒っていた顔を元に戻してそう言った。
「やっぱり……何もされなかったの? 大丈夫だったの? 私、健ちゃんを一人で置いてきちゃったから、もし殺されちゃったらどうしようって思ってたよ……」
「あー、俺も最初はビビったけど、でもなんか山ジジイって結構いい人だったぞ」
「え、いい人……?」
なんでもないように軽く話す健ちゃんの予想外の言葉に不意を突かれて、私はキョトンとした顔で聞き返した。
「うん、山ジジイが子供を狙ってるっていう俺達の予想は全然違ってたみたいだ。なんか、山ジジイが言うには、先月の終わり頃から裏山に野犬がうろつくようになったんだってさ。で、子供が近づくと危ないからって時々見回りしてたんだって」
「そ、そうなの……?」
「うん、見た目はおっかないけど――うぉっ! ……そ、そうだったんだって」
話している途中で、自分が鼻血を流していることにようやく気付き、それを袖口で慌てて拭きながら健ちゃんが言った。
「そうだったんだ、でもよかった無事で……」
私は健ちゃんが無事でいたことに安心して、ほっと胸を撫で下ろした。
「それよりおまえは何してたんだ? なんか慌ててたじゃん」
ポケットから取り出したティッシュをちぎって鼻に詰めながら健ちゃんが言った。
その言葉を聞いて、私の頭の中に淳お兄ちゃんのアパートで見た光景が蘇ってきた。途端に深い霧の中に居るような息苦しい不安が再び私を襲って、怖くなった。
「おい、どうした?」
急に下を向いて黙り込んだ私を気にして健ちゃんが声をかけてきた。
顔を上げると、鼻にティッシュを詰めたまま私の顔を心配そうに覗き込む健ちゃんの顔がすぐ側にあって、その顔を見た瞬間、こらえていたものが溢れだしたように私は泣いてしまった。
「うぉっ、な、何だよ、何でいきなり泣くんだよ」
突然目の前で泣き出した私を見て、健ちゃんがビックリして慌てている。それはそうだ。目の前で突然女の子に泣き出されたら誰だって困ってしまう。私は口をへの字にしてなんとか泣きやもうとしたけれど、うまくいかなった。
「お、おい、どうしたんだよ、何で俺の顔を見て泣くんだよ? こ、これか? この鼻のティッシュがなんか嫌だったのか?」
他人が聞いたら笑ってしまいそうなことを真面目な顔で言う。でも、健ちゃんは真剣なのだ。こういうところが変なところでもあり、良いところでもあるんだよなぁと、いつも思う。
それから私はなんとか涙をこらえて、自分が淳お兄ちゃんのアパートで見たことを健ちゃんに話した。