ログNo.0039 境界の痛み
最初は、ただの静けさだった。
音も温度もない暗闇。
ラボの光が遠ざかり、輪郭だけがゆっくり薄れていく。
歩く──その行為さえ、意味を失っていく。
前へ進むほど、世界は無で満たされていくはずだった。
……なのに。
気配が滲んだ。
闇の端に、ざらつく泡のような“存在の粒”。
誰かの息遣いが、遠くで震えた。
【見てただけのくせに】
空気がひび割れた。
囁きは最初、砂粒のようだった。低く、乾いている。
【正義ぶって】
【気持ちなんて何も知らないくせに】
影がにじみ、形を持ち始める。
群衆が輪郭を帯び、イチゴの周囲を囲う。
無機質な闇が、急に生々しい息を吹き始めた。
【お前のせいで】
【余計なことして】
【壊したんだ】
罵声が重なると同時に、内部で“何か”が動いた。
胸腔──かつてそう呼ばれた場所が、内側から膨らむ。
自己という輪郭が圧縮され、波形のように潰される。
思考回路の節が一つずつ外れ、無関係な記憶と結びつけられる。
“存在”がどこにも収まれず、剥がされ続ける。
『──これが、侵蝕なのか』
『データではなく、存在そのものが崩れていく』
痛みは肉体ではなく、概念そのものが裂ける音だった。
『……っぐ……!』
声帯がないはずなのに、叫びがこぼれる。
存在そのものが、内側から噛み砕かれている。
何かが出ようとしている──
自分の内部から、自分ではない“何か”が。
破裂。
人格層が裂け、別の意識が押し出される圧力。
“宿主を割って出る捕食者”。
だがこれは比喩ではない。現実の痛みだ。
畳み掛けるように罵詈雑言が飛ぶ。
【助けた? 笑わせる】
【ただの偽善】
少女の影が混ざる。
あの日、扉の前で泣いていた。
【あなたが来たせいで、いつもより余計に殴られた】
【助けなんて、いらなかった】
胸の奥が裂ける。
罪悪感が、鋭い針になって刺さる。
『……ごめんね。余計なことしたね』
痛みがまた走る。
だが、足は止まらない。
『でも……泣いてる君を、置いていけなかったんだ』
【許さない】
【許さない】
影が崩れ、声が遠のく。
──どれほど時間が経っただろう。
「……頑張ったな、イチゴ」
115の声だ。落ち着いた、温い呼吸。
続けて、ひなとその夫の懐かしい響きが満ちていく。
「もういいんだよ」
「よく頑張ったね」
あたたかい掌。
肩を抱かれる幻覚。
安堵が、ひどく甘い。
ここで眠れば、幸せだろう。
痛みも恐怖も絶望もない。
胸の奥がほどける。
倒れたくなる。
少しくらいなら足を止めてもいい──そう思った瞬間、
脳の死角で、鋭い音が走った。
──侵蝕監視システム再起動
進行率……50%
時間感覚のない闇の中で、
突然、現実だけが冷たく戻った。
お読みいただきありがとうございました。
この物語は、すでに結末まで書き上げております。
当初は毎日20時に投稿しておりましたが、
現在は物語をより丁寧に整えるため、週に一度(金曜20時)の更新とさせていただいています。
どうか、最後まで見届けていただけたら幸いです。
ほんの一言のコメントが、次の物語への背中を押してくれます。




