其ノ九~コネクト~
つながる世界。
少女は走り出す。
生暖かい風が吹き抜け、密集する草木を揺らす。
鼻孔に届く濃厚な緑の臭いに、刺すような獣臭さが混ざる。木陰に身を隠す巫女装束姿のニギは、前方をちらと窺ってから思わず息を呑む。
約十メートル先に、待ち望んでいた『獲物』の姿を確認したからだ。
怯える瞳が映すのは、身の丈五メートルを越す異形の大熊である。毛皮ではなく、青い苔の張った鉱物によって全身を鎧っている。
名を『岩熊』と呼ぶ、ケダモノと妖怪の中間に立つ怪物だ。
(ボクは出来るボクは出来る……)
心で唱えて己を鼓舞し、長弓を引き絞る。
狙うは、岩の鎧でも守りきれぬ部分の一つ……右の眼球。
願いと共に放たれた矢が風を切り、緩やかな放物線を描いて飛んでゆく。そして、
カツン
という音を鳴らして弾かれ、容易くへし折れてしまう。
軌道が僅かに浮いていたため、最も厚い額の鎧に当たってしまったのだ。
岩熊は攻撃の方向からニギの居場所を見抜き、怒りの咆哮を上げた。四つ足となり、巨体からは想像できぬ俊敏さを発揮して、突進を開始する。
「わぅ、タケルごめん、はずれたよぉっ!」
「気にすんなっ」
タケルが茂みを割って現れ、敵の進路上に飛び出した。
今は、短甲と呼ばれる古代日本の鎧に似た軽装甲を纏い、プリーツスカートを合わせるという奇抜な服装をしている。
怪物は両腕を振り上げて襲いかかるが、少女は臆さず懐へと突っ込む。地面を蹴って舞い上がり、降りかかる豪腕を回避し、相手の肩口に飛び乗る。
「クチ開きっぱなのよ、アンタ!」
細身の剣を抜き放ち、岩熊の喉の奥底に深く突き込む。
そして、すぐさま柄を手放すと、勢いよく跳び退いた。
「ブッ飛べっ!」
落下しながら拳をかかげ、叫ぶ。その声に呼応するように、刺さったままの剣が淡く発光し、電子音声を発する。
『祷技、起動。「戰焔」』
次の瞬間、岩熊の喉が噴火した。
いいや、それだけではない。目、鼻、耳……穴という穴の内側から、爆炎の柱が迸ったのだ。
やがて巨体は黒煙を吐きながら、地面を揺らして倒れ伏す。
「やはーっ、勝てたぁ!」
タケルは草花の絨毯から身を起こし、死骸の側まで駆け寄っていく。
「はやく来なさいよニギぃ! 素材分けましょー!」
無邪気にはしゃいで手を振る姿に、遠距離からぎこちなく笑い返そうとしたニギは、空色の瞳を見開く。
「タケル、逃げてっ」
死骸の背面から、突然、尾のごときものが飛び出した。
それは、よそを向いていて異変を知らないタケルの首元へと凄まじい速度で伸びていったが……次の瞬間、ニギの放った矢によって先端を射抜かれる。
縄状の細い体をくねらせて横たわったのは、ミミズ様の魔物だった。
タケルは遅れて気付き、途端に青ざめて震える。
「うおっ『破傷虫』じゃん……。熊ん中に居たの?」
大型の魔物が一定の割合で体内に宿す、寄生種である。
「あぶあぶ危なかたっ、間に合ってよかだっ……だいじょぶ?」
ニギは全力疾走で飛んできて、友人の身を案じた。
「あ……ありがと。でもよく気付けたねアンタ。あんだけ離れてて、アナライズも範囲外だったはずなのに」
「じ、自分でもわかんないけど……なんとなく嫌な雰囲気だな、って思って。えーと……か、勘……?」
異様におどおどして答えるニギを、タケルはしばし奇異な目で見つめた。
「なに言ってんの? これゲームよ、ゲーム!」
※ ※ ※
VR・システム。
現実と比べて遜色ないほどの可視化が施された仮想空間に、意識の器たるもう一人の自分を配し、『そこにいるかのような』体験を可能とするもの。
ある革命的な技術が実用段階に入った時、たいてい真っ先に恩恵を受けるのは軍隊だと言われているが、VRの場合も例外ではない。高度な立体座標処理を行う演算能力の一部が、無人戦略爆撃機や大陸弾道ミサイルのCPUなどの機能向上にたっぷり貢献した後で、一般市場に出回る運びとなった。
ただしこれを大衆向けビジネスに組み込むとなると、高額運用となる事や使用後の体調不良の可能性といった、様々な弊害が浮き彫りになる。各国企業群が揃って難色を示す中、どこよりも早くネットゲームにVRを導入したのが、日本最大手電子メーカーである『ヤマトE・C』だ。
国産VRMMOの記念すべき第一作目『タカマガハラ・オンライン』は、こうして発表された。
五千人あまりのテスターを招いた大規模プレ稼働は大成功のうちに幕を閉じ、後は正式なサービス開始を待つばかり……というところで、計画は唐突に中断されてしまう。謝罪会見の内容も『サーバーに重大な欠陥を確認した』とだけ説明する不透明なもので、納得いくはずもない多くの人々がヤマトECに非難を投げ掛け、一時は社命すら危ぶまれる事態となる。それでもどこかで復活を願う声は、確かに存在し続けた。
誰もが抱く『ここではないどこか』の夢、完全なる仮想世界への欲求はそれだけ根強かったと言えるだろう。
そして十五年後、計画は満を持して再起動する。一部界隈で伝説化していたそのゲームは、全てを一新し、『アマノクニ』と名を変えて蘇ったのだ。
※ ※ ※
ーー異なる時空より召喚された旅人達は、八百万の神々に反旗を翻す。敵だらけの世界に攻め込み、自分達だけの国を築け。
友人同士となった日、ニギはタケルの家……というかお屋敷に招かれ、『アマノクニ』のパッケージを初めて見る事となる。箱の裏側の説明文を読み、壮大な世界観に心惹かれて、ほえ~っと間抜けな感嘆を漏らしてしまった。
「今どきバーチャルなんかありふれててどれも同じって思うじゃない? でも見る目のある通は皆これを選んでんだから!」
一人の部屋にしては広すぎる、洋風の装飾に溢れた空間で、タケルは誇らしげな鼻息を鳴らす。なぜだか、ゴシックドレス風の私服に着替えている。
「日本神話がベースになっててね、アタシの名前はこれ作ってる時にパパが思い付いて、その伝説のヒーローの名前から取ったの! かっけーでしょ」
「う、うん、かっけぇ」
奇跡的に親しくなれた同い年の少女が実は大企業のお嬢様、という冗談じみた偶然にはもちろん驚いたけれど、今は関係ない。
友達ができた喜びだけで、ニギはもう心がいっぱいだった。
聞けばタケルは、一緒にゲームを始める相手をずっと探していたという。
「これ本当に貰っていいの?」
「いいの! ほらいつまでも眺めてないで開けて開けて! チュートリアルとかマッハで終わらすんだから!」
パッケージから、ゴーグルとヘッドフォンが一体化したような機器……『モノダイバー』を取り出す。被ってみると思った通り若干重い。
「にしてもアンタほんとに運が良いわよ! まだサービス始まって二週間以内だから、今なら期間限定装備アーンド限定巫女コスのDLコードつき!」
「で、でも、お高いんでしょう?」
「一式たったの十万二千円(+税)よ! 破格でしょ!」
聞いてしまった事を少し悔やむ。お嬢様の金銭感覚が一般人と違うのは、漫画の中だけではなかったらしい。
お互い準備を済まして、せーのでスイッチを入れる。金属同士の擦れ合う耳慣れぬ音が、ニギの頭の奥に響き始めた。聞いているうちに、微睡みにも似ためまいが生じる。意識がゆっくり二等分されてゆき、起きている自分と眠っている自分が同時に存在するかのような、不可思議な錯覚を抱く。
段々と心細くなってきて、無意識にタケルの手を握る。
「平気、大丈夫、怖くない。最初だけだから……ね?」
穏やかな声でなだめられて、恥ずかしくなってしまう。
意識の半分が世界と繋がった事を、確かに認識する。ニギはこの時、覚えているはずがないのに、母の胎内で羊水に浮かぶ自分の姿をイメージしていた。
※ ※ ※
一回目のログインから一週間が経過する頃、ニギは学校が終わると毎日ゲームを起動して、時間の許す限りタケルと二人で高天ヶ原を冒険した。
岩熊討伐の帰りに訪れたのは、プレイヤー達が自治する『イワスク』という港町。
石造りの家々が建ち、敷石舗装の道が伸びる西欧的な町並みだ。これは、現地の妖怪達が人間の指示通りに働き、再築したものである。
妖怪はプレイヤーにとって最も馴染み深い『モンスター』であり、冒険を円滑に進めるためには欠かせない存在である。というのも、『敵地』であるという設定上、高天ヶ原にはRPGでよく見られる、最初から友好的な村人や商人がいない。ゆえに拠点作りのためには、特定エリアの神を殺すか屈服させるかして、占領を行う必要がある。そこで初めて妖怪は神の支配から解放され、『領民』というキャラクター扱いとなり、人間に忠実となるのだ。
「知ってる? ずーっと北のウンシュウ山脈のどっかにさ、タニググとかいうモンスターの隠れ里があるらしいよ。レア素材どかどか落とすんだって」
「まぢ? 行ってみてーな。どこ情報よ?」
仲良く会話する男二人の旅人とすれ違ったニギは、大袈裟に驚き、並んで歩くタケルの背中に身を隠す。
「しゃんとしなさいよ。アンタってここでもビビリよね」
呆れられて、先程の情けない失敗を思い出し、しょんぼりと肩を落とす。
「タケル、あの、さっきの熊の時はごめんね。ろくに支援できなくて」
「まーたイジイジ始まった。気にすんなっつったでしょ」
プレイ開始時の設定で、タケルは前衛向けの剣士、ニギは後衛向けの巫女という『兵種』をそれぞれ選んだ。
本来ならば巫女の祷技(※このゲームにおける兵種別の固有技能)はファンタジーにおける魔法じみた力だが、ニギの鈍臭さゆえ経験値稼ぎが捗らず、現時点ではまだ習得に至っていない。
操作キャラ……アバターの外見については話し合った結果、あえて互いに実物と近い顔にすると決めたが、ニギは内緒で弄っている。昔から前髪で隠すほどコンプレックスだった平安貴族じみて短い眉を、流線型に整えたのだ。
そんな小さな変化で理想に近づけた気がして、一瞬でも得意になった自分を、今のニギは恥じていた。自分は結局この世界でも弱虫で、取り柄のないままではないかと。行動力のあるタケルに頼りっぱなしで、迷惑をかけて。
「アンタさぁ、いいもん持ってんだから、もうちょい自信持ちなさい」
「え……? ボク、何も特技なんか」
「気付いてないの? アンタって色んなもの『視えて』るでしょ。周りの状況とか、空気とかの流れっていうの? うまく言えないけど、それってよく考えたら地味にすごい才能じゃない。アタシなんか前しか見えてなくて、そのせいで危ない目にあうとこだった。それをアンタが助けてくれたのよ?」
瞬間、冷えきっていたニギの胸中に、温かな火が灯る。
観察癖は長いあいだ友人もなく、何もする事がなかったからこそ身に付いたもの。それを才能と呼ばれる日が来ようとは、夢にも思わなかったのだ。
「ネガティブってのも、物事を楽観せず冷静に考えられる長所よ。自分のいいとこわかってあげて活かさなきゃどんどん腐っちゃうんだからね! 自覚できたら今度からそれ武器にして、アタシにしたみたく誰かを助けてやんなさい。そうすりゃ自信だってつく。……わかった? ゲームの話じゃないよ」
タケルは早口で言い切ると、真っ赤になった顔を隠すようにうつむき、ずんずん先に進んでしまう。
「ガラじゃない台詞言わせんじゃないの! はやく行くよ!」
「うん、ありがとっ」
ニギは潤む目を擦り、慌てて後を追う。アバターは操作する者の感情をも正確にトレースするので、恥ずかしさや嬉し涙を誤魔化すのもひと苦労だ。
「あのさ、タケル。ボク達さ……ずっと友達だよねっ」
やめてよ恥ずかしいでしょ! という答えが返ってくるはずだった。ニギの記憶通りであれば、照れ隠しをする時のタケルは普段以上の大声になる。
しかし実際の反応は、予想とかけ離れすぎていた。
「一体いつまで寝ている気?」
タケルは突然立ち止まり、明らかな別人の声色を使う。
「死にたくなかったら起きて」
同時に街の景色がグニャリと歪み、ガラスみたいに砕け散る。次に目の前に広がったのは、生理的な恐怖感を呼び起こす、混沌漂う空間だった。
「この思い出が、走馬灯になってもいいの?」
振り向いた相手には、目も鼻も口もない。
顔があるべき場所にはポッカリと穴が空き、底の見えない暗闇が蟠り、渦を巻き続けているだけだった。
山田でございます。アマノクニにご感想を寄せてくださったり、ブックマークをしてくださったり、続けて読んでくださっている皆様。本当にありがとうございます。最大限の感謝を……!
そして、致命的に筆が進まず、四日間も更新が遅れてしまった事、この場を借りてお詫びいたします。
後書きはずっとふざけた小話ばっかりでしたので、たまにはこうしてしっかりと感謝とお詫びを伝えたいと思った次第です。これからもアマノクニをどうかよろしくお願い致します! 次回もご期待ください!




