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15.朝顔の花言葉

 父の病室に行くと、父は昼寝をしていた。正確には昼寝をしているだけではなかった。閉じられた双眼からは、目尻をたどって涙が轍を作っていた。夢の中で激しく泣いているらしく、眉間に深い縦じわが寄っている。


 僕が何も言わずそれを見ていると、例の老人が杖を持って立ち上がり、僕に着いてくるよう促したので、荷物だけ置いて従ってついていく。

 着いた先は中庭だった。この病院の中庭には、花がたくさん咲いていた。しかし僕には種類を正確に区別するだけの知識がなかった。せいぜい色の淡さの違いを見分けたり、においや背丈の違いを感じ取ることができるくらいで、感想も、きれいですね、としか言えなかった。

 しかし老人は細かな説明を僕に与えてくれた。原産国、生殖の特徴、花言葉など、想像以上に細部までの情報が詰まっていたので僕は感心してため息をついた。


 花について詳しい理由を聞くとこう返ってきた。

「妻と私が出会ったころ、あいつは花の話しかしなくてな、自分は花にちっとも興味なんてなかったんだが、声を聞いてるだけで満足していたら、いつの間にか覚えてしまったんだよ」老人は遠い目で語った。

 あいつ、と老人が言ったのは、きっと亡くなった奥さんのことだろう。その人のことを僕は見たこともないし、声を聞いたこともないし、老人の感傷に共感しようと努める義務もなかった。それでも老人が羨ましいと思った。自分が病気でありながらも、それとはまた別のところで大事にしていけるものを持てていることに、心臓が冷たくなるほどの憧れを抱いた。近い未来、遠い未来、己の歩みを振り返るとき、老人のような目をできるか。そう考えると空が滲んだ。僕は相づちも打たずに黙り込んでしまう。


 老人はその気配を察したのか、こちらを見ることなく静かになった、と思いきや、少し声量を上げ話を続ける。

「お前と父さんは、よく似てるんやな。無意識に涙が出てくるなんて、女々しくて気持ち悪いくらいよ。でもな、そんな自分を自分で大事にしなきゃダメなんだ。自分の弱さを受け入れてもらおうとするなら、まずは自分で自分の愛し方を見つけるんや」

 似非関西弁は照れ隠しなのだろうか。齢八十を超える老人が吐く台詞にしては青臭すぎた。それでも言ってくれるのはありがたいことだと思った。


「お前の母さんがな、父さんにお腹の子どものことを言いに来たのを、こっそり聞いてしまったんじゃよ。母さんが気まずそうに重い口を開け、正直に話してるとき、父さんも下唇を噛んでおった。でも母さんが話し終わったら父さんは微笑んでおったよ。きっと悔しかったに違いない。罪悪感、無力感、どんな思いでいたかはわしにも推し量れはするまい。でも笑ったんじゃ。残される母さんと新しい命と、お前さんのためにな。謝りあうだけでは、時にどこにも悲しみのやり場がなくなるじゃろ。自分がふざけて笑っているのではないことをわかってくれると思ったからこそ、自分の気持ちを封じ込めたのじゃろ」


 そう聞くと、更に視界が滲んだ。胸の奥深くで渦巻く感情が誰にでもあるだろう。僕だってその存在に気づき始めて、怖くなっている。理性の通用しない圧倒的な力。それがこの世には無数に存在していて、それでもなんとか個々が均衡を保って日々を生き抜いている。でも、そのためにはその渦を誰にも見せるわけにはいかない。だから他人のそれを僕は見たことがない。どれだけ近くにいる人であったって、見せてはくれなかった。きっと簡単に見せたくはないだろうし、これからもそれは変わらないだろう。

 今日、老人により、不意に父のそれを間接的に覗き込んでしまった。広大なブラックボックスの中、あてもなく手を振り回して探していたその存在に軽く触れてしまった。それだけのことで、自分がある意味で他者と同じということで、ある意味では他者と異なることで、僕は身を食い尽くしそうな恐怖感を覚えた。


 そんな僕の様子に流石に憐れんだ老人は、

「そんなに恐れることはないさ。そのうち向き合い方がわかるさ」と言った。


 涙が渇くまでにかなりの時間を要した。

 なんとか口が利けるようになったので尋ねた。


「アサガオの花言葉はなんですか」

「はかない恋、固い絆、愛情」と老人は言った。


 病室へ戻ると、父が笑って出迎えてくれた。持ち上げられた頬の肉が、確実に薄くなっていた。


 家に帰ると、母も笑って迎えてくれる。

 僕は上手く笑えなかった。その分母は微笑みを増した。


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