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追憶

卯希の過去のお話です。誰しも人に言えないことってありますよね。でもそういうときって同時に誰かに気付いてほしかったりもするものです。

 日が沈むのが、心持ち早くなった気がする秋の終わりごろ。今日の学校は体育系の部活の大会やら何やらで午前だけで終わった。いつもと同じような放課後。あたしはいつものように卯希といた。普段は日が沈むまでここに居る。それがなんでかなぁ。今日に限ってあたしは卯希を急かしてしまった。ほんとに今日に限って。その日、あたしと卯希は病院に行く前に本屋に行った。ずっと探していた小説。なんせ小さい街だからか、この街の本屋には売ってなくて、隣町の本屋にわざわざ電話して取り寄せてもらったものだ。1ヶ月待った。それもプラスに働き、あたしはこの先の未来なんて分からないままただウキウキしていた。2人でバスに乗り込むと、思ったより混んでいた。平日の夕方だからか、買い物帰りの主婦と学校帰りの学生が多かった。みんな楽しそうに話している。今晩のご飯は何にするだとか、あの雑誌のモデルがかわいいだとか、和やかな木曜の午後だった。バスの窓から静かに注ぐ光が、やけに眩しく感じたのは、あとから考えればただの錯覚なんかじゃ無かったのかもしれない。このとき微かに勘付いた胸騒ぎに、あたしがもっと現実的な行動を起こしていれば良かったんだ。ただ今ではそれはただの後悔にしかすぎないんだけど。混み合うバスの中、あたしと卯希は特に何も喋らないで、ただ揺られるがままにされていた。卯希の顔色が変わるその瞬間までは。乗り込んできたのは、いかにもギャルギャルしい女子校生の3人組。1人は金髪、1人はピアス、そうしてもう1人はこの世の全てを支配したとでもいうような鋭く切れる目をしていた。回りの女子高生は怯えながら、彼女たちを避けた。どうやらここの学校では有名らしい。あたしはこの時、隣で震える卯希に気付きもしないで、ただわざと彼女たちに向けて鼻をツンと立てていた。それが唯一の正当防衛だという大きな勘違いをしたまま、じっと彼女たちを見つめていた。しばらくバスの地べたに座り、ぎゃあぎゃあ騒いでいたその3人は、それに飽きたのかくるりと辺りを見回し始めた。まるで獲物を狙う猛獣みたいだった。こういうやつらは嫌いだ。そうしてふとこちらを見ると何かに気付いたように甲高い声で笑った。卯希はまだ震えていた。あたしは無造作にそいつらを睨んだ。3人は何度か目で確認をしたあと、あたしたちの座る1番後ろの席に向かいゆっくり歩いてきた。想像よりもかすれた声で、卯希に声をかけたのは金髪の女だった。

「久しぶりじゃん。卯希。」

 そいつは卯希の髪をくるくる撫で回しながら言った。あたしはこの時やっと卯希が震えていることに気付いた。この時やっと卯希が怖がっていることに気付いたんだ。

「ねぇ、元気だったぁー?」

 生温いイライラする声でピアスの女が言う。卯希は下を向いたままあたしの手を握り締めている。そうして自分の唇を自分で切ってしまいそうなくらい強く歯を食いしばっていた。

「あっれぇ?久しぶりに親友にあったのに、挨拶もないわけぇ?」

2人の後ろから、目をギラギラさせたその女が甘ったるい声で叫んだ。そいつが3人のリーダーらしい。周りの女子高生は見てみぬふりをしている。主婦は本人に聞こえるか聞こえないかの瀬戸際で噂話に花を咲かせていた。

「なんか言えよ。」

 その女が荒々しく声を張った。周りの空気が凍った。女子高生も主婦も黙り込んだ。瞬間だったはずなのに、そこにはとてつもなく長い時間があるように思えた。現在と永遠の狭間の暗い空間だった。空気を戻したのは卯希だ。

「もうあんたたちのことなんて忘れたから…。」

 卯希は今にも途切れそうな声を1つ1つ絞り出して言った。

「はぁ?お前調子乗ってんじゃねぇぞ!」

 ピアスが叫ぶ。卯希の髪はさらに強く引っ張りあげられた。頭がキンキンした。久しぶりに人に対して、腹立たしい感情になった。とにかくここから卯希を逃がそうと思った。こいつらと卯希がどんな関係かは知らないけど、卯希にとってプラスで無いことは確か。頭で理屈を考えるより先に体が動いた。あたしは面倒臭そうに顔だけでそいつらを見上げると、冷たい目をして睨んだ。

「なんだよお前。文句あんのかよ!」

 今度は金髪が叫ぶ。と同時にあたしの髪もそいつに吊り上げられた。

「うるさいなあ。ここバスだよ、静かにしなよ」

 あたしは何にも動じないで、ただ冷静に言い放った。あたしが引いちゃ駄目だ。一刻も早く、ただ一刻も早く。

「うちらはただ卯希と遊びたいだけじゃーん。何カリカリしてんのぉ?」

 悔しそうな顔をするピアスと金髪を押しのけて、リーダーが言う。猫も裏返ったようないかにもぶりっこぶりっこした声だった。無性にイライラした。こいつらが地元のここで、どれほど恐れられていようと、関係ないと思った。そんなのあたしにはどうだっていいことだから。誰が誰をひがんでいるのか、誰が誰が嫌っているのか、そんなこと分からないし、分かりたいとも思わない。ただあたしは名前も知らないこいつらをその瞬間、世界を敵に回してもいいと思うくらい憎んでいた。卯希を傷つけるやつは誰であろうと許さない。誰であろうと。そのうちばかばかしくなって、あたしは静かに笑った。そいつらを欺いて、心の底から笑ってやった。この時のあたしに怖いものなど何も無かった。

「ちょっ、ねぇ愛華。こいつやばいんじゃない?」

 リーダーは愛華というらしい。次があたしたちの降りる停留所だった。あたしはなにも言わず、どこも見ず、一直線に笑う。愛華というその女は「もういい。」とだけ言うと、元居た場所に静かに帰っていった。もうすぐ停留所に着く。車内は果てのないような揺れにただただ怯えているように見えた。バスはそれでも何事も無かったように、ゆっくり止まっていった。いつもと何も変わらないように、ただひたすらに任務をこなす。あたしはそれすらに苛立っていた。バスが止まった瞬間、あたしは勢いよく卯希の手を引いて、大げさに歩いた。

「可哀想な子たちだね、あんたら」

 降りる直前、あたしは卯希の手を引きながら凍るような声で呟いた。出来るだけ遠く、そいつらと卯希を引き離せるように。出来るだけそいつらと卯希の関わりが小さくなるように。ピアスが小さく舌打ちしたのが聞こえた。バスを降りると、地面の暖かさがやけに身にしみた。並んだ影が2つ。穏やかに伸びていた。それからしばらくまだ揺れの感覚が残る頭で、ぼんやりさっきまでのことを考えていた。祭りの後の静けさって、こういうことを言うのかな。まぁそんないいもんでもないか。卯希も隣でぼんやり考えごとをしているようだった。卯希の過去に何があったかは知らないし、あいつらとどういう関係だったのか気にならないって言えば、うそになる。でもあんなやつらに従うのが正義だとは思わない。それにきっと卯希ならいつか話してくれる。だから今は何も聞かないでおこう。卯希が嫌がることは、あたしはしない。卯希が傷つくことは、あたしはやらない。今までも、これからも。

「ありがとう、藍。」

 ふいに口を開いたのは、やっぱり卯希の方だった。

「どういたしまして。」

 あたしは卯希を見て、力いっぱいに微笑んだ。本屋までの道。あたしたちが交わした言葉は、それだけだった。

卯希の過去のお話でした。なぜ彼女が自分のことを”僕”と呼ぶようになったのか、紐解く回でした。彼女たちのような子たちが平和に暮らせる社会になってほしいと願うばかりです。

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