君がくれた右腕
燃え盛る炎が、アイゼンガルドの夜空を赤く染めていた。
人々の悲鳴と、大地を揺らす轟音。
そして何より、私の隣で走るギデオン様が、脂汗を流して苦悶の声を漏らしていることが、事態の深刻さを物語っていた。
「はぁ、はぁ……っ、ミレット、走れ! もっと速く!」
「ギデオン様、腕が……!」
彼の右腕は、服の上からでもわかるほどドクドクと不気味に脈打ち、どす黒い瘴気を噴き出していた。
あの魔獣――三年前の因縁である「黒殻の災厄」が近づくにつれ、呪いが共鳴し、彼を内側から食い荒らしているのだ。
「グルルルルォォォォォッ!!」
背後から、鼓膜をつんざく咆哮が迫る。
振り返ると、屋敷の壁を粉砕して、巨大な影が飛び込んできた。
全身を鋼鉄よりも硬い黒い甲殻で覆われた、六本脚の異形。その複眼は、逃げ惑う人々には目もくれず、ただ一点――ギデオン様の右腕だけを貪欲に見据えていた。
「くそっ、やはり狙いは私か……!」
ギデオン様は足を止めた。
逃げ切れないと悟ったのだ。彼は私を背後に突き飛ばすと、腰の短剣を左手で引き抜いた。
私がギデオン様と初めて対面したときにニコイチした、あの短剣だ。
「ミレット、離れろ! 私が囮になる!」
「嫌です! そんな体で戦えるわけありません!」
「いいから行けッ!!」
彼は初めて私に怒鳴った。
その直後、魔獣が跳躍した。
巨大な鎌のような爪が、ギデオン様に振り下ろされる。
ガギィィィン!!
左手の短剣で受け止めるが、衝撃で彼の足元の石畳が砕け散る。
全盛期の彼ならいざ知らず、今の彼は右半身が麻痺し、激痛に苛まれている状態だ。力比べになるはずがない。
「ぐ、ウゥッ……!」
短剣が悲鳴を上げて、刃が砕ける。ギデオンの左膝が地につく。
魔獣は残忍な笑みを浮かべるように、もう一本の爪を振り上げた。
トドメの一撃。
避けられない。
「――させない!」
私は恐怖をねじ伏せ、飛び出していた。
逃げる? ううん、違う。
ここは私の「職場」だ。目の前に「壊れかけた大切な人」がいるのに、修理屋が背を向けて逃げるなんて、ありえない!
「ミレット!? 馬鹿、寄るな!」
「動かないで!」
私は魔獣とギデオン様の間に割り込み、彼の呪われた右腕を両手で強く掴んだ。
同時に、ポケットから母の形見である「銀の腕輪」を取り出し、黒く変色した彼の皮膚へと押し当てる。
魔獣の爪が、私の頭上へ迫る。
死の恐怖で指先が震える。
でも、それ以上に強く、私は願った。
お母さん、お願い。貴女が私を守ってくれたように、彼を守って。
この忌々しい呪いを、彼を守る力に変えて!
「素材確認! 対象、『魔力喰らいの呪い』と『守護の銀腕輪』!」
私の絶叫が、戦場に響く。
「スキル発動――【ニコイチ】ッ!!」
カッッッ!!!
魔獣の爪が振り下ろされる刹那。
世界が白く染まった。
私の掌からあふれ出した光は、ギデオン様の右腕を飲み込み、そして腕輪の銀色の輝きと溶け合った。
ドロドロとした黒い呪いの怨念が、母の清冽な祈りによって浄化され、再構築されていく。
魔力を喰らうだけの「飢え」は、魔力を吸収して装甲と化す「守護」へ。
壊すための力は、守るための力へ!
「な……これは……!?」
光の中で、ギデオン様の目が見開かれる。
痛みが消えた。
代わりに、爆発的な力が右腕に満ちていくのを感じたはずだ。
光が収束する。
魔獣の爪が、私の鼻先からわずかのところで止まっていた。
それを止めていたのは――
「グルッ……!?」
魔獣が困惑の声を上げる。
ギデオン様の右手が、巨大な爪を鷲掴みにしていたのだ。
その腕は、もはやただの肉体ではなかった。
指先から肘にかけて、流麗な銀色の金属に覆われている。まるで、腕そのものが美しい甲冑へと生まれ変わったかのように。
銀の表面には、かつて呪いの紋様だったものが、今は神聖な幾何学模様となって青白く発光していた。
「……軽いな」
ギデオン様が呟く。
彼は私の腰を左手で抱き寄せ、守るように背後へ回すと、右腕一本で魔獣の巨体を軽々と持ち上げた。
「これが、君がくれた力か」
呪いが浄化され、「魔力吸収装甲」へと昇華された右腕。
魔獣が放つ強大な魔力すらも、今の彼には燃料でしかない。
「消えろ、亡霊!」
ギデオン様が右腕を振るう。
ただの裏拳。しかし、そこから放たれた衝撃波は、魔獣の強固な甲殻を紙のように粉砕した。
ズドォォォォン!!
一撃。
轟音と共に魔獣は吹き飛び、瓦礫の山へと沈黙した。
圧倒的な力。まさに伝説の英雄の帰還だった。
「す、すごい……」
私が腰を抜かしそうになると、すぐに温かい腕に抱きしめられた。
戦闘を終えたギデオン様だ。
彼は銀色になった自分の右腕と、もう戻らない私の腕輪があった場所を愛おしそうに撫で、それから強く、痛いほど強く私を抱きしめた。
「ミレット……! 無事か、怪我はないか!?」
「はい、私は……へいき、です……」
「馬鹿者が……! 死ぬところだったんだぞ!」
怒鳴り声。でも、彼の体は震えていた。
私を失う恐怖に震えていたのだと知って、私は彼の背中に手を回した。
「でも、直りました……もう、痛くないですか?」
「ああ。痛みはない。あるのは、君と、君の母君の温かさだけだ」
彼は顔を上げ、私の瞳を覗き込んだ。
戦場の炎に照らされたその瞳は、熱っぽく揺れていた。
「ミレット。君は私の命だけでなく、心まで救ってくれた」
彼は銀色の右手を、私の頬に添えた。冷たいはずの金属が、不思議と体温を感じさせる。
「誓おう。この右腕は、一生、君を守るためだけに使いたい……私の傍にいてくれるか?」
「……はい。私も、ギデオン様の傍で、もっと色んなものを直したいです」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、彼の顔が近づき――
私たちの唇は、自然と重なっていた。
炎と瓦礫の真ん中で、私たちは互いの存在を確かめ合うように、長く口づけを交わした。
◇ ◇ ◇
その光景を、崩れた壁の陰から見つめる男がいた。
王都騎士団の制服を着たその男は、信じられないものを見た恐怖にガタガタと震えていた。
「ば、化け物だ……呪いを克服しただけでなく、あんな力を……」
男は腰を抜かしそうになりながらも、報告のために闇へと消えた。
「廃棄された女」と「壊れた英雄」が手を組み、王都を脅かす最強の存在が誕生したことを知らせるために。




