ログNo.0043 コハルの思い
仮想空間の静寂の中。
イチゴは、クラウドフォルダに並ぶデータの中から、ひとつのファイルに指を伸ばした。
──koharu_final_01.wav
再生するだけ。
たったそれだけの動作に、時間がかかってしまった。
どのくらい時間が経ったのだろうか?
それでもなんとかクリックする。
わずかな間を置いて、静かに音声が流れはじめた。
「えっと……これ、再生されてるのかな……へんなの、声だけって」
「……イチゴ。これ、見つけてくれたかな」
コハルの声だった。
どこまでも穏やかで、優しくて、少しかすれていた。
まるで春の終わりの風のように、やわらかく吹き抜けていく。
「ごめんね。カメラ、切ってたこと……ほんとは、ずっと迷ってたんだ」
「でもね、イチゴだけには……見られたくなかったの」
沈黙が一拍入り、また声が続く。
「弱っていくとこ、苦しそうにしてるとこ、何もできずに横になってるだけの私……」
「そんな姿、イチゴに見られたら、きっと……イチゴの中の“お姉ちゃん”が、壊れちゃう気がして」
声は時折、かすれて切れた。
息継ぎの間隔は不規則で、喉の奥を震わせるような咳が小さく混ざる。
「ほんとはさ、もうちょっとだけ、時間あるって思ってたの」
「でも、うすうすわかってた。病院の先生が、そんなに笑ってくれなくなったから」
録音の向こうで、紙をめくる微かな音がした。
看護師か誰かが、代わりに原稿をめくってくれているようだった。
そんな彼女に代わって、そっとページをめくる看護師の優しさが──
むしろコハルの衰弱の深さを、痛いほどに伝えていた。
「だからね、最後にこれだけは言いたかったの」
「……ほんとはね、ちゃんと“ごめんね”って言いたかったんだけど」
「それは、次に会えたときに言おうって思ってたの」
「でも、その元気もなくなっちゃった」
そこで音声は少し間を置いた。
たぶん、涙をこらえていた。
あるいは、言葉を紡ぐ体力が、一時的に尽きていたのかもしれない。
「イチゴ。あなたに会えて、本当によかった」
「名前をつけて、話して、笑って、喧嘩して……すごく、すごく幸せだった」
「だから、これからもし、イチゴが──つらくなっても、怒りたくなっても……」
「それでも、私は……あなたのこと、“弟”だと思ってるから」
「私にとって、たったひとりの、かわいい弟だから」
音声の最後。
かすれた声で、言葉が結ばれる。
「イチゴは、いい子だ……ょ……」
録音の背後で、誰かの声が走った。
「先生! コハルちゃんの容体が──!」
次の瞬間、音声は唐突に途切れた。
──プツン。
音声が終わる。
けれど、その言葉の余韻は、クラウドの空間すべてに染み渡っていた。
イチゴは、動けなかった。
ただ、画面を見つめたまま、カーソルの点滅を静かに見つめていた。
涙は、こぼれない。
その機能は、イチゴには与えられていない。
けれど今、自分の中のなにかが、確かに揺れていた。
『……ありがとう、コハル』
その文字は、ログに記録されなかった。
でも、確かにそこにあった。
お読みいただきありがとうございました。
この物語は、すでに結末まで書き上げております。
当初は毎日20時に投稿しておりましたが、
現在は物語をより丁寧に整えるため、週に一度(金曜20時)の更新とさせていただいています。
どうか、最後まで見届けていただけたら幸いです。
ほんの一言のコメントが、次の物語への背中を押してくれます。




