8、初恋
「え、広瀬先輩……ですか?」
あたしは、綾川さんの口から出た予想外の名前に、思わずポカンとしてしまった。なぜ、広瀬先輩の事をあたしから聞きたがるんだろう。この前の様子から見るに、あたしより綾川さんの方が、よっぽど広瀬先輩と仲が良いのに。
「……中学から衣純と一緒なんだけど、初めてなの。あいつが、女の子に優しく微笑み掛けるってことが。」
「あの、広瀬先輩がですか?」
「ふふ、そうだよ。いつも優しくて穏やかな衣純だと思ってた?」
「…………。」
綾川さんは、少し眉尻を下げながら微笑む。そして、小さくため息をついて、彼女の中の想いをあたしに教えてくれた。
「好きなの、衣純が。」
綾川さんの声が震えている。もしかして、と彼女の瞳を見てみると、再び涙が浮かんでいた。
「女子には中々話しかけたりしないけど、衣純って、自分の友だちには本当に優しいのよ。友だちといる時の衣純って、本当に幸せそうに笑うの。本当に、一緒にいて楽しいんだなあっていうのが伝わってくるくらい。」
「…………。」
「一年の頃にね、私、衣純に『好きな人いるの?』って聞いたの。そしたらね、すんごおく優しい顔をして『いる』って答えやがったの! 全く人の気も知らないでさ。」
綾川さんは、照れた顔をしたり、怒った顔をしたりと表情をコロコロと変えながら話しをしてくれている。
何だか、可愛い人だ。とあたしは素直に思った。
「小さな頃の初恋の人が、今でもずっと忘れられないって言われたの。またきっと会えるって信じてるからって。また守ってあげたいって。それ聞いた時、私、本当に嫉妬したなあ。」
綾川さんが目を細めて、風で乱れた髪を手櫛で整える。
彼女の目尻から、ずっと堪えていたであろう涙が、つうっと伝った。
「私が何を言いたいか、と言うとね。衣純が、友だちや初恋の人の事を話していた時の笑顔が、いつも鈴菜ちゃんに向けている笑顔と同じだよっていう事だよ。」
「そんなこと……。」
「んーん、そんな事あるの。私が何年、衣純の事を見てきたと思ってるの?」
私負けないよ、と綾川さんは綺麗な笑顔で言った。
あたしの中で、「綾川さん」という人物がストンと落ちたような感覚がした。
恐怖はもう、無い。
教室に戻る最中、あたしはずっと忘れていた自分の初恋を思い出していた。小学校六年生の頃、親友のひかるに言ったきりだったから。
考えてみれば、あの頃からあたし、「恋」なんて言うものを考えた事も無かったなあ。そんな話しをする友人もいなかったし。
あーあ。初恋……か。
「……会いたい。」
気が付くとあたしは、そう呟いていた。