公爵様から悪女と断罪され追放宣告を受けました〜九年前に初恋を散らされた魔石細工師は、ただ真実のみを追う
王都の中央に位置する白亜のドーム型展示場は、国中から集められた絢爛豪華な魔石細工と、それを買い求める貴族たちの熱気でむせ返るようだった。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアが眩い光を放ち、磨き上げられた大理石の床には、色とりどりのドレスに身を包んだ貴婦人たちや、仕立ての良い燕尾服を着こなした紳士たちの姿が万華鏡のように映り込んでいる。年に一度開催されるこの「宮廷魔導具展」は、職人たちにとっては自らの腕を王侯貴族に売り込む最大の機会であり、貴族たちにとっては己の財力と権力を誇示するための社交場でもあった。
ガブリエラ・アーヴィングは、自身の出展ブースの前に静かに立ち、小さく息を吐いた。
没落した男爵家の令嬢である彼女は、派手な装飾品を身につけてはいなかった。
しかし、彼女の透き通るような白い肌と艶やかな亜麻色の髪は、この日のために新調した深みのあるグリーンのドレスによって美しく引き立てられていた。体に沿うようになめらかに落ちる上質なシルクの生地は、余計な装飾がない分だけ、彼女の洗練された立ち姿を際立たせている。
しかし、今日の主役は自分自身ではない。ガブリエラは慈しむような手つきで、ベルベットの布の上に並べられた魔石たちにそっと触れた。
彼女が丹精込めて磨き上げた魔石は、どれも内側から柔らかな光を放っている。
魔力の波長を極限まで読み取り、石の繊維を傷つけないように何日もかけて研磨された石たちは、まるで生きているかのように微かな鼓動を打っていた。
他の職人たちが作るような、無駄に魔力を注ぎ込んだだけのギラギラとした派手な石とは違う。
持ち主の魔力に寄り添い、穏やかに調和する「生きた魔石」。それが、若手魔石細工師として王都で少しずつ名を上げ始めたガブリエラの誇りだった。
(今日も順調ね。この調子なら、アトリエの来月分の家賃と、新しい研磨機材の資金が十分に作れそうだわ)
ガブリエラが安堵の笑みを浮かべ、陳列の微調整をしようとした、その時だった。
突如として、会場の入り口付近の空気が一変した。
さざ波のように広がったどよめきは、やがて完全な静寂へと変わり、何百人という人々の視線が見えない糸に引かれるように一つの入り口へと吸い寄せられた。楽しげな歓談の音楽すら、その圧倒的な存在感を前にしてはひれ伏すように音を潜めてしまう。
「……マルク公爵閣下だ」
誰かが震える声で落としたその名前に、ガブリエラの心臓は、まるで氷の刃で直接鷲掴みにされたように激しく跳ねた。
呼吸が浅くなり、指先から血の気が引いていくのがわかる。ドレスの陰で、ガブリエラは震えそうになる両手をきつく握りしめた。
レッドカーペットの上を、一人の男が歩いてくる。
漆黒の髪を後ろに流し、隙のない仕立ての漆黒のフロックコートを纏った男。マルク・ローゼンベルク公爵。
王国の経済の半分を握るとまで言われる大実業家であり、若くして公爵位を継いだ冷徹なる権力者。
長身で、彫刻のように整った完璧な容貌を持つ彼は、会場にいるすべての女性の溜息を誘うほどに美しかった。
しかし、その極寒の吹雪を思わせる氷藍色の瞳には、一切の温もりが存在しない。周囲の貴族たちが媚びを売るように道を開け、深々と頭を下げる中、彼は誰一人としてまともに見ようともせず、ただ傲慢に前だけを見て歩みを進めていた。
(まさか、今回の魔導具展の最大のパトロンが、彼だったなんて……)
ガブリエラは、奥歯を強く噛み締めた。
九年前。ガブリエラがまだ十二歳の、痩せっぽちで、不器用で、なんの取り柄のない少女だった頃。
彼女は、父の客人としてアーヴィング家を訪れた当時二十一歳のマルクに、全身全霊の初恋を捧げていた。
当時の彼は、現在のような周囲を威圧するだけの氷の冷徹さはなく、時折見せる物憂げな表情がたまらなく魅力的な青年だった。
ガブリエラは彼に振り向いてほしくて、幼い魔力を必死に振り絞り、自分の指を傷だらけにしながら、一つのお守りの魔石を削り出した。不格好で、いびつで、何の価値もないただの石ころだったかもしれない。けれど、それは少女の純粋な恋心のすべてだった。
『マ、マルク様! これ、わたくしが削ったんです。どうか、お守りに……』
勇気を振り絞って彼にそれを差し出した日。
庭園の冷たい風の中で、マルクはガブリエラの手にあるいびつな石を、まるで路傍の汚物でも見るかのように冷酷に見下ろした。
『……子供のお遊戯に付き合っている暇はない。私の視界をうろちょろするな、目障りだ』
彼の手によって弾かれた魔石は、乾いた音を立てて冷たい石畳の上に転がり、無惨にも真っ二つに割れた。
ガブリエラが泣き崩れるのを見向きもせず、彼はそのまま馬車に乗り込み、二度と彼女の前に姿を現すことはなかった。
あの日、ガブリエラの無垢な初恋は、粉々に砕け散った魔石とともに永遠に失われたのだ。
その時の凍りつくような声と、見下ろす冷ややかな瞳が、今でも鮮明に蘇る。
(私はもう、あの時の惨めな子供じゃない。自らの手で未来を切り拓き、自分の足で立つ魔石細工師になったのよ。堂々としていればいいの)
ガブリエラは背筋を真っ直ぐに伸ばし、彼が自分のブースの前を通り過ぎるのを待った。
近づいてくる革靴の音が、ガブリエラの鼓膜を叩く。彼が纏う、冷涼で微かな香水と魔力の香りが鼻先を掠めた。
その瞬間、マルクの氷藍色の瞳が、ふとガブリエラのほうを向いた。
時が止まったかのように、二人の視線が交差する。
ガブリエラは息を止めた。
彼に気づかれたら、またあの日のような冷酷な言葉を投げつけられるのではないかという恐怖が胸をよぎる。
しかし、マルクの瞳には何の感情も、記憶の欠片すら浮かんでいなかった。
彼は、深みのあるグリーンのドレスを着た美しい女性を「ただの見知らぬ風景の一部」として一瞥しただけで、微かに眉を動かすことすらなく、完全に無視して通り過ぎていったのだ。
(……ああ。彼にとって私は、顔も名前も覚える価値すらない、ただの石ころのままなのね)
胸の奥で、かつての傷跡がちくりと痛んだ。
自分だけがあの日の呪縛に囚われ、勝手に怯え、勝手に傷ついている。それが何よりも滑稽で、情けなかった。ガブリエラは、張り詰めていた糸が切れたように、小さく絶望の息を吐き出した。
「相変わらず、兄上は氷の彫像みたいに冷たくて愛想がない人だよね。君のような美しい女性の前を素通りするなんて、正気の沙汰じゃない」
不意に、横から優しく穏やかな声がかけられた。
驚いてガブリエラが振り返ると、そこにはマルクと同じ黒髪を持ちながらも、瞳の色は温かな琥珀色をした青年が立っていた。柔らかく波打つ髪と、人を緊張させない親しみやすい笑顔。マルクの弟である、ジョゼフ・ローゼンベルクだった。
「ジョゼフ様……。お久しぶりです」
「久しぶりだね、ガブリエラ。いや、今は新進気鋭の魔石細工師、アーヴィング先生と呼ぶべきかな?」
からかうように笑うジョゼフに、ガブリエラの強張っていた肩の力が少しだけ抜けた。
ジョゼフはマルクとは違い、気さくで心優しい青年だった。社交界でも浮いた噂はなく、誰に対しても平等に接する彼は、多くの貴族から慕われている。
ガブリエラが魔石細工師として駆け出しの頃、彼女の才能をいち早く見抜き、いくつか小さな注文をくれて支援してくれたのもジョゼフだった。
「からかわないでくださいませ。わたくしなど、まだまだ未熟な職人ですわ」
「そんなことはないよ。君の噂は僕の耳にも届いている。王都で一番腕が良く、何よりも石に対して誠実な職人だってね。……すごいな、今日の展示品も。この細工なんて、中の魔力が生きているみたいに呼吸しているじゃないか」
ジョゼフは、ガブリエラの作品の一つを手に取り、心からの感嘆の声を上げた。
その真っ直ぐな称賛の言葉に、ガブリエラの胸に温かいものが広がる。先ほどのマルクの冷酷な無視によって冷え切っていた心が、ジョゼフの温もりによって少しずつ溶かされていくようだった。
「ありがとうございます。今回は、魔石の本来の波長を殺さないよう、極力手数を減らして自然な形を残すように研磨してみたのです。ジョゼフ様にそう言っていただけると、徹夜で仕上げた甲斐がありました」
「徹夜? 駄目だよ、無理をしちゃ。君は昔から、一つのことに集中すると周りが見えなくなるくらい根を詰める癖があるんだから。……そうだ、ガブリエラ。実は今日、君に折り入って相談したいことがあってね」
ジョゼフは周囲を少し気にするように声を潜めると、琥珀色の瞳を真剣な色に染めた。
「個人的な依頼なんだ。亡くなった母の形見の魔石を、護符として作り直してほしくてね。兄のマルクはああいう冷酷な実業家だから、利益にならない感傷的なものには一切見向きもしない。でも僕は、君の作品に込められた『温かさ』なら、母の石を預けられると思っているんだ」
「お母様の、形見の石を……」
ガブリエラは目を丸くした。
ローゼンベルク公爵家の先代公爵夫人の遺品となれば、途方もない価値を持つ代物だ。
それを自分のような若手に任せたいというジョゼフの信頼が、痛いほどに嬉しかった。
「私でよろしければ、喜んでお引き受けいたします。全身全霊をかけて、ジョゼフ様のお心に寄り添う護符を仕立てさせていただきますわ」
「ありがとう、ガブリエラ。君ならそう言ってくれると信じていたよ。今度、君のアトリエのほうへ詳しい打ち合わせに行ってもいいかな? その後、よければ食事でもしながら、昔の話でもしよう」
「はい。お待ちしておりますわ、ジョゼフ様」
ガブリエラが心からの笑顔で頷くと、ジョゼフも嬉しそうに目を細めた。
彼の優しさに触れ、ガブリエラは確信した。九年前の失恋は、たしかに自分の心を深く抉った。しかし、自分はもう無力な子供ではない。こうして自分の腕を信じてくれる人がいて、自分の足で生きていくための居場所があるのだ。
(マルク様が私をどう思おうと、もう関係ない。私は私の人生を、誇りを持って生きていくわ)
ガブリエラは、遠く離れた貴賓席で冷ややかな表情を崩さないマルクの背中を一度だけ見つめ、静かに決別を誓った。
◆
王都の裏通りから一本入った石畳の小道に、ガブリエラが構える小さなアトリエはあった。
豪奢な貴族の館とは無縁の、古びたレンガ造りの建物の二階。
しかし、一歩足を踏み入れれば、そこは彼女が愛してやまない魔石たちの息遣いに満ちた、温かな空間だった。真鍮の計量器、年代物のルーペ、大小さまざまな研磨用のヤスリ、そして整然と棚に並べられた未加工の原石たち。部屋中に漂うのは、淹れたての紅茶の香りと、磨き上げられた魔石から漂う、雨上がりのような清涼な匂いだった。
「本当に、ここはいつ来ても落ち着くね。兄上のいる王城の執務室や、公爵家の本邸のあの氷のように張り詰めた空気とは大違いだ」
窓際の小さな丸テーブルに向かい合って座り、ジョゼフは温かい紅茶が入ったティーカップを両手で包み込むようにしながら、心底安らいだような笑みを浮かべた。
宮廷魔導具展での再会から数日後。
ジョゼフは約束通り、ガブリエラのアトリエを訪れていた。彼は護衛もつけず、貴族特有の仰々しい馬車も使わず、まるでただの町人のような質素な外套を羽織って一人でやってきたのだ。
「ふふっ、ジョゼフ様ったら。そんなことを仰ったら、マルク閣下に大目玉を食らいますよ」
「兄上は僕の交友関係にいちいち口を出したりしないさ。兄上にとって僕は、出来の悪いお荷物でしかないからね。……兄上は凄すぎるんだ。若くして当主の座を継ぎ、ローゼンベルク家の莫大な財産と領地をたった一人で完璧に管理し、国王陛下からの信頼も厚い。それに引き換え、僕には特筆すべき魔力もなければ、政治の才能もない」
ジョゼフの琥珀色の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、暗く沈んだ影が落ちたのをガブリエラは見逃さなかった。
名門公爵家に生まれながら、常に完璧な兄と比べられ続ける重圧は、並大抵のものではないはずだ。
それでもジョゼフが誰に対しても優しく、捻くれることなく真っ直ぐに育ったのは、彼自身の生来の心の美しさゆえだろう。ガブリエラはそんな彼を、一人の人間として深く尊敬していた。
「ジョゼフ様には、マルク閣下にはない素晴らしい長所がありますわ。こうして人の心に寄り添い、温かな言葉をかけられる優しさ。それは、どんな強大な魔力よりも価値のあるものです」
「……ありがとう、ガブリエラ。君にそう言ってもらえると、少しだけ救われる気がするよ」
ジョゼフは照れくさそうに笑うと、懐から小さなベルベットの袋を取り出し、テーブルの上にそっと置いた。
袋の紐を解き、中から現れたのは、息を呑むほどに美しい『蒼の魔石』だった。深い海を思わせる濃紺の奥底に、星屑のような銀色が煌めいている。しかし、魔石細工師であるガブリエラの目には、その美しい石がどこか息苦しそうに魔力を滞らせているのが見て取れた。
「これが、先日お話しされていた、お母様の形見の魔石ですね」
「ああ。母が亡くなる直前まで身につけていたペンダントトップさ。ずっと僕が保管していたのだけれど……最近、少し色が濁ってきたような気がしてね。それに、兄上の様子がおかしいんだ」
ジョゼフは声を潜め、真剣な表情で身を乗り出した。
「ここ数ヶ月、兄上は原因不明の頭痛や倦怠感に悩まされている。医者や王宮魔導師に見せても『過労』だと言われるだけらしいが、僕はそうは思わない。最近、兄上の進める急進的な経済政策に反発している保守派の貴族たちが、裏社会の連中と繋がっているという噂がある。兄上は命を狙われているんじゃないかと思うんだ」
「マルク様が、命を……?」
九年前の冷酷な拒絶の記憶がよぎり、胸がちくりと痛んだが、それでも彼が危機に瀕していると聞いて心がざわめくのを止められなかった。
「兄上は絶対に弱みを見せない人だから、僕が心配しても一蹴されてしまう。だから……ガブリエラ。この母の魔石を、強力な『防御の護符』として仕立て直してくれないだろうか。これを持っていれば、いざという時に母が兄上を守ってくれるような気がするんだ。僕から兄上に渡すと素直に受け取らないだろうから、完成したら、君から『展示会のお礼』として匿名で送りつけてほしい」
弟から兄への、不器用で深い愛情。
ガブリエラはジョゼフの真っ直ぐな思いに胸を打たれ、深く頷いた。
「承知いたしました。ジョゼフ様のお心、確かに受け取りましたわ。この石に滞っている魔力の澱みを浄化し、マルク様をあらゆる災厄からお守りする最高の護符に仕立て上げてみせます」
「ありがとう、ガブリエラ。君を頼って本当に良かった。……数日後にまた来るよ。それまで、この石を頼んだ」
ジョゼフは安心したように微笑み、アトリエを後にした。
それが、彼がガブリエラに見せた最後の笑顔になるとは、その時の彼女には知る由もなかった。
平穏な日常は、唐突に、そしてあまりにも残酷な形で崩れ去った。
ジョゼフがアトリエを訪れてから三日後の夜。
バケツをひっくり返したような土砂降りの雨が、王都の石畳を容赦なく打ち据えていた。
ガブリエラはアトリエにこもり、ジョゼフから預かった蒼の魔石の浄化作業に没頭していた。
ルーペ越しに石の深層を覗き込むと、単なる経年劣化による魔力の滞りとは違う、何か薄気味の悪い、泥のように粘り気のある黒い影が石の奥底にこびりついていることに気がついた。
(……おかしいわ。これはただの魔力の澱みじゃない。まるで、意図的に仕込まれた『呪い』のような……)
ガブリエラが嫌な予感に眉をひそめ、さらに深く魔力を同調させようとした、まさにその時だった。
階下の扉を、壊れんばかりの勢いで叩く音が響いた。
「ガブリエラ・アーヴィング嬢! いるか! 王都治安維持騎士団の者だ、至急扉を開けよ!!」
怒声に近い切迫した声。
ガブリエラは血の気を引かせながら階段を駆け下り、扉を開けた。
そこには、雨に濡れそぼった銀の甲冑を着た数人の騎士たちが、険しい顔つきで立っていた。彼らの手には、ローゼンベルク公爵家の紋章が刻まれたランタンが握られている。
「アーヴィング嬢だな。突然の訪問を許せ。……君に、身元確認をお願いしたい遺体がある」
「……え?」
騎士の言葉の意味が理解できず、ガブリエラは間の抜けた声を漏らした。
遺体。身元確認。
なぜ、そんなことのために治安維持騎士団が自分のアトリエにやってくるのか。
「先ほど、王都の東区……裏社会の魔石ブローカーたちがたむろする歓楽街の路地裏で、身なりの良い若い男性の遺体が発見された。所持品からローゼンベルク公爵家のジョゼフ・ローゼンベルク卿である可能性が高い。そして、彼が最後に立ち寄った場所として、君のこのアトリエが浮上している」
頭の中を、冷たい刃でかき回されたような衝撃が走った。
ジョゼフが、遺体。裏社会の歓楽街。
「嘘、嘘です……っ! だって、ジョゼフ様は三日前にここに来られて、その後は……」
「詳細は我々も調査中だ。死因は外傷ではなく、強力で未知の『呪毒』による急性心不全と見られている。……とりあえず、我々と同行願おう」
ガブリエラは膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、雨の中、騎士団の馬車へと乗り込んだ。
そして、騎士団本部の冷たく無機質な安置室で、彼女は最悪の現実と直面することになった。
白い布をめくられた冷たい石台の上に横たわっていたのは、間違いなく、数日前にあの温かい笑顔で紅茶を飲んでいた、ジョゼフ・ローゼンベルクその人だった。
苦悶の表情を浮かべ、血の気を失った青白い肌。琥珀色の優しい瞳は固く閉じられ、二度と開くことはない。
「あ……ああ……っ、ジョゼフ、様……っ!!」
ガブリエラは遺体にすがりつき、声にならない悲鳴を上げて泣き崩れた。
なぜ彼がこんな目に遭わなければならないのか。あんなに優しく、誰のことも恨まず、ただ兄を案じていた心優しい青年が、なぜ暗い路地裏で命を落とさなければならなかったのか。
騎士団の尋問は夜明けまで続いた。
ジョゼフとの関係、彼がアトリエを訪れた理由、最後に交わした会話。ガブリエラは涙声ですべてを正直に話したが、「母の形見の魔石を預かった」という彼女の言葉を、騎士たちはどこか疑わしげな冷ややかな目で聞いていた。
裏社会のブローカーと接触していた公爵家の次男。
最後に会っていた、没落貴族の女職人。彼らの目には、ガブリエラがジョゼフの死に何らかの形で関与している『容疑者』として映っているのは明らかだった。
それから五日後。
ローゼンベルク公爵家の巨大な霊廟で、ジョゼフの葬儀が執り行われた。
朝から降り続く冷たい雨が、巨大な黒大理石の墓標を容赦なく打ち据えている。王国の要職にある者たちや、名だたる高位貴族たちがこぞって参列し、霊廟の敷地は黒い傘と漆黒の喪服で埋め尽くされていた。
ガブリエラは、かつて母が着ていた古びた黒のドレスを身に纏い、霊廟の最後尾にひっそりと立っていた。
傘をさす気にもなれず、冷たい雨に打たれるがままになっている。
亜麻色の髪は濡れて頬に張り付き、体は芯から凍え切っていたが、ジョゼフを失った心の空洞に吹き荒れる木枯らしに比べれば、物理的な寒さなど何も感じなかった。
「……あれは、アーヴィング男爵家の……」
「まあ、よく顔を出せたものね。噂では、彼女がジョゼフ様を裏社会の怪しい取引に巻き込んだんじゃないかって……」
「没落貴族の娘が、公爵家の御曹司を誘惑しようとして失敗したのよ、きっと。お労しいジョゼフ様……」
周囲の貴族たちが、扇や傘で口元を隠しながら、あからさまな嘲笑と軽蔑の籠もったヒソヒソ話を交わしている。
騎士団の捜査情報はまたたく間に社交界に漏れ伝わり、ガブリエラはすでに『純真な公爵家の次男をたぶらかし、死に追いやった悪女』として扱われていた。
それでも、ガブリエラは逃げ出さなかった。
ジョゼフは自分にとって、かけがえのない大切な友人だった。
彼がどれほど兄を思い、優しい心を持っていたか、自分だけは知っている。誰に何と罵られようと、最後のお別れだけは絶対にするのだと、強く奥歯を噛み締めて立っていた。
その時、霊廟の前方に集まっていた貴族たちの群れが、まるでモーゼの海割れのように左右に道を開けた。
ざわめきが波のように引き、あとには重苦しい静寂と、冷たい雨音だけが残る。
開かれた道の奥から歩み出てきたのは――漆黒の喪服に身を包んだ、マルク・ローゼンベルク公爵だった。
彼の姿を見た瞬間、ガブリエラの心臓が恐怖で大きく跳ねた。
マルクの全身から立ち上る魔力は、尋常ではなかった。
悲しみ、喪失感、そしてそれらをすべて焼き尽くすほどの、純粋で暴力的な『怒り』。彼の歩みとともに周囲の雨粒が凍りつき、氷の粒となって石畳に弾け飛んでいる。常に完璧に保たれていた彼の表情は、今は凄絶な憎悪に歪み、その氷藍色の瞳は、群衆の最後尾に立つガブリエラただ一人を真っ直ぐに、そして容赦なく射抜いていた。
彼はゆっくりと、だが確実にガブリエラの目の前まで歩み寄ると、立ち止まった。
長身の彼に見下ろされ、ガブリエラは息が詰まるような圧迫感を覚えた。
「よくも、おめおめと顔を出せたな」
マルクの唇から紡がれたのは、絶対零度の冷気を含んだ声だった。
「マルク、様……」
「その汚らわしい口で、気安く私の名を呼ぶな。虫唾が走る!」
マルクは、周囲の貴族たちが息を呑んで見守る中、ガブリエラに向かって軽蔑しきった声で言い放った。
「純真な弟の心につけ込み、たぶらかし、裏社会の魔石取引のトラブルに巻き込んで死に追いやったのはお前だろう。騎士団からの報告はすべて読んだ。あいつが最後に立ち寄ったのはお前のアトリエであり、あいつが裏社会のブローカーと接触して手に入れようとしていたのは、女向けの希少な装飾用魔石だったそうだな。……誰のためにそんな危険を冒したかなど、火を見るより明らかだ」
「違います! 誤解です、マルク様!!」
ガブリエラは必死に声を振り絞り、首を横に振った。
「ジョゼフ様は決してそんな取引になど……! 彼はただ、マルク様を心配して、お母様の形見の魔石を私のアトリエに……!」
「黙れ!!」
マルクの怒声が霊廟に響き渡り、空気がピシリと凍りついた。
ガブリエラは弾かれたように言葉を失い、肩をすくめた。
「母の形見だと? 戯言を。あれは、ジョゼフが母から直接譲り受け、片時も離さず大切にしていたものだ。それを、お前のような薄汚い三流の職人に預けるはずがない。どうせ言葉巧みに騙し取ったか、奪い取って裏で売り捌こうとしたのだろう」
マルクの言葉は、鋭く研ぎ澄まされた氷の刃となって、ガブリエラの心をズタズタに切り裂いていく。
彼は、ジョゼフがガブリエラを職人として純粋に尊敬し、信頼していたことなど微塵も信じていなかった。ただの「欲深い女の復讐と誘惑」だと、一方的に決めつけているのだ。
「九年前、私に相手にされなかった当てつけのつもりか? 貧乏男爵家の娘が、自分の身の程も弁えずローゼンベルク家の財産と権力に目をつけ、今度は人の良い弟を誘惑した。そしてあいつは、お前の浅ましい野心の巻き添えになって死んだんだ!!」
「……っ!」
違う。違う。ジョゼフ様はそんなんじゃない。彼はただ、あなたを守りたかっただけなのに。
反論しようと口を開きかけたが、マルクの瞳に浮かぶ底知れぬ憎しみと絶望の色を見て、ガブリエラは声を出せなくなった。
彼は今、弟を失った悲しみで正気を失っている。
自分のすべてを否定し、悪女として断罪することでしか、その耐え難い喪失感を保てないのだ。今ここで自分が何を言っても、彼には決して届かない。
「……もういい。お前のような浅ましい女の言い訳など、これ以上聞きたくもない。弟の眠りを妨げるな。出ていけ」
マルクは吐き捨てるように言うと、背を向けた。
「二度と、僕の視界に現れるな!次に私の目の前に姿を現せば、公爵家の権限において、お前を王都から追放する」
冷徹な公爵からの、事実上の社会的な死の宣告。
周囲の貴族たちが、まるで汚物を避けるようにガブリエラから距離を取り、一斉に冷ややかな嘲笑の視線を向ける。
ガブリエラは唇から血が滲むほど強く噛み締め、両手でドレスの裾をきつく握りしめた。
九年前、彼に魔石を叩き割られ、冷酷な言葉を投げつけられた時は、ただ惨めに泣き崩れることしかできなかった。
しかし今は違う。
(泣かない。ここで私が泣き崩れたら、ジョゼフ様の死が本当に『悪女に騙された愚かな死』として片付けられてしまう)
ガブリエラは濡れた亜麻色の髪をかき上げ、背筋を真っ直ぐに伸ばした。
そして、マルクの冷たい背中と、ジョゼフが眠る霊廟に向かって、完璧なカーテシーを一つだけ披露した。
弁明もせず、命乞いもせず、ただ静かに踵を返し、降りしきる雨の中へと歩き出す。
霊廟の門を抜け、誰の目も届かない裏通りに出た時、ガブリエラはポケットの中に忍ばせていた小さな袋を取り出した。
あの日、ジョゼフが預けていった『蒼の魔石』。
ガブリエラは冷え切った指先でその魔石を取り出し、雨に濡れながらじっと見つめた。
先ほどマルクは言っていた。ジョゼフが裏社会のブローカーと接触していたと。
もし、彼がこの魔石の『呪い』に自分自身で気づき、その出所や解呪の糸口を探るために危険な裏社会に足を踏み入れたのだとしたら?
そして、この魔石に仕組まれた呪いの本当の標的がマルクであり、それに気づいたジョゼフが、兄を庇う形で口封じに殺されたのだとしたら?
(……マルク様に何と罵られようと構わない。私は絶対に、ジョゼフ様を殺した犯人を突き止めてみせる)
騎士団が動かないのなら、自分が動くしかない。
魔石の波長を読み取る職人としての知識と技術があれば、この石に付着している呪毒の痕跡を辿り、呪いをかけた術者のもとへ必ず行き着けるはずだ。
ガブリエラは、蒼の魔石を両手で包み込み、胸の奥で静かに、だが決して消えることのない決意の炎を燃やした。
それは、かつての弱い自分との決別であり、唯一の友人であったジョゼフへの、弔いと復讐の誓いだった。
◆
冷たい雨の葬儀から、三日の月日が流れた。
ガブリエラは、あの日以来、一歩もアトリエから外に出ていなかった。食事もろくに喉を通らず、ただひたすらに机に向かい、ジョゼフが遺した『蒼の魔石』と対峙し続けていた。
亜麻色の髪は乱れ、透き通るような白い肌には疲労の色が濃く滲んでいる。目の下には痛々しい隈ができ、手先は魔力の酷使によって微かに震えていた。しかし、その瞳だけは、尋常ではない熱を帯びて爛々と輝いていた。
「……見つけた」
目元に装着していた年代物の解析用ルーペを机に置き、ガブリエラはひび割れた乾いた唇から、かすれた声を漏らした。
三日三晩、自身の魔力を極限まで細く、鋭く絞り、針の穴を通すような精密さで魔石の深層へと潜り込み続けた結果。
ついに彼女は、美しい蒼の魔石の奥底に泥のようにこびりついていた『呪毒』の正体を完全に暴き出したのだ。
それは、単なる暗殺用の即効性の毒などではなかった。
『血族殺しの呪詛』
標的の魔力波長をあらかじめ呪術の核に組み込み、その者が石に触れ続けることで、数ヶ月、あるいは数年という長い時間をかけて、徐々に、しかし確実に魔力核を腐らせていくという、極めて悪辣で高度な闇の魔術だった。
そしてガブリエラは、この呪詛に組み込まれていた標的の波長が、ジョゼフのものではないことに気がついた。
呪いが標的としていた魔力の波長は、広大で、冷たく、圧倒的な極寒の吹雪を思わせるもの。
――間違いなく、マルク・ローゼンベルク公爵の魔力波長だった。
「やっぱり……犯人の本当の狙いは、マルク様だったのね……!」
点と点が、一本の明確な線に繋がった。
ここ数ヶ月、マルクが原因不明の激しい頭痛や倦怠感に悩まされていたというジョゼフの言葉。
ジョゼフは、兄の体調不良の原因が、母の形見として常に身につけていたこの魔石に仕込まれた呪いであることに、自分自身で気がついたのだ。
しかし、犯人の正体も、その背後にいる黒幕の規模も分からないままマルクに事実を告げれば、証拠隠滅のためにさらに強力な実力行使に出られる危険性がある。
だからジョゼフは、兄から魔石を遠ざけるために自分が預かり、「呪いを浄化して、強力な護符にしてほしい」と、心から信頼するガブリエラに託した。
そしてジョゼフは、呪いの出所を探るために、たった一人で王都の裏社会――闇の魔石ブローカーたちが巣食う歓楽街へと足を踏み入れた。そこで不運にも犯人側に勘付かれ、即効性の呪毒によって口封じに殺されたのだ。
「ジョゼフ様……あなたは、どこまでお兄様を……」
ガブリエラは、蒼の魔石を両手で包み込み、ボロボロと大粒の涙をこぼした。
すべては、不器用で優しすぎた弟が、たった一人の兄を護るために仕組んだ孤独な戦いだった。
「この事実を、一刻も早くマルク様に知らせなければ……。反逆貴族たちは、魔石による暗殺が失敗したと知れば、次はなりふり構わず直接的な手段でマルク様の命を狙うはず……!」
ガブリエラは弾かれたように立ち上がり、徹夜の疲労でふらつく足に鞭打って、壁に掛かっていた外套を羽織ろうとした。
しかし、その時だった。
――パリンッ!!
アトリエの大きな窓ガラスが、けたたましい破壊音を立てて内側へと吹き飛んだ。
「なっ……!?」
突然の爆風に、ガブリエラは咄嗟に腕で顔を庇いながら床に倒れ込んだ。無数のガラス片が雨のように降り注ぎ、室内に冷たい夜風が一気に流れ込んでくる。
吹き抜けになった窓枠に立っていたのは、顔を黒い布で覆い、手には禍々しい魔力を纏った短剣を握る三人の黒装束の男たちだった。
「……やはり、嗅ぎ回っていたか。没落貴族の小娘が」
男の一人が、低い、地を這うような声で笑った。
彼らの体から立ち上る魔力の波長を感じ取った瞬間、ガブリエラは全身の血の気が引くのを覚えた。蒼の魔石にこびりついていた呪詛と、完全に同じ波長。ジョゼフを殺した暗殺者たちだ。
「公爵に泣きつかれる前に、あの魔石ごと消えてもらおう。あの無能な次男坊のようにな」
「あなたたちが……ジョゼフ様を……!」
怒りと恐怖で震える足に力を込め、ガブリエラは立ち上がった。
ただの職人である彼女に、実戦訓練を積んだ暗殺者と戦う力などない。しかし、ここで殺されるわけにはいかない。ジョゼフの思いを、真実を、マルクに届けるまでは絶対に死ねない。
ガブリエラは机の引き出しから、護身用に作っておいた『閃光の魔石』を鷲掴みにし、魔力を流し込んで男たちの足元へ渾身の力で叩きつけた。
「目眩ましなど!」
男たちが嘲笑うのと同時、魔石が強烈な光と鼓膜を破るほどの爆音を放って弾けた。
「ぐあっ!?」
視界を奪われた男たちが怯んだ隙に、ガブリエラは蒼の魔石を胸に抱き抱え、アトリエの扉に向かって全力で走り出した。
しかし、階段へ続く重い木の扉のノブに手をかけた瞬間、背後から凄まじい衝撃が彼女の背中を打った。
「きゃあっ……!!」
放たれた攻撃魔法の直撃を受け、ガブリエラは扉ごと廊下へと吹き飛ばされた。
木の破片とともに床を転がり、激しい痛みに咳き込む。肺から空気が押し出され、視界が明滅した。
追いすがるように廊下へ出てきた暗殺者が、冷酷な目で彼女を見下ろし、短剣を高く振り上げた。
(ここまで、なの……? ごめんなさい、ジョゼフ様……真実を、届けられなかった……っ!)
恐怖で体が動かない。ガブリエラは、せめて母の形見の魔石だけは守ろうと、それを強く胸に抱きしめてギュッと目を閉じた。
振り下ろされる刃の気配。
死を覚悟した、その刹那だった。
「――そこまでだ!!」
廊下の窓ガラスどころか、石造りの壁そのものが爆発したかのように吹き飛び、凄まじい絶対零度の魔力の旋風が空間を支配した。
「な、何だ貴様――がはっ!?」
暗殺者の叫びは、最後まで続くことはなかった。
一瞬にして、三人の暗殺者たちの全身は分厚い青氷に閉じ込められ、呼吸すら許されない氷の彫像へと変えられてしまったのだ。
凍てつくような白い冷気の中、荒い息を吐きながら立っていたのは。
「マルク、様……?」
漆黒のフロックコートは所々が破れ、常に完璧に撫でつけられていた髪は乱れて額に垂れ下がっている。
そして何より、あの氷のように冷酷だった氷藍色の瞳が、今は信じられないほどの恐怖と、絶望的な焦燥に見開かれていた。
マルクは、床に倒れ込むガブリエラを見るなり、血の気を失った顔で駆け寄ってきた。
「ガブリエラ……!!」
彼は凍りついた床に膝をつき、震える両腕でガブリエラの細い体を、壊れ物を扱うかのようにそっと抱き起こした。
「無事か……ああ、よかった……間に合って……すまない、すまない……!」
「どうして、あなたが、ここに……?」
痛む体を起こされながら、ガブリエラは呆然と呟いた。
マルクの声は、これまでの彼からは想像もつかないほど震え、ひび割れていた。彼から漂うのは、いつもの冷徹な威圧感ではなく、ただの弱い一人の人間の恐怖だった。
マルクの懐から、一冊の古い革張りの手帳が床に滑り落ちた。
見覚えのある筆跡。それは、ジョゼフが密かに記していた日記だった。
「……今日、ジョゼフの部屋の遺品整理をしていた執事が、机の隠し引き出しからそれを見つけたんだ」
マルクは、絞り出すような声で言った。
「あいつは、自分が反逆派の暗殺者たちに目をつけられていることに気づいていた。そして、もし自分に何かあれば、これを私に渡すようにと、遺言の魔法をかけて隠していたんだ」
日記には、反逆貴族による兄への魔石を使った暗殺計画に気づき、兄を案じて自らが盾となる覚悟を決めたことが克明に綴られていたという。
そして、その最後のページには、こう記されていた。
『兄上。僕の身に何か起きたなら、それは真実に近づきすぎた僕を暗殺者たちが消したということです。そして、彼らの次の標的は、間違いなく真実の証拠⋯蒼の魔石を持っているガブリエラになります。
彼女は、本当に素晴らしい職人で、損得勘定抜きで僕たちを案じてくれる、心優しい女性です。どうか兄上、彼女を疑わないでください。彼女の純粋な心を、これ以上傷つけないでほしい。僕に代わって、彼女を護ってください』
すべてを理解したマルクは、自分が何の罪もない、かつて自分に無垢な思いを向けてくれた女性を、どれほど残酷な言葉で罵り、死の危険に晒してしまったかを悟ったのだ。
「私は……自分がどれほど愚かで残酷な真似をしたか、気づきもしなかった」
マルクは、顔を歪め、まるで子供のように嗚咽を漏らした。
「九年前、あんなにも純粋に私を慕ってくれた君の心を踏みにじり、見下した。そして今回も……君の言葉に一切耳を貸さず、弟の死の責任まで君に押し付けた。君を信じず、あんな酷い言葉を投げつけて……私は自分の身勝手な偏見と傲慢さで、君という存在を永遠に失うところだった……!」
かつての冷酷で傲慢な公爵の面影はどこにもない。そこにあったのは、己の取り返しのつかない過ちに対して、地の底を這うような後悔に打ちのめされた、一人の不器用で哀れな男の姿だった。
「すまない、ガブリエラ……本当に、すまなかった……っ!」
そのあまりにも痛ましい後悔の涙に、ガブリエラの胸の奥で、九年間固く凍りついていた恐怖やわだかまりが、静かに溶け出していくのを感じた。
彼は冷酷な怪物などではない。
ただ、若くして公爵という重責を背負い、隙を見せまいと自分を氷で閉ざし続けてきただけの、不器用な人なのだ。弟の死という悲しみに直面し、感情をコントロールできなくなっていただけ。
ガブリエラは、そっと手を伸ばし、震えるマルクの広い背中に腕を回した。
「マルク様……もう、自分を責めないでください。あなたはただ、愛する弟君を失って、悲しみのあまり周りが見えなくなっていただけですわ」
「ガブリエラ……」
「ジョゼフ様は、最後までお兄様を敬愛していました。だから、私にこの魔石を託したんです。……真実が届いて、本当によかった」
ガブリエラが優しく微笑むと、マルクはハッと息を呑み、そしてさらに深く項垂れた。
自分を責め立てるでもなく、ただ静かに赦しを与えようとする彼女の気高さと優しさが、彼の罪悪感をより一層強く抉ったのだ。
「……許してくれとは言えない。私には、君に許しを乞う資格すらない」
マルクは濡れた睫毛を伏せ、ガブリエラの両手を自分の手で包み込むと、祈るようにその甲に額を押し当てた。
氷藍色の瞳からこぼれ落ちた涙が、ガブリエラの指先を濡らしていく。
「だが、どうか……この愚かな私に、償いをする機会を与えてくれないか」
マルクの声は、切実な響きを持っていた。
そこにあるのは、ただひたすらに自分の罪と向き合い、彼女の尊厳を守り抜こうとする、一人の男としての誠実な誓いだった。
「君が受けた痛み、失われた時間、そのすべてをかけて報いたい。ジョゼフの思いに応えるためにも、これ以上、君を理不尽な危険に晒さないと誓う。だからどうか……私の庇護下に入ってほしい。君の腕と知識が必要だ。共に、反逆者たちを裁くために」
ガブリエラは、すがりつくように懇願するマルクの頭を、優しく撫でた。
彼の心に今あるのは、深い後悔と、貴族としての責任感だろう。九年前の少女の淡い恋心は一度砕け散ったが、今ここから、大人同士としての新しい関係が始まるのだと、彼女は確信した。
「……ええ。お受けいたしますわ、マルク様。ジョゼフ様の無念を晴らすため、わたくしの技術をすべてお使いください」
壊れた窓の外で、激しく吹き荒れていた嵐は、いつの間にか静かな小雨へと変わっていた。
雲の隙間から差し込んだ淡い月光が、傷ついた二人が寄り添う姿を、静かに照らし出していた。
◆
ローゼンベルク公爵家の本邸は、王都の喧騒から隔絶されたように静かで、厳重な魔法結界によって守られていた。
ガブリエラは、客間として与えられた豪奢な部屋のテラスで、夜風に吹かれながら星空を見上げていた。
あの日、マルクが駆けつけて命を救われてから数日が経っていた。
マルクは公爵としての圧倒的な権力と魔力を行使し、ジョゼフを殺害しマルクの命を狙った反逆貴族たちを、文字通り根絶やしにする勢いで捕縛・粛清していた。
ガブリエラが解析した『蒼の魔石』の呪毒の波長が決定的な証拠となり、追い詰められた暗殺者たちは次々と黒幕の名を吐いたのだ。
ジョゼフの無念は、間もなく完全に晴らされようとしていた。
しかし、ガブリエラの心の中には、まだ小さな棘のように引っかかっているものがあった。
「夜風が冷える。……あまり無理をしてはいけないと、侍医も言っていたはずだが」
背後から、静かで落ち着いた声がした。
振り返ると、手を手ぶくろ代わりに温かなショールを持ったマルクが立っていた。かつてのような、人を寄せ付けない氷の威圧感はない。
彼の氷藍色の瞳は、傷ついた小鳥を扱うかのように、痛ましいほどの優しさと労わりを湛えてガブリエラを見つめていた。
「マルク様……。申し訳ありません、少し夜風に当たりたくて」
「謝るのは私の方だ。君には、どれだけ謝罪しても足りない」
マルクは静かに歩み寄ると、ガブリエラの華奢な肩にそっとショールをかけた。彼の大きく温かい手が、一瞬だけ彼女の肩に触れ、すぐに名残惜しそうに離れていく。
この数日間、マルクはガブリエラに対して「償い」として完璧な庇護を与えていたが、決してそれ以上の距離には踏み込もうとしなかった。自分の罪深さを自覚し、自制心を総動員して彼女に触れることを堪えているのが、痛いほどに伝わってきた。
「……もう、謝らないでくださいませ。反逆者たちも捕まり、ジョゼフ様もきっと安らかに眠りにつけるはずです。マルク様は、立派に弟君の思いに応えられましたわ」
ガブリエラが微笑みかけると、マルクは少しだけ目を伏せ、テラスの手すりに手をついた。
「……君は、どうしてそんなに優しいんだ。九年前、あんなにも残酷に君を傷つけた私を、どうして許そうとする」
彼の口から出た『九年前』という言葉に、ガブリエラの肩が微かに揺れた。
「それは……あの頃のわたくしが、子供で、身の程知らずだったからです。公爵領を継いだばかりで多忙を極めていたあなたにとって、無邪気な子供の好意など、疎ましくて当然……」
「違う!!」
マルクが、弾かれたように強い声を出した。
驚いて目を見開くガブリエラの前で、彼はひどく苦しげに顔を歪め、両手で顔を覆った。
「……違うんだ、ガブリエラ。私は、君が疎ましかったわけじゃない。……むしろ、その逆だった」
絞り出すような彼の声は、微かに震えていた。
マルクは顔を覆っていた手を下ろし、真っ直ぐに、だがひどく怯えたような瞳でガブリエラを見つめた。
「九年前、あの庭園で君が一生懸命に削った不格好な魔石を差し出してくれた時……私の心は、どうしようもないほど、君のその真っ直ぐな温かさに惹かれてしまっていたんだ」
「え……?」
予想もしなかった言葉に、ガブリエラの思考が停止した。
惹かれていた? あの、氷のように冷酷だった彼が?
「当時の私は二十一歳で、父の跡を継いだばかりだった。周囲は敵ばかりで、常に完璧な公爵であろうと気を張り詰め、心は氷のように冷え切っていた。そんな時、十五歳だった君の無垢な笑顔と、私のために傷だらけの手で作ってくれた魔石を見て……私の内側で、ひどく甘く、熱い感情が芽生えるのを感じたんだ」
マルクは自嘲するように、自らの胸を強く握りしめた。
「だが……君はまだ、十五歳の社交界デビューもまだの少女だった。私は大人で、しかも数多の領民の命を背負う公爵だ。無垢な少女に対して、そんな『男』としての感情を抱いてしまった自分が……ひどく恐ろしく、醜く、そして心底許せなかった」
彼の語る痛切な真実に、ガブリエラは息を呑んだ。
「理性と、貴族としての義務感が、私に警鐘を鳴らした。この狂った感情を、今すぐ完全に殺さなければならないと。……だから私は、自分への嫌悪と恐怖をすべて君にぶつけるような形で、あの残酷な言葉を吐き捨てた。君を傷つけ、遠ざけることで、己の心を強引に凍らせたんだ。……すべては、醜い自分自身から逃げるためだった」
「マルク、様……」
「宮廷魔導具展で、九年ぶりに君の姿を見た時もそうだ」
マルクは自らの罪を告白する罪人のように、深く項垂れた。
「美しく、洗練された大人の女性へと成長した君を見た瞬間、九年間分厚く覆い隠していたはずの氷が、一瞬で溶かされてしまいそうになった。閉じ込めていたはずの感情が、とめどなく溢れ出しそうになるのが恐ろしくて……私は気づかないふりをして、君から逃げた。……本当に、愚かで、卑怯で、惨めな男だ」
マルクの言葉が、夜の静寂の中に溶けていく。
ガブリエラは、彼を見つめたまま動けなかった。
九年間、ずっと彼を「氷のような冷酷な人」だと思っていた。自分はただの路傍の石として、見下され、切り捨てられたのだと。
けれど、違ったのだ。
彼は怪物なんかではなかった。ただ、誰よりも自分に厳しく、責任感が強く、そして自身の感情の扱いに不器用なだけの人だったのだ。幼い少女に惹かれた自分を許せず、自戒の念から己の心を凍らせて生きてきた、哀れなほどに真面目な男。
(ああ……なんだ。わたくしの初恋は、あの日、無惨に踏み躙られたわけじゃなかったのね)
胸の奥で九年間固まっていた氷の欠片が、音を立てて崩れ落ち、代わりに温かく甘い感情が、じわりと全身を巡り始めた。
「……私の卑劣さを、軽蔑してくれて構わない。君に許しを乞う資格など、私にはないのだから」
絶望に沈むマルクの手を、ガブリエラは両手でそっと包み込んだ。
ビクリと肩を震わせたマルクが、信じられないものを見るような目でガブリエラを見下ろす。
「ガブリエラ……?」
「……本当に、不器用で、愚かなお人ですわね。マルク様は」
ガブリエラは、泣き出しそうになるのを必死に堪え、彼に向けてこの上なく優しく、美しい微笑みを浮かべた。
「わたくしはずっと、マルク様にただ嫌われていたのだと思って、泣いておりました。……でも、あなたも同じように、九年間ずっと苦しんでこられたのですね」
包み込んだ彼の手は、大きくて力強いのに、迷子になった子供のように微かに震えていた。
ガブリエラはその手を引き寄せ、自分の頬にそっと押し当てた。
「あの頃のわたくしは子供でした。でも今は、自分の足で立ち、魔石細工師として生きる一人の『大人の女』ですわ。……今のわたくしに惹かれることも、マルク様はご自身を許せないとおっしゃるのですか?」
その問いかけに、マルクは息を呑んだ。
彼の氷藍色の瞳から、長年彼を縛り付けていた自責の念や、重苦しい氷の殻が、パラパラと音を立てて剥がれ落ちていくのがわかった。
「……っ」
マルクは限界を迎えたように、ガブリエラの細い体を力強く、しかし壊れ物を扱うような慎重さで抱き寄せた。
温かい腕の中にすっぽりと収まり、彼の力強い心音が耳元で聞こえる。
「……許されるなら」
マルクは、ガブリエラの亜麻色の髪に顔を埋め、祈るように囁いた。
「もう二度と、君を離したくない。九年間、己の心を偽り、君を傷つけたこの罪深い生涯のすべてをかけて……君を愛し、護り抜きたい。どうか私に、君を愛することを許してくれないか」
「……ええ。喜んで、お受けいたしますわ」
ガブリエラが彼の広い背中に腕を回し、そっと抱きしめ返すと、マルクは安堵と喜びにむせび泣くように、さらに強く彼女を抱きしめた。




