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真っ先に思い出したのは、スナック菓子のカラ袋と半分ほど残ったまま、いつからか転がっているコーラのペットボトルだった。
(そうね、けっして悪くはない生活だったわ)
夏は冷房、冬は暖房の効率を最大限に上げるために締め切った4畳半。もちろんパソコン完備であり、外界の情報を知るには困らない。
食事は母親が部屋の前まで届けてくれる。少しばかりの小言に耐える精神力があれば、飢える心配もない。
唯一面倒なのは排泄で、階下のトイレまで降りていかねばならなかったのだが、それも空いたコーラのペットボトル……
「いやいや、それは乙女的にあかんでしょ!」
「なにを悶えてるんだな?」
「いえね、それなりに快適な生活ではあったなぁ、と」
「ならば話ははやいんだな。あっちの世界に帰って、普通の女として一生をおくるが良いんだな」
「それはイヤ」
きっぱりと言い放ったあとで、メグはキャピっと軽くポーズを決める。
「だって、私は今の可愛い姿が気に入ってるし♡」
「この男がどうなってもいいんだな?」
そう言われて、メグはフェアリーを見た。鼻先にぴったりと拳をつけられて、それでもなお、ギラギラと闘志に燃える赤い瞳をオタク男に向けている表情を。
「ねえ、フェアリーくん、私がこっちの世界からいなくなったら、寂しい?」
「ていうか、あんたこそ俺から離れて生きていけるのかよ」
「そうね……生きていけないかも。寂しくて、たぶん死んじゃう」
意外なほどに素直な言葉にフェアリーが目を見張った。
「メグ……」
「んー?」
「俺も、あんたがいなかったら、たぶん死ぬ」
「じゃあ、ここで命をかけても、結果的には一緒よね」
「なるほど……かしこまりました、お嬢様」
ニヤリ、と笑ったフェアリーは悪鬼に似て、恐ろしいほどの気魄に満ちている。
オタク男はこれが面白くなかったのだろう。拳を開き、フェアリーの喉元につかみかかった。
「じゃあ、お望み通りここで二人とも死ぬといいんだな……」
「死ぬかよ!」
気合い一咆、フェアリーはその手をするりとかわし、低く身を沈める。
「う? 消えた?」
「消えたんじゃない。てめーの腹が邪魔で、足元がよく見えないんだろ!」
クイッと長い足を伸ばして、フェアリーがオタク男の足元をすくう。
「な! やられたんだな!」
バランスを崩した男は、無様に床に転がった。
「いまだ、言霊を!」
メグは人差し指で空をひっかいた。
「消えろ」
陣を通した言葉は、光の球体となってオタク男に迫る。
しかしオタク男は慌てることなく人差し指を立てて、中空にくるっと円を描く。
「お前がな」
ぱぁん!と派手な音が部屋に響き、光の玉が180度方向を変えた。つまり、発術者であるメグに向かって。
しかしメグも負けてはいない。再び人差し指を動かして叫ぶ。
「あんたが消えるのっ!」
ツパーンと小気味良い音がして、玉はまた、オタク男の方に跳ね返った。
ギュルギュルと音を立てて、玉は男に迫る。
「ふん、もう飽きたんだな」
男がぼそりと呟くと、それは言霊となって光の玉を砕いた。四散する光が、ほんの一瞬、あたりを白く照らす。
「今よ、フェアリーくん!」
メグも、もちろんフェアリーも、この一瞬の隙を逃さなかった。
フェアリーはメグの体を抱え、窓から飛び出す。
「あ、逃げるなんて卑怯なんだな!」
「逃げるわけじゃないわ、戦略的撤退よ!」
捨て台詞を残して闇に消える二人を見送って、男はにやーりと唇の端を上げた。
「ふん、逃げても逃げても無駄なんだな」
二人の後ろ姿を飲み込んだ夜闇に、「デュフフフ、デュフフフ」と、笑い声が響いた。




