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忍び寄る影

 魔獣襲撃から数日が過ぎ、アイゼンガルドは急速に併存を取り戻していった。

 破壊された外壁や家屋は、私の【ニコイチ】と、元気になった村人たちの協力であっという間に修復された。むしろ「前より丈夫になった!」と喜ばれているくらいだ。


 領地の復興は順調。

 ただ一つ、領主館の中でだけ、深刻な(?)問題が発生していた。


「……あの、ギデオン様。そろそろ離していただけないでしょうか」

「駄目だ。まだ魔力が安定していない可能性がある。私がそばで監視していなければ」


 執務室の重厚な椅子の上。

 私はなぜか、ギデオン様の膝の上に座らされていた。

 背中には彼の広い胸板があり、腰には銀色に輝く右腕――「聖銀の義手(アガートラム)」と彼が名付けた魔導装甲化した腕――が、がっちりと回されている。


「監視って……もう傷も塞がりましたし、ピンピンしてますよ?」

「精神的なダメージが残っているかもしれない。それに、君は目を離すとすぐに無茶をするからな」


 ギデオン様は私のうなじに顔を埋め、深く息を吸い込んだ。

 甘えるような、それでいて独占欲を隠そうともしないその仕草に、私の顔は湯気を出しそうだ。


「だ、旦那様……書類の決済が進みません」


 呆れ顔のセバスチャンさんが、うず高く積まれた書類の山を指差す。


「ああ、わかっている……だが、ミレット成分が足りないと筆が進まんのだ」

「いつから成分摂取が必要な体になったのですか」

「【ニコイチ】の副作用だろう、多分」


 ギデオン様は悪びれもせず、左手でペンを走らせ、右手で私の頭を撫でる。

 呪いが解けた反動なのか、それとも元々こういう人だったのか。最近の彼は、片時も私を離そうとしない。

 工房で作業している時も、ふと気づくと後ろから抱きつかれて「休憩しよう」と甘い声で囁かれるのだ。心臓がいくつあっても足りない。


「……嫌か?」


 ふと、耳元で不安そうな声がした。

 私が身じろぎしたのを、拒絶と捉えたのかもしれない。

 私は慌てて首を横に振った。


「い、嫌じゃありません! ただ、その……恥ずかしくて……」

「そうか。ならいい」


 彼は満足げに笑うと、より一層強く私を抱きしめた。

 その体温と、銀の腕の硬質な感触。

 守られているという安心感に、私は幸せなため息をついた。


◇ ◇ ◇


 一方、王都の王立魔導具工房。

 かつて栄華を極めたその場所は、今や通夜のような、あるいは暴動寸前のような殺伐とした空気に包まれていた。


「工房長! 第三騎士団から『剣の切れ味が悪すぎる』と返品です!」

「魔導研究所からは『納品されたレンズの精度が出ていない』と契約破棄の通告が!」

「素材問屋が『代金未払いのため出荷を停止する』と言っています!」


 次々と舞い込む凶報に、レイモンドは頭を抱えていた。

 目の下に濃い隈を作り、髪も乱れている。


「ええい、黙れ黙れ! どいつもこいつも、少しの不具合でガタガタと……!」

「少しの不具合ではありません! ミレット嬢がいなくなってから、不良品率は八割を超えているんですよ!?」


 古参の職人が机を叩いて抗議する。

 しかし、レイモンドは充血した目で睨み返した。


「ミレット、ミレットとうるさい! あんなのは、ただの雑用係だ! お前たちが無能だから、製品の質が落ちているんだろうが!」

「……はっ、よく言いますよ」


 職人は冷たく吐き捨てた。


「彼女は雑用係なんかじゃなかった。俺たちが仕上げた製品の微細な歪みを、彼女が夜通し調整してくれていたから、この工房のブランドは保たれていたんです。あんたが『効率が悪い』と言って切り捨てた工程こそが、一番重要だったんですよ」

「なんだと……私に説教をする気か!」

「もうついていけません。辞めさせていただきます」


 職人は作業着を脱ぎ捨てた。


「どこへ行く気だ! この王立工房を敵に回して、他で雇ってもらえると思っているのか!」

「噂のアイゼンガルドへ行きますよ。あそこなら、本当の職人の仕事ができると評判ですからね」


 バタン!と扉が閉まる。

 それを皮切りに、他の職人たちも次々と部屋を出て行った。

 広い工房に残されたのは、不良品の山と、レイモンド一人だけ。


「……おのれ、ミレット……!」


 レイモンドのプライドは粉々に砕け散っていた。

 自分の無能さが露呈したのではない。あの女が、自分の完璧な計画を邪魔したのだ。そう思い込まなければ、精神が崩壊してしまいそうだった。

 彼は震える手で、一枚の書類を取り出した。

 それは、上層部に提出するための「特別捜査許可願」。


「そうだ……あいつは私の技術を盗んだんだ。国家機密である『王立工房のノウハウ』を持ち逃げした、極悪人なんだ」


 嘘で塗り固めた論理。だが、今の彼にはそれが真実だった。

 彼は歪んだ笑みを浮かべ、書類にサインをした。


「待っていろよ、ミレット。必ず連れ戻してやる。そして、一生地下牢で、私の名声のためだけに働かせてやる……!」


◇ ◇ ◇


 夕暮れのアイゼンガルド。

 私はギデオン様と並んで、バルコニーから街を見下ろしていた。

 復興した街並みに、家々の灯りがともり始める。


「綺麗な街ですね」

「ああ。君が守り、照らしてくれた街だ」


 穏やかな時間。

 けれど、風の音がふと変わった気がした。

 遠く、地平線の彼方から、重苦しい雲が近づいてくるような――そんな不穏な気配。

 ギデオン様の銀の右腕が、微かに音を立てて反応した。


「……来るか」


 彼が低く呟く。その目は、愛を語る時の甘いものではなく、敵を射抜く狩人の目に変わっていた。

 幸せな日々に忍び寄る影。

 私たちはまだ、本当の意味で過去と決別できてはいなかったのだ。

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