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「ねえ、きいてないんだけどっ!」
「言おうとしたのに聞こうとしなかったのはお嬢様のほうですよ」
メグの前に運ばれてきたのは、2メートルはあろうかという大魚だった。
しかも……生きている!
俎板代わりの大きな丸太に丈夫なロープでくくりつけられてはいるが、ぎしぎしと縄きしむ音を立てて暴れまわっている生きた『魚』をさばけというのだ。さすがのメグも少しおびえて立ち尽くした。
「ささ、お嬢様、眉間に一撃食らわせてやってください、それで大人しくなりますから」
フェアリーは背中を押すけれど、メグは震える両手で斧を握り締めたまま、その魚を見下ろして凍り付いたままだ。
ぜんたい、これは本当に魚類なのだろうか。立派な尾びれといかにも肉のつまった腹は深海魚を思わせるが、顔は大きく口元が伸びだして爬虫類的であり、、それが顔全体を裂くように開いている。大きな口の中にはびっしりと鋭い牙が生え、えらの辺りには体に不釣合いなほど小さな前足が生えていた。
「これ、ワニ?」
「良くご存知ですね、これはこの地方でしか取れない『ワニザメ』という珍味で……」
「うそ! メグの世界ではワニもサメも……」
「お嬢様の世界の常識なんて知りませんよ。こっちの世界ではワニザメっていったらこれなんです」
「わかった、おーけい、百歩譲ってこれがワニザメだってことにしましょう。なんで生きてんの!」
「こういった魚は生き腐れですからね、死ぬとアンモニア臭がついて食べられたもんじゃなくなるからです」
「むりむりむりっ!」
「じゃあ、俺がやりますよ。その斧を貸してください」
メグが小さな斧を手放そうとしたそのとき、キリーがへらりと笑いながらつぶやいた。
「いやあ、料理のできる女性っていいですよね、家庭的で」
「う……くうっ!」
白魚のようなメグの指がきゅっと引き締まり、斧をしっかりと握りこんだ。
「私がやるわ。下がってなさい、フェアリー!」
「さようですか、ならば」
かしこまった仕草で胸に手を当て、フェアリーは後ろへと下がった。見た目はいかついとはいえ、しょせんは陸に揚げられた魚……急所である眉間に一撃を食らわせれば絶命する。いってみれば、斧を振り下ろすだけの簡単なお仕事なのだ。
「い……いくわよ!」
それでもメグは震えていた。
大きな魚が暴れるたびに、丈夫なはずのロープさえギシギシ、ミチミチと悲鳴を上げる。大きな口はメグを食い殺したいのか、場君、ガツンと空を噛んで暴れまわる。
「う……ひ……」
「ほら、お嬢様、あんまり暴れさせると鮮度が落ちますよ」
「わ……わかってるわよ!」
メグが大きく斧を振りかざす。刃の薄さを見せるかのように、日の光があざとく反射した。
「せいっ!」
りんとした掛け声と共に振り下ろされる鈍色の刃、しかし震える手元ではそれを御しきれるはずがない。
大きくそれた刃は、魚を縛り付けている縄の一部に食い込み、それを断ち落とした。
「しまった!」
ブチッと音がしたのは一度だけで、大きな魚は縛から解かれてドサリと地面の上に落ちる。
「やばいぞ! みな、武器を取れ!」
誰かの声に料理人たちが包丁を構えるが、それは怪魚の眉間に打ち込むにはいささか長さが足りないようにみえた。
魚のほうはといえば短い前足で体を引き起こし、ぎろりとメグをにらみつける。
「な、なによ……あんたなんか言霊で……」
メグは顔の前に指を立てるが、おびえて震えた指はむなしく空中をかき回すばかりで陣を描くことなどできない。
その間にも魚は、ずるりと体を引きずってメグに迫る。
メグ危うし!
「眉間だ、眉間を狙え!」
「食材ごときにおくれを取るな!」
包丁を構えた料理人たちがばらばらと肴に向かって駆け寄るが、その怪魚は尻尾の一振りだけでことごとくをなぎ払った。
「ううわっ!」
「ぐおっ!」
料理人たちの手を離れた包丁がうなるような音を立てて弾き飛ばされる。テーブルの上に並べられていた皿は一緒にはじき上げられて宙を舞った。
「ああ、包丁がうなり、皿が宙を舞っていますね」
「フェアリー、お願いだからなんとかして!」
「最初から素直にそう言えばいいのに」
魚は大口を開けて、すでにメグの目前にまで迫っている。
それでもフェアリーは涼しい顔をして、あまつさえ静かな微笑みさえ浮かべていた。
「ではお嬢様、約束してください、ここは俺が引き受けますので、金輪際『フェアリー』というあだ名で呼ばないと」
「え……うぐ……」
じりりと、魚がまた前進する。
「ああ、もう、わかった! 『ケイ』、この魚を何とかして!」
「御意」
他のものには、ただ風が動いたようにしか見えなかった。一瞬だけ前に体を倒した彼の姿が。ふっと消えたからだ。
しかし次の瞬間、まるで風がつむじを巻くように、彼は魚のすぐ鼻先に立っていた。
「おっと、この方は俺の呪いを解いてくれる大事な人なのでね、それ以上生臭いヒレを近づけんじゃねえよ!」
いつの間に拾い上げたのか、握りこんだ包丁を魚の眉間に向けてすごむ彼は、いつもの飄々とした巣税からは考えられないほどに荒々しかった。
「教えてやるよ、俺がなぜ……戦闘精霊なんて呼ばれているのかをな!」
ヒャッハァな感じで見開かれた彼の瞳はいま、真っ赤な血潮の色に変わっている。それがある呪いを受けた者の特徴であることを思い出して、キリーは身震いした。
「フェアリーって……まさか童貞……」
「あ゛あ゛ん゛?」
「いえ、何でもないです……」
「それ以上言いやがったら、お前も三枚に下ろすからな!」
――風が吹いた
誰もがそれしか感じなかった。それほどのスピードだった。
「ヒャァハァッ! まだだ! まだ倒れさせてなんかヤらねえよぉ!」
魚の眉間には包丁が深々と刺さっている。絶命しているのは明らかだ。
その周りを、別の包丁を握りしめたフェアリーが走り回っているようだが、これは誰からも黒い疾風のようにしか見えなかった。
魚の体が左に傾けば左に回りこみ、右に傾けば右に走り、風は縦横無尽に……そして魚は直立したまま、その身をみるみるそぎ取られてゆく。
そしてついに、骨だけになった魚は大きく傾いた。
「おっと、あぶねえよ、お嬢様」
とつぜん現れた黒いつむじ風に抱き上げられて、メグはつぶやく。
「トゥンク♡」
「ん?」
「なっ! ななななん! なんでもないわっ!」
風がすっかりやんだ中、みなが見たものは崩れ落ちる大魚の骨格と、それから姫君を守るように抱きかかえたフェアリーの姿と、そしてテーブルの上に大輪の花のように盛り付けられた刺身であった。
口調も、目の色もすっかり元通りになったフェアリーはメグの顔を覗き込んで囁く。
「さあ、お嬢様、食事にしましょう」
「はうっ! 動悸が!」
「具合が悪いのですか? あまりに怖かったせいでしょう。キリー王子にご挨拶して、今日は宿へ引き上げたほうがいいですね」
そこでフェアリーは、ぼんやりと立ち尽くしていたキリーに向かって頭を下げた。
「せっかくの昼食会でございますが、お嬢様の体調が優れませんようで……今日はこれにて失礼させていただきます」
「あ……いや、待ちたまえ」
キリーが彼を呼び止めたのは褒美の言葉をかけようとしてのことだった。
しかし、ついさっき見た彼の赤い瞳ばかりが脳裏をめぐり、うまい言葉など出てこない。
「キミはその……童貞の呪い……」
「ごろ゛ずぞ、ゴラァ!」
「ああ、いやいや……えっと……戦いの最中でも主を守る気遣い、まことに見事でした」
「それはどうも」
「加えて料理の腕も見事で、それから……良く見れば男にしては可愛らしい顔をしているし、女性だったらぜひともウチに嫁いでほしいぐらいです」
「ああ、そのせりふ言われるの、俺なんですか……」
「なにか?」
「いえいえ、光栄に存じます」
深々と頭を下げるフェアリーの腕の中で、メグが叫んだ。
「こんなはずじゃなかったのにぃ!」




