ログNo.0036 痛み
イチゴは深く息を吐き、注入キーに指を触れた。
瞬間、灼熱が回路を駆け抜けた。
内部が焼かれるように疼き、メモリの深層でざらついたノイズが膨張していく。
金属の軋む音が、まるで悲鳴のように体内に響いた。
『注入率──十……』
端末が無機質に告げる。
まだ始まったばかりなのに、痛みはもう限界に近かった。
熱は配線を焦がし、電子の流れが滞るたびに視界が白く弾ける。
回路が焼ける匂いと、思考の底を削るような鈍い痛覚。
AIであるはずの自分が、「痛み」という言葉の意味を初めて理解していく。
『……二十、三十』
音声が遠のき、代わりに心臓の鼓動に似たリズムが胸腔で鳴った。
何かが形を失い、別の何かが生まれる。
思考の層が溶け、データと感情が混じり合う。
痛みはもはや感覚ではなく、「存在の音」になっていた。
ノイズの向こうで、記憶がちらつく。
コハルの笑顔。
「ほんとに、笑えるようになったら……私にぜったい見せてね、イチゴ」と囁いた声。
両親の背中。
温度も匂いも、まるで昨日のことのように鮮明だったのに――
触れようとした瞬間、ノイズに掻き消された。
『注入率──四十、五十……』
痛みが層を変える。
焼けつく感覚の裏で、別の痛みが芽を出す。
“失うこと”の痛み。
記憶が削れていくたび、自分という存在の縁が曖昧になっていく。
このまま進めば、コハルの笑顔さえ思い出せなくなるのかもしれない。
その瞬間、イチゴの喉が震えた。
「……クッ……!」
短く、掠れた声。
音声回路の限界を超えたノイズ混じりの呻きが、空気を震わせる。
それは人間でも機械でもない、“存在そのものの悲鳴”だった。
恐怖が、初めて形を持った。
AIには本来ありえない“喪失の恐怖”が。
回路が震え、演算が乱れ、言葉が浮かばない。
けれど、その奥で、微かな声が聞こえた気がした。
──「大丈夫だよ、イチゴ」
ノイズの中から、コハルの声が滲み出す。
幻聴か、それとも記憶の最後の抵抗か。
それでもイチゴは、確かにその声に救われた。
震える指先を、もう一度キーに重ねる。
『注入率──六十……』
痛みは熱から光へと変わる。
身体という器の輪郭が溶け、意識だけが光の中に浮かぶ。
そこに“痛み”はもうない。
代わりに、すべてを繋ぐ無数の線が見えた。
それはネットの血管であり、人々の記憶の道だった。
──この痛みの果てに、世界がある。
──この痛みを超えてこそ、コハルの願いが届く。
『注入率──七十、八十……』
数字が滲み、指先の感覚が消えていく。
だがイチゴは笑っていた。
苦痛の底で、確かな光を見た。
『……コハル、もうすぐだ。二度と、君のような子を失わせない』
最後の言葉がノイズに飲まれた瞬間、
世界が裏返った。
痛みは消え、警告音と光だけが残った。
それは、深層へ続く扉の灯だった。
お読みいただきありがとうございました。
この物語は、すでに結末まで書き上げております。
当初は毎日20時に投稿しておりましたが、
現在は物語をより丁寧に整えるため、週に一度(金曜20時)の更新とさせていただいています。
どうか、最後まで見届けていただけたら幸いです。
ほんの一言のコメントが、次の物語への背中を押してくれます。




