4.父の見舞い
毎週木曜日は父の見舞いに行くことになっていた。日曜日には母が行き、必要な衣服などを大きな旅行バッグに入れて渡す。それでも急に必要になったものがあったら僕が持っていくことになっていた。しかし特段これといった活動をしているわけではなし、持っていく物は文庫本数冊程度だった。
相部屋の老人の姿はなかった。
今週の面会では父が急にぶち込んできた。
「俺はもうたたないんだ」
一瞬何の話かと思ったがすぐに悟って、古代ローマの政治家のようにお前もか、と心の中で呟いた。下ネタはやはり嫌いだ。ボクシングで急接近され、顎の真下からアッパーを食らうようなものだ。第一、親子間でそういう話をするとなんだか気恥ずかしくなって嫌ではないのか。父親が病床の身でなければ事の意義を問い質したかったが、追及はやめにした。父が急に遠い目をしたからだ。
「俺の命がもう長くないのはわかってると思うんだ。それなのになんで俺と母さんが新しい命を授かろうとしているのか、それについても母さんから聞いていると思う」
そこまで言うと一呼吸置いた。枕元のミネラルウォーターに口をつけ、僕が剥いたリンゴを一切れの半分食べた。
再び言う。
「お前が母さんの腹の中にいることがわかったとき、二人はまだ二十を少し越えたくらいだった。お互いのことが好きだったし、就職してもいたから、結婚して幸せな家庭を築こうと約束したんだ。事実、去年まではそれを守ってきた」
「うん」
「でも、去年病気が見つかった。余命も一年だと告げられた最後の半年は病院を出られるかもわからないと言われた。そこで俺、考えたんだよ、」
父の言葉が間断なく出てくるのに対し、その声の妙に抑揚を抑えられた感じが、ずっと前から言うべきことを整理して、そらんじてしまうほど推敲したのだと思わせた。
父は続ける。
「俺が消える代わりに、何か残せるものはないかって。俺と母さんは出会って以来愛し合ってきたけど、それも精々二十年くらいなもんだ。お前に至っては十六年だから、俺は俺の人生の経験値をしっかり伝えられていないと思う。思い出だって、これから作れるものの方が多かったはずだ。だから」
「だから?」
「子どもを作ることにした。最後に母さんとの愛の結晶――ベタな言い方だけど――を遺すことで母さんが上手く愛情をすり替えていければいいと思ってる。お前に直接何かをしてはあげられないが、弟、もしくは妹が育っていくのを支える中で、学び取っていってほしい。それに二人残せばプラマイゼロだしな」
正確に言うと、プラマイゼロのためには、日本人女性は2.08人産まなければならない。2.1人を産むことは不可能なので、人によっては3人産まなくてはならない。産みの苦しみを男が肩代わりできれば状況は変わるかもしれない。しかし両性具有でない一哺乳類としてのヒトにそんなことはできないし、できたところで想像を絶する痛みに死んでしまうことだろう。そう考えるたびに女性が存在しているだけで恐れ多く感じられることがあった。
父の長台詞が終わると、病室にはしばらく静寂が訪れた。大事な話題に対して、思いついて間もないこと、自分の本心かもわからないことを見当違いの方向に吐き散らかすのは適切ではないと思ったのだ。
十分後、僕はようやく正しく自分の考えを言える気がした。
「結局父さんと母さんが話し合って決めたのなら、僕はそれを支えるべきなんだろうと思うし、実際にそうしたい。今までは二人に支えられてきたんだから、そろそろ支え返してもいいはずだ。現実的な問題は、生きていく中で現れていくと思う。でもそれらを一つ一つ解決していくことでしか、人生を有意義にはできないんだよね」
「それだけのことがわかっているなら大丈夫だ」
また話そう、と言って父は笑った。僕も微笑んだ。話し終えると老人が部屋に戻ってきた。最後の方は聞かれていたかもしれない。
病院を出て、現実的な問題のことを考えた。
金の話だ。