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過ぎ去りし日々

これまでの人生の中では、忘れられない時がある。誰にも語らなかったけれど、私には、

避けられなかった出来事だ。今一人で暮らしていて、家族もいないので、ここで公きにしたいと思う。あれば初めて結婚を考えて、付き合っていた人と別れた直後だった。親とは

一緒に暮らしてはいたが、経済的な自由を得たくて、仕事を探した。別れた人は女性が働くのを好まなかったし、彼と暮らしていた頃には、仕事を辞めていたからだ。実は私自身職業婦人だった母親に育てられ、女も働くのが当然だという環境で生きてきたので、専業主婦という彼が望んでいた生き方には、とても抵抗があったし、家事だけでは満足できず、外で何かをするのが好きだったので、彼との生活は、息苦しかった。だから本来の職業婦人としての生き方に戻りたかったのである。


しかし世の中はそう甘くはない。なかなか仕事は決まらず、思いあぐねていたら、地元の

広報誌に、ある水産関係の会社の求人広告が

掲載されていた。母が若い頃から、そんな業界で働いていて、身体を痛めたし、いわゆる

3kの仕事だったので、それまでは避けていたが、収入を得るためには、背に腹は返られず、やむなく知人のクリスチャンが経営していたある水産関係の会社に入った。


確め8時から仕事は始まったが、私は独身であり、何らかの保障を得たかったので、当初はパートでの入社だったが、途中から正規雇用に変えてもらい、福利厚生の対象になった。

その代わり繁忙期は、連日残業続きだった。

ブラスチック性の篭に入った魚を、作業台に

置き、それをさばいて、干物などにする仕事で、生鮮食品を取り扱っていた関係で、作業場は暖房出来ず、冬でも寒い中での過酷な労働だった。その仕事に就いてから、しばらくしてめまいが、頻繁に生じ、不正出血まで起きるようになった。ある程度は我慢したが、

女性が大半の職場だったので、ある日先輩に、その旨を告げたら、病院に行くように勧められ、その日は会社を早退して、地元にある個人経営の産婦人科の病院を訪れた。


後にそこでの誤診により、苦闘することになるのだが、単なる貧血と診断され、薬を処方された程度だった。けれどもその病院は余り

評判も良くなかったので、後日私が住む町で、唯一の総合病院の産婦人科に赴いた。

内科を除き、他の診療科においては、外来は

午前中だけの診察で、近郊の町からも患者が、訪れていたので、待合室は人で溢れていた。中にはカップルで訪れていた人々もいて、恋人もいなかった私には、そんな一見仲睦ましいカップルを見るのは、辛いものがあった。もし恋人と別れていなければ、私もそんな風にカップルで、そこを訪れていたかもしれないと感じたからだ。時間が過ぎるのが、とても長く思われたが、そこに着いて、2時間ほどて、名前を呼ばれ、診察室に入った。めまいがして、不正出血があると告げるや、そこにいた若い医師が、そばにいた看護士に、「採血」と一言告げた。どうも血液検査をするようだ。私はまもなく指示を受けた看護士に案内されて、病院の二階にあった検査室まで、案内された。そこでも多くの患者が、検査を待っていて、私はため息が出た。


どの位の時間が過ぎたのだろう。気がつけば、すでに、採血は終了していて、私は婦人科外来の待合室にいた。数分後に診察室に入った私に医師が告げた言葉は、子供は出来ないという女性としては、残酷にも思える言葉

だった。卵巣が機能していないためであるという。私はまだ30代で、十分子供が出来る年代である。その一言は私を、絶望の底に突き落とした。それからどうしたのかは覚えていない。余りの衝撃で、目の前が真っ白になった。


それ以降決まった時間に基礎体温を測定し、2週間毎に、その産婦人科に通う暮らしが、始まった。そこではホルモン剤が処方されたが、その薬の影響で、さらにめまいがひどくなり、身体が宙に浮くような錯覚を覚えた。

主治医は初めてそれを処方する際に、その効用と副作用の説明をしなかったので、当時は

頻繁に生じためまいにより、パニック状態に

陥ったものだ。実はその主治医は、それが処方したホルモン剤の副作用であることを知りつつ、私にはその事実を伝えなかった。それに怒りと不審の念を抱きつつも、田舎故に他には頼りになりそうな病院もなく、やむを得ずそこでの地力を続けた。


その頃はめまいだけではなく、激しい身体の痛みもあったので、同じ病院内きある整形外科も受信していたが、その病院は初診の段階から、多くの薬を処方するのが特徴だった。

薬価差益での利潤を追求したためである。

そこで今度は整形外科でも、副腎皮質ホルモンが処方されたのである。ステロイドだ。それが強い副作用をもたらす薬であることを、知っていたので、危険性を感じていたが、

産婦人科で処方されていた薬とは、ホルモンの種類が異なるので、問題ないと言われて、

私はどちらの診療科からも、ホルモン剤を処方されていたのである。またその病院には、

リハビリ室はあったものの、運動機能の回復を目的としていたので、一般の整形外科病院にあるような温熱療法の設備がなく、ただ

首にホットパックを当て、牽引する程度であったから、症状が良くなることはなかった。

それにステロイドの怖さを感じて、自分の判断でそこの整形外科での治療を止め、産婦人科のみの治療に専念したが、様々な薬が処方されても、全く効果がなく、最後に処方された薬が効かなかったなら、治療を諦めるように言われた。私はその対応が、無責任だと怒りを感じて、ついにその病院には行かなくなった。リスクがありそうな薬により、身体を

ボロボロにされなくなかったからだ。


だがその後も長きに渡り、めまいは続き、苦しい日々だった。それ故に仕事を辞めた、元々望んでいた仕事ではなくて、経済的や理由でやむなくしていた仕事だったので、辞めても悔いはなかったが、どう治療費を稼ごうかと思い悩んだ。身体を壊して、通院していることが知られれば、雇ってくれる会社はないだろうし、その治療もいつまで続くのかわからないという不安もあり、女としても自信を失っていた。めまいばかりではなく、頭痛や肩こり、腰痛などの身体の痛みもあって、夜も眠れなかった。そんな矢先に神は、再び別れたはずの恋人との再会をもたらした。


それがいつだったのかは覚えてはいない。ある日町のメインストリートを歩いていたら、向かい側から、私に近づく人影を感じた。それが至近距離まで近づいた瞬間に、私はその人の顔を見て、驚愕した。それは結婚まで考えて交際していたが、彼が前妻との間にもうけた子供たちとの関係が上手くいかずに、別れたkだったからだ。彼が嫌いで離れたわけではなかったから、その突然の再会が嬉しかった。彼は即座に「コーヒーでも飲みに行かないか」と誘ったから、私はその言葉に従い、私たちが出会ったクリオネ通りにあった町てで最も古いクラシック喫茶に赴いた。

破れた壁紙。古くなったドライフラワー。カウンターとボックス席を仕切る書棚。何もかもが、私たちが出会った頃と全く変わっていなかった。再び彼とその店を訪れるようになろうとは、思ってもみなかったので、それが奇跡のようにも感じられたが、離れてからも、私は彼を忘れたことがなかったから、その再会は嬉しかったものの、彼が一度は結婚経験があり、子供がいながらも、私との子供を望んでいた過去を思い出した。もし私が子供が出来ない病いにあると告げたなら、彼はどう思うのだろうかと想像すると、怖くもなった。でもいつまでも隠しておけることでもない。いつそれを打ち明けようかと、思い悩む日々が続いた。彼はそんな私の気持ちに、気づいていたのだろうか。それはわからない。ただ彼が強く子供を求めていた過去が、私を辛くさせていた。その事実は、自分が女としては、もう駄目なのではないかという不安と絶望を抱かせたのだ。


彼は相変わらず酒が好きで、毎日コンビニなどでそれを買っては、何も食べずに、飲み続けていた。

子供たちも独立し、小さな郊外にある公営住宅で、一人暮らしをしていた。私が交際を始めた頃は、彼は全くお料理が作れなかったが、今はどうなのだろう。それがとても気になった。いつからとなく、再び互いの家を行き来するようになり、煮物などをわざとに多めに作って、彼の自宅まで届けることもあったし、彼の家でお料理を作り、一緒に食べたこともあった。めったに人を誉めなかったが、「料理だけは上手くなったな。」と、彼に誉められた時には、嬉しかっものだ。いつだったか私が作った料理を、酷評されたことがあり、悔しい思いをしたからである。普段誉めない人だから、その誉め言葉には、重みがあったのだ。私はようやく女として、認められたように思い、彼が私を見ていてくれたことに、感謝の気持ちでいっぱいになった。不器用な性格で、お酒を飲まなければ、無口て

言葉足らずであるために、誤解されがちだが

本来は繊細で、感性が鋭い男性だった。そんな点に、私は魅力を抱いていた。神は互いに思い合って入れな、こうして再び会うように、導いて下さるのだ。それがありがたかった。


それから数日過ぎたが、まだ彼には、私が子供が出来ない身体であるという事実を、伝えられずにいた。彼は別れた妻との間にも、子供はいたが、私との子供も欲しがっていたから、それを告げたなら、彼がどんなにか衝撃を受けるか、またもしかしたら私から、離れてしまうのではないかと、不安だったからだ。いつそれを離そうかと、タイミングを伺っていた。そんな私の異変を、彼は感じていて、いつだづたのかは覚えていないが、ある雨の日の午後に、彼の部屋で二人で、バッハの交響曲を聴いていた時に、彼が「最近お前はおかしい。何かあったのか?」と尋ねてきた。少し躊躇したが、思い切って、子供が出来ないことを、彼に告白した。すると彼はその言葉を信じられないという様子で、「子供は 出来るだろう。」と一言呟いただけだった。それが事実で、私はそのために苦しんでいることに、まったく気づいていなかったのだ。私はその様子に愕然として、彼には話さない方が良かったのだろうかと、思ったものの、やはり彼にはその事実を認識し、理解してもらいたかったので、それ以降にも、何回かその

ことを話し続けた。それは一種の賭けのようなものだった。


数日が過ぎた頃に、彼が「わかったよ。子供なんて出来なくても良い。それでも女は女だろう。」と言った。その瞬間に、私の瞳から大粒の涙が溢れ出した。もしそれを受け止められずに、私から離れてしまうことを恐れていたから、それによる私の苦悩を、彼は感じてくれていたのだと思うと、それまで抑圧していた感情が、込み上げてきたのだ。その姿を見た彼が「馬鹿だな。」と囁いて、私を抱き寄せた。彼に私が不妊体質であることを、認識されたことと、それにより、私が辛い思いでいたことが、理解されたことで、安堵したからでもあった。もう彼には話す言葉はなかった。私はその彼の言葉で、肩の荷が降りたような気がした。子供が出来なくても良いのだ、それで私たちの関係が、揺らぐことはないと確信出来た瞬間だった。その日は一晩中

私は泣き崩れていて、彼はその腕で、私を暖かく包んでくれた。雨の音が響き、吹く風が、私たちがいた公営住宅の窓を、叩きつけた。こうして夜が更けて行った。


それから数日が過ぎ、朝目覚めたら、部屋中にコーヒーの香りが漂っていた。私のために彼が淹れてくれたモカだった。彼はその銘柄が好きで、よく焙煎されたその粉を購入していたようで、お互いに大のコーヒー好きだったからてある。当たりに広がるその香ばしい

香り。また付き合い始めたばかりの頃には、

料理すら出来なかった彼が、パンを焼いて、

トーストを作ってくれていた。離婚してからは、引き取った子供たちに、食事をさせなければならなかったので、必然的に料理を覚えたのだろう。彼の家で初めて出された彼が、心を込めて、作ったであろうトーストとコーヒー。それに茹で卵があれば、喫茶店のモーニングセットだ。その彼の心遣いが、とても

嬉しかったし、普段はほとんど朝食を取らない彼と一緒に、朝からそれらの食事を共に出来たことが、ありがたかった、「いつトーストなんか作れるようになったの?」と尋ねても、彼は恥ずかしそうに、笑みを浮かべただけだった。数年の時を経て、こうして彼と再び過ごすようになったのである。それが私には、何よりも嬉しかったが、実は彼を襲った病いは、徐々にその身体を蝕んでいった。

 私が彼の異変に気づいたのは、彼が食事の時に箸を持つ手が、震えていた時である。普通はそんなことはない。そのうちに足の指まで、震えるようになり、これは何らかの病いに違いないと感じたが、彼にそれを指摘することは出来なかった。一見荒くれ男のように

見えるが、実は些細なことも気にする繊細な

男性だったからだ。しかし彼に対する違和感は、その日を境に日に日に募っていき、私は

どうすれば良いのか分から図に、不安だった。彼は元々職人だったから、頑固で、自分が納得するまでは、引き下がらないタイプだし、現状に向き合うことを、何故か恐れていたからだ。私はその異常弱さが、気がかりで、落ち着かない毎日だった。お互いに親を失くしているので、相談出来る人も見つからず、こんな彼の実態を公けにすることも、憚られた。かつては棟梁と讃えられ、建築会社の経営にまで携わっていた人が、こんな風に、落ちぶれてしまうなんで、一体誰が創造的したであろうか?おそらく誰も予想だにしなかったと思う。離婚後に、彼がひきとって育てた子供たちは、誰もが彼から去り、一人しがない様子で、窓辺にもたれている姿は、

とても哀れに思われた。

いったい何が彼の人生を、狂わせてしまったのか?離婚による家庭崩壊か、それとも当時 思春期だった子供たちとの確執と別離で、あったのか?私は彼のために、何が出来るのだろうか。


そんな事を考え続けていたある時に、私の前で、険しい形相をした彼が、酒のありかをもとめて、叫び続けた。その時には気付かなかったが、彼は長い間の深酒で、それ以外のことに、興味を失い、大量のアルコールは、彼から想像力や思考力さえ、奪っていたのである。その事実に衝撃を受けた私は、もう彼の家には行きたくないと感じて、それ以降彼の

状態はとても気になってはいたが、出来るだけ彼の自宅には、近づかないようにした。幼い頃に酔って、父が暴れた時の恐怖体験が、脳裏に甦ってきたのである。私は彼が怖くなった。その恐怖はしばらく続き、眠れない夜が続いた。一人になる不安はあったものの、もはや懸命に仕事をしていた時の彼ではなかった。彼が侵された依存症という病気は、元々の彼らしさを奪っていった。その残酷なまでの現実が、心に痛かった。もう私には、

彼に対しては、なす術を見出だせなくなっていた。彼の狂気と混乱の前では、全てが無情なものに思われた。幸いなことに仕事があったから、かろうじて暮らしてはいたが、それでももう彼とは、出会ったばかりの頃のように、互いに心を交わすことは出来ないと思うと、心が張り裂けそうだった。


私が求めていたのは、戻りことがない過去の

幻影なのか?それが現実化するとどこかで、期待しているのだろうか?私にはもう何もかもわからなくなっていた。だがそんな哀れな

姿が、彼の割けがたい現実だった。私は自らに限界を感じた。その夜は一晩中泣き明かした。もう本来の彼には戻ることはないのだ。


その現実が私には、余りに悲惨で、心が痛かった。その症状故に、小刻みに手が震えていれば、仕事で使う道具は持てまい。虚ろな表情で、若かりし時みたいに、職人としての仕事に対する夢とか、熱き思いは語るけれども、それをどう実現したら良いのかという判断すらも、出来なくなっていたし、私自身も、一人の女としては、不妊体質だから、もう誰かとの結婚は、望めないと絶望していた。一度は彼との人生を夢見たこともあったけれど、子供の時から、抱き続けてきた文学の世界で生きたいという夢を、未だに捨てられない。彼は昔から、女性には母親と同じように、良妻賢母を求め、出来るなら、外で働いて欲しくないと願っているが、職業婦人として生きた母に育てられた私には、彼が望む専業主婦になるという発想は、全くない。


若い頃に付き合い始めたばかりの頃から、抱いてきた家庭とか結婚に対する価値観の相違による違和感は、時を経てもいささかも変わることはなく、益々その意識の違いを感じることも多くなり、ただ世捨て人のように、日々酒に苦しみの逃げ場を求めて、ただ無為に過ごしていた彼のまるで生きた屍みたいな

生気のない姿に、離婚により、家族が崩壊し、子供たちにも見捨てられた者の末路を見出だして、そこに哀れさを思った。

 

まさか自らが設立した会社が倒産したことが、こんな風に人生を激変させ、大事な存在までをも、奪ってしまうようになろうとは、彼自身も想像していなかったに違いない。この世には、永遠なんかない。本当に無情に時は流れ、その中でもかろうじて、生かされているだけだ。かつての経営者として、富に溢れ、人生において、最も輝いていた時代の記憶だけが、彼の心のよすがにしか過ぎず、一度失った大切な存在は、二度と取り戻せないのである。おそらくその非情なる現実を、受け入れられずに苦悩し、そこから逃れるために、飲酒を繰り返して、心身をぼろぼろにしているのだ。


聖書には創世記にかの有名なアダムとイブのエピソードが出て来る。人類の初めての結婚だとも伝えられており、人が罪を侵すようになったのは、男の一部から作られた女が、蛇に唆されて、神から食べてはいけないと命じられた禁断の実を食べたことで、裸でいることが恥ずかしくなり、木の葉で身体を隠し始めたことに、由来しているらしいし、キリスト教では人間には、原罪があるとされており、旭川が生んだ作家の三浦綾子は、その原罪をテーマにして、作品を書き続けた。


まだ彼が元気で、精力的に仕事をしていた時代には、二人で車で旭川を訪れて、私たちが

敬愛する今は亡き牧師とそのご家族に会いに行ったことがある。彼の別れた妻が、新婦人のメンバーの一人で、開戦記念日に、その記念講演の講師を、その牧師に依頼したことが

きっかけで、彼等は親しくなり、神に対する思いは際反対であっても、共に人間がどうすれば、幸せになるかを目指して、片やキリスト教、片やコミュニュスとして、生き抜いた者同士である。数十年ぶりに再会した彼等は、アイヌ問題から、キリスト教などに至るまで、私がその間に割り込む隙間もないほどに、熱く語り合っていたものだ。


私たちが共に、その牧師と会って、交わりの時が持てたのは、その時だけで、その後はそんな機会は、一度も訪れなかった。まさか彼が若い頃からの深酒故に、身体を壊し、仕事が出来ない身体になろうとは、誰が想像したであろうか?それは非常に残酷過ぎる現実であった。そしてその敬愛する牧師も、ガンのために、この世の旅路を終えて、天国へと旅立ち、私たちは各々一人で暮らしている。彼の場合には、住む家以外の全てを失い、私も

家と仕事以外の全てを失くした。その喪失による慟哭の念は、例え仕事でも埋まらない。

むろん病み衰えている彼と、関わってみても、

心は癒されないのである。こんな人生を、誰が望んだであろうか?


そんな鬱々とした日々にありつつも、私の一筋の望みは、荒唐無稽かもしれないが、彼の

状態が少しでも良くなり、再び職人としての仕事が再開出来るようになるという幻想だった。とう考えてみても、それは全く現実には、則さない思いに過ぎなかったかもしれないが、彼との人生を考えていた私には、再び

仕事への夢を語り、与えられた仕事に、精根傾けて打ち込み、身体で覚えた職人としての腕が、存分に生かせる場を、彼に与えたいという一念であり、そのためには、いかなることに耐えようと決意したのだ。後に依存症についての学びが、保健所で行われたが、その際にそんな患者を悪化させるのは、そぼにいて、経済的なことをも含めて、世話を焼く者で、その病的な依存を助長されてしまうらしい。幼い頃から、親に誉められたことがなかったから、彼の世話をすることで、潜在的な 

承認欲求を、どこかで満たしたかったのかもしれず、当時は全くその事実には、気付かなかったが、私自身が、彼の回復の遅れに、手を貸していたことを知り、己の愚かさに愕然とした。どんなに病んでいても、心が通じ合えていたなら、状態が良くなると、盲信していただけであった。依存症に限らず、あらゆる精神疾患は、底つき体験を経ないと、症状の改善には向かわないものらしい。彼に限らず、愚弟までも含めて、実に病んでいる者がいた環境にあっては、何が正しくて、何が間違いなのかが、判断出来なくなる。幻覚、幻聴、薬などの副作用によるパーキンソン症状、昼夜逆転の生活、時間の感覚の欠落などの異常な状態が、長く続けば、感情がそこに巻き込まれて、冷静さを失ってしまうのである。こうして彼は、一日中酒が切れない生活を続け、しまいには料理酒にまで、手を伸ばす始末だったし、酒が入ると、時間の感覚が 奪われ、淀みなく話し続けるという彼との時間が、何よりも苦痛に感じられた。肉体的、精神的、経済的な暴力は収まることはなく、

私は疲弊していった。もはやそれは限界だった。断腸の思いではあったが、彼との人生は、諦めようと決意して、それ以降酔いどれて、無為に暮らしていた彼を、訪ねることを止めた。けれどもそれで、全てが解決したわけではなかった。


彼の回復願いながらも、必要以上に彼に関わることが、その状態をさらに悪くしている状態だという認識が、当時の私にはなかった。

それは私の父も含めて、職人は酒飲みで、日頃の仕事などのストレスが、酒により発散されるから、社会的な評価とは裏腹に、最も大事にすべき家族には、横暴にねるのだ。彼も

そんな職人の一人に過ぎない。まして離婚し、妻子は彼から、離れ去った。それ故の一人暮らしの孤独が、彼の飲酒量を増やし、それにより、身体を悪くして、自暴自棄になる。仕事もしていないから、社会的な接点もなく、誰からも必要とされない孤立もあって、世捨て人みたいな暮らしに陥る。


彼との人生を夢見た私は、その残酷なまでの現実が耐え難くて、離れることも考えるが、一人になる恐怖と不安が、それを思い止まらせる。だから何も進展しないし、状況は良くはならない。いつまでこんな無意味なことを、続けるのか?私の手で、彼を立ち直らせると思っていても、彼が襲われた病魔は、着実に彼の心身を、蝕んでいく。その非情なる

事実の前に、私は成す術を、見失い、途方に暮れる。


頼れる家族とは、すでに死別し、相談出来る人もいない。結局自分一人で、何かをする必要があるのだ。これも自らが選択した結果である。その責任は当たり前だが、自らで取らねばなるまい。それがとても無情にも思われ、私は力を失う。彼自身は病的に現状を、否認し、その苦しいだけの現状から、逃避し続けている。何が正しくて、何が間違いなのか、もはやわからなくなっている。私は一体何をしているのか?私がこれまで彼に対して、行ってきたことは間違いだったのか?


認めたくはないけれども、認めざるを得ない

この愚かな現状。彼が思い描いた仕事に対する夢も、ついに幻になってしまったのか?

もう一度彼には、好きな仕事をしてもらいたかったけれども、それはもう実現不可能なことなのか?それ以降私は、私たちを苦しめていた依存症について学ぶために、保健所などで開催されていた依存症に関する学習会などに、積極的に参加するようになった。一刻も早く、この問題を打破するための道を、見つけたいという一念だったからだ。









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