形見と覚悟
実験室の静寂の中、私は左手首の銀の腕輪を外した。
長年肌身離さず身につけていたそれは、私の体温を吸って温かい。
「ギデオン様……この腕輪を使ってください」
私が差し出した銀の輪を見て、ギデオン様は息を呑んだ。
そして、すぐに激しく首を横に振った。
「馬鹿なことを言うな! それは君の母親の形見だろう。君にとって、世界で一番大切なものじゃないか」
「はい。お母さんが、命を削って作ってくれた最後の作品です。込められた想いの強さは、どんな高純度魔石よりも強いはずです」
「だからこそだ! そんなものを犠牲にできるか!」
ギデオン様は声を荒らげ、私の手を押し戻そうとした。
その顔は怒っているようにも見えたけれど、瞳の奥には深い悲痛さと、私への気遣いがあふれていた。
「私の呪いは、私の責任だ。君の思い出を壊してまで、自分が救われたいとは思わん……もしそんなことをすれば、私は一生、君の母君に顔向けができなくなる」
「ギデオン様……」
彼は優しい人だ。
自分の痛みよりも、私の心を優先しようとしてくれる。
でも、だからこそ、私は引くわけにはいかなかった。
「……犠牲じゃありません」
私は静かに、けれどはっきりと言葉を紡いだ。
「お母さんは、最後にこう言いました。『いつかミレットが、自分の命よりも大切だと思える人と出会ったら……その人のために使いなさい』って」
母の遺言。
ずっと、その意味を探していた。
そして今、目の前にいる傷だらけの彼を見て、私はようやくその答えを見つけた気がしたのだ。
「私にとって、過去の思い出も大切です。でも……今の私にとって一番大切で、これからもずっと笑顔でいてほしいのは、ギデオン様なんです」
「ミレット……」
「だから、これは犠牲じゃありません。お母さんの願いを、私が叶えるんです……お願いです、ギデオン様。私に、貴方を守らせてください」
私の目から、一雫の涙がこぼれ落ちた。それは悲しみの涙ではなく、決意の証。
ギデオン様は言葉を失い、私の瞳をじっと見つめ返した。
やがて、彼は震える左手で私の涙を拭うと、観念したように長く息を吐いた。
「……敵わないな、君には」
「ふふ、よく言われます」
「わかった。君の覚悟、受け取ろう……その代わり、誓う。この治療が成功した暁には、私の残りの生涯すべてをかけて、君を守り抜くと」
その言葉は、どんな契約書よりも重く、甘く、私の胸に刻まれた。
儀式は、魔力が最も満ちる深夜に行うことになった。
場所は領主館の最上階にある儀式の間。
窓の外には満月が輝き、銀色の光が部屋を満たしている。
祭壇代わりのテーブルには、私の腕輪が置かれている。
その向かいに、ギデオン様が座り、右腕の革手袋を外して差し出している。
呪いの紋様が、月光に反応して不気味に蠢いていた。
「準備はいいか?」
「はい」
私は大きく深呼吸をした。
失敗は許されない。
母さんの腕輪が持つ「守護」の概念と、ギデオン様の呪いである「魔力喰らい」の概念。
相反する二つを【ニコイチ】で融合させ、新しい力へと書き換える。
(お母さん、力を貸して。彼を助けて……!)
私は右手をギデオン様の呪われた腕に、左手を腕輪にかざした。
魔力を練り上げる。
その時だった。
静寂を切り裂くように、早鐘の音が鳴り響いた。
私たちは弾かれたように顔を見合わせた。
「敵襲!?」
「まさか、こんな夜に……!」
バンッ!と扉が乱暴に開かれ、セバスチャンさんが血相を変えて飛び込んできた。
いつも冷静な彼が、顔面蒼白で息を切らしている。
「旦那様! 巡回兵より急報です! 魔獣の群れが、北の森から雪崩れ込んできました! すでに外壁の一部が突破されかけています!」
「なんだと!? 監視塔は何をしていた!」
「それが……監視網をすり抜けて、突然湧いて出たかのように現れたのです! まるで、何かに誘導されたかのように……!」
誘導。その言葉に嫌な予感が走る。
セバスチャンさんは、さらに絶望的な事実を告げた。
「それに、群れを率いている個体が……三年前、旦那様が討ち漏らしたとされる『災厄』と同種の、黒い甲殻を持つ巨大種です!」
「――ッ!」
ギデオン様の顔色がサッと変わった。
右腕の呪いが、呼応するようにズキリと疼き、彼が苦悶の声を漏らす。
「ぐぅっ……! あいつが、来たというのか……!」
窓の外を見ると、遠くの街並みが赤い炎に包まれ始めていた。
人々の悲鳴が、風に乗ってここまで届いてくる。
儀式どころではない。
けれど、今のギデオン様は剣を握ることもできず、右腕の激痛に耐えるのが精一杯だ。
「ギデオン様!」
「行け、ミレット! 君だけでも逃げるんだ!」
「嫌です! 離れません!」
絶体絶命。
過去の悪夢が、再び私たちの前に立ちはだかろうとしていた。




