第8話 救えなかった一射
今回は波松伊織の話です。
「浄」の珠を手にした伊織が、夢の中で凍珠と対峙します。
倒せば救えるのか。
救うためには、何を選べばいいのか。
一射必中の弓を持つ伊織にとって、初めて「外さないこと」が正解にならない戦いです。
それでは、第8話「救えなかった一射」をどうぞ。
寿満寺の宿坊は、夜になっても夏の熱をわずかに残していた。
布団の上で波松伊織は目を閉じている。
呼吸は静か。
乱れはない。
だが眠りの底で、伊織は奇妙な場所に立っていた。
磨かれた板張り。
弓具の匂い。
福江北東中学校の弓道場。
何度も足を運んだ、あの射場だった。
的場を抜ける風。
聞き慣れた弦音の余韻。
けれど、何かが違う。
人の気配がない。
鳥の声も、時計の音もない。
ただ静寂だけが、床の木目にまで染み込んでいる。
懐かしさの奥で、胸の奥がざらりと粟立つ。
伊織は射場の中央に、誰かが立っていることに気づいた。
黒髪のショートボブ。
細い背中。
弓道で身についた、まっすぐな姿勢。
布目優だった。
多くを語り合った仲ではない。
無理に会話を作らなくても、気まずくならない相手だった。
自分に何も求めてこない、数少ない存在。
伊織にとって優とは、そういう人だった。
「……優?」
小さく呼びかける。
返事はない。
「優、私よ。伊織よ」
そこでようやく、優が顔だけを振り向けた。
瞳に、あの頃の穏やかさはなかった。
次の瞬間、優の足元から白い霜が広がっていく。
床板がパキパキと凍りついていく。
夏の夜に似合わない冷気。
黒と白の装甲鱗が、優の身体を包んでいく。
頭部には、氷の王冠を思わせる突起。
淡い水色の瞳。
腰には氷の矢筒。
左手首には、かつて弓道で使っていた弓懸を思わせる白い装甲。
そして、大型のボウガン――凍珠弩。
布目優が、クリオロフォサウルスの鬼、凍珠へと変わっていく。
咆哮はない。
威嚇の声もない。
凍珠は射手らしく、ただ静かに伊織へ照準を合わせただけだった。
その静けさが、喉の奥を締めつける。
「私を、優と呼ばないで」
胸の奥が締めつけられる。
言い返す間もなく、凍珠弩から氷の矢が放たれる。
◇
伊織は反射的に身をかわす。
矢は柱へ命中し、一瞬で柱から壁までを凍らせた。
伊織も泉純の力を解き放つ。
白鳥をまとうような白い戦闘衣。
白銀の弓、清澄弓。
かつて同じ射場で、同じ的を見つめていた二人が、今度は互いを的として弓を構えていた。
伊織の矢は、いつも急所を外す。殺さず止める場所だけを、正確に選び抜いてきた。
だが、目の前の凍珠に向けて、その勘が働かない。
胸部を狙えば、その奥に優がいる。
頭部を狙えば、その奥に優がいる。
伊織は仕方なく、腕、脚、凍珠弩の接続部――「殺さず止められる場所」だけを選んで矢を放った。
対する凍珠に迷いはなかった。
胸、喉、頭。
明確な急所だけを撃ち抜こうとする。
白い矢と青白い氷の矢が、空中で幾度もすれ違う。
凍珠が伊織の足元を凍らせた。
伊織の足が滑る。
間髪入れず、二射目。
伊織が身を捻ると、頬を氷の矢がかすめた。
白い戦闘衣に霜が広がっていく。
「動かないで」
凍珠が静かに言う。
新しい氷の矢が、凍珠弩の先端に形成されていく。
「外したくないから」
その言葉に、伊織は息を呑んだ。
冷酷さと、弓を引く者としての性が、同じ声の中に同居していた。
優なら、絶対に口にしなかった言葉だ。
そう感じた瞬間、伊織の中に中学時代の記憶が蘇る。
的を外した優が、何も言わずに弓を下ろしていたこと。
自分が外した時も、優は慰めなかったこと。
「次は当たるよ」という無責任な言葉を、互いに一度も言わなかったこと。
だから楽だった。
沈黙を、許し合える相手だった。
順番を待つ優の横顔。
わずかに緩んだ口元。
弓具を片づけて、一緒に帰った放課後。
その断片が、今の殺し合いに重なっていく。
「優……あなた、本当に私を殺したいの?」
伊織が問う。
凍珠の動きが、一瞬止まった。
指先。
呼吸。
凍珠弩の先端。
何か一つだけが、確かに揺れた。
けれど氷冠の内側に、黒い亀裂のような鬼気が走る。
「……優は、もういない」
凍珠は自分の迷いごと、凍らせるように言った。
再び氷の矢が放たれる。
伊織が迎撃する。
白い矢と氷の矢が正面から衝突し、冷気が弾ける。
伊織は悟った。
このまま躊躇えば、自分が死ぬ。
自分が死ねば、優を取り戻そうとする人間が一人減る。
だが、撃てば優を傷つける。
普段は場の調和を優先してきた伊織にとって、「自分ひとりで選ぶ」という状況そのものが、初めての重みだった。
その時、二人の間に小さな光が生まれた。
雪のように白い珠。
表面には、銀色の一文字。
「浄」
「……浄?」
伊織が呟くと、白珠はまっすぐ伊織の手のひらへ飛び込んできた。
握った瞬間、澄み切った霊気が全身を巡る。
清澄弓が白く発光し、弦から白い霊気が溢れ出す。
単に力が強くなったのではない。
視界から雑音が消えていく。
床の霜も、恐怖も、迷いも、余計なものがすべて研ぎ澄まされていく。
残るのは、凍珠。
そして、その奥にいる優だけ。
伊織は直感した。
この力なら――鬼だけを射抜けるのではないか。
凍珠を浄化して、布目優だけを人間へ戻せるのではないか。
その可能性を、伊織は信じてしまった。
白珠が脈打つように光を強め、清澄弓の輝きが増していく。
凍珠もまた、危険を察していた。
凍珠弩へ大量の冷気が集まっていく。
やがて生まれるのは、これまでとは比較にならない巨大な氷の矢。
音が消える。
風が止まる。
凍珠を中心に、世界そのものが静まり返っていく。
凍珠が伊織へ照準を定める。
伊織も清澄弓を、限界まで引き絞る。
かつては横に並んで、同じ的を見ていた二人。
今は正面から、互いを的として見つめ合っている。
「……優」
伊織が呼ぶ。
凍珠の指が、ほんの一瞬止まった。
「帰ってきて」
伊織は矢を放った。
真白い矢。
凍珠もまた、巨大な氷の矢を放つ。
空中で二つの矢が激突し、一瞬拮抗する。
白い光が、氷を内側から浄化するように包み込んでいく。
伊織の矢は止まらなかった。
まっすぐ凍珠の胸へ。
正確に、命中する。
黒白の装甲に亀裂が走り、凍珠弩が地に落ちる。
氷冠が砕け散り、凍珠の身体がゆっくりと崩れ落ちた。
伊織の足が止まる。次の一歩が、出てこない。
すぐに我に返り、清澄弓を放り出して駆け寄る。
「優!」
抱き起こすと、優の身体を白い光が包んでいた。
黒い装甲鱗、白い装甲、氷冠――すべてが崩れるように消えていく。
その下から現れたのは、紛れもなく布目優の、人間の姿だった。
伊織の口元が、わずかにほどける。
戻った。
救えた。
自分は間違っていなかった。
「浄」の力なら、本当に救えるのだと。
数秒のあいだ、伊織はそう信じ続けた。
だが優は、目を開けなかった。
「優?」
肩を揺する。
反応がない。
「優……起きて」
頬に触れる。
冷たい。
視線を落とすと、優の胸元に、伊織自身が放った矢の傷があった。
その瞬間、伊織は理解した。
凍珠と布目優は、別々の生命ではなかった。
鬼だけを射抜いたのではない。
凍珠を殺した。
だから、優も死んだ。
「浄」の力は、まだ完成していなかった。
あるいは、伊織自身が「浄」の本当の意味を、何も理解していなかった。
伊織の表情が、静かに崩れていく。
「……違う。私は……こんなことをしたかったんじゃない」
優を強く抱きしめる。
「助けたかっただけなのに……」
自分の手を見る。
矢を放ったのは、この手だった。
凍珠を射抜いたのも、布目優を殺したのも――他の誰でもない、自分自身だった。
「私が、殺した。」
伊織は、声を失った。
弓道場が、崩れ始めた。
物理的に壊れるのではない。
的が消え、壁が白い霧へと溶けていく。
床も、輪郭を失っていく。
腕の中の優までもが、光になって崩れ始めた。
伊織は必死に抱きとめる。
「待って。優。まだ……!」
だが指の隙間から、白い光がこぼれ落ちていく。
優の顔が、少しずつ見えなくなっていく。
最後に残ったのは、伊織と、砕けた「浄」の白珠の破片だけだった。
破片は暗闇の中へ、音もなく散っていった。
◇
伊織は、はっと目を覚ました。
暗い宿坊。
真夏の夜。
荒い息。
額には汗がにじんでいる。
反射的に自分の手を見る。
血はついていない。
白珠もない。
清澄弓もない。
夢だった。
伊織は胸に手を当てる。
優はまだ生きている。
凍珠として、覇竜十傑として、どこかに。
まだ、何も失敗していない。
伊織は、詰めていた息をゆっくりと吐き出す。
けれど、夢の中で感じた感触は消えなかった。
矢を放った指の震え。
弦が離れる瞬間の音。
優の身体の重み。
冷たくなった頬。
伊織は布団の上で膝を抱え、これまで意識的に避けてきた事実と向き合った。
凍珠を倒すことと、布目優を救うことは、同じではない。
自分なら、凍珠を射抜くことができる。
だが、だからこそ怖い。
正確に射抜けば射抜くほど、優まで殺してしまうかもしれない。
一射必中を誇る射手にとって、最も正確な一射が、最も間違った一射になり得る。
伊織は暗闇の中で、小さく呟いた。
「……優」
返事はない。
瞼を閉じかけては、その手前で止まる。もう一度、あの夢に呑まれるわけにはいかない。
ただの悪夢なのか、未来の可能性なのか。
それは分からない。
けれど、一つだけ決めたことがあった。
次に凍珠と対峙するまでに、優を殺さず、凍珠だけを浄化する方法を見つけなければならない。
その決意を、伊織は誰にも語らなかった。
ただ静かに、胸の内へしまい込んだ。
夏の虫の声が、遠くから聞こえていた。
夜明けまで、伊織の目は閉じなかった。
弓を正確に射る方法なら、伊織はとうに知っていた。
けれど。
人を救うために、何を射抜けばいいのか。
その答えだけは、まだ知らなかった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
伊織にとって凍珠――布目優は、多くを語らなくても気まずくならない、数少ない相手でした。
だからこそ「浄」の力で救えると信じた瞬間の伊織と、その直後に突きつけられる現実の落差を、丁寧に書きたいと思いました。
これは夢です。
けれど、ただの悪夢として片づけていいものなのか、伊織自身にもまだ分かっていません。
次話は「焔羅の夢」。
寿蒙が見る、安土桃山時代の光景です。
金津美里とうり二つの女王・焔羅。
そして、彼女に頭を下げる大僧正・梵嶽。
四百年以上前の記憶が、少しずつ現在へつながっていきます。
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次話もお付き合いいただければ幸いです。




