友情
学生の頃の人間関係って本当に難しいですよね。逃げ出したいくらい窮屈なときもあるし、休みたいと思う日もある。自分が傷ついているのと同じように、自分も誰かを傷つけているかもしれないという疑念をずっと無くさない大人でいたいです。
「友だち、だったんだ。」
またも不意打ちだ。
「へ?」
恥ずかしいくらいまぬけな声が出た。戦斗の悲しみから、まだ抜けきれない冬の終わりの午後のだった。
「愛華…ほら、前の、バスの…。」
サッカー部のグランドを越える辺り。卯希はあたしの方は見ないで、前だけ見て言った。
「あぁ…。」
あたしは出来るだけ興味が無いように答えた。話してくれるのはうれしかったけど、それまでにいくらの決意が必要だっただろうと思うと、あたしにも覚悟がいる気がした。卯希の方が淡々として続けた。
「愛華とは入学式で出会ったんだ。同じクラ スの席が隣で、見た目はおとなしい、すごくおとなしそうな女の子だった。すぐに意気投合して、仲良くなって、休み時間も放課後もずっと2人で居た。ちょうど今の僕と藍みたいに。愛華は見た目どおり、おとなしくて優しくて、1番の友達だったんだ。ううん。唯一…僕の唯一の友だちだった。あの日までは。」
「あの日?」
そこで会話が途切れた。卯希はためらっているというよりは、言葉を1つ1つ選んでいるようだった。
「愛華…愛華がね、いじめの標的になった。
何もしてない。ただクラスの女の子の財布が盗まれて、なんでか分からないけど、愛華が犯人だってことになった。誰が仕組んだ噂かは知らないけど…。愛華はその日から、教科書も席も無くなった。歩くたびに、名前も知らない誰かから、罵声を浴びせられては、いつも泣いてた。僕は何も出来なかった。違う…何もしなかったんだ。そうやって僕が愛華から遠ざかって行くたび、愛華は傷ついたんだと思う。ある日、僕が学校に行ったらさ、席が無かったんだ。昨日までそこにあった僕の机が…。」
もしかしたら卯希は、なにかから開放されたかったのかもしれない。ずっと卯希の心の奥、柔らかいところを掴んで離さないなにかから。
「それって…?」
分かっていた。次に返ってくる答えは分かっていたけど、ここまできたら腹をくくるしかない。もうあたしにも卯希にも逃げ場なんて無かった。あとは聞くしかない。続けるしかない。
「今度は僕がターゲットだった。」
卯希が続ける。もう引けなかった。
「財布を盗んだのが、愛華じゃなくて本当は 僕だったって。友だちを陥れた卑怯なやつだって。それでも…それでもその時、愛華はずっと僕の側に居てくれたんだ。僕は愛華に謝った。何度も何度も、それから本当に感謝してた。ありがとうって、そんな小さな言葉じゃ表せないくらい。でも…。」
「でも、なに?」
間を空けるのが怖かったから、すばやく聞き返した。もう早く終わってしまえ、と何度も心に訴えていた。
「愛華だったんだ。黒幕。いじめの張本人、愛華だったんだよ。」
やっぱり、と心の中で呟いた。あたしは何も答えなかった。
「愛華が言ったんだ。私は犯人じゃない、本当の犯人は卯希だって。愛華は友だちをかばった英雄になってた。それから僕の悪い噂は瞬く間に広まった。人の男を取ったとか金を盗んだとか、全部そんな小学生でも分かるような作り話だった。信じるやつも信じるやつだよね。」
卯希は遠くを見つめている。その間、あたしは何度も何度も卯季の言葉を繰り返してみたけど、間違いなんてなかった。聞き間違いなんて1つも無くて、無性に悔しくなった。いっそ今までのこと全部うそならいいのになんて思った。そんな風に感じるのは、これから卯希が言おうとしてることを、あたし自身分かっていたからかもしれない。視点を外さないまま卯希は続けた。
「…愛華に言われたんだ。」
「言われたって、なにを?」
また会話が途切れる。もう何も聞きたくなかったから、このまま止まればいいと思ったけど、やっぱり卯希は続けた。もう何も感じないよう必死に自分に言い聞かせた。
「あんたなんか居なきゃ良かったのにって。」
声が出なくなった。何も返す言葉が見つからなくて、あたしは途方に暮れた。卯希はまだ話を続ける、もう悲しみなんていう感情は、とっくに無くしたとでもいうように。
「本当にそれから人ってやつが怖くなった。関わるのが面倒になって、嫌になって…。学校に行かなくなったんだ。そしたら周りの大人たちが困っちゃって、小学校はそうして卒業できたけど、中学はちゃんと行ってほしいって。だからこっちの中学に来たんだ。僕は…逃げてきたんだ、あの場所から。全部忘れようとしたんだ。」
愛華に最後に掛けられた言葉は、とてつもなく残酷で、とてつもなく冷酷だった。あたしはどうしようもない苛立ちとともに、体の隅々に血が流れているのを感じた。言葉は時に凶器になり、言葉は時に神になる。言ったあとでは、もうどうしたって取り返しはつかない。お願いだから、これ以上卯希を傷つけないで。もうこれ以上卯希に過去を背負わせないで。それは卯希を卯希で居られなくさせた、これからの明日の始まりだったから。その日から、卯希は誰とも喋らなくなった。笑わなくなった。その日から、卯希は自分のことを僕と呼んだ。みんなを遠ざけるための、自分を守るための手段として。卯希は1人で居ることを望んだんじゃない。1人で居ざるを得なかったんだ。これは卯希の望む答えじゃない。夜の帰り道には、2人の息だけが響いていた。月明かりが、あたしと卯希を照らす。何も言わず立ち止まると、あたしはそこに座った。いつのまにか太陽は沈み、暗闇の川が悲しく笑っているように見えた。あたしは、立ち尽くす卯希を見上げて言った。
「違うよ、卯希。友だちってのは…本物の友だちってのは…。」
そこまで言って、あたしは止まった。何を言えばいいのかも、何て言うべきかも、この時のあたしには1つも分からなかった。あたしはなんだか怖くて、卯希を直視出来なかった。水面に揺れる苦しそうな卯希の顔をずっと見つめていた。何秒間か、あるいは何分間か。あたしたちは黙ったまま、自分の影とにらめっこをしていた。思ったより、落ち着いたやんわりとした口調で、卯希は言った。
「藍が居ればいいんだ。僕はそれだけでいい。」
卯希は笑う。口元だけを動かして、悲しそうに笑う。あたしは自分の鈍感さに嫌気がさした。ずっと一緒にいたのに、こんな簡単なことにどうして今まで気付かなかったんだろう。そうだ。卯希は、そうだったのか。
「戦斗も、ね…。」
あたしは静かに微笑んで、卯希を見た。知らぬ間に、あたしの知らぬ間に卯希は泣いていたようで、頬の横がほんのり濡れているのが分かった。
「そっか。戦斗…戦斗も居てくれるんだね。」
卯希は呟く。聞き取れるか、聞き取れないかの瀬戸際で、卯希は呟いた。もしかしたら本当に独り言だったのかもしれないけど、それでもいいと思った。また卯希の頬で、雫が光る。後から考えれば、この時あたしは一緒に泣くべきなんかじゃなかったのかもしれない。たとえば優しく肩を抱いて、励ますべきだったかもしれないし、たとえば涙を拭って、大丈夫だよって言ってあげるべきだったかもしれない。でも、なんでかなぁ。不思議と後悔してないんだ。この時、一緒に泣いたこと。卯希と一緒に泣いたこと。
「関係ない。これが愛情だろうと、友情だろうと、関係ないんでしょ?」
涙を止めないまま、あたしはゆっくり卯希を見た。
「そう、だね。」
その時、卯希は笑った。あたしたちは2人で顔を見合わせて、もう1度笑った。今度は幸せの笑顔だった。
卯希の過去のお話でした。卯希はとても素直で真っすぐな子です。それゆえに空気が読めないと思われることもあったのかもしれません。そんな卯希も前を向いて歩いていくことを決意出来た回でした。それはきっと藍と戦斗のおかげですね。




