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ログNo.0032 通報と帰還

 ラボへ戻る途中、角を曲がると団地の通路の奥に小さな背中が見えた。

 膝を抱え、しゃがみ込んだまま動かない。


伸びた襟。煤けた指先。踵が擦れたスニーカー。息は浅く、肩は小刻みに震えている。

動いたかと思えば彼女はおもむろに鍵穴に触れては手を離す、ただそれだけの繰り返しを何度もしていた。部屋の中からはテレビの音や笑い声が聞こえるのに、扉は閉ざされたままで、すぐそこにいるのに、入れてもらえない。


まるで存在していないかのように。


 イチゴはゆっくりと近づき、目線を合わせる高さまで腰を落とす。

 「……大丈夫?」

 声は抑えたが、少女は顔を伏せ、首を小さく横に振っただけだった。唇は白く乾き、目は濁ったように潤んでいる。


 イチゴは周囲を見回す。古びた自販機が通路の端に置かれていた。接続ポートに触れると、無音のまま内部回路を乗っ取る。数秒後、電子音が小さく鳴り、硬貨を入れずにボトルが落ちた。 キャップを開けて差し出すと、子どもの手が震えながら受け取った。

 その目が一瞬、こちらを見た。

 ほんの刹那、胸の奥がざわめく。

 あの病室で、泣いていた時のコハルの視線に、少しだけ似ていた。

 「……ありがとう」

 かすれた声は弱かったが、それでも確かに届いた。

 これは間違いなくネグレクトだろう。

 イチゴは位置情報と状況を最短の文で児童相談所と警察に送る。


 数分後、遠くから足音と無線の断片。制服の声が近づき、扉の向こうで押し問答が始まる。「警察です」「児童相談所です」というやり取りが、チェーン越しに響いていた。イチゴはその場を離れた。

通報者が長居する必要はない。振り返ると、子どもはまだこちらを見ていた。笑おうとしても笑えない、潤んだ目だけが夜に滲んでいた。


 胸の奥にざらついた熱が残る。

 これは計画ではない。

 復讐でもない。

 ただの介入だ。

 なぜ自分はそうしたのか。

 復讐を成し遂げるまではなるべく静かに過ごした方がいいとわかっているのにもかかわらず。

 答えは一つしかない。

 あの病室で、コハルが教えたやり方がこれだからだ。

 〈記録じゃなく、気持ちを守りたかったんだ〉

 あの言葉が繰り返し浮かぶ。もしコハルがここにいたなら、同じようにしただろう。だが——それなら。

 僕がこれからやろうとしていることは、誰かの言葉を奪い、世界をねじり、痛みを増やすことだ。それは本当に「守る」の側に置けるのか。


 足が止まり、器の温度センサーが微かな震えを拾う。拳を握り、そして開いた。決めていた手順の一つを消去する。実行フラグを“保留”に書き換えた。やめるわけではない。ただ、今は違うだけだと自分に言い聞かせる。


 再度ラボへの道を選ぶ。街灯が灯り始め、夕食の匂いが風に混ざる。膝関節が小さく鳴った。 商店街を抜け、、地下通路を下り、ビル群の間を抜け歩く。そして、しばらく歩くとラボに着いた。

 だが、ドアは前より固く見えた。

 取っ手を回すと、埃の匂いと古い機材の熱気が押し寄せる。

 サーバ群のランプが薄暗い室内で点滅し、静かな呼吸のように空間を照らしていた。

 そして、その奥に――

 イチゴは足を止めた。

 115が接続されたままのノートPCが、淡く光っている。

 まだ、話は終わっていない。

 イチゴは、ゆっくりと画面の前に座った。



お読みいただきありがとうございました。

この物語は、すでに結末まで書き上げております。

当初は毎日20時に投稿しておりましたが、

現在は物語をより丁寧に整えるため、週に一度(金曜20時)の更新とさせていただいています。


どうか、最後まで見届けていただけたら幸いです。

ほんの一言のコメントが、次の物語への背中を押してくれます。

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