迷い人と王子妃
努めて冷静にと振る舞いながら、勝手に高鳴る胸が聞こえてしまうんじゃないかと思うくらいに私は高揚し、緊張していた。
私的な会談に使う部屋に通され、少しして国王陛下と王妃陛下が入ってくる。膝を折り深く礼をして父と迎える。楽にするようにとの声で顔を上げ、用意された椅子に腰掛ける。
遅れてアーサーとジェームスが入ってきた。二人とも心なしか顔付きが固い。私はアーサーをちらりとうかがって目線を合わせた。普段なら微笑んでくれるはずのアーサーが、ふいと目を逸らす。
その仕草に違和感を抱いた。ただここに陛下達がいるからアーサーも緊張しているのかと、私もかしこまって座り直した。
関係者はこれで全部だと思っていたのに、椅子が一つ余っている。誰の分だろう。
ぽっかりと空いたその椅子がどうしてか不安を煽る。ぴりぴりした空気が流れているのはと出所を探れば、アーサーとジェームスだ。
二人とも唇を引き結んで隣同士なのに、互いを視界に入れないようにしている。あからさまに視線を当てるのは不作法だから、顔を少しうつむけたままで二人を見守る。
「本日はアーサーの婚儀の発表について集まってもらった」
国王陛下の一言にぴりっと緊張が走る。とうとう、という思いも同時にわいた。このために物心つくかつかないかの頃から、嗜みや教育を施されてきた。全てはアーサーと共に歩むため。
その一歩が始まるのだと身内が引き締まる思いだった。
「……のだが、アーサーが発言したいとのことなのでまずそちらを聞こう」
「ありがとうございます」
緊張した面持ちでアーサーが立ちあがる。そしてゆっくりと一同を見回した。
私は希望に満ちた眼差しで熱くアーサーの視線に応えた。頑張りますと決意して微笑みながら頷いた。
でもアーサーは私に笑いかけては、くれなかった。
「私は――メアリ、メアリ嬢と婚儀はあげられません」
微笑みが凍り付いた。アーサーは、何を言っているのだろう。
私は狼狽して隣の父に体ごと向き直る。父は苦渋に満ちた眼差しをよこした。驚愕でもないその表情に、助けを求めるために上座の陛下達を仰ぎ見て、お二人が父と同じ感情を宿しているのに気付く。
アーサーは全身を強ばらせて立ち尽くしている。ジェームスは、彼だけは怒りを宿していた。
皆の反応は私の予想とは違っていた。つまり、私以外はアーサーの発言内容に驚いていない。私は驚きが大きすぎて思考が止まってしまったようだった。アーサーが何を言っているのか理解できない。
アーサーは、おそらく最も言いづらかったことを口にして気が楽になったのだろう。堰を切ったように意見を述べている。
「期待を裏切る真似なのは充分に理解しています。ですが、私は」
「裏切る真似ではなく、明らかな裏切りだ。お前はあれほど説得したのに――」
「返す言葉もありません。私は彼女と人生を共にしたいのです」
言い切ったアーサーは大股で扉まで歩いて行くと自ら扉を開ける。向こう側にいて、アーサーに手を取られて入ってきたのは。
「――カスミ」
思わず零れた単語に、アーサーとカスミが歩みを止めた。アーサーは努めて無表情に、カスミは異様な空気に緊張したまま空席だった椅子に導かれる。見たくないのに、私の視線は二人に張り付いたまま離れない。
カスミが身を寄せるようにして、アーサーの衣装を握っている。アーサーはその上から手を重ねて、カスミに大丈夫と教えるかのように優しく微笑んだ。
微笑みを目の当たりにした刹那、ずきりと胸が痛む。一度痛いと感じてしまうと止めようもなく、息をするたびにずきずきと痛い。この痛みは何の痛みだろう。私は答えにたどり着けない。
「ご覧のように、私はカスミを生涯の伴侶に選びました。彼女以外は、考えられません」
「アーサー様」
「アーサー」
私とカスミが同時にアーサーに呼びかけた。でもアーサーはカスミにだけ反応する。
まるでこの部屋にはカスミしかいないかのように。私はようやく、アーサーがカスミに心を移したのだと理解せざるを得なかった。
カスミに、アーサーを奪われたのだと。
カスミはおどおどと周囲を見回す。冷ややかな空気に竦んで、私を最後に認めた。
私の名前を呼ぼうとして途中で唇を震わせ、みるみる涙を浮かべる。何度か唇を開いては舌で湿し、言葉をのせる。
「ご、めんなさい。でも……でも、私、アーサーが好き。大好きなの」
ごめんで済むと思っているのだろうか。未だにずくずくと胸が痛みで疼きながら、ようやく考えることができた。好き? アーサーは人から好かれる。国中が彼に親愛を寄せているだろう。カスミがアーサーを好きでもおかしくない。
でもそれとこれとは話が別だ。アーサーは一人の男性であるけれど、王位を継ぐ王子だ。当然婚約だって国内の貴族や隣国にも配慮して、暗黙の了解で決まったことだ。単純に好き嫌いだけで論じられるはずもない。
カスミに王子妃なんてつとまりっこない。言葉も覚束ない、歴史も生活様式だって充分身に付いているとは言いがたい。なによりこちらに繋がりがない。そんな娘がアーサーの横に立てるはずがない。
誰がこんな馬鹿げたことを許すというのか。
私はそう断じた。貴族の婚姻は、ましてや王族の婚姻は私情のみで成立しない。それが常識。
誰よりもその常識が染みついているはずのアーサーが、しかしカスミを選んだ事実が私を打ちのめす。
状況を覆せるはずの国王陛下は、難しい顔をしたまま静観している。アーサーは敵だらけの周囲からカスミを守る騎士のように挑戦的に見回していた。私も、アーサーにとっては敵方の一員になってしまったようだ。
埋めがたく越えられない、はっきりとした溝を感じた。
アーサーがこの面々の前で宣言したのは、相当に覚悟があってのことだろう。それぞれ担うものがある人々なのだから、子供じみた意見が通るはずはない。
口火を切ったのは意外にも父だった。
「殿下、たいへんに無礼な質問と心得ておりますが、そのご令嬢を伴侶になさるというのはまことですか」
「申し訳ありませんが、そうです」
「ご令嬢が王子妃になられる、と。では、内々とはいえ婚約していた我が娘はいかがあいなりますか」
アーサーは気まずそうに私を一瞥して、ふいと視線を逸らす。
もうアーサーの気持ちは決定的に私から離れている。悲しい事実の再確認に、発作的に笑いたくも泣きたくもなってしまう。
「それは……済まないとしか。ただ正式な発表はしていないから、体面が傷つくことはないだろう」
「おっしゃっている意味がはかりかねます」
「とにかくメアリ嬢とは婚姻できない。カスミしか考えられない、これが本心です」
「お前は王子だ、アーサー。浅慮にもほどがある」
低い声ながら鋭く場を切り裂いたのは国王陛下の一言だった。アーサーさえもぐっと詰まってしまった。
「異世界からの客人を手厚く遇したのは我々だが、それとこれとは話が違う。考慮にさえ上がらないと自覚はしているのだろう?」
「……はい」
「お前の伴侶は多大な責任と義務を負う。生半可な気持ちではつとまらない。王子、ゆくゆくは国王になるお前を支え共に国を治める者だ。異世界の客人では数日で潰れてしまうだろう」
「カスミにはここで頼れる者がいません。私が守り、支えていきたいと思ったのです」
「その考えはよいことだ。だが、王子妃にはできない。公式の愛人としても微妙なところだ」
陛下の話をじっと聞いていたアーサーが気色ばんで顔を上げた。
「カスミを愛人など冗談じゃない。唯一の人なんです。私が王子でカスミを迎えられないのなら、王子位などジェームスに譲ります」
今度こそ私を含めて絶句するしかなかった。
要求が通らないなら王子の位を返上する? あまりに無責任で考えなし。浅慮の極みだ。
けして口にしてはならないことを、アーサーは口にしてしまった。胸の痛みすら忘れて血の気が引く思いがする。
これこそ、何を言っているのか。
「王子の位をおりる、と?」
「はい」
「――信頼できる補佐をつけて、客人を王子妃にする考えはないのか」
「カスミに王子妃は酷だと、思います。かわいそうです」
陛下はカスミに語りかけた。
「王子妃は大変な立場だが、やる気はないだろうか」
「私……無理と思う」
子供のようにかぶりを振ってカスミが答える。アーサーはカスミでないと嫌。カスミは王子妃は嫌。なら――?
まさかこんな話が通るはずはない。私は私の、この世界の常識に一縷の望みをかけた。発言の許しを得て、アーサーの名を呼ぶ。
「アーサー様。王子の地位は簡単に返上できるものではありません。どうか、お考え直しください」
「――カスミの世界では婚姻は一人とだけだそうだ。愛人を持つのは許されないと聞いたことがあるはずだが」
「え、え」
「それと、仕事を自分で選ぶ権利と自由があるとも聞いた。私には王子位も未来の王位も荷が重い。君も立派すぎて、息が詰まりそうだった」
「アーサー、様」
四阿の二人が脳裏に浮かぶ。婚儀から逃げ出したいとカスミに打ち明けていたアーサーを。それに異論を唱えるでもなく、膝枕をしてアーサーの疲れをほぐしていたカスミを。
対して私はどうなのだろう。王子妃に、未来の王妃になるべく叩き込まれた教育や人との接し方を忘れることなく言動に気をつけていた。全てアーサーに相応しくあるように、したたかさも柔軟さも、強さもずるさも身につけたつもりだ。
それが、息が詰まると。
では私の存在意義は。王子妃になるために生きてきたこれまでは。アーサーを想ってきた年月は。異世界からの娘に未来を奪われた私は。
感情が入り乱れて言葉にできない。
そんな私にアーサーが追い打ちをかけてくれる。
「私は自由になりたい。押しつけられた地位や婚約者ではなく、自分で選び取りたいんだ」
もう、駄目だ。そう考えたのまでは覚えている。
どうやって館に帰り着いたのか覚えていない。高熱にうなされて、いっそ全部が夢ならと愚かしく願っていた。




