其ノ五~chAngE~
思い通りにはさせないわ
「もういい、諦めた」
どこか遠くを見る眼差しで、少女が低く呟く。室内が大量の酒に満たされつつある中、選んだ道は、脱出の鍵たるクロスワードを放棄する事だった。
オロチの声がさも愉快そうに嘲笑う。
『アハハァッ! 随分と潔いんだね!』
「勘違いしないで。生きる事は諦めてない」
ニギは淡々と言ってのけ、クエビコと身を寄せあって、酒の海へと沈む。
水中にて、袖の裏から取り出したのは、掌サイズの端末機器。それを操作すると、端末とコードで繋がる犬耳型ヘッドフォンが、特殊な音階を用いた旋律を響かせる。霊的素質を持つ者のみが感受できる周波を受け、脳髄を刺激された少女の精神は、トランス状態へと移行した。
「『かがみ』、起動」
どこからともなく溢れ出す光の粒子が束となり、帯の形を取って、ニギとクエビコの全身を繭のごとく包み込む。それは、あらゆるものに対して反発を起こす結界であった。内側は外部の状況を遮断する空間となっており、押し出した水分から酸素を切り離し、蓄えている。
「おまえ、『あいつ』じゃないよな。おれの知ってる『おまえ』だよな?」
不可思議な小部屋の中で、クエビコが不安げに問いかける。ちなみに、互いの体は密着したままだ。なにぶん狭いため、離れようにも離れられない。
「大丈夫、ボクを信じて」
つい先程までの弱々しさはどこへ行ったか、ニギは凛とした声色で返し、ヘッドフォンを撫でて微笑む。その姿に、彼はなぜかどぎまぎしてしまう。
(なんかカッコイイじゃねえかよ)
「ここから出るよ、クエビコさん」
「んなこと言っても、どうすんだよ? 出口なんでどこにも」
「……あるさ」
少女が人差し指を立てると、光の繭は意志に応えて急上昇し、天井の排水口へと飛び込んだ。水流の迸りに真っ向から逆らって、いくら広くともふたつの体が通るにはいささか狭い穴をムリヤリ押し広げ、速度を緩めず突き進む。掟破りの蛮行に、カカシとオロチは声を揃えて、驚嘆の叫びを上げる。
「マジか小娘ええええ!」
「はあ? ナニやってんのおおおお!」
接触した物質を無差別に排除する『ヤタノカガミ』の結界だからこそ可能な、完全なるゴリ押しの力業。
かくして、脱出は果たされた。残ったものは、解きかけの問題を映す文字盤と、酒に浸かった薄暗い部屋のみだ。
※ ※ ※
部屋からほぼ真っ直ぐに伸びる水路を破壊して進み、たどり着いた先は、巨大な樽の底だった。樽の側面に触れるだけで容易く穴を穿った繭は、役目を終えたみたいにほどけ、帯の形に戻ってから消滅する。ミクサ・モードでの活動限界は思いのほか早く、時間にして三分といったところか。
解放された一人と一柱が、溢れる酒の流れに乗って、外へ飛び出す。
「ぐおっ! チクショーめい……!」
床に額を打ち付けたクエビコは、滴の垂れる頭を振って立ち上がり、あたりを見回す。そこはホール状の空間であり、今しがた突き破ったのと同型の酒樽が複数並んでいるところを見るに、どうやら大掛かりな貯蔵庫らしい。
「いっぱい、ぬれちゃった……」
ニギが遅れて身を起こし、肩を抱いて膝を揺する。全身ぐしょ濡れとなって冷えたのだろう。顔面は紅潮し、表情はどことなく惚けていた。
「べとべとして変な感じ」
「まず礼を言うべきなんだろうな、ありがとう助かった。……だけどおまえ、『あれ』使うの怖かったんじゃねえのかよ」
罠仕掛けの通路を通る前の出来事を、クエビコは回想する。
前頭部にある裂け目に手を突っ込み、彼が自らの脳みそを取り出していた時。
ニギは言った。あなたが無茶をせずとも、『かがみ』の能力を使えば切り抜けられるのではと。
だがクエビコは断った。暴走の危険性も考えられたし、何より、また別人格に変わる可能性が拭いきれない事を恐れる、彼女の心情を察したからだ。
「このヘッドフォンつけてれば安心だってアマテラスさんも言ってたのに……いまいち信用できなかったボクが悪いんだ。もっと早くに使っていれば……」
か細い声でぽつぽつとこぼすニギの姿は、いつにも増して華奢に見えた。
足をもつれさせ、危うく転倒しかけたところを、クエビコがとっさに胸で受け止める。
「し、しんどいのか」
「一瞬ふらっと来ただけ……だから、だいじょぶ、だから」
打犬頭の使用は脳に負担をかける、とはアマテラスの忠告であったが、状況をかんがみるに原因は他にもあるようだ。
「さては酔ってんなおまえ。さっきの酒ちょっと飲んじまっただろ?」
「ごめん。もう少しだけ、このままでいても、いい……?」
潤んだ瞳による儚げな上目遣いや、不安げに懐へとすり寄ってくる子犬めいた仕草には、男神の理性を抉る魔力があった。さらに、酒気に混じって鼻孔を撫でる甘ったるい豊香は、未熟といえど紛れもなく女のそれ。
なんとも間の悪い事にクエビコ自身、苦手とする酒を僅かばかり口にしてしまった事で、判断力の鈍麻を感じている。
つまりは、我慢できそうにない。
(相手はガキだぞ落ち着け、おれに特殊な性癖はない断じて)
このまま欲望の傀儡と化し、眼前でさらされる無防備な乙女の全存在を、手荒く貪ってしまいたいという衝動が暴れ出す。
(ってかそんな場合じゃねえだろ! いい加減にしやがれ、おれのバカ! お、れの……)
クエビコの手が意思に反して動き、小さな顎を持ち上げる。
ニギは抵抗せず、静かに目を閉じた。
熱を孕んだ視線が絡み、どちらともなく距離を縮めてゆく。恐らく一切の思考が介在しない、本能に従順な行動だったに相違ない。
「やめろーっ!」
突如響いた甲高い声は、この上ない助け船として両者の意識を引き戻す。
「神殿を濡れ場にするつもり? 罰当たりだとは思わないわけ?」
数メートル前方に配置されている酒樽の蔭から、テナヅチが姿を現した。一糸まといぬ異様な格好であっても、口にするのは至極常識的な指摘。
「テナヅチ、いや今はオロチだな。散々勿体ぶってようやくご登場かい!」
「『つるぎ』かえしてっ」
何もなかった事にしたいという気持ちを共有したのだろう。
クエビコとニギは、息ぴったりな動作で身構えた。前者は背中の杭を降ろし、後者は腰の刀を抜いて、迎え打つ準備を整える。
「うっさいわ! こっちはとさかに来てんだよ! ラスボス部屋までショートカットとかぁ~……どんだけナメくさってんだコラァーッ!」
言葉尻の勢いに合わせるように、テナヅチが猛り狂って、床を蹴る。
突進が来るものと思い、クエビコとニギは左右に分かれて飛び退く。
しかし両者は次の瞬間、顎の真下を突き抜けた予想だにせぬ衝撃により、全く同じタイミングで仰け反る羽目になる。
「うごっ」「あうっ」
よく見れば、テナヅチは一歩も動いていない。踏み込みはフェイントだ。
では、今の攻撃は何か。
クエビコの目には速すぎて追えなかったが、ニギの動体視力は敵の動きを確かに捉えていた。
虚空から、なんの前触れもなく幼女の『拳』が現れるのを。
強烈なアッパーカット放ったそれが、瞬時に消え去る様を。
「ぐぇびご、ざん、気を付け……あいづ手がっ!」
ニギは後ずさるも、踏みとどまって叫ぶ。だが情報の代償として歯で口内を切っており、鮮血が唾液と共に溢れ出て、発音がままならない。
伝えきる前に口を塞がれ、首を絞められてしまう。
新たに出現した二つの『手』によってである。
さらに正面の空間から、一つ二つ三つと、いくつもの拳が現れ出た。それらは瞬く間に彼女を取り囲んだかと思うと、
「テナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナ」
奇怪な気合いと共に、弾丸めいた滅多打ちを叩き込む! 顔面や腹部に怒涛の乱打を浴びた少女は、悲鳴を上げる暇もなく、血を吹いて片膝をつく。
「小娘ェ……!」
一方のクエビコは、目の前に居ながらも助けに行く事が出来ぬ。彼の下半身には既に無数の手がまとわりつき、万力じみた握力で動きを封じていた。
「くそが!」
恐るべきは、テナヅチの神力。手首から先を、空間から空間へと自由自在に転送できるのだ。そればかりか、分裂させて操る事まで可能としている。
「クエっちってば、ナニ驚いてんの? 旦那がああだったからって、女房は腕が伸びるとでも思ったんなら考えが浅いねえ。手長ってのはどこにでも手が届くって意味なんだよお! うひははははーっ!」
古の魔獣・オロチの醜悪な精神が、テナヅチの愛らしい顔貌を歪め、良く通る鈴の音のような声を使って、耳障りな哄笑を上げている。
その汚らわしい事実が、クエビコにはどうしても許せない。
「胸糞悪い芝居してんじゃねえ、変態トグロ巻き野郎。あいつはな、上品な女なんだよ。今すぐその体から出ていきやがれ」
「あら怖い」
敵を睨み据えながら、彼は可能な限り声をひそめ、傍らのニギに語りかける。
「……おい小娘、まだ動けるか。今から言う事よく聞けよ……」
どこにでも手が届く。
奴は確かにそう言ったが、ハッタリだという事はもはや見え透いている。これが真実なら、致命傷を与える術などいくらでも思い付くはずだからだ。喉の奥に手を送り込み、窒息させればいい。胸の内側に手を送り込み、心臓を握り潰せばいい。容易くカタがつくのに、なぜそうしないのか?
導き出される仮説はこうだ、『手を飛ばせるのはあくまでも、視認できる範囲まで』。
この考えを元に組み立てた作戦の内容を、ぐったりとうつむく相棒に説明し終えた直後、衝撃が襲う。恐怖を植え付けようとしてか、わざとらしく緩慢な足取りで歩み寄っていたテナヅチが、クエビコの体を蹴り倒したのだ。
「人間なんかいつでも殺れるし、厄介な方から確実に始末させてもらうね」
勝ち誇った様子で彼の後頭部を鷲掴みにし、ずるずると引きずって運び、数ある巨大な酒樽のうち一つの前で立ち止まる。
「へっ、この中身って全部『ヤシオリの酒』だろ。手前が死ぬ原因になった代物を大量に抱え込んでるたあ、よほど気に入ったらしいな」
「減らず口もそこまで!」
テナヅチは残忍な笑みと共に、樽から伸びるホースを握り、どういうわけか注射器みたく鋭く尖った先端を、クエビコのうなじ付近に突き刺す。ごぽごぽと汲み取りの音が鳴り、樽の中身がホースを通じて注ぎ込まれてゆく。
「脳みそで直接味わうヤシオリはどうかなあ? 昇天ものでしょ~?」
なんたるおぞましい極刑であろうか。
首の血管を介し、高濃度のアルコールを注入しようとしているのだ!
クエビコはひとたまりもなく、うつぶせのまま全身を激しく痙攣させてから、ピクリとも動かなくなってしまう。彼に群がっていた手はわらわらと床に散っていき、部屋の四隅の闇に溶け込むと、やがて跡形もなく消滅した。
「うああーっ!」
ニギが絶叫を張り上げて立ち上がり、テナヅチに襲いかかったのは、その直後の事だ。
最上段から叩きつけた刃はしかし、舞うような挙動で易々と回避される。
「あは、わたしは捕まらないよ!」
我を失っての猛攻勢であるが、悲しいかな、ことごとくが掠りもしない。
乱れた剣線を俊敏な立ち回りでもってかいくぐった後、テナヅチは大きく跳び退いて五メートルほど離れた壁際に着地し、右腕をニギに差し向ける。
「捕まえるのは得意だけどね」
転送の準備動作である。再び安全域からの遠隔攻撃に移ろうというのだ。
この時、前方に立つテナヅチと後方に寝そべるクエビコがニギを挟む形となって、三者間には、ちょうど一本の直線で結べる位置関係ができていた。
「テナヅチさぁーんっ!」
戦意と恐怖が入り雑じる面持ちのまま、ニギは真っ直ぐ突っ込んでゆく。
「いいよ、来なよ!」
一見して壁を背にしたテナヅチの方が追い詰められた格好なのだが、表情は余裕に満ちている。
それも当然。望み通りの場所にいつでも手が届くという事は、常に主導権を握っているのと同じなのだから。
互いの距離が残り二メートルにまで縮まった時、その慢心は、仇となる。
「今だ、小娘!」
死んだはずの男の叫びが轟いた。誰かが聞いた幻聴というわけではない。
それを合図に床を蹴り、ニギは跳ぶ。
次の刹那、彼女の足先を掠め、杭の先端が飛び出した。
一瞬前まで死角であった方向からの刺突が、テナヅチの腹に沈み込み、背中を壁に押し付ける。
「捕まえたぞ!」
ニギは軽業師さながらに杭の上へと着地し、走る。
そして姿勢を低く沈めて、刃を振り抜く。
櫛火切の閃きが美しい弧を描き出し、テナヅチの首は高々と宙を舞い飛んだ。
遅くても四日に一度と決めていた更新が遅れてしまいました。この場を借りてお詫びいたします。
そんな中、Twitterで応援していただいたり、新しくブクマ登録までしていただきました。
感謝いたします……! これからもどうぞ、アマノクニをよろしくお願いします!




