14.モーニング・グローリー②
帰路の道中から何を渡したいのか尋ねる。関根は簡潔に「アサガオの種」と返す。今日の関根はやけに真面目だ。
幼少時に植えたアサガオが、今でも種子を遺しているという。一つだけだった苗も三つに増えた。
しかし今年、異常が起きている、と言われた。三つの苗のうち、まだ一つしか咲いていないのだという。あとの二つは萼すらできていない状態で、今年花を開くことも、種子を残すことも見込めない、と関根は嘆いた。
そこで、と続ける。
「小出君にも種を分けるから、育ててほしいの。私の育て方が悪いのかもしれないし」
「それくらいのことなら」と了承する。しばらく無言で歩く。
着いたよ、と関根が言ったとき、遠くに見える住宅街の一角に関根の家があると思った。でもそれにしてはまだ歩いて五分はかかりそうな距離だったから、今日の関根は真面目でせっかちな関根なのだと早合点していた。
しかしそれは早計だった。家はすぐ真横にあった。生垣に囲まれた木造の平屋だった。周囲は雑木林だったので、いつも自分に見せることが多い明るい関根の姿からは想像もつかない住処だった。
玄関と縁側にはすだれが掛けられており夏を感じる。まだ梅雨は明けていないのに、関根といるときは晴れが多い気がした。
縁側のすだれが地面の近くまで垂れたふもとにアサガオのプランターがあった。三つ全てが支柱に蔓を伸ばしていたが、やはり花をつけているのは一つだけだった。あとの二つは葉の色が少し黄ばんで乾いて見えた。葉の表面を名も知れぬ虫たちが行軍している。
咲いているアサガオも、午後になるとやはりしぼんでしまっているので、この一角は少しもの悲し気に感じた。
待ってて、と言い残し関根が縁側から家に入る。片足ずつ上げてローファーを脱ぐ後ろ姿にどきりとした。紺色のスカートから覗く、純白とも透明とも表現できる肌の色に更に胸が高鳴った。
関根はすぐに戻ってきた。手にはジッパーつきの小さなポリ袋を二つ持っている。その中には畳み込まれたティッシュが入っていて、彼女が試しに開いてみせると、黒い小さな種が五粒ほど入っていた。もう一度ティッシュにしまうと彼女は僕に渡した。
「布教用に小分けしてあるのよ」と言いながら、彼女は今日初めて意地悪そうに笑った。その後、
「まあ、誰にもあげたことないんだけどね……」と言った。
それ以来静かになってしまった彼女は、遠くにもくもくと膨れ上がっている入道雲を見つめていたので、僕も空を見上げた。たまに関根を一瞥していることに、彼女は気が付いているだろうか。
近くの雑木林から、ひぐらしの鳴き声が響いている。そう言えば、と思う。今年蝉の鳴き声を聞くのは今日が初めてだと思った。何の気なしに聞き流していたのか、本当に初めて鳴いているのか、そんなことは関根の隣にいる今、どうでもいいことのはずなのに、二人の静けさを外界の騒音が乱していた。
空が橙に染まるにつれて、ひぐらしの数は増えているようだった。西の空が夕焼けの濃度と彩度を上げても、家に人はいなかった。誰も出てこないし、誰も入っていかなかった。夕日は僕ら二人だけを照らしているようにも思えたが、丘の上の住宅街からは子どもたちが笑う声が聞こえた。
「日が暮れちゃうから、俺、帰るよ」
「うん、気を付けて。さよなら」
また明日、と僕は手を振る。関根も手を振り返してくれる。その姿は夕日が逆光となってよく見えなかったが、上野公園で見せたような快活さを感じることはできなかった。
家の敷地を出て、生垣の間から関根を見つめる。
「種、ありがとな!」といつもより大きな声で僕が言うと、関根は本気でびっくりしたようで、胸に手を当てながら、「バカ」と言いながら笑った。
家に帰ると種を水に浸けた。
次の朝庭の土をプランターに入れ、種を植えた。