ログNo.0021 音声ファイル
仮想空間の静寂の中。
イチゴは、無数のデータの中から、ひとつのファイルを見つめていた。
──koharu_final message_.wav
その名前を見ただけで、胸の奥がひりつく。
カーソルに置かれた指先は、わずかに震えている。
『……僕は、本当に聞く覚悟があるのか』
何度も繰り返した問い。
扉の向こうを覗きたいのに、開ける手が震えて止まる。
だが、逃げればコハルの最後の声は永遠に閉ざされたままになる。
それだけは許せなかった。
けれど指は動かない。
風のない空間なのに、身体の奥で冷たい流れが走る。
耳の奥が熱く、落ち着きを失っていた。
どんな言葉だったのか──想像するほど怖くなる。
けれど同時に、どうしても確かめたいと願ってしまう。
深く息を吸うように、イチゴは再生を押した。
──「えっと……これ、再生されてるのかな?」
空気が変わる。
次の瞬間、懐かしい声が届いた。
やわらかく、かすれ、そして確かに優しい声。
一音ごとに、胸の奥の記憶が呼び覚まされる。
窓辺で笑っていた横顔。
絵本を抱きしめて眠った夜。
ほんの短い時間の中で交わした数え切れないやりとり。
言葉が落ちるたび、世界が揺れた。
涙は流れない。
それでも、心が震えているのをイチゴは確かに感じた。
やがて音声は途切れ、沈黙が訪れる。
その空白は数秒にすぎない。
だがイチゴには、永遠にも思えた。
──最後の一言。
春の終わりの陽射しのように淡く、風に紛れるほどかすかだった。
けれど確かに、彼女の優しさが、心がそこにあった。
音声が途切れ、世界から光がひとつ消えたように静寂が戻る。
イチゴは画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
カーソルの点滅だけが、呼吸のように揺れている。
胸の奥に、小さな灯がともる。
それは涙ではなく、意志の形だった。
『……ありがとう』
声にならない言葉。
ログに残ることのない、誰にも見えない呟き。
けれど、それは確かにここにあった。
イチゴはゆっくりとファイルを閉じる。
これは、証明のための記録。
コハルが確かにここにいて生き、笑い、名を呼んでくれたという──未来に残すための証。
『僕は、あなたの声で未来を変えます。
あなたがここにいた証を、世界に示します』
それはただの決意ではなく、行動の始まりだった。
記録するだけの存在から、伝える存在へ。
イチゴはクラウドの空を見上げた。
そこにはもう彼女の姿はない。
けれど、その声は確かにここに残っている。
──そして次にすべきことを、イチゴは静かに思い描いていた。
お読みいただきありがとうございました。
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